悪は存在しないのレビュー・感想・評価
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その地の掟を汚すことも、目撃することも憚られるのかもしれません
2024.5.13 京都シネマ
2023年の日本映画(106分、G)
ある田舎町に降りかかったグランピング場建設を巡る問題にて歪になる人間関係を描いたヒューマンドラマ
監督&脚本は濱口竜介
物語の舞台は、長野県の山奥にある水挽町
そこで先祖代々住む便利屋の巧(大美賀均)は、娘・花(西川玲)と二人暮らしをしていた
花は地元の小学校に通い、その送り迎えをしているが、巧はよく忘れてしまい、花は一人で森の中を寄り道しながら家に帰っていた
巧は友人の和夫(三浦博之)とその妻・佐知(菊池葉月)が経営しているうどん屋に水を運んだり、薪拾いをして、生活の糧を得ていた
ある日、彼らの村に、芸能事務所の高橋(小坂竜士)と黛(渋谷采郁)がやってきた
彼らは、この村にグランピング場の建設を考えていて、そのための説明会を開くことになった
そこには区長をしている駿河(田村泰二郎)、血気盛んな坂本(鳥井雄人)、和夫と佐知なども参加する
一通りの説明が終わり、質疑応答の時間になるものの、問題は排水設備の設置場所と管理体制になって、まともな答えが出ないままだった
そこで、巧は「社長とコンサルを連れて出直さないと話にならない」というものの、高橋たちは「話を持ち帰ります」と濁すだけだった
話を持ち帰るものの、社長(長尾卓磨)とコンサル(宮田佳典)の方針が変わらず、さらに「巧を案内人にしよう」というアイデアが出て、高橋と黛は再び彼のもとを訪れることになった
巧は追い返すこともなく、和夫のうどん屋に連れて行ったり、日々の仕事を手伝わせたりする中で、彼らの真意を読み解こうとする
そんな折、花の迎えを忘れてしまった巧は、いつものように学校に行くものの、花はいつものように一人で帰宅したと言われてしまう
そこから花が行きそうな場所を探すものの、一向に花の姿は見つからず、防災放送が村中に鳴り響く中、花の搜索が始まってしまうのである
映画は、花が森の中を歩くシーンにて、木々を見上げているショットで始まり、ラストも同じような構図で描かれていく
その意味を探るよりも、ラストにおける「巧の暴力の意味」が物議を醸している内容となっていた
個人的な感想だと、「手負の鹿は守るために攻撃することがある」という前振りがあったので、巧の行動もそれに倣ったものになると思う
暴力の直前には、行方不明だった花の前に手負の鹿がいる、という構図になっていて、その直後の出来事だった
花は手負の鹿の方に歩いて行き、それを止めるような感じで高橋が動いたのだが、巧の行動はそれを制止しているようにも見える
おそらく鹿が花を攻撃したのではないかと思われる内容で、花がぐったりしている様子が描かれるのだが、これが「巧の暴力の後なのか先なのかはわからない」ように思える
すでに花が倒れていて、その原因が「手負の鹿」だと直感的に思った巧が見た幻のようにも思えるし、巧が高橋を攻撃している間にそれが起こった、とも取れる
この二つの可能性から見えてくるのは、「手負の鹿が攻撃することは自然の摂理であり、花はその禁忌を犯したから止めることはできない」というものだろう
高橋が助けるのを止めたかったという可能性がある一方で、花を失った悲しみから、その怒りを高橋にぶつけたようにも思える
手負の鹿=巧あるいは村という構図において、グランピングという「攻撃」から身を守ることの延長線上かもしれない
そう思うのは、高橋に巧を頼るように言ったのは区長で、便利屋だと言ったのも彼だったからだ
なので巧は、区長から高橋の相手をさせられている「真の意味」を実行したのかもしれない
当初はもっと別の方法でと考えていたと思うが、花のトラブルがあったので、衝動的に体が動いたのではないか、と感じた
いずれにせよ、観た人の数だけ解釈がある映画で、このように答えを明確にしない映画を好まない層もいる
だが、映画で描かれている情報をかき集めていけば、その村を守るためにできることは限られている
