悪は存在しないのレビュー・感想・評価
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半端な余韻が尾を引く
個人的に余り好きになれない作品が多い濱口作品ですが、、、
やはり映画好きとしては押さえておきたい映画として鑑賞しました。
観終わった率直な感想は、「中途半端で投げ出された感が凄い」です。
始まりは、ヒーリング映画っか、ってほど映像と音楽をゆっくり、ひたすら自然鑑賞させる展開。
ようやくグランピング開発の地元説明会で、目が覚めたように話が緊張感を持って動いていく!
ところが、前後脈絡も無く?突然の、娘と鹿との対峙及び気絶?死?、それを見て、巧がハッと表情を変えて、先程まで良い関係になりつつあった高橋への首絞め。
驚きと共にこれから、ストーリーがいかに進むのか、固唾を飲んで観ていると、何と、スタッフロールが流れて呆気なく終了。
その突然の終わり方。何か問題提起だけして、解決策や対処を途中で投げ捨てた感を強く感じた。
そう言えば、主人公の巧も地元出身者ではなく移住者で、どこそとなく都会よりと嘯く、そして、グランピング施設に対しても立ち位置が中途半端な印象にみえた。全体的に俯瞰して観ている。主人公も作風も傍観者のような、どこまでも中途半端、ニュートラル、受け身な作品。
さすがに、こんな説明も付かないラストを見せられたら色々考えた。例えば、鹿が怪我をして手負状態となり、罪の無い娘に襲い掛かり怪我をする→それを観て、グランピング施設ができた将来の姿の暗示と受け、その将来を阻止する為に首をしめたのか?とか。
巧と娘の花は、鹿の化身で、グランピング施設なんかやっぱり駄目だとか?笑笑。うーんメルヘン!
どう考えても、わからない映画でまぁ、消化不良な印象をひたすら尾を引きずる映画でした。
余韻が残る映画は、大好きですが、この映画で受ける余韻は、少し嫌な感じで困りました。この感じ方は、濱口監督の狙いなのかな?だとすると、やはり、濱口作品は相性が悪いです。
ラストの処理で
ドライブ・マイ・カーで国際的に売れた名前の効果も多少はあるのだろうか、本作も受賞歴が華々しい。しかしマタゾウのマタデミーにははなちゃん役の新人賞以外はノミネート無しだ。なぜか?「自分で考えてくれ」。
以下ラストの解釈。
a:発見時にはなちゃんは生きてたが映像外で高橋が大声で叫ぶなどして鹿が動転してはなちゃんにアタック、巧が怒って高橋を絞めた?
b:はなちゃんは大勢に探されているのに返事をしない子ではないはずなので、発見時にすでに倒れており、巧はマボロシのはなちゃんを見た。その後倒れているはなちゃんを直視し動転して絞めてしまった?
c:それ以外。
いずれにしても、だったらここまでの、丁寧な伏線や迷わせる演技、自然と開発などの(申し訳ないがごく普通の)ストーリー展開はすべてモニタリングやドッキリの仕掛けと同じと言うことになりませんか?であれば私は、きっちり落としてくれる娯楽作もしくは問題提起をしてくれる作品を選びたい。
「映画の話したすぎるバー」の東京開催に参加する前に渋谷にて鑑賞。ほぼ満席。バーの方は年齢層が合いませんでしたが、見知らぬ同士なれど映画に関する会話が出来る環境が嬉しく、参加してよかったです。
受けた衝撃そのものに最大の価値があるのかもしれません
見る前から何かを考えることを強いてくるタイトル。
終始見せられる不穏なメタファーや心を逆撫でする音楽。
わかりやすい悪役が現れて、ざわつくものの、それすら肩透かしを喰らわせる展開。
「どうやって物語の着地させるのだろう……」と思いはじめたところで顕在化する悲劇。
捜索の果てに描かれる再会は絶望的なもので、それはこれまで紡がれてきた伏線をすべて悪い方に帰結させるものであり、この物語を終わらせるに十分なものでした。
