「結末の捉え方によって評価を変えたい」ある閉ざされた雪の山荘で Octopusさんの映画レビュー(感想・評価)
結末の捉え方によって評価を変えたい
観た方は、2種類の結末を想像するかと思います。
予告でも猜疑心を煽ることをめちゃくちゃ流していたので、俳優目当てでない限り、色々考えながら観たと思います。
(こっちだとしたら、個人的にめちゃくちゃ微妙です。
ただ、こっちで捉えている人が多いのかなって感じます。)
1つ目は、あの山荘で経験したことを元に、舞台化したという結末です。つまり、仲直りしましたよってことです。
自分を馬鹿にして下半身不随にしたヤツらとやってけるか?
用意周到な上で自分たちを殺そうとした人とやってけるか?ってまず思いました。
それに温子(堀田真由)は、下半身不随にしてしまった過去があるのにも関わらず、山荘であんな態度とるか!?って
後半の3人の謝罪も小学生同士の喧嘩のように軽くてバカバカしいし、探偵役の久我はモーションがとても大袈裟で演技が下手くそだなって思いました。
(私は、こっちで捉えたいです。)
2つ目は、物語の始まりからラストのカーテンコールまで全て舞台上の物語であったという結末です。
目隠ししてバスで運ばれて、山荘へ向かい、久我と会う~~~~が舞台での演技ということです。
だから、麻倉は下半身不随になってないし、麻倉と久我はもともと水滸劇団の人物ということです。
正直、こっちの方が断然腑に落ちます。カーテンコールでは映画を観ている我々も舞台の観客のようなアングルに意図的にしていたし、温子、田所が"普通"に見えました。
だから温子は性格悪くないし、田所が元村(西野七瀬)に付きまとうことも現実では無いって事ですね。舞台上のただの設定って訳です。
見取り図にみんなの配置を示す描写が度々ありましたが、舞台上にそれが示されていたと考えたら、納得できます。
作中では3重と言っていましたが、観ている私たちからしたら、4重ですね
そうなんですよね!
カーテンコールで立ち上がっているか、入場特典のチケットで立って写真に写ってるとかだったら、ハッキリしました。
元々下半身が不自由でそれを活かすための脚本の可能性もありますし!
2つ目、自分も考えたのですが…
それなら一旦引っ込んだ後のカーテンコールに車椅子のまま出るかなぁ、と感じてしまいました。
制作者側や原作がそうであっても、伝わる構成ではなかったかと。
私も最後から逆算して、疑問に思っていた部分でした。仮にそうだとすると怪我をするドラマの部分が陳腐になってしまいます。
下半身付随ではなかったとしたら、どんな困難にあっても演劇はやっていけるという意味が消えてしまうからです。
じゃあなんのための物語だったのかと映像化した部分が謎になってしまうと感じました。