悪は存在しないのレビュー・感想・評価
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侵入者≒「他者」の受容と拒絶
石橋英子さんから濱口監督へライブパフォーマンス用映像の制作依頼がきっかけでつくられた本作。映像イメージの使用のみを想定してか、1ショットでのカメラワークや劇が実験/挑戦的で面白くて凄い。1ショットでの長回しは『親密さ』での明けの散歩シーンなどで印象的だが、強度がさらに強まっている。学童からの車の移動のショットとか、巧と花の山を歩くショットとか、巧と高橋の薪を割るショットとか凄すぎでしょ!!!本当にみているだけであっと驚かされる。役の練度がそのままカメラに撮られーつまり準備が凄いー、それをみるだけで十分面白いと思えるんです。
さて、本作は自然と人間の二項対立による濱口監督のエコロジー論が語られるのかと勝手に予測していたが全然違った。どのように〈私〉は侵入者≒「他者」を拒絶し、受け入れられるのかが主題系をなしているように思われる。菊池葉月さんや渋谷采郁さんがキャスティングされていることもあり、『ハッピーアワー』の主題系がリフレインされている印象だ。
その他者とは、まず主人公の巧らが生活する長野県・水挽町にグランピングを建設しようしている高橋と黛だ。二人は地域住民に対して説明会を開き、事業の推進を目指して説明をする。しかしその説明は、事業の正当化と利益のためであることが透けてみえて、地域住民の生活を考慮していない杜撰なものだ。地域住民は反発する。巧も計画の見直しを求める。しかしこの町も開拓地であり、地域住民も元はよそ者≒他者だ。もちろんこの計画に賛成の住民もいる。それなら解決は他者の拒絶ではない。拒絶と受容のバランスが問題なのだ。
バランスを失うと崩れる。崩れる運動の描写が『ハッピーアワー』でもされていることを指摘するのは蛇足であるが、高橋と黛はバランスを崩さないために、巧や水挽町の生活を知ろうとする。
他者の理解だ。巧の生活の一部となっている薪割りを高橋はしてみる。峰村夫妻が切り盛りしているうどん屋でご飯を食べてみる。うどんに使われる湧き水を汲んでみる。山に分け入ってみる。
高橋と黛は他者をさらに理解したように思える。それならば理解したものを東京に持ち帰って、グランピングの計画は改善されていくに違いない。地域住民も計画に納得して、「ハッピーアワー」が訪れる。
と、ならないのが本作の特異点である。濱口監督と石橋英子さんの二人が好きな映画がファスビンダーであることはパンフレットをみて知ったのだが、本作にはファスビンダー同様に不条理さがつきまとっている。
そんな数日の出来事で他者は理解できないし、グランピングの計画は社長とコンサル事業者といったさらなる他者によって問題は複雑であり、解決は困難だーさらに社会経済的な時間の有限さもあるー。〈私〉と他者が言葉を交わし合い、反省し合い、啓蒙されたら万事解決になるわけではない。理性的コミュニケーションの限界。徹底的な本読みによって、〈声〉を重視する濱口監督の作家性とは思えない展開だ。
さらに他者とは、〈私〉以外の誰かであると共に〈私〉の中にも他者性として存在するのではないか。そんな他者性の発露が巧にとって花の失踪事件だろう。
この事件は巧が迎えを忘れることが一つの原因ではあるが、彼の意志を超えた偶発的な出来事である。高橋も黛も原因には全く関係ない。しかし事件は起こってしまう。
花はみつかる。住民の必死な捜索が全く無意味で、巧が勝手にみつけたこともまた不条理極まりないのだがそれでもみつかる。しかし花はバランスを崩して死んでいるように思える。さらにそこから高橋への殺意と暴力に転化するのは全く理解不能だ。Quoi??? でもそれが他者性なんだと思う。巧は事件以前は殺意なんて全くなかったはずだ。けれど殺意は顕れた。行動に移された。他者とはそれだけ理解不能で不気味なものだ。
ではどのように〈私〉は侵入者≒「他者」を拒絶し、受け入れられるのか。その問いの答えは霧の靄へと姿を消す。グランピングの建設が進められるのかも分からない。花の死が事件か事故なのかも分からない。彼らの結末がどうなるのかも分からない。そもそもラストシーンは、物語世界で本当に起こったことかも分からない。全てが「判断不可能性」に開かれていて、悪の存在も判断がつかない。
つまりは私たち観賞者に問いが突きつけられているのだ。映されたイメージは何なのかと。「悪は存在しない」。このタイトルは結局のところ何なのだろう。思考が循環する。不気味な何かが私の中に澱んでいるのだけは分かる。
何を見せられたんだ!?
