「大音楽家LBの音楽と夫婦愛を凝縮した傑作」マエストロ その音楽と愛と パングロスさんの映画レビュー(感想・評価)
大音楽家LBの音楽と夫婦愛を凝縮した傑作
※2023.12.24 Filmarksに投稿した記事です
再見した感想を文末に追記
《初見2023.12.8 イオン桂川》
レナード・バーンスタインは、「アメリカの」という限定抜きに20世紀後半を代表する作曲家兼指揮者にして音楽指導者であったが、本作は音楽家レニーの紹介映画としては不親切極まりない。
【以下ネタバレ注意】
例えば、アメリカ音楽史に欠かせないコープランドやクーセヴィツキーといったビッグネームも登場するのに、丁寧な説明はないから気づけた人の方が少数派だろう。(町山智浩氏は「父親がイヤな奴で」と話してたが父親は画面に登場しない。嫌味な小言を繰り返す師匠クーセヴィツキーのことを勘違いしたのではないか。)
ミュージカル界の巨星ジェローム・ロビンズも序盤そこそこの尺で出てくるが、愛称のジェリーで呼ばれているせいで、すぐにはわからなかった。
後半のヤマ場、マーラー「復活」の演奏シーンも曲名のクレジットなど出ないから、劇中で作曲シーンが印象的なレニーのミサ曲と混同しているレビュアーも少なくない始末ではある。
ただ、一見不親切な、そうした説明不足の小ネタの数々や、相当ひねったレニー自作曲によるBGMの使い方の面白さに気がつくと、実に含蓄の深い作品だと思えてくる。
(もちろん見過ごしたネタもきっと多いに違いない。)
なかでもいちばん感心した仕掛けが、終盤で最初はフェリシアによって発せられ(「復活」演奏シーンの直前)、2回目はレニーによって繰り返され本作を締めくくる ” Any questions? “ のセリフだ。
これ、エンドロールで心浮き立つ序曲が流される、レニー作曲のもう一つのミュージカルの傑作「キャンディード」の締めのセリフであり、それを引用しているのだ。
「キャンディード」は、ヴォルテールの原作による哲学的ピカレスクロマン(破天荒な冒険譚)。
ストーリーは支離滅裂で、しっちゃかめっちゃか(ゲイの人物も登場し重要な役割を果たしている。1956年初演にして驚くべき先進性!)。
だが、作品全体にわくわくするエネルギーが満ち、鑑賞後は多幸感に包まれる。
大団円では合唱が「僕らの畑を育てよう」と高らかに歌う(本作でも練習シーンが登場)。
「何か質問は?」と問いかける、あるいは「何か問題でも?」と開き直って見せるレニーその人も、破天荒な生き方を貫きながら新たな地平の開拓者たることをやめない。まさしくキャンディード流ピカレスクロマンの主人公だった、とクーパーは言いたかったのだろう。
《再見後の感想追記》2024.2.10
12.8劇場公開日に鑑賞し、拾いきれなかった情報をNetflixで確認して最初のレビューをFilmarksに投稿。
しかし、配信では、どうしても見方が細切れになってしまい作品の真価が味わえないことを痛感。
このため宝塚シネ・ピピアで再見した次第。
結果は、初見時よりも、一層密度の高い技巧を凝らした作品だとの感慨を深くした。
まず全体の構成だが、モノクロからカラーへ、1.33:1から1.85:1へのアスペクト比の変化から3部構成と見立てる説明が多い。
だが、物語の内容から見ると、下記のように、プロローグとエピローグ付きの5部構成と見たい。
プロローグ:冒頭のインタビュー
第1部:レニーの指揮者デビュー
第2部:レニーとフェリシアの出会いと蜜月
第3部:2人のいさかいと不和(別居?)