そう言った意味において、村人の思惑が絡んできているが、それすらも超えて、自然の摂理というものが働いている、ということなのではないか、と感じた
あくまでも個人的な解釈なので、それぞれが感じたことは大切にしてほしいと思う
ラストシーン、監督の勇気に感心した
ドキュメンタリーを見ているかのように引き込まれて、唐突にぶん投げるように終わるサディスティックなラストシーン。
劇場を最初に出てあとから出てくる観客をしばらく観察していたが、皆一様に困惑した顔だったのが面白かった。
自分が監督なら、批判が怖くてあんな風に客を突き放した終わり方は出来ない。
ラストの女の子(花)と手負いの鹿のシーンは、花が倒れている姿を見た巧の想像なのではと思った。だって大人が探している間中、ずっと鹿と見つめあってるわけないもんね。花が倒れている姿を見た瞬間に、巧はその理由を瞬時に想像した。
花は鹿に襲われた。そこに悪意は存在しない。自然の偶然の結果。
そして自然と社会の狭間の巧は、人間の都合で動いている(動かされている?)高橋を自然側の存在として排除しにかかったのだろうか。
しかし、その高橋を襲ったシーンでさえ、巧の想像である可能性があるしなあ。
大体、巧が娘の花に感心が無さすぎる。娘のお迎えを頻繁に忘れる?
人間に関心が薄いのだろうか。そのあたりが花のお母さんがいない原因になっているのか。
だとしたら花の失踪は父親に対するある種の復讐か。
そうするとラストシーンの高橋の存在は、「娘を守れなかった不甲斐ない父親の巧」のメタファーなのか。巧の想像の中で。
うん、わからん(笑)
初めて見る役者さんたちの、そこに生活しているとしか思えない演技。特に会社に命じられて主人公の巧を説得に行く車中の二人の会話は、セリフではなくアドリブではと思えるほど自然で好きだった。特に社員役の女優さん。カメラの前であんなに「普通」に演技できるのはすごいと思った。声だって全然張ってないしね。でもすごく魅力的なキャラクターだった。
気持ちがザワザワする
山の自然の美しさや厳かさに合わせ、美しさの中にどこか不穏感のある音楽が印象的でした。
題名からのぼんやりとしたイメージもあり、不穏さを掻き立てる音楽もあり、何か不吉なことが起こるのかと終始ザワザワするような気持ちに。
山での穏やかな暮らし、都会の人間との交流など、一見自然と調和する生活を尊ぶようなストーリーにも見えましたが、音楽のためかどこか不穏感が拭えず。
都会から来た男が山の暮らしに傾倒する様子は、ただの現実逃避の薄っぺらい感じに見えますし。
死の気配を漂わせる描写もあり、自然の中での生活に幻想を抱くことを拒むようにも見えました。
ラストは、率直に訳が分からず。
え?という疑問と、子供がこういう結末になるのは避けて欲しかったが…、という感じです。
主人公は何故あんな行動に?と、モヤモヤと考えさせられます。
あれは都会の男に見られてはいけない場面だった、ということなのかとか。
鹿は神聖な動物というのを聞いたことがあるので、子供と神が遭遇している的な神聖な場面であったとか。
自然の摂理に従って死を受け入れるべきであり、それを邪魔してはならないとか。
又は、子供の命が神の元へ向かおうとしていたので、とっさに男の命を代わりに差し出そうとした、とか。
子供の命は救おうとするだろうという固定観念から、こんな風な考えも湧いてきましたが。
又は逆に、主人公は子供の迎えを忘れたりなど子供に対して素っ気ない様子もあったので、子供の死を望んだ、ということなのかとか。
題名の意味も、自然の摂理の中に悪は存在しない、悪も善もなく、死も自然の営みの一部である、というような意味合いなのだろうかとか。
と、色々と考えてもよく分からないので、また映画評や考察などを読んでみたいと思います。
なんにも語っていない
正直、久しぶりにお金を払ったことを後悔した映画。
もったいぶって意味ありげに見せてるだけで、深いことなんかなんにも語っていない映画でした。
『大切なのは自然保護と開発のバランスだ』とか『誰が悪者かは立場によって変わるものだ』とか、そりゃそうだろみたいな話ばっかりでした。
ラストも『ほら人ってわからないものでしょ?』って言ってるようにしか思えず。だから何?そんなありきたりのこと語って満足か?って思いました。