**濱口竜介監督×記者サロン**
朝日新聞主催の対談動画「映画に偶然は存在しない」を見た後、『悪は存在しない』を鑑賞しました。
対談では、ビクトル・エリセ監督の『ミツバチのささやき』が『悪は存在しない』に重要な影響を与えているという話が出ました。『ミツバチのささやき』は、以前自分でもいささか熱が入りすぎたレビューを書いたくらい大好きな作品です。
確かに、この作品も全体的に彩度と明度が低く、緑も暗い。森の中での父と娘の関係、死の香り、駆けていく少女――いくつもの場面でオマージュのような要素を感じました。
対談の中で、視聴者からこんな質問がありました。
「公開初週に『悪は存在しない』を観に行って、すごく面白くて引き込まれたけれど、結局ぜんぜんわからなかった。ラストシーンは第1稿から決まってたんですか?」
この質問に対して濱口監督は、
「今回は本当に第1稿かどうかを多く聞かれましたが、第1稿から決めていて、作品全体が面白くなるように考えながら撮影しました」
という趣旨の回答をされました。
登壇者の石飛さん
「この"わからない"という話がありましたけれど、"わからない"けど面白い映画って確かにありますよね。観客の"わかる"・"わからない"について、作り手としてどう考えますか?」
濱口監督
「意味がわからないことがこんなに話題になるとは思ってなかったんです。自分が映画を観はじめた頃(1990年代)は、意味がよくわからない映画がたくさんあって、自分の好みなのかもしれませんがむしろそればっかりだったので」
この話を聞いて、きっとニュアンス的にわからないとか、抽象的すぎてわからないという類かな、なんて思ってたら、全然違った!
濱口監督はロベール・ブレッソン監督の作品を観て、「何を見せられたんだ!?」と衝撃を受けたと話していました。
その言葉、そのままお返しします!!
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濱口作品特有の役者や言葉遊び、やはりすごく面白い。長回しのシーンはほんとに長くて、失敗するはずないのにヒヤヒヤしながら観てしまいます(東京の2人がいる薪割りのシーンとか…)。役者さん達ほんとにすごい。
ただのエコロジカル話でないのは好感が持てましたし、高橋と黛の車のシーンとか、2人に対して完全に親しみが湧いてしまう。
そういうやるせなさ、あるある。
簡単にそう言っちゃうことも、あるある。
軽率でも憎めない。
自分も自然生活や自給自足に憧れるし、生きていく強さに尊敬しかないけれど、本当のところで自活していく覚悟はなくて。
そんなこともあって高橋に感情移入してしまう。
そうそう、ヨソモノ(外部の人間)は最初は受け入れてもらえなくて、時間が経つにつれ誠実さが見えてきて、本気で面構えが変わってきて、周りもそれに気付き出して、だんだんそんな風になっていくかな…
なんて、甘かった。
私自身が甘いんだよってぶん殴られた気持ちですし、他人とは良心が前提の付き合いの中で生きているんだな、という危うさを見せつけられて、言いようのない恐怖感に襲われました。
巧は安易なIターン希望を責めてあんな行動を起こしたのでは無いとは思いますが…鹿の通り道であることの会話は、やはり重要だったと思います。
ラストシーンの高橋について、行きは巧に着いていくままだったけれど、実際にあの森(山?)はどのくらい広いんだろう…スマホが通じる感じもしないし…
過去に山の暗闇を経験したことがあったので、その恐怖が蘇りました。
起き上がることがあっても、自力で帰れるの…?
みんなその後どうなったの…
こんなこと滅多にないのですが、帰りの夜道も怖くなりました。
胸に刻まれたのは確か。
星はいくつ付けていいのかわかりません。
有名な役者さんは出てこない
『ドライブ・マイ・カー』の濱口竜介監督の作品。
ヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞(審査員賞)を受賞したんですよね。
映画の内容はというと、前半は長野県の自然の描写が多く、移動しながら木々を移す映像が多々あった。
正直、何も起こらない序盤は眠かった。
すると、田舎町にグランピング施設建設の話が持ち上がる。
有名な役者さんは出てこない。
それは好印象。
理由はなんのイメージも持たずに見れるし、テレビに出てない良い役者はたくさんいると思うし。
演技をしていない淡々と話す感じが現実に近くて良い。
棒というか、現実世界は役者じゃなければ、こんな話し方だと思うし。
映像描写は好きな感じ。
低予算映画の邦画のくくりでいうと、昨年見た『J005311』みたいにめっちゃ良いとは感じなかった。
共感しなかったということ。
今見ると『J005311』はココで熱くレビューしています。。
良かったら見てみて!
