悪は存在しないのレビュー・感想・評価
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【"自覚無き悪は存在する。”長野県の架空の山麓の自然豊かな町を舞台に、大都会に住む人間の”自覚無き悪意ある業”によって起きた出来事を描いた作品。衝撃的なラストシーンは忘れ難い作品でもある。】
■巧(大森賀均:当初はスタッフとして参加していたそうである。)は娘の花(西川玲)と”長野県の山麓の自然の恵みと共に暮らしている。
コロナ禍で経営の苦しい芸能事務所が、政府の補助金目当てに、宅と花が住む町にグランビング場を作ろうとしたことから、父娘や町の人達の暮らしに不穏な空気が漂い始める。
◆感想<Caution!内容に触れています。>
- 今作品は平穏な生活を送っていた人達のコミュニティに、大都会から来た人々が波風を起こす事で"様々なバランス"が崩れて行く様を描いている。-
・序盤は、巧が森の中に流れる小川で水を汲み、薪を割り、花と広葉樹、針葉樹が入り交ざる豊かな森の中を歩くシーンが、穏やかなトーンで映される。
ー だが、その中に後半キーになるショットや言葉がさり気無く含まれている。例えば、花が鹿の骨を見つけた時に巧が、
”半矢の鹿だろう。”と言ったり、清涼な水の流れを映し撮ったり。-
・そこに、東京の芸能事務所の高橋(小坂竜士)と黛(渋谷采郁)が、グランビング場設置についての説明会を行いにやって来るが、浄化槽の位置や管理人が夜間いないなど、計画の不備を出席した町の人達に指摘され、這う這うの体で東京へ戻る。
二人は、コンサルの男と事務所の社長に住民に言われた様に、再度の説明会への出席を求めるが、軽くあしらわれ再び町へ戻るのである。
ー 高橋と黛の車中での会話から、彼らが行き詰まっている事が分かるが、二人の人生観の薄っぺらさが垣間見える。特に、”俺が管理人になろうか。”などと言っている高橋である。彼らの闖入が、平穏だった町にとっては”自覚無き悪”ではないか、と私は思ったのである。-
・高橋と黛は、社長に言われた通りに、巧を懐柔しようとするが軽くあしらわれつつ、巧は彼らを冒頭のシーンで、巧とうどん屋を営む男が汲んだ”清涼な水”を使ったうどんを御馳走するのである。
ー 巧の心は、良くは分からないが高橋と黛を嫌悪している様子はない。そして、花はいつものように、森の中を一人で歩いている。巧がいつも迎えが遅い為である。巧は高橋と黛と鹿の通り道でもある、グランビング場になるであろう、森を歩く。
そして、ここでもキーになる言葉が巧みの口から出る。”鹿は人を襲わない。但し、半矢の鹿は別だ。子が居たら尚更だ。”-
■衝撃的なラストシーンの私の解釈
・花が居なくなり町中で捜索をするシーン。徐々に暗くなる中、巧と高橋は花を探しに森に入る。探し続けた結果、漸く二人は花を見つけるが、花の前には”半矢の雄鹿”と”子鹿”がいる。
その姿を見た巧は、高橋の首を後ろから羽交い絞めにして彼を失神させる。その後高橋は泡を吹きながら少し動くがその後動かなくなる。
そして、アングルは血を出して倒れている花を映す。花が襲われたシーンは映されないが、巧が高橋の首を絞めた前であろうと推測する。
巧は、花が雄鹿に襲われた瞬間に、高橋を””半矢の都会の男”であり、彼らが来た為に自分が花を迎えに行く時間がいつもよりも更に遅れ、花が襲われた”と感じ、咄嗟に高橋の首を絞めたのだろうと、思った。
巧も又、”自覚無き悪”に一瞬、成ったのであろう。彼が説明会で語っていた”バランス”が崩れた瞬間でもある。
何度も書くが、これは私の解釈である。
因みに濱口監督は、このシーンに関して”解釈は観客に委ねる。”と言っている。そして、私は解釈を委ねられるのが、比較的好きである。
<ラスト、巧は花を両手で抱え、森の奥に消えていく。そして、冒頭明るく下からのアングルで映された森が、下からのアングルで暗く映されるのである。
今作の後半までの展開の面白さと、特にラストは迷宮的な仕上がりが印象的な作品である。>
<2024年5月12日 刈谷日劇にて鑑賞>