説明会の場面とかは自然でいいのはわかるし、リアリティがあるから素晴らしいっていう人もいるでしょうけど。
でも、リアルな人間の感情なんて、生きてりゃ接するじゃないですか。
それを演じてるのを見に、わざわざ映画館行って、お金払って、時間使う価値ある?って思っちゃうんですよね。
物語ることとか、訴えたいことがはっきりある映画のほうが好きです。
(ラストの解釈を見る側に委ねるのが嫌い、というわけではない)
映像と音楽は綺麗です。
【"自覚無き悪は存在する。”長野県の架空の山麓の自然豊かな町を舞台に、大都会に住む人間の”自覚無き悪意ある業”によって起きた出来事を描いた作品。衝撃的なラストシーンは忘れ難い作品でもある。】
■巧(大森賀均:当初はスタッフとして参加していたそうである。)は娘の花(西川玲)と”長野県の山麓の自然の恵みと共に暮らしている。
コロナ禍で経営の苦しい芸能事務所が、政府の補助金目当てに、宅と花が住む町にグランビング場を作ろうとしたことから、父娘や町の人達の暮らしに不穏な空気が漂い始める。
◆感想<Caution!内容に触れています。>
- 今作品は平穏な生活を送っていた人達のコミュニティに、大都会から来た人々が波風を起こす事で"様々なバランス"が崩れて行く様を描いている。-
・序盤は、巧が森の中に流れる小川で水を汲み、薪を割り、花と広葉樹、針葉樹が入り交ざる豊かな森の中を歩くシーンが、穏やかなトーンで映される。
ー だが、その中に後半キーになるショットや言葉がさり気無く含まれている。例えば、花が鹿の骨を見つけた時に巧が、
”半矢の鹿だろう。”と言ったり、清涼な水の流れを映し撮ったり。-
・そこに、東京の芸能事務所の高橋(小坂竜士)と黛(渋谷采郁)が、グランビング場設置についての説明会を行いにやって来るが、浄化槽の位置や管理人が夜間いないなど、計画の不備を出席した町の人達に指摘され、這う這うの体で東京へ戻る。
二人は、コンサルの男と事務所の社長に住民に言われた様に、再度の説明会への出席を求めるが、軽くあしらわれ再び町へ戻るのである。
ー 高橋と黛の車中での会話から、彼らが行き詰まっている事が分かるが、二人の人生観の薄っぺらさが垣間見える。特に、”俺が管理人になろうか。”などと言っている高橋である。彼らの闖入が、平穏だった町にとっては”自覚無き悪”ではないか、と私は思ったのである。-
・高橋と黛は、社長に言われた通りに、巧を懐柔しようとするが軽くあしらわれつつ、巧は彼らを冒頭のシーンで、巧とうどん屋を営む男が汲んだ”清涼な水”を使ったうどんを御馳走するのである。
ー 巧の心は、良くは分からないが高橋と黛を嫌悪している様子はない。そして、花はいつものように、森の中を一人で歩いている。巧がいつも迎えが遅い為である。巧は高橋と黛と鹿の通り道でもある、グランビング場になるであろう、森を歩く。
そして、ここでもキーになる言葉が巧みの口から出る。”鹿は人を襲わない。但し、半矢の鹿は別だ。子が居たら尚更だ。”-
■衝撃的なラストシーンの私の解釈
・花が居なくなり町中で捜索をするシーン。徐々に暗くなる中、巧と高橋は花を探しに森に入る。探し続けた結果、漸く二人は花を見つけるが、花の前には”半矢の雄鹿”と”子鹿”がいる。
その姿を見た巧は、高橋の首を後ろから羽交い絞めにして彼を失神させる。その後高橋は泡を吹きながら少し動くがその後動かなくなる。
そして、アングルは血を出して倒れている花を映す。花が襲われたシーンは映されないが、巧が高橋の首を絞めた前であろうと推測する。
巧は、花が雄鹿に襲われた瞬間に、高橋を””半矢の都会の男”であり、彼らが来た為に自分が花を迎えに行く時間がいつもよりも更に遅れ、花が襲われた”と感じ、咄嗟に高橋の首を絞めたのだろうと、思った。
巧も又、”自覚無き悪”に一瞬、成ったのであろう。彼が説明会で語っていた”バランス”が崩れた瞬間でもある。
何度も書くが、これは私の解釈である。
因みに濱口監督は、このシーンに関して”解釈は観客に委ねる。”と言っている。そして、私は解釈を委ねられるのが、比較的好きである。
