存在しない故郷への旅――「ミリオンダラー・ベイビー」【コラム/スクリーンに詩を見つけたら】
2022年6月21日 16:00
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古今東西の映画のあちこちに、さまざまに登場する詩のことば。登場人物によってふと暗唱されたり、ラストシーンで印象的に引用されたり……。古典から現代詩まで、映画の場面に密やかに(あるいは大胆に!)息づく詩を見つけると嬉しくなってしまう詩人・大崎清夏が、詩の解説とともに、詩と映画との濃密な関係を紐解いてゆく連載です。
今回のテーマは、第77回アカデミー賞(2005年)で作品賞、監督賞、主演女優賞、助演男優賞を獲得した「ミリオンダラー・ベイビー」(クリント・イーストウッド監督)です。
「ミリオンダラー・ベイビー」の色彩は厳しい。緑色のほかには、光と陰のきついコントラストがあるだけだ。光――タイトル戦。世界ツアー。一軒家を買い、家族を養うこと。陰――極貧。失明。再起不能の事故に遇うこと。この映画の主人公であるフランキー(クリント・イーストウッド)やマギー(ヒラリー・スワンク)にとって、世界はいつもそのどちらか一方に偏っている。
だから、そのコントラストの合間に射しこむ緑色は優しい。それはアイルランドの色、フランキーの故郷の色だ。故郷といっても、フランキーがアイルランドを訪ねたことがあるかどうかはわからない。よしや訪ねたとしても、そこで自分の先祖に会えるわけでもない。移民の国に生まれるということは、あらかじめ失われた故郷をもつこと。失われているからこそ、手がかりに固執するのだと思う。いつも緑色の祭服を着ている神父のいる教会。何度返送されてきても娘に送り続ける手紙。そして、ゲール語の教本。
ボクサーとして上り詰めたマギーのタイトル戦に、フランキーは緑色の上等な絹のガウンを着せてやる。その入場を、華々しいバグパイプの演奏が彩る。背中に「モ・クシュラ」と刺繍されたガウンをみて、観客はみなその名前でマギーを呼ぶ。それがゲール語で「愛しい人、私の血」を意味することをマギーと私たちが知るのは、映画が終わりに近づく頃だ。
アイルランドでは、日常会話はほとんど英語で行われるので、その第1公用語であるゲール語を解する人は少なく、日常的に話す人は全人口の4、5%足らずだと言われる。けれども歴史をみると、1922年のアイルランド独立に先駆けてゲール語復興運動が起こり、民族の一致団結の気運を高めるために言語が政治的な役割を担ったことがわかる。
フランキーとマギーが立ち寄る「ほんものの」レモンを使ったレモンパイを出す店の名前は「IRA’S ROADSIDE DINER」、もちろんここではただ「アイラの店」の意だけれど、一方でIRAとはアイルランド独立を目指した過激派組織の呼称だ。レモンパイを食べながら、「このまま死んでもいい」と幸せそうにフランキーは言う。
クリント・イーストウッドという監督は、近年すっかりミーム化してしまった「リベラル(左翼)」と「保守(右翼)」の二項対立を映画のなかで止揚しようとし続けてきたんじゃないか。彼の映画を観るたびにそう思う。2016年、彼はトランプに投票すると公言した共和党員としてもメディアを賑わせた。善い行いと悪い行いをはっきり分けてすっきりしてしまいたい私たち人間が目を逸らしたくなるような問題を、イーストウッドは突きつける。「愛国」とはどういう態度のことか。ひとりの人間にとって「故郷」とは何か。人として「独立」するとはどういうことなのか。“オデュッセイア”、つまり故郷への帰還が叶わないとき、人はどんなふうに生き、愛するべきなのか。イーストウッドの映画を考えるとき、私の頭にはいつも「苦い薬」という言葉が浮かぶ。
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この映画をこの映画たらしめるために、脚本家ポール・ハギスはひとつの小さな(とはいえ詩人にとっては重大に思える)「嘘」をついた。それは、脊椎を損傷してリングに上がれなくなった車椅子のマギーに、フランキーが英語に「翻訳して」読み聞かせるイェイツの詩が「元はゲール語で書かれた」という設定になっていることだ。よく考えてみると、これはなかなか罪深い設定だと思う。
ウィリアム・バトラー・イェイツは1865年、アイルランドのダブリンに生まれた。「湖の島イニスフリー」は20代の頃に書かれ、彼の作品の中で最も有名な詩だけれど、イェイツ自身はゲール語を学んだことはなく、この詩は元から英語で書かれたもの。押韻だって美しく配されている。
後年、アイルランド上院議員に任命されたイェイツは、ゲール語の政治利用が取り沙汰されるたびに(例えば道路標識への併記など)、そんな「子供っぽい」ことはやめるべきだという態度を貫き、一方でアイルランド文学やゲール語学習の助成に力を尽くした。
こんな「嘘」が紛れていると知らなかった頃の私に、軟弱な私は戻りたい。なぜならそれほどまでに、この詩はこの映画をまるごと語り、フランキーとマギーの関係にこれ以上ないほどふさわしいから。自然豊かな理想の故郷、どこにも存在しない終の棲家、もう叶わなくなった暮らし。自分の尊厳の拠りどころとして、フランキーがたったひとつ自分の手に握りしめていた詩。男ばかりの世界で保守的に生き、「自分自身を守ること」を第1ルールとして掲げてきた彼が、娘でも何でもないマギー、ただただ頑固に一緒に夢を見てくれたマギーにこの詩を捧げるシーンは、誰が何と言おうと美しい。
私の恩師であるアイルランド文学者、栩木伸明先生の翻訳で、全文を紹介しよう。
W. B. イェイツ 栩木伸明訳
小さな小屋をあそこに建てよう、枝を編んで粘土で固めて
豆を植えよう、九うね植えよう、蜜蜂の巣箱も持とう
あそこで僕は一人暮らし、林の空き地は蜂の羽音。
朝のとばりが開くときから、コオロギが歌う時間まで。
真夜中の光は微香を放ち、真昼の空は紫に燃え
夕方の空いっぱいにムネアカヒワが飛び交わす。
湖岸を洗うさざ波が聞こえているから。
都会の街角、灰色の歩道にたたずむ僕の
心臓の真ん中の一番奥で、その音が聞こえているから。
栩木伸明著「アイルランドモノ語り」(みすず書房)
https://www.nytimes.com/2005/02/26/opinion/fighting-words.html
https://www.huffingtonpost.jp/2016/08/05/-clint-eastwood-donald-trump_n_11345598.html
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