それと子役の女の子の顔がめっちゃ大人びていた。
そこが体に対してアンバランスで違和感を感じた。
そしていろいろあって、衝撃のラスト。
衝撃というか理解できなかった。
見る人が判断するという事なんだろうけど?が多いラスト。
特にあのチョークスリーパーは理解できなかった。
私は彼は死ななかったんじゃないかと思う。
最後に立ち上がったし。。
ここにグランピング施設を作ったら災いが起きるという事、
それを娘の死とともに人間の行いへの報いとして死で表したのだろうと私は考えた。
あくまで私のこじつけである。
昨年見た『怪物』のラストぐらいだと、こじつけなくても理解できたが、ここまでくると中々自分の中で消化できない。
悪は、グランピング施設を作ろうとしてる会社であり、金儲けを考える社長だろう。
でもタイトルは『悪は存在しない』だし。。
考えさせますねー。
起承転結しないというか、昔のフランス映画のようなラスト。。
ハリウッド系ばかり見てると、見慣れないエンディングだと思う。
単純なハッピーエンドじゃないエンディング。。
芸術性が高い映画という事なんだろうと思うけど。。
『ドライブ・マイ・カー』は特に違和感なく見れてた。
カンヌやアカデミー賞を取ったんで、自由に映画を撮りたかったのかなと思う。
単純な娯楽作品ではないので、ある程度の覚悟は必要かも。
木立のエンドロール
Evil Does Not Exist
長尺に描かれる辺境の日々の作業。そこに音楽はないが、頭に生活を植え付けられるよう。
(同様に)対比して、業者たちの人物像も長尺でしっかり描かれる。その後で背景が不明瞭なままなのは、むしろ住人たちの方だ。
車の後方映像、蕎麦屋の水汲み、それらは伏線回収として使われるだけ、本当に大切なのは幼稚園のお迎えの刻限。
失踪する命。お互いが権利を主張して、乾いた馴れ合いで腹を探り合っている間に。上流のやり取りが下流の足元を掬うように。
自然のことなら、既にもう皆が喰い合うようにして生きている。
失ったものに対して、その報復を受ける。そこに善悪は存在しない。
ベネチアで銀獅子賞ってことはゲージュツ映画かな?そしてあの結末。
OPで延々と見上げた森の映像を見せられた挙句に
主人公のおっさん、なんか台詞凄い棒読みですが大丈夫?
いきなり不安な幕開けの後は薪割りの長回しで
嫌な予感しかしないゲージュツ映画の匂いプンプン。
今度は特に状況説明なしに川で水を汲み車まで運ぶだけのシーン。
TVだったらこの時点でチャンネル変えてます。
前置きが長くてイライラさせる演出。
後に水汲みは蕎麦屋の拘りの水と判明しますがやはり不親切。
説明的台詞の多い邦画に慣れてしまった自分も悪いが。
さて一番の山場(?)グランピング施設開発業者の説明会。
このシーンが結構良くて監督の演出が入っていないのか
マジもん会議のライブ中継観ているみたいな感じ。
開発業者の男女2人の車内でのどうでも良い会話も妙なリアル感。
その後主人公のおっさんの娘が森で行方不明になり村人総出で
探す訳ですがここから結末が謎展開。開発業者のおっさんと
2人で探していたのに主人公が何の脈絡もなしにフルボッコ攻撃。
倒れたおっさん一度は起き上がるがまた倒れTHE END。
あれ?特に恨みないよね。それに色々問題解決していませんが?
観客に委ねる系のが苦手の人にはちょっとアレですが
意識高い映画ファンにはウケが良さそうなゲージュツ映画でした。
再見したらジワジワくるかもしれんが一週間限定だったので残念。
悪とくくる安易さ
自然を開拓して暮らしを営んできた町民と、利益優先のグランピング場建設を計画する都会人の明快な対立の中で、極めて理性的に振る舞う主人公。
町民と交渉しながらも、現状の生活に嫌気が差していた都会人一行は、主人公との交流を経て、田舎町での暮らしに感化されていく。
娘が行方不明となり、主人公の中に眠る独善的な思惑が、"自然"に実現する条件が整ったとき、それが実行されるお話。
ー
衝撃のラストについて個人的な感想。
異様なまでに娘の迎えの時間を忘れる、
娘の甘えより、環境を守る誓いのお絵描きを優先するといったあたりから、
主人公は妻なき今、心の底では娘を愛せていなかったのではないか?