ただ、そこには一人の異物が存在し、我々の予想を覆して、主人公は物語を美しく終わらせるためにその異物を排除しました……。
これが自分なりの解釈です。
映画を見終わって、「何が起きたんだ?」という気持ちと自分の中で合理的に解釈して正解を見つけようという理性がぶつかり合い、興奮が覚めません。
おそらくこの衝撃的な体験こそがこの映画の持つ意味であり、その前ではラストをどう解釈するか、というよりも解釈に至る過程こそに意味がある作品なのだと思いました。
歪な現代社会に日頃から感心がある人にとっては物足りない
キャスティング&自然な演技はいいが、
感情を揺さぶられるシーンは説明会だけ
特に区長のセリフは、
現代社会の不条理さを表現していて感慨深い。
その前後は、
セリフも、
子供や地域住民の人間関係も、
人間と対峙する自然の取り上げ方も浅過ぎて
感情移入できませんでした。
登場しない奥様の事や
芸能事務所の2人とグランピング施設のその後も謎のまま
「あとはご想像にお任せします」
的にバッサリと終わるので、
モヤモヤして消化不良感が残ります。
「ドライブ・マイ・カー」の監督作品として
認知&期待をしてなかったとしても、
これでは高い評価はつける事ができません。
塵の残像
見終わってしばし茫然とし、少し狐につままれたような感覚がありましたが、
わかりやすい伏線も含め、ラストに全体の構造がその姿を現したとき、少し戦慄を覚えるような感覚がありました。
作品は「石橋英子さんライブ・パフォーマンス用サイレント映像『GIFT』の素材となることを念頭に置いて、まず従来手法で一本の映画を作る」プロジェクトの一部として完成されたものという知識はありましたし、インタビューで「『塵』についての映像が撮りたかった」といった監督のコメントも読んでもいましたので、何かイメージビデオ的なものを想像していましたが、想像は全く異なっていました。
「数世代後には地球上にはどこにも人類が住めるところはなくなっている」可能性が日に日に高まっているのは何故なのか?ウクライナ、ガザ、テロ・・・、生存の場所を巡る悲劇・憎しみの連鎖が現代においてもなお繰り返されるのは何故なのか?その問いを巡る答えが、この日本という小さな島国の、森に囲まれた桃源郷のように見える小さな町のミニマムな環境下においても、なお成立しうることに驚きを禁じ得ませんでした。
HANAが出会った○○は、エリセの「ミツバチのささやき」でANAが出会った精霊(=フランケンシュタイン」に重なり、HANAが樹林の中を静かに歩む映像は、タルコフスキーの「僕の村は戦場だった」で少年兵イヴァンが沼地の樹林を一人銃をもちながら歩くあの奇跡的な冒頭のシーンに重なります。そういえば本作が韻を踏んでいる、これら過去の名作はいずれも、内戦や戦争がその背景として成立している作品です。
バランスが崩壊した後に残る「塵」。
不安な印象を喚起する音楽とともに映し出された映像に刻印されていたのは、その残像でした。
フランス映画
映像などなど良い映画ではありました。
内容としては田舎に住む人とそこへとある施設を作りたい人との対立かと思わせてそれぞれに理由があり
題名の通り悪は存在しないっていう
正義の反対は別の正義みたいな感じ
とにかくラストシーンに疑問を残します
こう言うことなのかなという議論を呼びたいのかなと勘繰ってしまう感じ
あとどう感じるのかは観た人に任せますというノリは好きではないので
いつの日か監督には答え合わせをして欲しいと思いますね〜
邦画版100分サタンタンゴ
恐ろしく長いピントが合わず彩度の低い冬の樹冠を映すオープニング、冗長な薪割りシーン、しゃべらない子供、生気のない住民。
意味不明のブツ切りエンドの後これは何だと考えたところ、ふと『サタンタンゴ』を思い出した。
もし「あの」『サタンタンゴ』に意図して似せたのであれば、室内劇が中心になる中盤以降は特徴が失われ映画としての売りがなくなってしまったのかもしれない。
