悪は存在しないのレビュー・感想・評価
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明確なテーマを伝えるシンプルな話
説明会のシーンで議論された、ろ過装置配置位置の問題。
そこで先生と呼ばれる方が諭した、
『上で起きたことは下が割を食う』という話こそこの作品のテーマでしょう。
グランピングを建てようとする芸能事務所の社長やコンサルが取り合わないから、
末端の社員が村民と向き合う羽目になる。
狩猟(趣味)を楽しむ人がいる反面、
傷を負わせた獲物を仕留めきれずに逃すから
山中で朽ちる獲物がうまれる。
※狩では傷を負わせた際、しっかり仕留める義務が生じます
霧の立ち込める野原で、娘は鹿と見間違えられたのでしょう。
よくある誤発事故です。
そこで死んだ子鹿を守ろうとする怒りの矛先が、
資本社会の末端にいたあの社員なのではないでしょうか。
解は存在しない
石橋英子という音楽家とのコラボレーションが本作の元になっているときいて、右脳で感じるべき感覚的な映画なのかなぁと“想像”しながら観たのだが、やはりこの濱口竜介がメガホンを握ると映画はどうしたって理屈っぽい左脳派作品に変わってしまう。長野県甲斐駒ヶ岳をのぞむ架空の村を舞台にした本作は、あらゆる意味における“境界”をテーマにしているらしい。
映画冒頭森の木々を下から見上げる長まわしの美しいショット。上からの真俯瞰ショットに見えるよう、空の部分を白くまるで雪原のように映し出しているのだ。村に持ち上がったグランピング建設計画の説明会で、浄化槽の設置場所が問題になる。下流一帯で湧水を利用している人々の生活に影響が出るというのだ。建設する側の芸能事務所職員が地域活性化のメリットを唱えると、区長の爺様は上流と下流のバランスが重要だと反論する。
じゃあ自然と都会、環境保護と地元経済活性化、上流と下流の“境界”はどこにあるのかを、濱口は我々に問いかけるのである。コロナ禍で大ダメージを受けた映画業界に対して政府が何の“補助金”を出さなかったことに対する不平も、本作の中で間接的に触れられているらしい。補助金のもらえる業界ともらえない業界の境界はどこにあるのか。さらにいうならば、補助金のもらえる映画とそうでない映画の境界について、濱口はおそらく観客に一考を促しているのだろう。
環境破壊と簡単にはいうけれど、本作に映し出される風景はけっして美しいものばかりではない。林道に横たわる小鹿の白骨死体、道路の脇に立ち並ぶ錆びだらけのバラック、異臭を放つ牛糞焼却場、グランピング設置に反対する住民だってもとを正せばみんな都会から移住してきたよそ者だ。営業担当2人も補助金目当ての建設計画には疑問を抱いており、根っからの悪人ではなさそうなのだ。
そのタウンミーティングでは綺麗事を並べていたタクミだって、家に帰れば娘のハナには「臭い」と足蹴にされるほど嫌われていたりするのだ。他人の目が届かないところでは人間(“だるまさん転んだ“”に興じる児童のごとく)何をしているか誰にも分からないのである。フロントガラスから見える水挽町の景色とリアワイドカメラの映像は、同じようにみえて実は全く異なった一面があることを監督は我々に伝えようとしているのではないか。
映画スタッフである素人役者に主人公の便利屋タクミを濱口が演じさせた理由も、プロとアマのちょうど中間を狙った計算づくのキャスティングであろう。どこまでが自然で、どこからが人工なのか。グランピングという双方いいとこ取りの中途半端な施設建設を中心にすえたシナリオも、決して“偶然”ではないのである。善と悪の境界が曖昧なように、ラスト濱口竜介は生と死の境界まで曖昧にぼかそうとする。冒頭シーンとリンクした暗い森は、上下のみならず360度すべての方向感覚を観客から奪い去ろうとしているかのようだ。人知の及ばない世界で確かな《解》を求めようとする我々の愚を笑いながら。
美しい映像と素敵な音楽は良かったけどストーリーが入って来なかった作品。 本年度ベスト級。
本作の監督の今まで観た作品が自分好みだったので鑑賞。
出だしの風景や音楽に期待値上がるも終わってみれば「?」の作品だった(笑)
長野県の自然に恵まれた町。
芸能事務所が補助金目当てでグランピング場の建設を計画。
町で説明会を行い町民からの不安を芸能事務所の高橋と黛が聞き、町民を納得させようとする展開。
本作はグランピング場がどうなるのか?