Untitled
タイトルがきっと今作の中で一番でかい意味を成してるんだろうなと予想しながら鑑賞。真っ昼間ですがほぼ満席でした。
序盤のゆったりと音楽に合わせて森の中を映す映像でまず画面に釘付けにさせられました。スロースタートな作品は苦手ですし、この時点で合わないかもって思う作品は多くあるんですが、今作は不思議と落ち着く〜となりました。音楽の力もかなり強かったです。
そこから森やその付近の町を映す描写になり、今作の主人公的ポジションの巧の普段の行動だったり、グランピング施設の説明会だったりと、展開が少しずつ動き出していく感じで、ちょっとした違和感がポツリポツリとありました(鹿を撃ったのはきっと出張してきた東出くんのはず…)。
田舎VS都会の構図のようになっていた住民会と芸能事務所の社員の話し合いは中々にスリリングでした。
計画書を示されてもどれもざっくりとしたもので、そりゃ住民も反対するよという内容には思わず住民と一緒に相槌を打っていました。
バランスを大切にというのには思わず納得してしまい、我慢もしなきゃならないし、たまには気持ちを発散させたりと、日常から大きな事業までやることなすことは一緒だよなと変に納得してしまいました。
都内に帰ってきてからの社長やお偉いさんの杜撰な対応はいかにもだなぁってなりました。計画性というか考えというのが浅はかで、完全にお金目当てなんだよなというのをうまいこと言葉で濁してる感じで居心地が悪かったです。
今作でほっこりしたのは高橋と黛の車内での会話シーンで、会社への不満をぶちまけたり、お互いの恋愛観を語ってみたり、田舎っていいよな〜ってなったりとまったりした時間が流れていて、この時ばかりは劇場も笑いが起こっていました。ここでもやはり車が出てくるんだなとニヤッとしていました。
高橋が薪割り気持ちいい〜とかここの管理人になろうかなっていうシーン。きっと現状の本心なんだとは思いますし、それこそ悪意なんて無いもんだとは思うんですが、どうしても実家がまぁまぁの田舎の身からすると、そんなに楽じゃないよ?と違和感が出てしまったのを巧は強烈に感じてしまったんだろうなと思いました。
町内の集まりであったセリフの「水は上から下に向かって流れる」というセリフが今作を象徴していたなと思いました。コロナ禍の給付金や補助金の行方、汚水は上の地域は良くても下に流れると生活に影響するなど、なるほどなーとゾクゾクする感覚がありました。
花を探しにいくシーンでも上流から下流へと探しにいっていたので、これぞ伏線の回収だなと思いました。
ラストシーン、これは捉え方が十人十色ってやつだと思います。誰しもが正解であって正解じゃないやつです。
個人的には自然にズカズカと入ってくる都会もんを巧が自分の手で成敗するという正義にも見えるんですが、いかにも身勝手で、でも防衛本能もはたらいてみたいなように見えて本当の悪とは思えない作りになってるのが本当に凄いなと思ってしまいました。
観ていたら急にぶん殴られた感覚で置いてけぼりにはされましたが、印象的すぎるラストの衝撃の方が強く、おもしれ〜ってゴワゴワした感情で劇場を後にしました。
個人的にですが、多分全員どこかしら悪いところ、発展したらクズな箇所があって、巧だって娘の事を何回も忘れている事は捉え方によっては悪だと思いましたし、花も何度も行くなっていうのに行くのは極端ですが学ばない悪だとも思いましたし、ここまできたらもう悪は存在しないよ!ブンナゲ!ってなってしまい、上手い作りだなぁってなりました。
棒読みの演技というか本読みの演技が濱口監督作品では特徴的なので、最初こそ違和感はありましたが、だんだんそのキャラクターの特徴や考え方が滲み出るようになっていき、そして感情が少しずつ乗っていくと人間味が出てきたのでそういう面でもこの演技は楽しめました。ただ他作品でもこの感じだったら浮いちゃうだろうなという人が何人かいたので、そういう面にも着目していきたいです。
ここまでタイトルに振り回される作品ってのは初めてでした。思っていたよりかは難しい作品ではありませんでしたが、それでもしっかり考え込んで不意を打たれてと忙しい映画でした。ちゃんと今作と向き合えるような人間になりたい。