主人公が酒を断らず薪ストーブの前で30分間晩酌をするシーンがあれば、あと2点追加してもよかった。
昨晩食べた食事がまだ胃の中に残っているようなもやもや感。
自然と文明、空気のきれいな田舎とごみごみした都会、素朴な地元民と補助金目当ての事業者。前者が善であり後者が悪だと一般的には思いがち。
山村の風景から都会の風景に一瞬で切り替わる場面があり、正直都会の風景を不快に思った。これは明らかに監督が意図的に観客にそう見せようとしていると感じた。だけど、田舎が善であり都会が悪だなどとは単純には言えない。それぞれそこで暮らす人々にも事情があったりする。この世は単純な善悪二元論では説明できない。本作は二元論にとらわれたら物事の本質を見誤るということを描きたいんだろうかと鑑賞しながら思ってたら、あのラスト。いまだにその意味は分からない。いや、これこそが表面的に物事を見てはならないという本作のメッセージなのか。
便利屋として娘と二人で暮らしている巧は自然の知識が豊富でこの田舎町では皆から信頼されている頼りになる存在。
事業者との交渉でも彼らに世話を焼いたりしてお互いの理解を深めようとする。不愛想ではあるが話の分かる男だ。
しかし終盤のある行動で彼という人間が分からなくなる。どう考えてもこれまでの彼の姿からは想像もできない行動をとるのだ。結果的には大事にならずに済んだが一歩間違えれば殺人である。殺人未遂の罪は免れないだろう。鑑賞者がとても想像しなかった彼の行動は何だったのか。
巧から手負いのシカは人を襲うことがあると聞いていた高橋は花を守るために駆け寄ろうとする。それはだれが見ても当然の行為だ。それを父親の巧が彼を殺す勢いで止めようとする。花の運命は自然に任せるべきだとでも言いたいのか。それともあれこそが人を表面的に見た目だけで判断できるものでないということをこの映画は言いたかったんだろうか。
中盤までは興味深く見れた。地元住民と新参者の事業者たちとの交流、経営者に言われるがままの事業者側の高橋達も皆それぞれの人生の悩みを抱えていて、人間として一方だけを描くのではなく地元住民と対等に描かれていて、とても面白く見れた。それがあの結末だから完全な置いてきぼりを食らった。いまだ腑に落ちていない。監督は三回くらい見ればわかるかもなんて言うけどそこまで金も暇もない。
誰が見ても納得できない展開をあえて描いたのは意図的なんだろうけど、この腑に落ちないという感覚を与えるのが監督の意図なんだろうか。皆さん大いに腑に落ちないでいてこの作品に心を縛られていてくださいと。意地悪な作品だなと思う。納得ができないこのもやもや感自体が監督の術中にはまってるということなのだろうか。
確かにわかりやすい映画はつまらない、鑑賞後いろいろ考えさせてくれる作品の方が好きなんだけど、これはただわからないという気持ちしか残らない。セブンやミスト見たときみたいなラストがショッキングすぎて、それまでの話が吹っ飛んでしまう映画はあったけど、これはただもやもやした気持ちが残っただけ。本作のラストが腑に落ちる日が来るといいんだけど。とりあえず胃薬飲むか。
なぜ殺したか?
薪割りを初めてなにのうまくやったからむかついたから。が理由ですね、、
主人公はadhdで、
そんなことで怒るの?ってことで怒りますから。
そして感情をその場でうまく表現できないから、あとで爆発する。
時間を守れないとか、お金の計算が苦手とかもありますが、adhdについての理解をもっとすべきだと。それがないと孤独になっていくから、、
タイトルの意味は、鹿も人も同じってことかなあ。
主人公の車のケツにDHDというプレートがあるんですよ。それでこの映画のテーマが理解できました。
長野県水挽町。 自然豊かな小さな町。 小学生の娘・花(西川玲)とふ...