と思いました。
自然の摂理によって起きた事故として、
娘を救わなかった目撃者を消し、
遭難の二次災害が起きてしまった悲劇として、
町民に語り継がれるように実行された。
娘が生還するか、都会の男が生還するか、
もしくは両者とも死ぬか。
それは自然の摂理に委ねた。
そんな独善的な行動の条件が整う瞬間を、
主人公は心のどこかで待ち続けていたのではないか。
そんな主人公の思惑がチラ見えしたときの、
ゾッっと感が忘れられない。
そこには主人公の抱える"弱さ"や"狡猾さ"、
自然を知り尽くした"賢さ"や"畏敬の念"もあるかもしれない。
それを単なる"悪意"とくくってしまうのは、
安易なのかもしれないと思いました。
最後はなんだったのだろうか
音楽良かった
棒読みのセリフの感じはとてもいい
最後のシーン
「鹿が人間を襲うのは手負の時」という前振りがあったので、あの鹿が花を襲った、ということ?
北欧の映画っぽい演出とストーリー
均衡(バランス)崩壊の行き着く先は!?
追加上映にて観賞。何となく「楽園」の佐藤浩市の話に似ているなと思いました。
ある芸能事務所が山の中にグランピングの施設を建てる計画を立てていることで住民と対立し、均衡が破れることによって起きる話ですね。
後半に巧の娘である花が行方不明になり、事態は急変します。巧は建設側の高橋という男と一緒に花を捜すことになります。
ラストに巧たちは、2頭の親子鹿の前に立っている花を発見しますが、おそらくこれは巧の見ている幻覚なのではないかと思います。
現実は花が倒れていて、鹿に襲われて死亡しているのではないかと思います。このラストの前に鹿の狩猟による銃声があり、撃たれた小鹿は死亡し、苛立っている親鹿が花を襲ったのかなと感じます。
つまり、あの親子鹿は巧親子を表しており、混乱した巧は高橋をスリーパー・ホールドにかけてしまったのかなと思います。
冒頭と最後に木々を見上げた風景が流れますが、人間が倒れないとその風景は見られませんので、やはり花の死を暗示しているのかなと思いました。
個人的な推測による感想になりましたが、劇中で真実を出していないため、いろいろな考察ができる面白い映画になったと思います。
追記 ラストシーンは、「だるまさんが転んだ」のシーンと同じ静止シーンになっています。小技が上手すぎです。
大自然の背景なのに、希望が見出せない明日を描いている
やっと先日「悪は存在しない」を観たわ。
皆さんは、
野生の鹿、イノシシ、猿、狐、狸、アライグマ、ハクビシン etc
遭ったこと在る?
猿ぐらいかなスグに逃げていかないのは。他は必死に逃げていく。
猿は人間と同じで状況を確認してから逃げる。
野生の鹿と遭遇して一度追いかけた事あるけど、もの凄い早さで走る。
ライフルで狙って撃つにも とても難しいだろうと感じたな。
それが野生の鹿である。
この映画ラストで 野生の鹿が出てきて、体にライフルで撃たれた跡があった。
巧の娘(花)の前に居るのだが 一目見てこれは嘘であると分かった。
脚本に沿った演出だからワザワザ用意しているのだろうけど、実際なら長時間そこに居ることは無いだろうし スグに去って行く。
況してや熊じゃ在るまいし 背丈の小さな娘を襲う理由も無い。
無理な展開流れで 何とか野生の鹿に襲われた事にしたいのであろうが
返って不自然さを残す羽目に感じる。
同時に、野生の鹿を刺激しないように? または 娘と鹿との対峙を邪魔しないように? 一緒に娘を探してくれて同行している高橋の首を背後から絞めて 口から泡を吹かせて気を失わせている。
この行為が最も理解しがたい。
巧の妻は理由不明だが亡くなっている。一人娘を育てているのだが心が病んでいる想定なのだろう。最後は親子二人で無理心中~ って展開なのだが 全く頂けないよ。ここに至るまでの説明が弱いと思う。
心中する場合 いつでも死ねる。場所もある。
なのに 何故高橋の居るときに、薫も居るときにするのか。
それは 自分達の最後を見届けて欲しい狙いなのかもだが
人の子の親(しかも残された子の親)が考える事では無いな。
残念だけど この流れは 0点だわ。
賞獲向けに仕込んだ罠に感じるけど、もっと素直に心の流れは描いた方が高評価と感じるよ。今作のセリフ調は大分良かったと感じた。前作の”ドライブ・マイ・カー”は酷かったもんね。
一番良かったのは、グランピング説明会での区長の話。
あの住人代表者でかつ年配者としての目線の話が一番心に刺さり、上手く表現説明出来ていたと感じます。
心ある言葉とは あの様な事を言うのだと思った次第です。
監督の更なる次回作に期待しております。
もっと多くの人に観てもらいたい
寝ても覚めてもやドライブマイカーを彷彿させるような演技で、濱口監督ならではの演出でとても魅力的でした。
最初のシーンや車を出発させるシーン、木々の間にぴったり人を配置してるシーンがとても印象的でどのように撮影が行われたのだろうと気になりました。
音楽も画にとても合っていて、リズムがぴったりで楽しく観ることができました。
この画や音の美しさをもっと多くの人に観てもらいたい!!