第4部:関係修復と闘病する妻への献身的愛
第5部:妻との死別後の教育活動
エピローグ:冒頭のインタビューへの回帰
こう見ると、第3部を折り返し点として、ちょうど前半と後半(内容で分けたので時間的長さは等しくないが)とで対照的に折り重なる構成になっていることがわかる。
(ちなみに、こうしたアーチ型の5章立て構成は、バーンスタインが得意としたマーラーの交響曲の第7番に典型的に見られ、「大地の歌」や未完の第10番にも受け継がれていることも、偶然ではないかもしれない。)
そして、本作のテーマが
「レニーとフェリシアの愛=出会い、葛藤、別離」
であることは、プロローグのインタビューのなかで、レニーが、
“ I miss her terribly. “
と、フェリシアを失った悲しみが強いことを述べて本編に入ることで明確に提示している。
小生は初見の投稿で、本編のキーワードがレニー自作の『キャンディード』から引用したと考えられる
“ Any questions ? “
であることを指摘した。
が、ここで、
“ I miss her terribly. “
というセリフについても同様に注目してみると、
まず本編第1部に入ってすぐ、カーネギーホールの屋根裏部屋で、電話でワルター病欠を知らされたレニーが、
“ Well, that’s terrible news ‥ “
と口癖なのか “ terrible “ と返している。
さらに、第3部の二人の不和から関係修復のきっかけとなるフェリシアのセリフが、
“ I miss him, that child of mine. “
と、彼女の方からレニーのことを失って恋しく思うと(死別後にレニーが言った同じ言葉で)告白しているのだ。
そして、そのあとが、かの
“ Any questions ? “
のセリフで締めくくられるのだから、あたかもシェークスピアの戯曲のように、キーワードによる呼応関係で見事に構成された台本だと感嘆せざるを得ない。
次に、レニーの同性愛についてだが、
本編第1部冒頭で屋根裏部屋のカーテンを開けるとベッドにデヴィッド・オッペンハイムが半裸の姿で現れ、一夜同衾していたことがわかる上に、ニューヨークフィルの指揮台に立てる喜びを、彼の尻をドラムよろしく叩いて表現することで明白に印象付ける。
おまけに、この部屋にはミュージカルの名振付師ジェローム・ロビンス、アメリカ発の大作曲家アーロン・コープランドらの著名人が出入りしている。調べれば、すぐにわかることだが、彼らも「ゲイ」である。
つまり、デビュー前から、レニーはニューヨークの「ゲイコミュニティ」の一員として芸能活動を始めたことが明示されている。
すでに、この部屋には、本作では終生のレニーのマネージャーとして登場するハリーの姿も見える。映画後半(第3部)に至っても、ハリーは、私生活でもレニーの至近にいて、若いレニー好みのハンサムボーイを付き人として斡旋したり(コカインパーティーにも加わったり)してフェリシアの不興を買う原因ともなっている。言うまでもなく、このハリー本人も「ゲイ」、ゲイコミュニティとの仲介役、いわばレニーのための女衒の役を買って出ているのだ。
フェリシアとの夫婦愛に満ちた介護と別離を見せたあとの第5部で、若い黒人の教え子とロックバーで身体を密着させて踊るレニーの姿に、嫌悪感や不快感を示す向きが多い。
しかし、全5部が対照的に構成されていることに注目すると、これはフェリシアと出会う前のレニーが耽っていたのと同様に、彼女の死後、彼の「地」である同性愛志向が健在であったことを示す意図があったと考えたい。
そもそも、フェリシアは、結婚前に、レニーからデヴィッドを紹介された折に、はっきりと彼が同性愛の相手であることを認識していた。
また、第2部後半のジェイミーにレニーが言い訳する前のフェリシアとの会話で、「自分が同性愛をやめられないこと」を了解した上で結婚したらしいことが示されている。
再見すると、2人の恋愛の主導権は、常にフェリシアの側にある。「4年も躊躇していた」レニーに対して、結婚を積極的に進めようとしたのは彼女の方なのだ。
つまり、彼女は、レニーの同性愛を重々承知の上で、さらにはそれを認めた上で、結婚を選択したのだ。
ならば、なぜ、2人は別居を選択するほどの「不和」となったのか。
これも、第2部後半で描写されている。