鑑賞日 5/9
鑑賞時間 13:05〜14:55
座席 G-12
善と悪とは
冒頭から独特の映像の撮り方。
だが静寂で綺麗。
ここから見る人や物、動物、自然によって
善悪とは其々によって違う事を意味してたのかも。車から後ろへ撮り方も。
グランピングの説明会、都会と田舎では
時間の流れ方や大切さは分かり合えない。
相手が自然だし。口先だけでは無理。
ここの会話劇は皮肉たっぷりで面白かった。
あの、高橋みたいな鈍感な人必ずいるよね。
水を大切にしてるわりとには大事な娘
花の迎えは忘れる違和感。
巧は何か起きて欲しいと願ってたのかな……。
亡き母に対するお想い。
ラストは衝撃。鹿に身を捧げる感じ。
それを止めようとする高橋。
高橋の首を絞めて気絶させる行動。
このシーンは当人同士の気持ち。
どちらが善悪が分からない。
花があちら側に少し寄り添っている
のを巧は感じとったかもしれない。
自分はどの人物なんだろうか。
過度に音楽が入らないところが、鹿の気持ちになったように、じっと没入できた。
開発者側の女性が役者っぽくなく、落ち着いた口調が、観ている自分の立場をそちら側にも動かされてしまう。
自分は一体どの立場でいきているのだろうか、
生きていく為に何を1番大切に守っているのか、考えた時間だった。
花ちゃんとの描き方に疑問。
時間を忘れてしまうなら対策考えるべきだし、
ちゃんとルールを作れば良いし。
鹿への知識も教えてあげていないのか、そこに暮らしていながら学ばなさ過ぎではないか。
そこは、ストーリー的にそうせざるをえなかったのかな。
心地いい余白
考えさせられる余白が大きいと感じた。
ただ、映画は絶対的な答えがあるものだけでもないので、こういうラストもありなのではと思った。
映画をあまり見てない時の自分が見たら邦画の良くない終わり方だなあって思う気がする。
芸能事務所の人たちが自身の境遇を車内で話しているのシーンが最高だった。とてもリアル。自分がこういう先輩と一緒だったらめっちゃ嫌だなって思ったけど、なんか嫌いになりきれなさそうな先輩だなと感じた。。
社長とコンサルの人が悪に見える。
都会の人間と現地の人間の考え方の違いや、意見のぶつけ合い方がとても面白い。あの説明会の淡々と詰める感じとか、感情で訴える感じとか、かなり没入感があった。
冬山の日没
音楽についての評価が高かったが、自分にとっては映像の美しさの方がユニークでした。大友良英さんが音楽をつけた邦画を複数見ていたため、無意識に比べていたのかもしれません。
本作で映像化された自然の美しさ、それと共存をはかる人間の生活がよく分かりました。そのバランス感は、脚本上も重要なポイントでした。子供の頃、アウトドア好きの父にスキーやキャンプに連れ出され、山の形、木や鳥や雪上の足跡の種類を解説されたことまで思い出しました。父は都内暮らしのサラリーマンでしたが。鹿の水場の美しさはその中でも特に際立っていて、写真作品にしてコレクションしたいようでした。
過去に見た作品と違うのは、役者さんたちのお芝居の朴訥とした印象と、音楽の扱い方とに、共通の意図的な突き放し方があった点です。例えば生の演劇では絶対に見られないような、カットアウトしたような、時にぶっきらぼうとも言えるような切り口が、意図的に何かを伝えたり、場面を変える役割を持つ台詞や音楽が置かれて、映画が進んでいき、これは映画だなと思います。自然の弱肉強食の世界で、生きることを優先し愛想や辻褄合わせに振り向けるエネルギーは無い状況の暗喩にも見えました。
そして日常の風景が突然ばっさり切り落とされて非日常の様相になり、ラストに向かうのですが、余韻にまだ空想を止められないでいます。
色んな可能性があるけど、息が残っていたとして、日没までに誰にも見つからなかったら助からない可能性が高い季節の出来事。その意味で、走れメロスのような緊迫感がありました。
世界的な映画監督がこのような作品を作ってはダメなのでは?
(完全ネタバレですので必ず鑑賞後にお読み下さい!)