長野県水挽町。
自然豊かな小さな町。
小学生の娘・花(西川玲)とふたりで暮らす巧(大美賀均)は、その町の雑用係。
自称「便利屋」だ。
そんなある日、巧らが暮らす集落にグランピング施設建設の話が持ち上がる。
グランピングとは、コテージなどを利用したキャンプは難しいが自然を満喫したい都会人向けの施設。
計画を立ち上げたのは、都会の芸能事務所。
コロナ禍での補助金目的が透けて見える。
案の定、説明会では、集落側からの質問にまともに答えられない。
住民側の心配事は、汚水浄化施設の能力不足と管理者不足。
とちらも、土地の自然を破壊しかねず、住民にとっては生死にかかわる問題なのだ。
だが、事務所側は・・・
というところからはじまる物語だが、映画は建設計画説明会のエピソードまでに巧と花を通して、山村の自然と暮らしを映し出していきます。
石橋英子の音楽、北川喜雄のキャメラが素晴らしい。
学校からの帰り道、花と巧は小鹿の死骸、骨となった死骸を見つける。
ははん・・・と、ここで察しが良ければ、後半の展開のうちの重要な事柄には気づくだろう。
小鹿は花だろうな、と。
さて、説明会を終えて都会へ戻った事務所のふたり。
社長に状況を説明すると、不足と指摘された管理人に巧を雇えばいいんじゃないか、と安易な解決策が提案され、早速、それを巧に持ち掛けようと再び町へ向かう。
その道中、自動車の中で、都会人の薄っぺらさが浮き彫りにされる。
このエピソード、会話が面白い。
ま、ちょっと身に覚えがあることも・・・
で、その後は、一気に物語の終盤へなだれ込むのだが、主題的には少々浅いかなぁ。
自然に寄り添い、自然とともに生きている人々、その代表が巧で、彼はとにかく土地の自然に詳しい。
が、鹿の跳躍力は凄いと認めていながらも、鹿はひとを襲わない、と、どこか「自然はこんなものだ」と無意識のうちに思っている。
それが、終盤、手ひどいしっぺ返しを食らう。
都会人は都会人で、田舎での暮らしはこんなもんだ、ひとびとはこんなもんだ、と安直に考えている。
それが、手ひどいしっぺ返しを食らう。
ひっぺ返しに予感はない。
前兆とか伏線とかはない(ま、映画だから、あるのはあるんだけど)。
突然のしっぺ返し。
自然から人へならば、その突然感は納得できるだろうが、人から人へならば、その突然感は納得できないかもしれない。
しかし、しっぺ返しとは、そんなもんだ。
ま、「突然」を「神」と結びつけるとヨーロッパ映画的になるだろうが、何と結びつけるかは観客に委ねられるように作られている。
個人的には、
村人たちから発せられる都会人への薄っぺらへの嫌悪のかたまりをベースにして、喪失の哀しみと、信頼していた自然からのしっぺ返し(裏切りともいえる)への絶望などが綯交ぜになったゆえの「突然」だった・・・
と受け取りました。
濱口監督作品は難解そのものだ!余韻だ!
自然と人間と動物がテーマかなぁ?
冒頭の森の木々でカメラが下から天へ撮りながら暗い音楽で永く画面の下から上ねへ流れ段々と枯れ枝が増える。スリラー的な展開を予想させる。また、車の後窓からのシーンも悪いことをイメージさせる。そして、上流から下流への水や人間の自然破壊に折り合いをつける生活、自然の恵みを享受するか鹿と足跡、手負いの鹿は人を襲うという前振り。最後の息づかいと闇に森シーン。きっと娘の花ちゃんは助かったに違いないとカメラが唯一上から下へ流れた。余韻が凄い、或いははて、なんじゃ!と思う方もあろう!
人間は悪には足りえない
冒頭の1時間半、私はなんでもないものをみていたのだろうか
巧さんは自分そして親、祖父の生きてきた自然に与えた影響をグランピング計画で起きる、山そのものとも言える自分自身における変化の中で知りたくなってしまったのだろうか
解釈を観ている私達にさせてくれる濱口監督の作家性に優しさとそれ以上の狂気を覚えました
そんな狂気に触れた自宅で待つ黛さんが人間界の狭い場所へ逃げるように急ぐような数秒のカットが1番印象に残っている
ドライブマイカーを観させてもらったときも感じたのだが濱口監督とハイパーボイルドグルメリポートの上出さんとかダブり、そして真逆におられると感じる
私は勝手に考え、個性豊な人間って好きだな。めんどくさいけど。
衝撃!、どっちなの?
