「悪の存在は過程にある。そして、我々、地球人への警告?。」悪は存在しない Socialjusticeさんの映画レビュー(感想・評価)
悪の存在は過程にある。そして、我々、地球人への警告?。
映画館で6月16日に観賞した。村人の問題意識の強さや的を得た論理的な批判的思考能力の高さには敬服した。「美味しい」「かわいい」「おもしろい」などの理由がつけられない語彙の連発に嫌気がさして嫌厭していたが、この映画によって、私の、特に最近の日本映画に対する認識が高まった。
この監督の作品を初めて観たが、この映画を観たいなあと思わなかった。日本語のクラスで学習者の二人が観てきてネタバレなしで他の学習者や私の質問に答えてくれた。予告編を見ただけで映画について意見を言い合ったり想像力も使って話しあうので外国語学習にぴったりだと思う。コンテンツから語学を学ぶことは学習動機をあげるし....
私はリニアと関連させて水の枯渇化や大自然破壊がテーマで「開発と自然保護のバランスや調和」がテーマだと思っていた。観賞後気づいたが、テーマは少しその方向である。クラスで学習者にリニア中央新幹線|JR東海のホームぺージと信濃毎日新聞に掲載されていた水の枯渇化の記事も入れて、送ったら、
ある学習者が:
新しいリニアにワクワクしてきたのですが、今は少し考え方が変わりました。谷崎潤一郎のアイデア(陰翳礼讃)を考えて、このニュース記事を読んだ後、リニアのJR広告へのリンクをクリックしました。そして自分の反応に驚きました。電車のイメージから、何か怪物を連想してしまったのです。谷崎の言葉を考えると、こんな速い電車が本当に必要なのか、と。(学習者のそのままのコメント)
以下はあくまでも私見で、この映画を一度だけ映画館で観てレビューを書いている。
テーマは バランスだと思う。大きなテーマは 悪は存在しないが、バランスが壊れる過程で悪は存在する。だから注意せよと「その過程に」警告を発していると思う。この英語題の表示の仕方で私はそう感じた。
Evil exists
Evil does exist
Evil does not exist
バランスを崩した(崩された)時に諸々の問題が発生する。例えば、主人公タクミ(大美賀均)の娘ハナ(西川玲)との親子関係。お母さんが生きていて?三人家族だった時は、この三人でバランスが取れていたかもしれない。母親の死で、このバランスが、壊れる前にどこかで気づきが生まれると、このような断絶的な父娘関係にならずにすんで、人間関係に変わっていったと思う。優秀そうでアスペルガー気味で人間社会で機能が果たしにくい主人公タクミ(何でも屋)と娘とのバランスを取っていたのがお母さんの存在だったと思う。娘は遊んでくれる友達もいなければ、(遊ぼうとしない様だ)愛情の表し方の知らない父親は自分の世界に入り込んでしまっている。娘との会話は木々についてで、学校であったことを聞くわけでもないし、甘えさせてもあげない。ハナは母親から受けた戯れたりする愛情をタクミはハナに与えることができないのではないかと思う。家庭での情緒教育や子供の心を育てるのは自然とのふれあいだけで人間との触れ合いが希少。これはネット社会のなかで育っている子供達にも言える。「歌を忘れたカナリヤ」になるなと、監督が警告しているのではないか?区長に鳥の羽をあげて喜ばれたのが彼女が受けた褒め言葉でもあり、注意をされた言葉でもある。「一人でいくな」と区長に言われた開拓を始めた土地に一人で羽集めに出かける。ハナはタクミのように、自然の恵みを持ち合わせていてサバイバルスキルがあるように見えるが、自然環境オタクの弱点はこのような人間性のバランスを持ち合わせていないからハナには機械のように接するだけ。例えば、実例だが、子供のころ情緒や感情の教育を受けていない人は人間の感情と現実とのバランスが悪い。しかしこれは悪ではない。この人が悪に染まるとしたら、他の要因が過程にあるはずだ。
人間は自然の中で、人間は自然とともに共存する。動物もそうである。そのバランスを壊すのは自然破壊や生態系を崩すことである。ここではグランピング(生まれて初めてこの言葉を聞いた)の会社の計画だ。森林生態系を崩していく(もちろん、水域生態系,土壌生態系)人間中心の自然の摂理を無視する行動や活動であり、ここではタクミは自然界の摂理を理解してバランスの乱れを恐れている。タケミも村の人々も自然環境の大切さを十分理解している。森林生態系を崩していくことは悪のようだが、誰かやどこかがこの恩恵を被っている。グランピングの成果から癒しが与えられる人も出てくるだろう。それに、経済も活性化するし多面的に見れば、悪ではないと思うし善悪の問題ではないと思う。悪が生まれるのはその過程の中に存在する行為であると思う。監督はその過程に警告を与えてるのだ。
最後のシーンもバランスが崩れた(崩した)いい例だと思う。
「野生の鹿は人を攻撃しない。 怖がりだから。 しかし、例外はある。 銃に当たって逃げる余力がなければ、人を攻撃することもできる」とタクミは言う。
タクミは鹿という自然の生態系の賜物に娘がどう対応するか確かめたかったように思えてならない。娘は父親のように帽子を脱いで尊敬の念を表している。それは自然の創造物の賜物である野生の動物と人間、ハナとの対峙である。娘と野生との突如の対峙を見守りたかったと思う。見たかったのかもしれない。ハナにはその野生と融合する素質があると思っていたとも思う。また、鹿とハナを見つけた瞬間、タクミにはハナを救い出す方法が考えられなかったとも思う。しかし、プレイモードの高橋啓介(小坂竜士)が叫び声を上げ、ハナと鹿のバランスを崩したと思う。それを(正当)防衛しようとしたのが、タクミであったと思う。
「ハッ」と気づいた時は娘は傷ついて倒れていた。タケミが「ハッ」と気づく時はいつも手遅れだ。
極論かもしれないが、娘を使うことで自然の賜物と人間である娘がバランスをとれたことが証拠になると思ったのではないか(不幸にも、そうは問屋がおろさなかったが)。娘が救われ、そのバランスを見たかったから、オレンジジャケットを身につけている高橋啓介の叫びを抑えた。でも、当てが外れた。またこの叫びに加え自然環境とアンバランスなジャケットの色はより鹿を獰猛にさせたのではないか。高橋啓介の自然の賜物に傍若無人なもの知らない態度が悪をもたらす結果になるが、高橋は自分の態度がバランスを崩したと気づいていないのだ。
地球は、社会はバランスを失っている。でも、それに気づいている人々はどのくらいるだろうか。リニア開発、アマゾン森林破壊、地球温暖化、次から次へ起こる戦争などなど数をあげたらキリがない。
SNS, そして、AI環境が人間の心の病気により拍車をかける。また、その心を失ないかけている人間が、不安定な状態で人間を育てる。 アンバランスになる訳である。
村の人はバカじゃありませんよという黛(渋谷采郁)の言葉がひかる。
我々の社会でAIの一億総白痴化はもうすぐそこにまできている
でも、私たちはバカじゃない
人間性を失いつつあるこの社会へ、地球への警告を監督が示していると思う。
我々が、人間として、または地球人として、批判的思考や問題意識をもって行動することが悪を存在させない一つの方法であると言っていると思える。
問題意識と批判的思考能力の強い村人のように自然と人間の調和を意識化に入れた啓蒙的思想を強めよと監督は我々にメッセージを与えていると思う。