そんな作品だと思っていたけど全然違ってた(笑)
本作は会話を楽しむ作品って感じ。
高橋と黛の車内での会話が良かった。
過去に観た西島秀俊&三浦透子さんの車内での会話のシーンを思い出す。
過去作では車内でタバコを吸っていたのに本作ではタバコを吸わないシーンにニヤケる(笑)
終盤から予想の出来ない展開。
ラストの巧の行動が全くの謎。
観賞後、巧の行動を考えるも答えは出ず。
あそこは驚けば良いだけのシーンなのか?
気になるところ。
観賞後、ネタバレサイトを見てその理由に納得。
伏線を回収出来なかった自分が悔しい(笑)
うどん屋さんで食後に「体が暖まりました」って言うのは禁句だと言うことが勉強になりました( ´∀`)
人生ワースト1位かも
ゴダール気取りのタイトルから
始まって
既視感ありありのファーストショットからの5分で嫌な予感。
10分で映画館を出たくなり
うどん屋のシーンで1回だけ笑い
あの!ラストで怒り心頭に。
気取っていて
お客に気を使わせる
大仰なお芸術な映画、
凄まじくつまらなく
自分でも不思議なくらい
気に入らない。
高評価された方の
考察を拝読しても
何一つ全く共感できず…
監督のインタビューを読むと
尚更腹立たしく、
お好きな方すみません
この作品大嫌いです。
映像の構図とか巧みな表現が─
長い導入でしたけど、あの映像表現がこの作品を物語っていて、あれでかなり引き込まれた気がします。
この作品は映像で魅せていくのかなと思っていると、相変わらずの見事なスクリプトで相当笑わせてもらいました。
一筋縄では行かない問題を視点を変えながら語られていたので、こりゃあ話半ばで終わるなぁとは思ったけれど、予想外の帰結というか・・・何となくの雰囲気は醸し出してはいたけれど・・・正直そうならないでと思っていた終わりだったような・・・でも、あまりよく分かりませんでした。なので、あんな不明な感じならば、無理に劇的に終わらなくてもねぇー・・・なんて─
でもかなり楽しめました。
文句なし!観客に問いかける映画は素晴らしい!
文句なし!
濱口竜介監督作品はドライブ・マイ・カー、偶然と想像に続いて3作目だが今回の作品は一番好み。
明らかに今回の作品は作品を通じて、今の日本社会はこれでいいの?と観客に問いかけ、考えてもらう作品。そういう手できたかと唸らされた。
音楽の使い方も絶妙だし、緻密さを感じた。
ラストシーンは特に我々観客が問いかけられている気がした。
さすが、濱口監督。今年のベスト邦画作品候補にあげたい。
濱口竜介監督ファンの方はおすすめします。
最後?? 自然と作為がテーマかな。自然に圧倒させられた。 "バラン...
最後??
自然と作為がテーマかな。自然に圧倒させられた。
"バランスが大事""上で起こったことは必ず下に影響する"の台詞が印象的だった。
『ドライブ・マイ・カー』に続き耐久力を要しますが珍しいカメラの目線だったり単純に上映時間だったり比べたら見やすめ
トークショーのマニアックさよ😅
・主演、編集、撮影トークショー
善いか悪いかの映画ではないのかな
エンドロールを見終えてそんなふうに感じた。
ラストはよく分からなかったけど、私は悲しいなと思った。
反面、誰の立場だって一瞬で変わってしまう世界に自分も生きていて、そういうものだと分かって生きるなら
幾分かラクだなぁとも思った
侵略SFや怪奇映画のようでもある
自分のXがこの映画の褒め言葉で埋め尽くされてきたので早く見なければといそいそと観てきた。宮下町のBunkamuraはもとのBunkamuraより場内がデカいので笑い声も「偶然と想像」の時よりもデカく響いてたのが印象的。
そもそも石橋英子の音楽に映像をつける、ということから企画を出発できたのがラッキーだったのかもしれない。冒頭から神聖なる自然、謎多き親子、さらに正邪がよくわからない田舎の「寄せ集め」コミュニティと、そこに降って沸いた都会の芸能事務所が仕掛けるグランピング騒動。普通ならエゲツなく嫌味な都会人に対抗する善良な農民、みたいなことになるが、ここでは逆。都会からやってきた芸能プロチームが浅知恵でバカっぽくチャーミングで、逆に田舎の民に説得されてしまう。振り返ってもここまでは呪われた村的な侵略SFや怪奇映画でも見ているかなような居心地の悪い対話劇。
そして東京に戻って社長たちに叱咤され田舎に舞い戻ってくる意外にいい奴ら風の芸能事務所のふたりの車中会話がサービスパートなのかとも思えるような濱口監督の十八番のグルーブ感。ここはさすがという笑える展開なので、逆にここがこれだけに前後が不穏過ぎる。しかも結末も。。
ものすごく単純にみると、田舎をなめてやってきた都会人は田舎に住むストレンジャーズになめられ、しかしストレンジャーズもまた自分の住んでいる自然の奥のことなど何もわかっていない、ということで未知の終わりを迎える(正直よくわからないけど)
そして個人的に濱口竜介監督は面白いし、なんなら落語の名人みたいに面白いのだけど、Xでポストされてるような見たこととない褒め言葉が羅列するほどのものではないよなぁ、と正直思う。自分にとってはやっぱり黒沢清のほうが面白さは上な感じはある。
最後の巧の行動の意味は?