すべては、バランス
星5をつけたの久々か…
いや、たしかに終盤は「まさかここでエンドロールくる?きちゃったらどうしよう??」と慌てたところでほんとにエンドロールが来てしまい、一周回って気持ちよかった。それも終わり方のあまりの潔さに好感を持ったのと濱口竜介監督のテイストがそもそも私は好きだからというのが大きい。「なんだこりゃ」という人がいるのもわかる。でも好きなのだ。上手く理由が説明できない、自分にとっては久々にゾクッとするような美しい作品に出会えたなと。
見終わってすぐ他の人の考察読んじゃったけど。その人の考察がすごすぎて全て納得した。
まずこの作品は序盤からかなり人を選ぶと思う。かなり冗長な長回しが続く。私も思わずスクリーンを見ながら「今晩の夕飯何にしよう」と意識を飛ばすほどだ。でも嫌な感じがしないのは、映像美と石橋英子の贅沢な音楽のおかげ。私、ハッキリ言うと映画の中で「音楽」をかなり重視しているので、この音楽だけでも既に高得点…
濱口竜介監督の作品そこまで沢山見てるわけではないけど、緩急の付け方が心地よい。作品のテンポそのものが音楽のようだなと思う。私はその「バランス」がとても好きだ。そして終盤にかけて「バランス」が傾いていく、不穏に…
でもまさかここまでとは。面食らった。
花ちゃんの存在感もすごい。出番は決して多くないのに彼女の存在が作品テーマの根幹である気がする。
自然も人間も傷ついているのだ、ということだと思う。印象的なのは枝に付いた血。でもその前にもシカの死骸など直接的なイメージが出てくるし、奥さんの存在も既に他界しているだろうから、生よりも死を纏った映画だと思えた。だから最後の巧さんの行動も唐突であって唐突ではなかった。ずっと死は側にあった。
でも彼の行動に悪意はなかった、殺意もなかっただろう。最後首を絞められた彼は生き残った描写もあったし、死の淵に行ったのはあの親子だった。まさかグランピング施設建設からこんなテーマに飛ぶなんて思わなかったしもっともっと重くてしんどいテーマだった。でも途方もなく美しい映画だった。
難しい
映画館で見るのは監督作品はドライブマイカーに次いで二作目
後の作品はcsにて
前作とは違い 著名な俳優は出て無い
森の空を映す映像から始まる
監督は余り演技経験の無い人を上手く
していくのに長けた人かも
最後のアレは何を現すのかな
悪の存在は過程にある。そして、我々、地球人への警告?。
映画館で6月16日に観賞した。村人の問題意識の強さや的を得た論理的な批判的思考能力の高さには敬服した。「美味しい」「かわいい」「おもしろい」などの理由がつけられない語彙の連発に嫌気がさして嫌厭していたが、この映画によって、私の、特に最近の日本映画に対する認識が高まった。
この監督の作品を初めて観たが、この映画を観たいなあと思わなかった。日本語のクラスで学習者の二人が観てきてネタバレなしで他の学習者や私の質問に答えてくれた。予告編を見ただけで映画について意見を言い合ったり想像力も使って話しあうので外国語学習にぴったりだと思う。コンテンツから語学を学ぶことは学習動機をあげるし....