この映画『悪は存在しない』を超絶雑にまとめると以下になると思われます。
【水のきれいな自然豊かな田舎の町に、政府のコロナ補助金目当ての芸能事務所がグランピング施設を計画し、そのズサンな計画を察した主人公が、娘が手負いのシカに襲われたのがトリガーとなり、芸能事務所の交渉役の人物を殺害するストーリー】
もちろん、このような雑なまとめをされないように、映画の冒頭からおそらく都会とは違う自然の時間の流れを表現するために、超絶に長い、森林を下から移動で眺めるショットや、画面からアウトするまで撮り続ける主人公・巧(大美賀均さん)の水汲みのシーンや、長い薪割りのシーンなどのショットを流し、あくまで本音を語らない物静かな主人公・巧を配置したりした作りになっていたと思われます。
しかし、どんなに取り繕って煙に巻いても、自然に敬意の無い補助金目当ての芸能事務所の人間を排除するために主人公がその人物を殺害した、との【短絡的なストーリー】からは免れることは出来ていません。
なぜ【短絡】かといえば、(濱口監督もインタビューで応えているように)人間は自然に対して存在している時点で(主人公・巧の排除の論理の延長線上で)【悪】であり、己の【悪】を棚に上げたまま相手を断罪や排除をしてはならず、己の【悪】を棚に上げた時点で【短絡】にしかならないということです。
例えば、主人公・巧たちが住んでいる家や店の汚染水はどうしているのか、彼らが住んでいた場所もかつてはきれいな水場やシカの通り道であったのでは?
仮にそれら汚染水などの問題や人間存在の【悪】の問題を次善として解決出来ているのであれば、(グランピングであろうがなかろうが)そのグラデーションの中での次善の解決策を今後も全体で模索し続けるのが、自分たちの存在を棚に上げないまともな人間の営みだと思われます。
そんな可能性や問い掛けを排除して、(本当は存在自体が【悪】であるのに)自分たちは《善》の側に立ち、相手を【悪】に押し込めて断罪する、気持ちの良い場所からこの映画を作ってしまっていないか(今回では芸能事務所の人間を逃げ場のない【悪】の人物として描いていなかったか)、という厳しい問い掛けがされる必要があると思われました。
今や世界的な映画監督になった濱口監督に映画界は誰も指摘出来ない裸の大様になっているとすれば、こんな【短絡】の人間観の映画を作ってしまっていることを、誰かが指摘しないといけないと思われました。
私はこの映画『悪は存在しない』を再開発の最前線の渋谷のど真ん中の映画館で観たのですが、<何が『悪は存在しない』だ、自分たちの存在を棚に上げて片側を一方的な【悪】に描きやがって‥>と憤慨して映画館を出ました。
私がこの映画を観た渋谷は、川を何十年も前から暗渠化して自然とは真逆の場所ですが、そこに出来た新しい映画館の素晴らしさを濱口監督が自ら称賛する映像をロビーで見てから、『悪は存在しない』を鑑賞しました。
そして帰りの電車の中で、<そのツラの皮をひっぺ返してやろうかこの偽善者どもめ!>と心の中で映画に対して怒り狂いながら帰路に着きました。
こんな【短絡】で浅すぎる人間観で映画を作ってはいけない、と今でも強く思われています。
己を棚に上げるみっともなさを、今一度深く考えて欲しいと、僭越ながら思われました。
(憤慨する内容はともかく、映画自体は自然の美しさもありその点をプラスしてのこの点数となりました。)
人間同士お互いをリスペクトしつつ話し合いが大切で、そして野生動物に...
人間同士お互いをリスペクトしつつ話し合いが大切で、そして野生動物には適切な対応が重要だが、どちらも簡単ではないのだ。「これが正解」が無いのだ。
3部構成の、2部の辺りで悪者はいないと感じさせる演出が上手だと感じる。
当然 音楽がとてもマッチしている。
アラ探しをしたいわけではないが
学童に迎えに行く時間を忘れるのも子供を一人で帰すのもあり得ない。児童の事件が今までどれだけあったか。グランピングの説明会も正論ばかりであり得ない。実際は理屈じゃなく、ただ嫌なものは嫌という感情むき出しのもの。芸能事務所の社長もコンサルも、今どきあんな分かり易い俗っぽい悪人っているの? 車の中での会話もあり得ない。お互いのこと全然知らないのに婚活の話をする? 薪割りをちょっとやっただけで、人生観が変わるとかグランピングの管理人をやるとかあり得ない。病んでいるの?