「悪は存在しない」という題名からは、「悪なき殺人」と「熊は、いない」を連想させられましたが、無口な父親と無邪気な娘が大自然の中を彷徨うという話の内容からは「葬送のカーネーション」を連想。「葬送のカーネーション」は祖父と孫娘の物語でしたが、本作の花を演じた西川玲と、同作の孫娘役のムサを演じたデミル・パルスジャンは、いずれも鼻筋が通って目もパッチリした眉目秀麗な顔立ちにしてロングヘア。また衣装も花は青のダウンジャケットと帽子、 ムサは赤のダウンジャケットと帽子を着けていて、色こそ違え色が強調されていたので、国が違っても似ている人はいるものだと感心したところでした。
いずれにしても、「悪なき殺人」、「熊は、いない」、「葬送のカーネーション」と同様の”外国映画の雰囲気”を漂わせていた本作。冒頭でも「Evil Does Not Exist」と英語の題名のみ表示されていて、外国映画そのものという感じ。日本を舞台にして日本人が演じているから日本映画というカテゴリーには入るけれども、そのまま舞台を外国に移しても何ら違和感がないような作品でした。
お話の内容としては、信州諏訪地域の山間部に位置すると思われる”水挽町”(架空の町のようです)に、東京の芸能事務所がコロナ補助金目当てにグランピング施設を建設する計画が持ち上がり、その施設の汚水が水源に流れ込むということが発覚して地元住民がざわつくというものでした。面白かったのは、コロナ禍という現実の大問題を背景に、政府や自治体の補助金目当てに企業がなりふり構わぬ生き残り策を模索し、さらにそんな企業をアドバイスすることでコンサル料を稼ぐコンサルタントの存在など、実社会の生臭い”大人の事情”が物語の土台になっているため、物語世界全体に非常に高いリアリティが与えられていたというところでした。
また、グランピング施設建設の地元説明会を主催した芸能事務所側の高橋と黛が、地元住民たちの意見を聞いていくうちに逆に説得されて行き、芸能事務所からしたら木乃伊取りが木乃伊になる展開もカタルシスを感じられました。
そして”伏線の回収”という部分でも、遠くから聞こえる鹿猟の銃声、主人公の巧が物忘れをしがちで、娘の花のお迎えを何度も忘れていること、野生の鹿は基本的に人を襲わないが、手負いの鹿は襲うかもしれないという話、好奇心旺盛な花が、学童保育所から一人で山中の道なき道を歩いて帰っていることなど、どんな結末になるか大方予想でき、その通りになった時は、安心感すら覚えました。
ところが、です。最後の最後の巧の行動は全くもって私の理解の範疇を超えており、いまだに合点がいっていません。自然と向き合って自然の中で暮らす巧のこと、大自然を相手にする時に最も合理的な方法があの”裸締め”だったのか?それとも親子の関係に他人を介在させたくなかったから取った行動なのか?はたまた善悪と関係なく、時に理不尽とも思えるような牙を向く大自然のメタファーとして巧を使ったのか?
もう一度観れば理解できるならもう一度観たいんですが、理解できる自信がないというのがホントのところです。
自然の息遣いを感じられる音響、森にいるのかと錯覚させられる映像から、都会人のエゴ、さらにはそれに疑問を感じ揺れ動く高橋や黛の心情、地方の観光開発による地元住民の生活への影響の考察など、非常に興味深い作品だっただけに、やはりあの謎のエンディングがウラメシイと感じるところでした。
そんな訳で、本作の評価は★4とします。
町の名前も場所も出て来ないけど
自然豊かな長野県水挽町で便利屋をする男と住人達、そしてそこに東京の芸能事務所がグランピング施設をつくろうとして巻き起こる話。
テロップが有る訳でも無いのにいつまでこれが続くの?なシーンで始まり、とにかく何も起こらず30分超まった〜り。
時々みせるBGMぶった切りのシーンチェンジは、どんな意図?