まず、間が長すぎる。
オープニングから15分くらいは結構睡魔地獄。
何も無いシーンが何度か続きます。初めのうちは、何かあるのかな?と集中しようとしますが、そのうち、帰りなんか食べていこうかな、、、とか他のこと考えてしまいます。間や行間や余韻とか、映画にとって大切だと思いますが、さすがに無意味に長すぎる。
オープニングに余韻はいらないでしょう。
逆にエンドロールは余韻が欲しいけど、バッサリ。
斬新な演習ですね。
ようやく、役者がしべり出して話が展開していくと、キャラクターに没入する感じがあります。日常を普通に見ている感じ。この辺りがとても特長的な監督なのだろうと思います。ドライブマイカーもそうでしたが。
グランピング施設を作るか、自然を守るか、、、というテーマは目新しいものでもなく、特にドラマもありません。
その後ろの人間のドラマの映画だと思いますが、私には難解過ぎたようです。
最後は、、、え!?終わり?、どういうこと?となってしまい、即ネタバレサイトを探しますが、、、答えは自分で考える必要があるようです。
私にはラストは、「助けた」のか「殺した」のかさえ分かりません。ハッピーエンドなのかバットエンドなのかさえ分かりませんでした。
「鹿」=「お父さん」
で、普段は襲わないけど、手負いや家族に危険がある時は大切な家族を守る、お父さんは変人で、善悪の区別がつかないのか、、、
そもそもお父さんは変人(ここは確定だと思いますが)で、娘に興味が無い様子。娘がジャマで、、、もしかしたら奥さんも、、、とも思えます。
まさに難解な映画です。
せめて、答えが知りたい、、、監督の解説や原作があれば良いのですが。私にはとても気持ちの悪い映画でした。
映画の中で答えがわかる必要はありませんが。いつまでも答えが分からないのは不快ですね。
けっこうよかった
ある意味田舎ホラーだ。グランピングを進めようとして歩み寄る社員の二人が、素の人柄を見せるようになるのに、主人公はずっと裏表なくそのままだ。露骨に反発する金髪の若者は礼節を欠いているものの、正直だ。なんで主人公は社員の男を絞め落としたのか、殺意があったのか、鹿に感化されたのか全然意味が分からない。ただの変わり者だと思ったらヤバい奴だった。何を考えているか分からなくて、突然牙をむく自然みたいな存在なのだろう。
コンサルタントと社長がクソだ。グランピングの用地を下流にすればいいのだろうけど、用地の買収をし直すのも難しいのだろう。
行方不明になる女の子が、大人みたいな顔立ちで、カメラが寄っていると子どもに見えない。
難解
最初は
自然の中に人間のegoのため、グランピングを作る計画で地元民とその企業が揉める話から
芸能事務所のスタッフである二人の心の揺れ
不思議な親子、父と娘
奥さんは亡くなった?
娘が行方不明になり
捜索
その後、あのシーン
鹿に向けられた銃声がハナに当たった?