本稿では再々登場するレニーの傑作『キャンディード』の大団円の合唱 “ Make our garden grow “ の練習シーンで、レニーはスペイン語の歌詞の部分がフェリシアの発案だと明かす。それを聞くフェリシアは満更でもない笑みを浮かべるが、横から若い男性の助手が
「そんなセリフはヴォルテールの原作にない」
と指摘すると、途端に不快な表情に一変する。
その前のエド・サリヴァンショウで、レニーの業績を自慢げに語るところからも、フェリシアは、レニーの音楽家としての才能に惚れこみ、自分がその創作に関与していることに生きがいを見い出しているのだ。
この合唱練習シーンに続くのが、レニー畢生の大作『ミサ曲』の作曲及び初演のシーン。
この初演は、別の指揮者が行ったらしく、レニーはフェリシアと隣りあって客席で聴いている。ところが、曲がクライマックスを迎えたところで、レニーはあろうことか、彼女ではなく、逆隣の若い助手の手をグッと握りしめる。音楽がさらに高まるなか、フェリシアは、その様子に凍りつくような冷ややかな視線を投げかける。
そのあと、「LB」の刺繍のあるレニーのナイトスリッパ、枕、歯磨き一式を、フェリシアが廊下に投げ捨てるシーンが続く。
こう見ていくと、彼女が我慢ならなかったのは、レニーの同性愛そのものというより、彼の重要な創作活動において自分をないがしろにされたことだったと言えるのではないか。畢生の大作初演の喜びを、愛する妻であり終生の伴侶であるこの私とではなく、若いツバメと手を取って分かちあっている現場を臆面もなく見せつけられて「キレた」のである。
フェリシアと決別して、レニーの私生活は、姉のシャーリーが言うように「自分を見失い」、アバンチュールにコカインパーティーにとすさんでいく。
だが、上記した
“ I miss him, that child of mine. “
のセリフが彼女によって発せられたことからも明確だが、「折れた」のはフェリシアの方だったのだ。
以上、まとめると、本作の主題は、同性愛者であった若き天才音楽家レナード・バーンスタインがフェリシアという女性と本気の恋愛をして結婚、おしどり夫婦となり、一時期不和ともなるが、病に倒れた彼女に献身的な愛を注ぎ、死後も terribly 寂しく想うほど愛し抜いた物語、ということになる。
さて、技法面だが、とにかく情報量が多い。
「音楽家バーンスタインの伝記」を期待したのに、音楽活動はほとんど描かれていない、
というのが大半の下馬評のようだ。
しかし、BGMのすべてがオリジナル曲ではなく既成曲。それも、9割以上がレニーの自作曲か彼が指揮した演奏曲だ。
サントラ盤のセトリを見るだけで、レナード・バーンスタインの主要な作品群をほぼ網羅し、メルクマールとなる演奏曲も要領よく押さえていることがわかる。
本編冒頭シーンだけで、デヴィッド、ジェローム・ロビンス、アーロン・コープランド、ハリーが姿を見せ、会話のなかにはワルターやロジンスキーといった大物が出てくる。
初見レビューでも書いたが、ほとんどの視聴者は、これらの情報を初見では看取できないだろう。
冒頭シーンは、レニーの動線に従い、屋根裏部屋から、カーネギーホールの客席へ、ステージへ、そして満場の聴衆を前にしての「マンフレッド序曲」の演奏シーンへとシームレスにつながっていく。
いささかトリッキーだが、少しの無駄もない、相当の時間経過とさまざまな場面転換を一瞬のうちに見せる意図のもとに編集されている。
クーパーは、本作制作にあたって、夫婦愛に焦点をあてながら、同時に、音楽史の巨星たるLBの音楽と業績の全てを凝縮する形で見せようとしたのではないか。
初見では全て汲み取れなくても、再見を繰り返したり、視聴者が自主的に調べたりすることで感得できれば良い、と考えたのではないか。
そのため、再見することで、おのずと発見の要素は増え、スコアも上げたくなる。
やはり、傑作である。
※Filmarks 2023.12.24投稿記事に追加したものを一部省略して投稿した。
コメントありがとうございます! なるほどご連絡は下記のやりとりから来ているわけですね(笑)。忙しくて聴けていませんが、週末にはぜひ。(といっても両日出社のうえにN響のトリスタンがあるのですがw) 映画.comデビューした瞬間にたくさんの共感が殺到していてさすがです!