そして住民説明会になっていくけれど…浄化槽の先は浸透桝ってことですよね?
こういう事象に詳しくないけれど、この話しの流れだと行政はOK出してるんですよね?それなのにこの期に及んで行政トップの町長は何言ってんだ?そしてこの案件て住民説明会なんて必要なものなの?と色々と疑問が…。
そして終盤の一騒動、からの何がしたいのか全然わからない奇っ怪なラスト、なんだコレ?
主演の棒読みは朴訥とした雰囲気にも感じられそうだけれど、イマイチそういう性格っぽくも無いし、なんだか違和感のあるところが多かった。
そういえば、当たり前に浄化槽って言ってるけれど、都市部でしか生活したことない人は知らない人多いですよ。
(自分も少し前まで知らなかった)
衝撃だけが存在する
何、この終わり方。衝撃のあまり、息もできないし、思考も停止。
梢を眺めながら歩く。そんな風景がひたすら流れ、タイトルコール。続いて無言で湧水を汲み続ける男が映し出される。
ここで睡魔が訪れてもおかしくはないんだけど、不穏な空気が早くも漂い始め、これから起こることが気になってしまう。
平板とゆうか、棒読みにも感じる独特のセリフ回しが多用されている。例の読み合わせを引きずっているのか、監督の演出なのかはわからないが、妙な間が生み出され、緊張感が伝わってくる。
持続可能な開発、自然との共生がモチーフなんてことを思い浮かべていると、叩きのめされる。
そんな衝撃の作品でございます。
物言わぬ木々たちに感情はあるのだろうか?
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週末の渋谷の夜、濱口監督の新作を見る
冒頭から不穏な音楽とともに物言わぬ木々たちの姿がしつこく描かれる
セリフのない人物のアップとか薪割りのロング長回しとか突然途切れる場面転換とか意味ありげな老人の忠告とか…不穏なサインで知らず知らずに映画の世界に引き込んでいきながら、最後に理由もわからぬまま観客だけがその世界から置き去りにされる
そこにあった世界や人々はそもそも元からそこに存在したのかどうか、みんなどこから来てどこへ消えていってしまったのか、言いようのない不安だけが心に残る
見終わった後に放り出された夜の渋谷を行き交う人々…そのひとり一人の見知らぬ感情がなぜか心底恐ろしくなる
いろんな意味でメンタルにダメージが残る作品でした
(濱口ワールドを堪能したとも言えるのかも)
自分のスタイルを確立した稀有なる映像作家
いや〜面白かったなこの映画!
オリジナリティ溢れる語り口
私は濱口竜介監督のことを前作『偶然と想像』を観たあと"全身人間小説家"と勝手に名付けた、その異能をこの作品でも遺憾無く発揮。スクリーンから飛び出してくるリアルで魅力的な人物たちに時間を忘れてグイグイ引き摺り込まれて気付けばいつしか終映
こちらが頭を使わされる毎度のハラハラする展開のスリル感を堪能しました♪
いつもレビューはなかなか書けない、自分の中にゆっくりやってくる作品に関する回想と共に後からハッとしてジワるのも濱口映画の特徴かしらね
今時、こんなふうに自分のスタイルを確立してる映像作家は稀有な存在だと思います
取り急ぎの書き殴りでご無礼致しました
終わりが始まり?
開始後15分くらいジャンルも内容も分からなくて戸惑う。
途中からガラッと展開が変わって、なるほどこの為の表現だったのか、と前半の疑問が次々に回収される。物語のテーマが掴めてきたなと思った頃に突然鈍器で殴られたような衝撃的なラストシーンがきてまた迷子に…終映後しばらく呆然とするしかなかった…(エンドロール短っ)あれからずっと、あの4人のことをぐるぐると考えている…
とにかく撮り方が美しい。あの映像の艶やかさはなに?
そして音楽もひたすら魅力的。美しい旋律が感情を、思考を揺さぶる…
監督が伝えたいのは何なのか、観終わってからずっと考えてる。「悪は存在しないのだ」と思って観ていたけど、最後にはその思いが揺らぐ…
不思議と心地よい
観終わって「良かった」と思えた作品。
勿論、巧が高橋を絞め落とす場面なんかの最後の展開等…「?」と感じるトコが無い訳ではないですが、区長が語った「水は高い所から低い所へ…」の台詞から何故か不思議と腑に落ちました。
主要な人物にそれぞれ見せ場的な場面があるのも良かったです。
この作品を「水」に例えるなら序盤は「清流、軟水」、中盤は「畝り、硬水」、最後は「汚水」ですかね。
風景がとても綺麗なので殊更に最後の場面の「人の澱」が滑稽に見えました。
ただ…花ちゃんて何者なんでしょう?