冒頭とラストや森の中を歩く長回しは美しくも効果的とも思えない。ただ眠いだけ。観光牧場じゃないのだから、娘が牛にエサやりなどあり得ない。病気になったらどうするの。グランピングのし尿処理は許せないけど牛ならいいの? 牛糞堆肥作りでも地下水は汚染されると思うけど。チョークスリーパーの達人は、もっと短時間で落とします。薪割りで鍛えているなら喉の骨を潰します。私柔道やっていたので、絞め技も得意でした。鹿を撃つときは頭部を狙います。苦しませないこと、肉が傷まないために。外し過ぎでしょ。おまけですが、歳を取ると温かいお湯でもうまく感じます。濱口監督はまだ若くて、人生経験が浅いね。
悪は存在しないの題も軽い感じです。自分の正義を主張する人には悪意が無いということ? それとも自然の行いには悪も正義も無いということ? 巧の行いも正義になるの? 不条理な映画は正義なの?
棒読みや違和感だらけのセリフと演技で、この世界観分かるかと監督に問われているの? 黒澤だって北野だってコケることもある。周りのスタッフは監督のイエスマン? まだ巨匠でもないのに。分かりにくい映画や独特の世界観のある映画があることは知っているけど、この映画を評価する人とは気が合わないのは分かる。
悪意は存在する
冒頭は30分ほど巧の“慎ましい暮らし”の描写が淡々と続くのだが、もっと端的に表現できないものか。
終盤はやや改善されるものの、基本的に1カット1カットがあまりに冗長。
序•中•終盤に入る梢をスライドで映すカットも、尺を取る割に意味不明。
ブレもないので誰かの目線でもないだろうし…
説明会のシーンは、住民側がハナから喧嘩腰で不快。
金髪なんてそのために最前に陣取ったとしか思えず、冷静なのは区長くらいだった。
芸能事務所側は確かに補助金狙いかもしれないが、高橋たちは途中から神妙になってたし、閉会後の対応も真摯。
もちろん善ではないが、コンサルの語るビジネスの側面も全否定はできない。
悪は存在せずそれぞれに正義がある、というありきたりの話なのだろうか。
それでも、いくつかの悪意は間違いなくあった。
高橋と黛の車中の会話は好きだった。
ナビっぽいのが付いてるのに携帯を使ってるのは、婚活アプリの話をさせたい意図を感じたけど。笑
うどん屋のシーンは単体では良かったが、唐突なギャグへの戸惑いが勝ってしまい勿体ない。
ラストは、特に本筋に絡んでなかった花の行方不明からの、巧の不可解な行動で唖然。
結果、娘は怪我をするし、あれで計画が止まるわけでもないし、一体何をしたかったのだろう。
打ち解けてきてたし、花の捜索も手伝ってくれてたのに、鹿の話だけで殺意へ振り切れた?
深遠なテーマがあるのかもしれないが、印象に残ったのは社会人の悲哀でした。
バランスだ
いつもの映画館で
大型連休も残り2日の日曜日
この監督の新作ということで楽しみにしていた
前作のドライブマイカーはよかったが長かったんだよな
本作は106分と標準的なサイズ
オラとしては80分とか90分くらいがBESTだが
話の展開とエピソードにはグイグイ興味を惹かれた
・学童保育
・コロナの補助金
・グランピング開発の住民説明会
・オンライン会議
・芸能事務所の二人の車中の会話
・便利屋
・移住してきたうどん屋
・芸能プロダクションの社長
・元マネージャー
・元介護福祉士
・一番前に座って辛辣な言葉をぶつける若造
・環境コンサル
それぞれの人生の背景がちらちら見える
スピンオフで映画にできそうな
芸能プロダクションの社長はスキャンダルで干されたのかとか
主人公は当初はスタッフで参加と
確かに異質な存在だった 遊離しているというか
子役のほうが上手かったし
でも不思議とイヤではなかったな
主人公が語る
自分は開拓三世だと
最初からここにいたわけではない
要はバランスだと なるほど
アメリカもイスラエルも同じだよなと
帰り道にふと思ってしまった
バランスだ
いろいろフリが効いていて
ずいぶん分かり易くしてくれていると思ったら
最後はやっぱり突き放された
でもイヤではない終わり方だった
(ここからは映画と無関係)
終了後はいつもと逆方向の公園へ
機嫌よく自作弁当を食べながらビールをグビリと
今日もいい休日だった
我々にとってのGIFTのような作品‼️