<ラスト、巧は花を両手で抱え、森の奥に消えていく。そして、冒頭明るく下からのアングルで映された森が、下からのアングルで暗く映されるのである。
今作の後半までの展開の面白さと、特にラストは迷宮的な仕上がりが印象的な作品である。>
<2024年5月12日 刈谷日劇にて鑑賞>
Untitled
タイトルがきっと今作の中で一番でかい意味を成してるんだろうなと予想しながら鑑賞。真っ昼間ですがほぼ満席でした。
序盤のゆったりと音楽に合わせて森の中を映す映像でまず画面に釘付けにさせられました。スロースタートな作品は苦手ですし、この時点で合わないかもって思う作品は多くあるんですが、今作は不思議と落ち着く〜となりました。音楽の力もかなり強かったです。
そこから森やその付近の町を映す描写になり、今作の主人公的ポジションの巧の普段の行動だったり、グランピング施設の説明会だったりと、展開が少しずつ動き出していく感じで、ちょっとした違和感がポツリポツリとありました(鹿を撃ったのはきっと出張してきた東出くんのはず…)。
田舎VS都会の構図のようになっていた住民会と芸能事務所の社員の話し合いは中々にスリリングでした。
計画書を示されてもどれもざっくりとしたもので、そりゃ住民も反対するよという内容には思わず住民と一緒に相槌を打っていました。
バランスを大切にというのには思わず納得してしまい、我慢もしなきゃならないし、たまには気持ちを発散させたりと、日常から大きな事業までやることなすことは一緒だよなと変に納得してしまいました。
都内に帰ってきてからの社長やお偉いさんの杜撰な対応はいかにもだなぁってなりました。計画性というか考えというのが浅はかで、完全にお金目当てなんだよなというのをうまいこと言葉で濁してる感じで居心地が悪かったです。
今作でほっこりしたのは高橋と黛の車内での会話シーンで、会社への不満をぶちまけたり、お互いの恋愛観を語ってみたり、田舎っていいよな〜ってなったりとまったりした時間が流れていて、この時ばかりは劇場も笑いが起こっていました。ここでもやはり車が出てくるんだなとニヤッとしていました。
高橋が薪割り気持ちいい〜とかここの管理人になろうかなっていうシーン。きっと現状の本心なんだとは思いますし、それこそ悪意なんて無いもんだとは思うんですが、どうしても実家がまぁまぁの田舎の身からすると、そんなに楽じゃないよ?と違和感が出てしまったのを巧は強烈に感じてしまったんだろうなと思いました。
町内の集まりであったセリフの「水は上から下に向かって流れる」というセリフが今作を象徴していたなと思いました。コロナ禍の給付金や補助金の行方、汚水は上の地域は良くても下に流れると生活に影響するなど、なるほどなーとゾクゾクする感覚がありました。
花を探しにいくシーンでも上流から下流へと探しにいっていたので、これぞ伏線の回収だなと思いました。
ラストシーン、これは捉え方が十人十色ってやつだと思います。誰しもが正解であって正解じゃないやつです。
個人的には自然にズカズカと入ってくる都会もんを巧が自分の手で成敗するという正義にも見えるんですが、いかにも身勝手で、でも防衛本能もはたらいてみたいなように見えて本当の悪とは思えない作りになってるのが本当に凄いなと思ってしまいました。
観ていたら急にぶん殴られた感覚で置いてけぼりにはされましたが、印象的すぎるラストの衝撃の方が強く、おもしれ〜ってゴワゴワした感情で劇場を後にしました。
個人的にですが、多分全員どこかしら悪いところ、発展したらクズな箇所があって、巧だって娘の事を何回も忘れている事は捉え方によっては悪だと思いましたし、花も何度も行くなっていうのに行くのは極端ですが学ばない悪だとも思いましたし、ここまできたらもう悪は存在しないよ!ブンナゲ!ってなってしまい、上手い作りだなぁってなりました。
棒読みの演技というか本読みの演技が濱口監督作品では特徴的なので、最初こそ違和感はありましたが、だんだんそのキャラクターの特徴や考え方が滲み出るようになっていき、そして感情が少しずつ乗っていくと人間味が出てきたのでそういう面でもこの演技は楽しめました。ただ他作品でもこの感じだったら浮いちゃうだろうなという人が何人かいたので、そういう面にも着目していきたいです。