映画本編、GIFT本編、GIFTのCD…何度も考えてみましたが、未だに判らない。
でも…花ちゃんがまた次の日も森の中を散策していてくれたら良いなと思いました。
人間の枠を越えて
2023年。濱口竜介監督。これすごい。長野の自然豊かな地域にグランピング建設計画が持ち上がる。元からの住民、自然に憧れて移動してきた移住者、計画を作った会社の担当者は、思わぬ形で交流・交渉を持つようになって変わっていく。ところが、人間たちの思惑を超えたところで、不穏な事態が進行しつつある、という話。
まず、「ハッピーアワー」出演者が次々と出てきて、それだけでまずうれしくなってしまう。久しぶりに顔見知りにあった感じ。それはさておき。
これはすごい。自然と共に生きる住民の静かな日常を丁寧に描いたかと思いきや、移住者の微妙な立ち位置や距離感を明確な陰影の元に描き、さらに、地域を脅かす計画の担当者たちの人間的な苦悩や変化をもユーモラスに描く。延々と薪を割る場面のような長いワンカットもあれば、切れ味鋭いカットバックもあり、林立する木々の間で動く人間たちを描く横移動もある。そのいずれもがすばらしいリズムと反復、そのなかでの差異を含んでいて、引き込まれます。なんと贅沢な映画体験なのだろう。
そしてなんといっても最終局面。人間たちがそれぞれに微妙に変化を遂げて和解ムードが醸成されつつあるなか、人間たちの安易な馴れ合いを赦さないとばかりにある事態が出来する。人間の枠を超えた出来事が起こることで、それまでのいきさつはすべて、たかだか人間の枠のなかでの相対的な軋轢と調整の世界であったことが明らかとなる。そこまで見ていた人間たちを驚愕と混沌のなかに置き去りにするラスト。おののくとはこのことか。なるほど確かにここにあるのは「悪」ではない。もはや名付けられない、人間を超えた何かである。すごい映画だ。
タイトルだけが今だに謎。
個人的にはテーマも含めシンプルで前作ドライブマイカーより好きです。自然と人間の接点と、その距離感の話かな。終わり方がちょっと見る人に放り投げた感じだけど、何かを押しつけるのを避けたんだと思う。
まあもう少し親切にしても良い気がするが、、誤射?銃声入ってたっけ?鹿に刺された?
なんでそんなに首絞める?
わからん、、、、。
車の中の会話とかうどん屋とか、関係者達の背景の掘り起こし方が自然で、しかも重要で濱口監督らしいと思いました。森の中を歩く絵もすきだな。
どれも押し付け感なく淡々と語られていきます。
有名どころがいないキャストや話の内容にもよるのかもだけれど今回は棒読み感気にならなかった。
優しくない・厳しくない自然
この作品をみるときに大事なのは、これがおそらく「大作と大作の間につくられた掌編」だということですね。『ドライブ・マイ・カー』と、来るべき名作との間をつなぐ習作なのです。
掌編なのだと分かったうえで見れば、すぐれた映画的完成は画面に満ち満ちています。自然と人間の世界はただ並立してるだけで、自然は人間にとって善でも悪でもない。自然がもたらす恵みも、津波や地震のような天災も、自然の一部としてただそこにあるだけだ、ということを画面全体で定着しています。
それを実現するために、この作品の監督は自然の暮らしでただ静かに生きる人、都会で暮らす人々の猥雑さ、それらに対して何を言うわけでもなくそこにある自然の姿、をていねいに組み立てています。見るべきはこの映画的達成です。
エンディングは様々に解釈しうるでしょうが、おそらく「互いに干渉しない、ただ並立しているだけ」の人間と自然の平和な共存関係が、あるところで破綻する可能性を描いているのかもしれません。
ウィキペディアにこの映画の項目が作られていて、全体に日本語版としては意外によくまとまっていて感心したのですが、ある時点で「あらすじ」にどこかの迷惑ユーザーがエンディングを加筆して、この接ぎ木された部分だけ文章はヘンだし要約は的外れだしで呆れました。〈画面そのものを正確に見る〉のが実はどれほど難しいか、このしたり顔のバカ加筆がすばらしいサンプルになっている。
映画はただまっすぐ画面を見るべきだという姿勢は、『ドライブ・マイ・カー』よりさらに深化されています。
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