私はリニアと関連させて水の枯渇化や大自然破壊がテーマで「開発と自然保護のバランスや調和」がテーマだと思っていた。観賞後気づいたが、テーマは少しその方向である。クラスで学習者にリニア中央新幹線|JR東海のホームぺージと信濃毎日新聞に掲載されていた水の枯渇化の記事も入れて、送ったら、
ある学習者が:
新しいリニアにワクワクしてきたのですが、今は少し考え方が変わりました。谷崎潤一郎のアイデア(陰翳礼讃)を考えて、このニュース記事を読んだ後、リニアのJR広告へのリンクをクリックしました。そして自分の反応に驚きました。電車のイメージから、何か怪物を連想してしまったのです。谷崎の言葉を考えると、こんな速い電車が本当に必要なのか、と。(学習者のそのままのコメント)
以下はあくまでも私見で、この映画を一度だけ映画館で観てレビューを書いている。
テーマは バランスだと思う。大きなテーマは 悪は存在しないが、バランスが壊れる過程で悪は存在する。だから注意せよと「その過程に」警告を発していると思う。この英語題の表示の仕方で私はそう感じた。
Evil exists
Evil does exist
Evil does not exist
バランスを崩した(崩された)時に諸々の問題が発生する。例えば、主人公タクミ(大美賀均)の娘ハナ(西川玲)との親子関係。お母さんが生きていて?三人家族だった時は、この三人でバランスが取れていたかもしれない。母親の死で、このバランスが、壊れる前にどこかで気づきが生まれると、このような断絶的な父娘関係にならずにすんで、人間関係に変わっていったと思う。優秀そうでアスペルガー気味で人間社会で機能が果たしにくい主人公タクミ(何でも屋)と娘とのバランスを取っていたのがお母さんの存在だったと思う。娘は遊んでくれる友達もいなければ、(遊ぼうとしない様だ)愛情の表し方の知らない父親は自分の世界に入り込んでしまっている。娘との会話は木々についてで、学校であったことを聞くわけでもないし、甘えさせてもあげない。ハナは母親から受けた戯れたりする愛情をタクミはハナに与えることができないのではないかと思う。家庭での情緒教育や子供の心を育てるのは自然とのふれあいだけで人間との触れ合いが希少。これはネット社会のなかで育っている子供達にも言える。「歌を忘れたカナリヤ」になるなと、監督が警告しているのではないか?区長に鳥の羽をあげて喜ばれたのが彼女が受けた褒め言葉でもあり、注意をされた言葉でもある。「一人でいくな」と区長に言われた開拓を始めた土地に一人で羽集めに出かける。ハナはタクミのように、自然の恵みを持ち合わせていてサバイバルスキルがあるように見えるが、自然環境オタクの弱点はこのような人間性のバランスを持ち合わせていないからハナには機械のように接するだけ。例えば、実例だが、子供のころ情緒や感情の教育を受けていない人は人間の感情と現実とのバランスが悪い。しかしこれは悪ではない。この人が悪に染まるとしたら、他の要因が過程にあるはずだ。
人間は自然の中で、人間は自然とともに共存する。動物もそうである。そのバランスを壊すのは自然破壊や生態系を崩すことである。ここではグランピング(生まれて初めてこの言葉を聞いた)の会社の計画だ。森林生態系を崩していく(もちろん、水域生態系,土壌生態系)人間中心の自然の摂理を無視する行動や活動であり、ここではタクミは自然界の摂理を理解してバランスの乱れを恐れている。タケミも村の人々も自然環境の大切さを十分理解している。森林生態系を崩していくことは悪のようだが、誰かやどこかがこの恩恵を被っている。グランピングの成果から癒しが与えられる人も出てくるだろう。それに、経済も活性化するし多面的に見れば、悪ではないと思うし善悪の問題ではないと思う。悪が生まれるのはその過程の中に存在する行為であると思う。監督はその過程に警告を与えてるのだ。
最後のシーンもバランスが崩れた(崩した)いい例だと思う。
「野生の鹿は人を攻撃しない。 怖がりだから。 しかし、例外はある。 銃に当たって逃げる余力がなければ、人を攻撃することもできる」とタクミは言う。
タクミは鹿という自然の生態系の賜物に娘がどう対応するか確かめたかったように思えてならない。娘は父親のように帽子を脱いで尊敬の念を表している。それは自然の創造物の賜物である野生の動物と人間、ハナとの対峙である。娘と野生との突如の対峙を見守りたかったと思う。見たかったのかもしれない。ハナにはその野生と融合する素質があると思っていたとも思う。また、鹿とハナを見つけた瞬間、タクミにはハナを救い出す方法が考えられなかったとも思う。しかし、プレイモードの高橋啓介(小坂竜士)が叫び声を上げ、ハナと鹿のバランスを崩したと思う。それを(正当)防衛しようとしたのが、タクミであったと思う。