ここまでタイトルに振り回される作品ってのは初めてでした。思っていたよりかは難しい作品ではありませんでしたが、それでもしっかり考え込んで不意を打たれてと忙しい映画でした。ちゃんと今作と向き合えるような人間になりたい。
鑑賞日 5/9
鑑賞時間 13:05〜14:55
座席 G-12
善と悪とは
冒頭から独特の映像の撮り方。
だが静寂で綺麗。
ここから見る人や物、動物、自然によって
善悪とは其々によって違う事を意味してたのかも。車から後ろへ撮り方も。
グランピングの説明会、都会と田舎では
時間の流れ方や大切さは分かり合えない。
相手が自然だし。口先だけでは無理。
ここの会話劇は皮肉たっぷりで面白かった。
あの、高橋みたいな鈍感な人必ずいるよね。
水を大切にしてるわりとには大事な娘
花の迎えは忘れる違和感。
巧は何か起きて欲しいと願ってたのかな……。
亡き母に対するお想い。
ラストは衝撃。鹿に身を捧げる感じ。
それを止めようとする高橋。
高橋の首を絞めて気絶させる行動。
このシーンは当人同士の気持ち。
どちらが善悪が分からない。
花があちら側に少し寄り添っている
のを巧は感じとったかもしれない。
自分はどの人物なんだろうか。
過度に音楽が入らないところが、鹿の気持ちになったように、じっと没入できた。
開発者側の女性が役者っぽくなく、落ち着いた口調が、観ている自分の立場をそちら側にも動かされてしまう。
自分は一体どの立場でいきているのだろうか、
生きていく為に何を1番大切に守っているのか、考えた時間だった。
花ちゃんとの描き方に疑問。
時間を忘れてしまうなら対策考えるべきだし、
ちゃんとルールを作れば良いし。
鹿への知識も教えてあげていないのか、そこに暮らしていながら学ばなさ過ぎではないか。
そこは、ストーリー的にそうせざるをえなかったのかな。
心地いい余白
考えさせられる余白が大きいと感じた。
ただ、映画は絶対的な答えがあるものだけでもないので、こういうラストもありなのではと思った。
映画をあまり見てない時の自分が見たら邦画の良くない終わり方だなあって思う気がする。
芸能事務所の人たちが自身の境遇を車内で話しているのシーンが最高だった。とてもリアル。自分がこういう先輩と一緒だったらめっちゃ嫌だなって思ったけど、なんか嫌いになりきれなさそうな先輩だなと感じた。。
社長とコンサルの人が悪に見える。
都会の人間と現地の人間の考え方の違いや、意見のぶつけ合い方がとても面白い。あの説明会の淡々と詰める感じとか、感情で訴える感じとか、かなり没入感があった。
冬山の日没
音楽についての評価が高かったが、自分にとっては映像の美しさの方がユニークでした。大友良英さんが音楽をつけた邦画を複数見ていたため、無意識に比べていたのかもしれません。
本作で映像化された自然の美しさ、それと共存をはかる人間の生活がよく分かりました。そのバランス感は、脚本上も重要なポイントでした。子供の頃、アウトドア好きの父にスキーやキャンプに連れ出され、山の形、木や鳥や雪上の足跡の種類を解説されたことまで思い出しました。父は都内暮らしのサラリーマンでしたが。鹿の水場の美しさはその中でも特に際立っていて、写真作品にしてコレクションしたいようでした。
過去に見た作品と違うのは、役者さんたちのお芝居の朴訥とした印象と、音楽の扱い方とに、共通の意図的な突き放し方があった点です。例えば生の演劇では絶対に見られないような、カットアウトしたような、時にぶっきらぼうとも言えるような切り口が、意図的に何かを伝えたり、場面を変える役割を持つ台詞や音楽が置かれて、映画が進んでいき、これは映画だなと思います。自然の弱肉強食の世界で、生きることを優先し愛想や辻褄合わせに振り向けるエネルギーは無い状況の暗喩にも見えました。
そして日常の風景が突然ばっさり切り落とされて非日常の様相になり、ラストに向かうのですが、余韻にまだ空想を止められないでいます。
色んな可能性があるけど、息が残っていたとして、日没までに誰にも見つからなかったら助からない可能性が高い季節の出来事。その意味で、走れメロスのような緊迫感がありました。
世界的な映画監督がこのような作品を作ってはダメなのでは?