ありがとうございます。
聴けました。
石原まりさんのお話しとバーンスタインのおんがくも今朝聞けました。
やはりクラシックをクリックするとxクラシックと表示されてました。
バーンスタインのお人柄、パシフィック・ミュージツク・フェスティバルにも触れてましたし、マーラーのアダージェット、何回聴いても沁みますね。
現代的な作曲作品やJAZZアレンジも良かったです。
ありがとうございました。
お返事ありがとうございます。
早速らじるらじるのアプリを登録して探して観ました。
「かけるクラシック」は東京の方で放送みたいでした。
私の住む北海道は放送してなかったです。
残念です。
前かららじるらじるのアプリを入れたいと思っていましたので、
良かったです。
伊集院光の「100年ラジオ」を聞きました。
なんと字幕設定まで出来るのですね。
進化していて驚きました。
また失礼でなければ、コメントさせて下さいませ。
はじめまして
共感ありがとうございます。
博学博識に驚きました。
正直言って交響曲全般に浅い知識しかなくて、
ほとんどお話に付いていけません。
私は恥ずかしながら、音楽科でピアノを専攻しました。
が、しかし広く浅く音楽好き・・・なもんですから、
あんなレビューになりました。
読んで頂けたら光栄です。
同じ作品を何度も見返すと色々と見えてくるものも、気づかなかった事に気付く事もありますよね。それをちゃんと書き残されているのがたいしたものです。意外と出来ないものです。
業務連絡ありがとうございました!
観る気ゼロだったんですが、そういわれると俄然気になってきましたね……(笑) 妙な使い方ってなんだ??
先般、インバルの10番でクックの仕事がなかったらあの終楽章のFlの哭ける美メロは聴けなかったんだよなあと改めて感謝し、高関の5番で多少ミスっても全力でオケに熱狂的拍手を送るシティフィルの温かい聴衆に感激し、井上の好き放題やらかしてる3番で年甲斐もなくボロ泣きしました。いやあ、マーラーって本当にいいもんですね!(水野晴郎風)
早速にコメントと共感した!、ありがとうございました。
実は、小生、この『マエストロ』のレビューを投稿したくてFilmarksと映画.comに入会した新参者です(パングロスはキャンディードの恩師役の名前)。
さて、何か変だなと思って検索してみたら、ミサ曲は初演された1971年の音源がCD化されているのですね。もちろんレニー本人の指揮で。
となると、映画でレニーが初演を客席で聴いているというのは史実ではなくフィクション、「設定」だということになりそうですね。他の作中に出てくるレニーの作品の出し方も、かなり時制をいじくっているようですし、クーパー氏、実は「史実に忠実に」よりも主題を明らかにすらための構成の方を重視しているっぽいですね。なかなかの手だれ、侮れないですね(笑)。
さすがです! とても勉強になりました。フィルマークの猛者の方はやっぱりすごいですね。そういえば、コープランドの交響曲3番もよくレニーのCDで聴いていますが、ここまでマブダチ(というか「お尻愛」)だったとは認識してませんでしたw 本当に「ファンシー・フリー」を連弾した音源とかないんでしょうかね? そういや、前島秀国さんの評論を後から読んで、「復活」はクーパー自身が振った演奏をちゃんと同録してサントラに使ってると知り、感心しきり。このくらいの本気度で映画作ってくれると、ひしひし伝わってきますよね。