難解。
鹿の通り道
濱口竜介監督はやはりリアルな現実を切り取るのと、ライブ感を演出するのが上手い。
緩慢なカメラの動きに、演者のなるべく抑揚を抑えたような淡々とした台詞回しが、これが特別な非日常ではなく、あくまでも日常の延長線上にあることを観る者に意識させる。
舞台は長野県の自然が豊かな高原の町。特に沢の水が直接飲めるぐらいに綺麗で、都会からの移住者も増えているらしい。
代々この地で暮らす巧は、薪を割ったり水を汲んだりしながら便利屋として生きる物知りな男だ。
ただ物忘れが激しい。
娘の花は好奇心旺盛、巧の迎えが遅いと一人で森に踏み入り探索をする。
ある日、彼らの住む近くにグランピング場を作る計画が持ち上がる。
しかも計画を進めるのは畑違いの芸能事務所であり、町の一番の誇りである水源を汚染しかねない杜撰な計画でもあった。
まずこの住民説明会のシーンに引き込まれる。
計画の担当者である高橋と黛相手に住民が様々に異を唱えるのだが、まさにドキュメンタリーのようにリアルな対立を観ているように感じた。
巧たちはただ闇雲に反対するのではなく、しっかりと町にとっても財産となるような計画を立てるように彼らを促す。
しかし住民の意見をすべて聞き入れる余裕があるほど、芸能事務所側にも予算と時間があるわけではなかった。
しかもコロナ禍による行政からの補助金を得ているだけに、何としても計画を実行に移さなければいけない。
高橋と黛は社長に説得されて、再び巧のもとへ赴くことになる。
確かに住民を半分馬鹿にしたようなコンサルタントや社長の姿には悪意を感じる部分もある。
しかしこの映画のタイトルにもあるように、この作品には明確な悪は存在しない。
高橋と黛が移動中に仕事への不満や結婚観などを話すシーンが続くが、次第に観ているこちら側も彼らに共感を覚えるように誘導されているようだ。
彼らにも人生があり、信念があるのだ。
どうしても人間の目線で見ると、善であるとか悪であるとかを分けてしまいたくなるが、もっと大きな自然の流れの前ではどちらも些細な問題なのかもしれない。
手負いの鹿はやがて息絶えるように、自然の前では善も悪も関係ない。
ただそこに自然の流れに沿って生きる。
淡々と巧が薪を割るシーンが印象的だった。
簡単なようで薪割りは慣れない者には難しい。
そして巧が花を肩車しながら森の木々を説明する姿、そしてグランピング場の建設地が鹿の通り道であると淡々と話す姿が印象的だった。
通り道がなくなったら鹿はどこへ行けばいいのだろうか。
いつの間にか高橋と黛が巧の生活に取り込まれていく様もおかしかった。
さて、本来なら物語はグランピング場の計画についてどうお互いが歩み寄るのかを描きそうなものだが、事態は思わぬ展開を見せる。
花が下校中に行方不明になってしまったのだ。
冒頭にもあったが、狩猟による銃声が不穏な空気を感じさせる。
そして観る者を動揺させるような唐突で衝撃的なクライマックス。
なぜ花が倒れていたのか、説明はされない。
誤って銃に撃たれてしまったのか、それとも手負いの鹿に攻撃されてしまったのか。
それともすべては幻だったのか。
そして巧が思わず高橋の首を絞めてしまう理由も分からない。
これも何か大きな力によって導き出された結果なのだろう。
様々な疑問は残るものの、観終わった後の余韻が長く、カメラワークの秀逸さもあり、まるで大巨匠の作品を鑑賞したような充足感があった。
自然な風と川のせせらぎ。
自然豊な高原に位置する長野県水挽町に住む住人達と、その高原にグランピング場を建設しようとする芸能事務所の話。
コロナ禍の影響で経営難になった芸能事務所が政府からの補助金を得ての計画…、住民説明会になるもグランピング施設内にある浄化槽位置が悪く、町の水源に汚水が流れるのではないかと問題に…。
分かりやすく書けば「マンション建設反対」、「太陽を奪うな!」的な、本作は町の水源を汚すな、施設を造っても管理体制が整ってない、20年に1度は起こる山火事が人の出入りが多くなるから頻度が上がるのでは?と問題が色々と、リアルでもある問題だけど私自身こういった問題に直面した事なくて、町の住人達の気持ちも分かるし、事務所側の言ってる都合のいい理由、人の出入りが多くなれば町も活性化しますよ!も何か分かるしで、こういった問題ってリアルでも「なるようにしかならない」と思う。