まず長野県水挽町の自然がホント息を飲むように美しい‼️湧水の汲み場とか、鹿の水飲み場とか原っぱとか、まるで日本じゃなくて北欧みたい‼️長野県水挽町で便利屋として水を汲み、薪を割るような質素な暮らしをしている巧とその娘の花。しかしある日、水挽町にグランピング場を作る計画が立ち上がり、その計画を立ち上げた会社の社員、高橋と黛がやってくるが・・・‼️冒頭、水を汲み、薪を割り、野草を摘む巧の描写や、自然の中を走り回る可愛らしい花ちゃんの様子が丹念に描かれ、濱口竜介監督の腰の座った演出ぶりは、サスガと思わせる‼️そしてグランピング場の説明会による社員と住民たちのまるで法廷劇のようなやりとり‼️そのキレの良い話術は濱口監督の円熟ぶりが感じられます‼️そして会社の社員たちが再度、水挽町を訪れる後半から、この作品はまた違った顔を覗かせてくる‼️社員の高橋と黛は、巧をはじめとする住民たちの生活に触れ、都会の暮らしとは一味違う水挽町での生活に憧れのようなものを抱いてくる‼️高橋に限れば薪割りの楽しさに目覚め、自分がグランピング場の管理人になると言い出す始末‼️自然を汚す人間たちの欲の深さを描くのかと思ったら、なんとなく微笑ましい展開‼️常に我々と共にある自然の厳しさや美しさ、そしてその自然に魅了されていく人間たちの姿‼️そして花ちゃんが行方不明になってしまう‼️住民総出で捜した結果、怪我した花ちゃんを巧が必死に担いで運ぶ‼️そしてここでエンドクレジット‼️エッ、ここで終わるの⁉️みたいなエンディングだし、ここでしか終われないとも思える完璧なエンディング‼️登場人物たちがどうなったかは観る者に委ねられるという事でしょうか⁉️多分、水挽町の自然に何の影響もないグランピング場が出来たんだろうし、高橋や黛が管理人となって水挽町の住民になったかもしれないし、花ちゃんも無事助かったと思う‼️なぜなら "悪は存在しない" のだから‼️
わかる人にしかわからない映画
人間はもろく弱く愛おしい。くだらないことだらけで何も爪痕残していない人生だとしても魂はみんな懸命に生きている。
映画に理屈を求める人にはたぶん向いてない映画。
高橋のあのラストシーンをつくった監督に脱帽。傷ついた鹿のように思えたのは私だけだろうか。あのシーンだけでももう一度観たい。
後で色々思い出す映画
最初は森の木の光景が延々続くが、途中から濱口監督の面白い会話劇となり、劇場内でも笑いが起こっていた。個人的にはコンサルとの会話がおかしかった。ラストシーンが衝撃的であとで色々思い出している。悪は存在しないというタイトルも効いている。
悪は存在しないが
狂気は人間にはいつでもどこでも存在する。主人公の最後の行動は普通ではない。どう考えても狂っているとしか思えなかった。悪は存在しないけど、善も存在しない。
鹿に襲われそうな子供を助けようとした人間を、おそらく殺した。殺された(ように見える)人間は生き返ったように立ち上がったが、また倒れたのが、不気味だ。殺した方の男に無表情に抱えられた子供もおそらく死んだだろうし、生きていたとしても、幸せな暮らしが待っているとは考えられない。殺人を犯したように見える主人公は何を考えているかよくわからない人間として描かれていて、子供を迎えに行く時間も忘れる。いつも子供を危険な目に合わせても、本気で反省していない。自然が好きなのかどうかもよくわからない。グランピングの話を持ちかけらたせいでそのようになったようにも解釈できるが、そうではないと思う。というのは、グランピング説明会の地元住民もみんな変だ。住民の意識自体が変。自分たちは本来の地元民ではないと言いながら、地元の利益だけを主張する。
一番変なのは自治会長?のじいさん。上(自分たち)がしっかりしないと下(下流の大多数の住民)が困る、と言い出す。自分たちは上だと思ってる。地元住民はその異常さに気づかない。上が下をグランピングで一時的に受け入れればいいだけの話なのに、排除する。
主人公は何が真実か、何が現実か、探し求めているのか、さまよっているのか、よくわからないが、正気と狂気との境界線をうろついている。グランピングのことを気にしているようにみえて、一心不乱に描いている絵はグランピングの説明をする男女。子供の相手もせずに、男女の無表情な姿の絵を鉛筆で描く表情には狂気を感じた。一生懸命にグランピング問題を考えているのか、どうか、怪しい。木を切り倒して、薪をくべる自分の生活を悔いているのかもしれないし、悔いてもどうにもならないことに絶望を感じていたのかもしれない。答えはないだろう。人間が自然に干渉せずに生きることは不可能だ。どこかで、人類は狂ったのである。