「ハッ」と気づいた時は娘は傷ついて倒れていた。タケミが「ハッ」と気づく時はいつも手遅れだ。
極論かもしれないが、娘を使うことで自然の賜物と人間である娘がバランスをとれたことが証拠になると思ったのではないか(不幸にも、そうは問屋がおろさなかったが)。娘が救われ、そのバランスを見たかったから、オレンジジャケットを身につけている高橋啓介の叫びを抑えた。でも、当てが外れた。またこの叫びに加え自然環境とアンバランスなジャケットの色はより鹿を獰猛にさせたのではないか。高橋啓介の自然の賜物に傍若無人なもの知らない態度が悪をもたらす結果になるが、高橋は自分の態度がバランスを崩したと気づいていないのだ。
地球は、社会はバランスを失っている。でも、それに気づいている人々はどのくらいるだろうか。リニア開発、アマゾン森林破壊、地球温暖化、次から次へ起こる戦争などなど数をあげたらキリがない。
SNS, そして、AI環境が人間の心の病気により拍車をかける。また、その心を失ないかけている人間が、不安定な状態で人間を育てる。 アンバランスになる訳である。
村の人はバカじゃありませんよという黛(渋谷采郁)の言葉がひかる。
我々の社会でAIの一億総白痴化はもうすぐそこにまできている
でも、私たちはバカじゃない
人間性を失いつつあるこの社会へ、地球への警告を監督が示していると思う。
我々が、人間として、または地球人として、批判的思考や問題意識をもって行動することが悪を存在させない一つの方法であると言っていると思える。
問題意識と批判的思考能力の強い村人のように自然と人間の調和を意識化に入れた啓蒙的思想を強めよと監督は我々にメッセージを与えていると思う。
似非自然主義
自然の中に溶け込むようにして暮らす親子を描きたかったのでしょうが、日夜山の中で暮らしているという設定にも関わらず、父娘ともども新品でピカピカの服を着ている時点で急速に冷めてしまいました。娘なんて眉まで綺麗に整えてますよね?全体的に山の中で暮らす父子家庭っぽさが皆無でした。傷ついた鹿に自分達を重ね合わせるようなエンディングへとつなげるのであれば、もう少し泥臭い生活感をにじませるべきではないでしょうか。本作ののテーマであるはずの人と自然との共生って、森の中を歩くシーンと、水汲み、薪割りぐらいにしか描かれていませんよね。
またグランピングに関する説明会のありようにも、違和感しか覚えません。説明された内容で行政が開発許可を出したのだとすれば、住民が責めるべきは許可権者である行政でしょう。合併浄化槽の位置や容量に問題があるのだとすれば、それで良しとした行政が悪いのは言うまでもありません。さらにそんな欠陥事業に補助金まで交付するというのであれば、どう考えても悪は行政側にあるわけです。ところが本作に登場する住民達はただひたすらに事業者のみを糾弾し、批判し続けます。ルールに則って開発を進めようとする事業者が悪しざまに言われる所以はありませんよね。この町に住む住民の中には、物事の道理を理解している人間は一人もいないのでしょうか。
他にも様々引っ掛かる部分ばかりが目立ち、個人的にはさっぱり楽しめませんでした。職業「便利屋」でお金には困っていないと言いつつ、具体的な仕事内容は水汲みぐらいしか描かれないし。その割にピカピカの新車のSUVを乗り回しているし。水汲みってずいぶん儲かる仕事なんですね。そこは使い古したジムニーとか軽トラで良かったんじゃないですかね?田舎暮らしや自然との付き合い方、行政の仕組みについてよく知らない人達が、頭の中に思い浮かんだそれっぽいイメージをよく調べもせずにただ並べて作り上げた映画、という印象です。エンターテインメントである以上フィクションが前提になるのは当然ですが、最低限のリアリティーは担保して欲しかったと思います。
徹頭徹尾、サスペンス
村上春樹の原作でもなく、西島秀俊が主演でもないとなると、ロードショー公開が広がらないのが、日本の映画界なんだなあ、とボンヤリ考えながら映画館に入る。
冒頭のシーン。コーエン兄弟の「ミラーズクロッシング」を思い出す。
森
残雪
少女の一人歩き
チェーンソウ
ナタ
薪割り
鹿撃ち
銃声
羽根
チェロ
都市と地方
不信感
不機嫌
曖昧で人任せな町内会長
無責任なコンサル
適当な社長
クソみたいな仕事に嫌気する社員
想像力の欠如
徹頭徹尾、サスペンスだ。それも途轍もなく強度が高い。
だから、寝なかったもんね。
配信が始まったなら、結末を先に知ってから見る人に、ぜひおすすめしたい良作です。
心理学でいう抑圧がテーマかなと。