(完全ネタバレですので必ず鑑賞後にお読み下さい!)
この映画『悪は存在しない』を超絶雑にまとめると以下になると思われます。
【水のきれいな自然豊かな田舎の町に、政府のコロナ補助金目当ての芸能事務所がグランピング施設を計画し、そのズサンな計画を察した主人公が、娘が手負いのシカに襲われたのがトリガーとなり、芸能事務所の交渉役の人物を殺害するストーリー】
もちろん、このような雑なまとめをされないように、映画の冒頭からおそらく都会とは違う自然の時間の流れを表現するために、超絶に長い、森林を下から移動で眺めるショットや、画面からアウトするまで撮り続ける主人公・巧(大美賀均さん)の水汲みのシーンや、長い薪割りのシーンなどのショットを流し、あくまで本音を語らない物静かな主人公・巧を配置したりした作りになっていたと思われます。
しかし、どんなに取り繕って煙に巻いても、自然に敬意の無い補助金目当ての芸能事務所の人間を排除するために主人公がその人物を殺害した、との【短絡的なストーリー】からは免れることは出来ていません。
なぜ【短絡】かといえば、(濱口監督もインタビューで応えているように)人間は自然に対して存在している時点で(主人公・巧の排除の論理の延長線上で)【悪】であり、己の【悪】を棚に上げたまま相手を断罪や排除をしてはならず、己の【悪】を棚に上げた時点で【短絡】にしかならないということです。
例えば、主人公・巧たちが住んでいる家や店の汚染水はどうしているのか、彼らが住んでいた場所もかつてはきれいな水場やシカの通り道であったのでは?
仮にそれら汚染水などの問題や人間存在の【悪】の問題を次善として解決出来ているのであれば、(グランピングであろうがなかろうが)そのグラデーションの中での次善の解決策を今後も全体で模索し続けるのが、自分たちの存在を棚に上げないまともな人間の営みだと思われます。
そんな可能性や問い掛けを排除して、(本当は存在自体が【悪】であるのに)自分たちは《善》の側に立ち、相手を【悪】に押し込めて断罪する、気持ちの良い場所からこの映画を作ってしまっていないか(今回では芸能事務所の人間を逃げ場のない【悪】の人物として描いていなかったか)、という厳しい問い掛けがされる必要があると思われました。
今や世界的な映画監督になった濱口監督に映画界は誰も指摘出来ない裸の大様になっているとすれば、こんな【短絡】の人間観の映画を作ってしまっていることを、誰かが指摘しないといけないと思われました。
私はこの映画『悪は存在しない』を再開発の最前線の渋谷のど真ん中の映画館で観たのですが、<何が『悪は存在しない』だ、自分たちの存在を棚に上げて片側を一方的な【悪】に描きやがって‥>と憤慨して映画館を出ました。
私がこの映画を観た渋谷は、川を何十年も前から暗渠化して自然とは真逆の場所ですが、そこに出来た新しい映画館の素晴らしさを濱口監督が自ら称賛する映像をロビーで見てから、『悪は存在しない』を鑑賞しました。
そして帰りの電車の中で、<そのツラの皮をひっぺ返してやろうかこの偽善者どもめ!>と心の中で映画に対して怒り狂いながら帰路に着きました。
こんな【短絡】で浅すぎる人間観で映画を作ってはいけない、と今でも強く思われています。
己を棚に上げるみっともなさを、今一度深く考えて欲しいと、僭越ながら思われました。
(憤慨する内容はともかく、映画自体は自然の美しさもありその点をプラスしてのこの点数となりました。)
タイトルなし(ネタバレ)
人間同士お互いをリスペクトしつつ話し合いが大切で、そして野生動物には適切な対応が重要だが、どちらも簡単ではないのだ。「これが正解」が無いのだ。
3部構成の、2部の辺りで悪者はいないと感じさせる演出が上手だと感じる。
当然 音楽がとてもマッチしている。
アラ探しをしたいわけではないが
学童に迎えに行く時間を忘れるのも子供を一人で帰すのもあり得ない。児童の事件が今までどれだけあったか。グランピングの説明会も正論ばかりであり得ない。実際は理屈じゃなく、ただ嫌なものは嫌という感情むき出しのもの。芸能事務所の社長もコンサルも、今どきあんな分かり易い俗っぽい悪人っているの? 車の中での会話もあり得ない。お互いのこと全然知らないのに婚活の話をする? 薪割りをちょっとやっただけで、人生観が変わるとかグランピングの管理人をやるとかあり得ない。病んでいるの?