前作では、人類の中でのコミュニケーションの問題を多言語を扱って映画にした。今回はコミュニケーションの問題を人類と自然との関係に広げようとしたのだろう。しかし、人類内の問題の延長で自然との問題を解決できるはずがない。その結論を提示した映画だ。
「ドライブ・マイ・カー」でも、自分の写真を撮った人間にひどい暴力を振るった(と推測できるシーンがある)男の表情が狂気をはらんでいるように描かれるシーンが印象的だったのを思い出した。このような狂気をはらんだ人間の衝動に動物(自然)とは違う人間の本質を見ているように思う。本作のラストもその映像の展開に息をのむ。
映画は音楽と騒音が効果的に使われていたり、映像の焦点が定まらずにカメラが回っていたりして、緊張感を切らさずに見ることができた。前作と同じく、不気味さというか不安定さが映画全体に持続するので、時間を忘れて映像を凝視し続けられる。映像が切り替わる直前に次のシーンの音がかぶるのは、構成上必要なのかどうかよくわからなかったが、少し気になった。「ドライブ・マイ・カー」と同じく、車の運転シーンが多いが、後方や側方の場面が多い。車が見られているような感じで、観客が見られているような感じになる。これも不気味な感じだった。
比較する対象がない。映画史に刻まれる傑作だと思う。
悪とは?を本質的に問う映画
長野県水挽町の住人と東京の芸能事務所によるグランピング建設計画を機にコンフリクトが起きていく
のが話の軸です。
冒頭の長い森の風景・圧巻の自然を美しい映像で見せることで、鑑賞者へ本作の世界観をインプット
しようという試みであろうと感じました。そのくらい長い。長いと感じるくらいの長さです。
そこから主人公 巧と住人たちとのコミュニケーションから、巧と住人の関係性などがわかるように
描かれていきます。
そうすることで、まずは巧及び住人たちへ鑑賞者は感情移入していくこととなります。
そんな中でも、巧の娘である花が纏う不穏な雰囲気は、割と冒頭から気になるところではありました。
グランピング計画の住人への説明から、ますます住人への感情移入が深まるわけですが、
芸能事務所の黛が真摯な対応をすることに好感を覚えたと思えば、
住人説明会で苦労していた高橋と黛が、実は東京では、社長&クソみたいなコンサルにも辟易している
ことがわかり、ここで高橋&黛にも感情移入していくこととなります。
そうすることで、“悪”とは、その人の立場によって、また、観る人がどの視点で観るかで変わり、
また、絶対悪は存在しないのでは?という気づきを得ることになり、
なるほど、タイトルの『悪は存在しない』とは、言い得て妙だなと思いました。
本作最大の事件、花が行方不明になってからの展開がまた面白いと言いますか、読めない展開になるのですが、
花と鹿🦌が対峙している場面(割りかし鹿の顔のドアップが長いです)から、
巧が高橋へスリーパーホールド!!
えっ!?って感じです。何が起きているかわからないくらい動揺しましたが、
次の場面で花が倒れていて、鹿はいない。なるほど、花が倒れているところを巧は高橋に見せたくなかったんだろうと思いました。
一瞬、高橋は死んだ!?と思いましたが、起き上がっていたので生きていますね。気絶していただけということがわかります。
一方、花は死んでいるかもしれないし、生きているかもしれない。
巧が花の鼻に手を当てて、呼吸をしているかどうかを確認するやいなや、すぐに抱きかかえて歩き出すことから、
私は、花は生きているんじゃないかと捉えました。
このラスト以前に、巧は高橋&黛に対して車のなかで「人間を襲うのは、手負いの鹿ならあり得るかも」的な話をしているので、
花は鹿に襲われたであろうことは想像に難くありません(鹿の顔のドアップがその示唆かと)。
とどのつまり、動物も含めて皆生きることに必死であり、誰も悪いことをしようと思っているわけではないんですよね。
だから「悪は存在しない」というタイトルなんだろうし、ただ、答えはひとつではないと思うので
本作を観た人が、この映画を通じて色々な事に思いを馳せてほしいというのが、濱口監督からのメッセージなのだろうと解釈しました。
実に深い作品です。時間が許せばもう一度鑑賞し、理解を深めたいと思いました。
オチが分からなーい。
巧と花は鹿なんかな?野生の鹿?
それとも花が怪我した鹿に襲われたってだけでええのかな?