本作のストーリーは関係なしにあの高原、自然が良かったな~なんて、山道歩いて食べ歩き(陸ワサビ)とか、自然の水を生かしたうどん、薪割りとか、そんな描写が観てて少し癒されました。がっ!ラストの終わり方は何すか!?娘の花といい、事務所の高橋といい、どう解釈したら…。
花役の子は可愛くて将来有望、だから目の下の涙ボクロはズルいんだって!(笑)
その地の掟を汚すことも、目撃することも憚られるのかもしれません
2024.5.13 京都シネマ
2023年の日本映画(106分、G)
ある田舎町に降りかかったグランピング場建設を巡る問題にて歪になる人間関係を描いたヒューマンドラマ
監督&脚本は濱口竜介
物語の舞台は、長野県の山奥にある水挽町
そこで先祖代々住む便利屋の巧(大美賀均)は、娘・花(西川玲)と二人暮らしをしていた
花は地元の小学校に通い、その送り迎えをしているが、巧はよく忘れてしまい、花は一人で森の中を寄り道しながら家に帰っていた
巧は友人の和夫(三浦博之)とその妻・佐知(菊池葉月)が経営しているうどん屋に水を運んだり、薪拾いをして、生活の糧を得ていた
ある日、彼らの村に、芸能事務所の高橋(小坂竜士)と黛(渋谷采郁)がやってきた
彼らは、この村にグランピング場の建設を考えていて、そのための説明会を開くことになった
そこには区長をしている駿河(田村泰二郎)、血気盛んな坂本(鳥井雄人)、和夫と佐知なども参加する
一通りの説明が終わり、質疑応答の時間になるものの、問題は排水設備の設置場所と管理体制になって、まともな答えが出ないままだった
そこで、巧は「社長とコンサルを連れて出直さないと話にならない」というものの、高橋たちは「話を持ち帰ります」と濁すだけだった
話を持ち帰るものの、社長(長尾卓磨)とコンサル(宮田佳典)の方針が変わらず、さらに「巧を案内人にしよう」というアイデアが出て、高橋と黛は再び彼のもとを訪れることになった
巧は追い返すこともなく、和夫のうどん屋に連れて行ったり、日々の仕事を手伝わせたりする中で、彼らの真意を読み解こうとする
そんな折、花の迎えを忘れてしまった巧は、いつものように学校に行くものの、花はいつものように一人で帰宅したと言われてしまう
そこから花が行きそうな場所を探すものの、一向に花の姿は見つからず、防災放送が村中に鳴り響く中、花の搜索が始まってしまうのである
映画は、花が森の中を歩くシーンにて、木々を見上げているショットで始まり、ラストも同じような構図で描かれていく
その意味を探るよりも、ラストにおける「巧の暴力の意味」が物議を醸している内容となっていた
個人的な感想だと、「手負の鹿は守るために攻撃することがある」という前振りがあったので、巧の行動もそれに倣ったものになると思う
暴力の直前には、行方不明だった花の前に手負の鹿がいる、という構図になっていて、その直後の出来事だった
花は手負の鹿の方に歩いて行き、それを止めるような感じで高橋が動いたのだが、巧の行動はそれを制止しているようにも見える
おそらく鹿が花を攻撃したのではないかと思われる内容で、花がぐったりしている様子が描かれるのだが、これが「巧の暴力の後なのか先なのかはわからない」ように思える
すでに花が倒れていて、その原因が「手負の鹿」だと直感的に思った巧が見た幻のようにも思えるし、巧が高橋を攻撃している間にそれが起こった、とも取れる
この二つの可能性から見えてくるのは、「手負の鹿が攻撃することは自然の摂理であり、花はその禁忌を犯したから止めることはできない」というものだろう
高橋が助けるのを止めたかったという可能性がある一方で、花を失った悲しみから、その怒りを高橋にぶつけたようにも思える
手負の鹿=巧あるいは村という構図において、グランピングという「攻撃」から身を守ることの延長線上かもしれない
そう思うのは、高橋に巧を頼るように言ったのは区長で、便利屋だと言ったのも彼だったからだ
なので巧は、区長から高橋の相手をさせられている「真の意味」を実行したのかもしれない