冒頭とラストや森の中を歩く長回しは美しくも効果的とも思えない。ただ眠いだけ。観光牧場じゃないのだから、娘が牛にエサやりなどあり得ない。病気になったらどうするの。グランピングのし尿処理は許せないけど牛ならいいの? 牛糞堆肥作りでも地下水は汚染されると思うけど。チョークスリーパーの達人は、もっと短時間で落とします。薪割りで鍛えているなら喉の骨を潰します。私柔道やっていたので、絞め技も得意でした。鹿を撃つときは頭部を狙います。苦しませないこと、肉が傷まないために。外し過ぎでしょ。おまけですが、歳を取ると温かいお湯でもうまく感じます。濱口監督はまだ若くて、人生経験が浅いね。
悪は存在しないの題も軽い感じです。自分の正義を主張する人には悪意が無いということ? それとも自然の行いには悪も正義も無いということ? 巧の行いも正義になるの? 不条理な映画は正義なの?
棒読みや違和感だらけのセリフと演技で、この世界観分かるかと監督に問われているの? 黒澤だって北野だってコケることもある。周りのスタッフは監督のイエスマン? まだ巨匠でもないのに。分かりにくい映画や独特の世界観のある映画があることは知っているけど、この映画を評価する人とは気が合わないのは分かる。
悪意は存在する
冒頭は30分ほど巧の“慎ましい暮らし”の描写が淡々と続くのだが、もっと端的に表現できないものか。
終盤はやや改善されるものの、基本的に1カット1カットがあまりに冗長。
序•中•終盤に入る梢をスライドで映すカットも、尺を取る割に意味不明。
ブレもないので誰かの目線でもないだろうし…
説明会のシーンは、住民側がハナから喧嘩腰で不快。
金髪なんてそのために最前に陣取ったとしか思えず、冷静なのは区長くらいだった。
芸能事務所側は確かに補助金狙いかもしれないが、高橋たちは途中から神妙になってたし、閉会後の対応も真摯。
もちろん善ではないが、コンサルの語るビジネスの側面も全否定はできない。
悪は存在せずそれぞれに正義がある、というありきたりの話なのだろうか。
それでも、いくつかの悪意は間違いなくあった。
高橋と黛の車中の会話は好きだった。
ナビっぽいのが付いてるのに携帯を使ってるのは、婚活アプリの話をさせたい意図を感じたけど。笑
うどん屋のシーンは単体では良かったが、唐突なギャグへの戸惑いが勝ってしまい勿体ない。
ラストは、特に本筋に絡んでなかった花の行方不明からの、巧の不可解な行動で唖然。
結果、娘は怪我をするし、あれで計画が止まるわけでもないし、一体何をしたかったのだろう。
打ち解けてきてたし、花の捜索も手伝ってくれてたのに、鹿の話だけで殺意へ振り切れた?