花が行方不明になって、近所の人たち総出で探して、夜になったまではわかった。
で、高橋と巧が平原?原っぱ?に出た時には、なんか明るくなってたから夜通し探してたんかな?
で、花見つかって、花の近くに怪我した鹿がいて、怪我した鹿は人間襲うかもというフリが前に提示されてて、なのに花は帽子とって怪我した鹿に近づこうとする。
それを止めようと走り出した高橋を巧が絞める。あれは本気で殺すつもりのやつ?よく分からんけど高橋は白い泡?吹いて気を失う。
で、鹿がもういないけど巧が花に近寄ると、花は鼻血出して気を失ってて、巧は花を抱き抱えて原っぱを去る。
取り残された高橋もフラフラと立ち上がるけど、再度倒れる…これは?死んだ?
この後は誰かの走る息と森の木々の映像でおしまいとなる。
オチに来るまでは特に謎もなく、ふんふんと進んできたのだけど、このオチをどう解釈すれば?となりました。
面白かったんだけどもね。
タイトルの意味は、悪(だけの存在)は存在しないってことかなぁって思った。完全な善も、完全な悪もないという意味かなぁと。
関西では5/3は公開初日で混んでた。多分満席。でも一番大きいスクリーンじゃなかったし、1日2回公開。まぁ、監督の名前以外で観にくる動機の薄い作品だもんね。
そして、映画には全く関係ないけども。
多分隣の人が、うっすらドブ臭い・うんこ臭い口臭・体臭の人で、このうっすら臭いの、昔の恋人の口臭と同じで、彼のことが頭に浮かんで仕方なかった。
においの記憶、強いわぁ。口が近すぎる訳でもないのに薄いけどちゃんと香るあのにおい。鼻が全然バカにならず、ずっと香り続けるから途中からハンカチて鼻を覆うしかなかった…あーなつかしくさかった…
悪は存在しなくても、衝突も罪も存在する世界
冒頭から映像と音楽を贅沢に味わい、自然の恩恵と不穏さにゆっくり浸る。
ストーリーとしては八ヶ岳でのグランピング施設のための説明会、それに携わる二人の心情が語られ、無機質な悪でもなくどこにでもいる自然体な存在だなと感じる。
やはりこの物語はまさしく「悪は存在しない」なのだと思う。手負いの鹿が稀に見せる凶暴性、嫌悪感や怒りはあっても普段は抑え振るわない暴力の存在。それは悪とは言い難いはず。仕事で担当だからと結果的に水を汚してしまう人も、手負いだから興奮して人を襲う鹿も、悪ではない。ということは、なされた罪の多くは悪の問題ではなくて。
自然体な物語だけど、ラストの展開はまさに手負いの鹿の豹変のような、起きないはずのことが起きたと感じさせられた。ただ、ここの解釈がここまでブレるのは想定内なのだろうか。
私としてはどちらとも解釈できるような曖昧さとか、そこをはっきりさせることは重要じゃない描き方というのは、基本的に嫌いじゃないほうなのだけど、この作品については、ラストの展開とその語られなさはあまり好みじゃなかった。映画は答えを提示するものであるとかその答えが関心事だとは思っているわけではないけど、あまりに解釈のブレを招いてしまう突き放し方で。答えを求めるのは貧しい考え方だという指摘は、監督の知性からすれば酷くブレる解釈をする層はおよびじゃないということなのかなと思うけど、うーん…
悪は存在しなくても、相互理解は容易じゃない。
自分の解釈としては、たくみのあの行動は悪がゆえではないよ、でも罪ではあるねってことかと。悪じゃなくても罪はおかされる。手負いの鹿の暴走のように、声を荒げることのないたくみが暴走をしてしまう。なぜ暴走したのかは、娘を失ったことを東京から来た薄っぺらい男に結びつけたか、それともただやり場のない怒りが彼にむいたか、その原因はたくみにもわからないかもしれない。ただ、たくみはずっと怒りをためていたはず。黛と対比するかのように、高橋は、無責任で無神経でしかも結果的に罪を犯すであろう人間として描かれていたし。
どこかで響いた銃声によって手負いとされた鹿がはなを傷つけ、はなは死に、そして遠目でもそうと確信したたくみが暴走をする。
ラストシーンは、はなを抱えたたくみなのかな、息遣いのみ聞こえる。映画冒頭の雄大さと不穏さのコラボがここでも。無力で不穏でちっぽけな、それでいて必死な息遣いで幕が閉じられる。
うーん。
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