当初はもっと別の方法でと考えていたと思うが、花のトラブルがあったので、衝動的に体が動いたのではないか、と感じた
いずれにせよ、観た人の数だけ解釈がある映画で、このように答えを明確にしない映画を好まない層もいる
だが、映画で描かれている情報をかき集めていけば、その村を守るためにできることは限られている
そう言った意味において、村人の思惑が絡んできているが、それすらも超えて、自然の摂理というものが働いている、ということなのではないか、と感じた
あくまでも個人的な解釈なので、それぞれが感じたことは大切にしてほしいと思う
ラストシーン、監督の勇気に感心した
ドキュメンタリーを見ているかのように引き込まれて、唐突にぶん投げるように終わるサディスティックなラストシーン。
劇場を最初に出てあとから出てくる観客をしばらく観察していたが、皆一様に困惑した顔だったのが面白かった。
自分が監督なら、批判が怖くてあんな風に客を突き放した終わり方は出来ない。
ラストの女の子(花)と手負いの鹿のシーンは、花が倒れている姿を見た巧の想像なのではと思った。だって大人が探している間中、ずっと鹿と見つめあってるわけないもんね。花が倒れている姿を見た瞬間に、巧はその理由を瞬時に想像した。
花は鹿に襲われた。そこに悪意は存在しない。自然の偶然の結果。
そして自然と社会の狭間の巧は、人間の都合で動いている(動かされている?)高橋を自然側の存在として排除しにかかったのだろうか。
しかし、その高橋を襲ったシーンでさえ、巧の想像である可能性があるしなあ。
大体、巧が娘の花に感心が無さすぎる。娘のお迎えを頻繁に忘れる?
人間に関心が薄いのだろうか。そのあたりが花のお母さんがいない原因になっているのか。
だとしたら花の失踪は父親に対するある種の復讐か。
そうするとラストシーンの高橋の存在は、「娘を守れなかった不甲斐ない父親の巧」のメタファーなのか。巧の想像の中で。
うん、わからん(笑)
初めて見る役者さんたちの、そこに生活しているとしか思えない演技。特に会社に命じられて主人公の巧を説得に行く車中の二人の会話は、セリフではなくアドリブではと思えるほど自然で好きだった。特に社員役の女優さん。カメラの前であんなに「普通」に演技できるのはすごいと思った。声だって全然張ってないしね。でもすごく魅力的なキャラクターだった。
気持ちがザワザワする
山の自然の美しさや厳かさに合わせ、美しさの中にどこか不穏感のある音楽が印象的でした。
題名からのぼんやりとしたイメージもあり、不穏さを掻き立てる音楽もあり、何か不吉なことが起こるのかと終始ザワザワするような気持ちに。
山での穏やかな暮らし、都会の人間との交流など、一見自然と調和する生活を尊ぶようなストーリーにも見えましたが、音楽のためかどこか不穏感が拭えず。
都会から来た男が山の暮らしに傾倒する様子は、ただの現実逃避の薄っぺらい感じに見えますし。
死の気配を漂わせる描写もあり、自然の中での生活に幻想を抱くことを拒むようにも見えました。
ラストは、率直に訳が分からず。
え?という疑問と、子供がこういう結末になるのは避けて欲しかったが…、という感じです。
主人公は何故あんな行動に?と、モヤモヤと考えさせられます。
あれは都会の男に見られてはいけない場面だった、ということなのかとか。
鹿は神聖な動物というのを聞いたことがあるので、子供と神が遭遇している的な神聖な場面であったとか。
自然の摂理に従って死を受け入れるべきであり、それを邪魔してはならないとか。
又は、子供の命が神の元へ向かおうとしていたので、とっさに男の命を代わりに差し出そうとした、とか。
子供の命は救おうとするだろうという固定観念から、こんな風な考えも湧いてきましたが。
又は逆に、主人公は子供の迎えを忘れたりなど子供に対して素っ気ない様子もあったので、子供の死を望んだ、ということなのかとか。
題名の意味も、自然の摂理の中に悪は存在しない、悪も善もなく、死も自然の営みの一部である、というような意味合いなのだろうかとか。
と、色々と考えてもよく分からないので、また映画評や考察などを読んでみたいと思います。
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