深遠なテーマがあるのかもしれないが、印象に残ったのは社会人の悲哀でした。
バランスだ
いつもの映画館で
大型連休も残り2日の日曜日
この監督の新作ということで楽しみにしていた
前作のドライブマイカーはよかったが長かったんだよな
本作は106分と標準的なサイズ
オラとしては80分とか90分くらいがBESTだが
話の展開とエピソードにはグイグイ興味を惹かれた
・学童保育
・コロナの補助金
・グランピング開発の住民説明会
・オンライン会議
・芸能事務所の二人の車中の会話
・便利屋
・移住してきたうどん屋
・芸能プロダクションの社長
・元マネージャー
・元介護福祉士
・一番前に座って辛辣な言葉をぶつける若造
・環境コンサル
それぞれの人生の背景がちらちら見える
スピンオフで映画にできそうな
芸能プロダクションの社長はスキャンダルで干されたのかとか
主人公は当初はスタッフで参加と
確かに異質な存在だった 遊離しているというか
子役のほうが上手かったし
でも不思議とイヤではなかったな
主人公が語る
自分は開拓三世だと
最初からここにいたわけではない
要はバランスだと なるほど
アメリカもイスラエルも同じだよなと
帰り道にふと思ってしまった
バランスだ
いろいろフリが効いていて
ずいぶん分かり易くしてくれていると思ったら
最後はやっぱり突き放された
でもイヤではない終わり方だった
(ここからは映画と無関係)
終了後はいつもと逆方向の公園へ
機嫌よく自作弁当を食べながらビールをグビリと
今日もいい休日だった
我々にとってのGIFTのような作品‼️
まず長野県水挽町の自然がホント息を飲むように美しい‼️湧水の汲み場とか、鹿の水飲み場とか原っぱとか、まるで日本じゃなくて北欧みたい‼️長野県水挽町で便利屋として水を汲み、薪を割るような質素な暮らしをしている巧とその娘の花。しかしある日、水挽町にグランピング場を作る計画が立ち上がり、その計画を立ち上げた会社の社員、高橋と黛がやってくるが・・・‼️冒頭、水を汲み、薪を割り、野草を摘む巧の描写や、自然の中を走り回る可愛らしい花ちゃんの様子が丹念に描かれ、濱口竜介監督の腰の座った演出ぶりは、サスガと思わせる‼️そしてグランピング場の説明会による社員と住民たちのまるで法廷劇のようなやりとり‼️そのキレの良い話術は濱口監督の円熟ぶりが感じられます‼️そして会社の社員たちが再度、水挽町を訪れる後半から、この作品はまた違った顔を覗かせてくる‼️社員の高橋と黛は、巧をはじめとする住民たちの生活に触れ、都会の暮らしとは一味違う水挽町での生活に憧れのようなものを抱いてくる‼️高橋に限れば薪割りの楽しさに目覚め、自分がグランピング場の管理人になると言い出す始末‼️自然を汚す人間たちの欲の深さを描くのかと思ったら、なんとなく微笑ましい展開‼️常に我々と共にある自然の厳しさや美しさ、そしてその自然に魅了されていく人間たちの姿‼️そして花ちゃんが行方不明になってしまう‼️住民総出で捜した結果、怪我した花ちゃんを巧が必死に担いで運ぶ‼️そしてここでエンドクレジット‼️エッ、ここで終わるの⁉️みたいなエンディングだし、ここでしか終われないとも思える完璧なエンディング‼️登場人物たちがどうなったかは観る者に委ねられるという事でしょうか⁉️多分、水挽町の自然に何の影響もないグランピング場が出来たんだろうし、高橋や黛が管理人となって水挽町の住民になったかもしれないし、花ちゃんも無事助かったと思う‼️なぜなら "悪は存在しない" のだから‼️
わかる人にしかわからない映画
人間はもろく弱く愛おしい。くだらないことだらけで何も爪痕残していない人生だとしても魂はみんな懸命に生きている。
映画に理屈を求める人にはたぶん向いてない映画。
高橋のあのラストシーンをつくった監督に脱帽。傷ついた鹿のように思えたのは私だけだろうか。あのシーンだけでももう一度観たい。
後で色々思い出す映画
最初は森の木の光景が延々続くが、途中から濱口監督の面白い会話劇となり、劇場内でも笑いが起こっていた。個人的にはコンサルとの会話がおかしかった。ラストシーンが衝撃的であとで色々思い出している。悪は存在しないというタイトルも効いている。
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