主人公の「たくみ」は、リゾート開発に反対でも賛成でもなく、議論したいと主張していた。しかし本当は、誰よりも開発に怯えていたのでないだろか?彼の妻が不在に見えたのは妻を亡くしたからだろうか?そんな喪失体験の上に、自分の生活そのものを揺るがしかねない会社がやってきて、娘も大変な事態となって、最後には抱えきれない気持ちが暴発したように映った。そして実は、抑圧は主人公だけでなく、村で説明会を開いた二人の会社員にも内在していた。興味のない仕事、合ってない仕事なのに、本心を殺してでも仕事をしようとしている。唯一確かなのは、薪を割る、川の水を汲むという事実だけである。
こんな勝手な解釈をしつつ、『ハッピー・アワー(2015年)』で拝見した役者さん達と再会し、またこの映画も見返したくなりました。沁みる体験をありがとうございました。
観終わってから調べました
巧と花の坦々と過ごす生活にクランピングという新事業が乗り込んでくる。自然を壊しかねないそんな事業に猛反対するのかと思ったらそうでもない。
そんな中、花か行方不明にになり必死に探す。やっと見つけたが手負の鹿と対峙している。すると突然巧は高橋の首を絞めて気絶させてしまう。
倒れた花の生存を確認した巧は花を抱き抱えて走り出す。
唐突にエンドロール。
全く意味がわからない。
これについて言及しているサイトを読むと、あ。そうなんだとは思ったが誰かの解説を見なければわからない映画はどうなの?私は受け入れられないな。
自分的には『Evil does Exist』なエンディング
濱口竜介監督作。
今年の日本映画のベストワン候補となる傑作。
出だしから森の映像と重厚な弦の響きに圧倒される。映画の世界に誘われる。すぐに作品の中に入り込んだ。
自分的には音楽の存在が大きかった。
エモーショナルだった。
時々に感情を大きく揺さぶられた。
自然豊かな高原の町。
自然の中の生活。
知らないからこそ畏敬の念をもつ。
そこで暮らす人たちも遠い存在だ。
訳もなく羨ましいなんて思ったりして。
コロナの補助金を得るためにグランピング施設を作ろうとする芸能プロダクションの二人。村の人々の生活を壊しかねない心無い計画と対応に反吐が出たのも束の間。
二人が心情を語るシーンが秀逸だった。明らかに自分もそっち側の人間であることを思い知らされる。すべての悪の存在を否定してしまうような女性社員の言葉が凄かった。神がかっていた。
悪は存在しないと言うが如き。
そしてそれまでの全てを否定する厳しいエンディングに愕然とする。手負の鹿、主人公の唐突な暴行。
悪が噴出するが如く。
デヴィッド・リンチを思わずにはいられないシュールな展開に度肝を抜かれ、エンドロールで必死に鼓動を静めようとしたがダメだった。
そう、自分的には『Evil does Exist』なエンディングだったが果たして。これからいやというほど反芻することになる。
で、音楽。メインテーマは石橋英子さんなんかなぁ。ヴィスコンティ作品におけるマーラーのように絶対的だった。圧倒的だった。
半端な余韻が尾を引く
個人的に余り好きになれない作品が多い濱口作品ですが、、、
やはり映画好きとしては押さえておきたい映画として鑑賞しました。
観終わった率直な感想は、「中途半端で投げ出された感が凄い」です。
始まりは、ヒーリング映画っか、ってほど映像と音楽をゆっくり、ひたすら自然鑑賞させる展開。
ようやくグランピング開発の地元説明会で、目が覚めたように話が緊張感を持って動いていく!
ところが、前後脈絡も無く?突然の、娘と鹿との対峙及び気絶?死?、それを見て、巧がハッと表情を変えて、先程まで良い関係になりつつあった高橋への首絞め。
驚きと共にこれから、ストーリーがいかに進むのか、固唾を飲んで観ていると、何と、スタッフロールが流れて呆気なく終了。
その突然の終わり方。何か問題提起だけして、解決策や対処を途中で投げ捨てた感を強く感じた。
そう言えば、主人公の巧も地元出身者ではなく移住者で、どこそとなく都会よりと嘯く、そして、グランピング施設に対しても立ち位置が中途半端な印象にみえた。全体的に俯瞰して観ている。主人公も作風も傍観者のような、どこまでも中途半端、ニュートラル、受け身な作品。
さすがに、こんな説明も付かないラストを見せられたら色々考えた。例えば、鹿が怪我をして手負状態となり、罪の無い娘に襲い掛かり怪我をする→それを観て、グランピング施設ができた将来の姿の暗示と受け、その将来を阻止する為に首をしめたのか?とか。
巧と娘の花は、鹿の化身で、グランピング施設なんかやっぱり駄目だとか?笑笑。うーんメルヘン!
どう考えても、わからない映画でまぁ、消化不良な印象をひたすら尾を引きずる映画でした。
余韻が残る映画は、大好きですが、この映画で受ける余韻は、少し嫌な感じで困りました。この感じ方は、濱口監督の狙いなのかな?だとすると、やはり、濱口作品は相性が悪いです。
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