オッペンハイマーのレビュー・感想・評価
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凝縮された3時間
相対性理論の時間の観念について、素人ながらにどこかで聞き齧っただけのことをぼんやり思い出す。
これほどの人生を3時間に凝縮して、長く感じるわけがない。
映画は世界を変えられる?
描かれるのは教訓でもなく、道徳でもない。
かつて、様々な思惑があった。
純度が高かったり、そもそもは尊かったり、利に偏ったり、大義によりかかったり。
その集積で生まれてしまった、世界中が無関係ではないもの。
この天才主人公は観客の誰とも違うけれど、彼の苦悩は本当に他人事かい?
ただただ人間を描きだす表現が、かえって問いを突きつけてくる。
自分の無知を思い知る。観てよかった。
この男が世界を変えてしまった。
共産主義や反ナチの思想を抱えながら、原子力の研究に没頭したオッペンハイマーは原子力爆弾の開発に携わることで様々な思惑に晒されることとなる。
開発チームに入ることを躊躇うメンバーは、物理学の成果が兵器であっていいものかと吐露するが、それをもつ最初の者がナチスであってはいけないと言い説得するシーンからもこの時点では前向きな姿勢が強い。
実験の成功のために注力し続けるが、いざ兵器が完成してそれらが生み出す犠牲を実感する。
一時は戦争を終わらせた英雄とされるものの、過去に公の場で恨みを買った男に立場を追われる謀略を進められる。
結果的に謀略は不当と世間に知られることとなるも、ある種原爆を作った報いとも言える業を消化するにはとても長い時間がかかったことがラストシーンからもわかる。
アインシュタインとオッペンハイマーが池のほとりで会話するシーン。研究が世界に与える影響と受ける報いを理解した上で、全てを受け入れる。
開発中に計算上現れた大気の連鎖爆発、"ほぼ0"は実験により"0"とされたが、核ミサイルの乱発による世界滅亡というあまりにも大きい"ほぼ0"を生み出してしまった。
化学に善悪なし
勝利した側の論理でしかない
戦争の描き方は、勝った側と負けた側で異なってしまう。たとえ残虐なことをしていても、勝った側は勝つためには仕方なかったんだと言い訳めいたことをアピールする。原爆の父と呼ばれたオッペンハイマーを描いた本作。原爆投下を仕方なかったと言われてしまうのは少し受け入れがたい。日本での公開が延びてしまったのもある意味仕方ない。でも観てみると原爆投下を仕方なかったこととして礼賛している感じでもなかった(原爆開発の成功に湧くシーンや戦争勝利後のスピーチでの盛り上がりには引いてしまうけど)。
戦争に関わった科学者を描いた物語がたまに公開されるが共通しているのは、科学者は知的好奇心には勝てないということ。やはり本作もそうだったが、本作では科学者としての名声や嫉妬も絡まった物語となっていた。後半、法廷もののような展開になってからは俄然目が離せなくなったが、中盤までは動きが少なく観るのが意外としんどかった。時系列の転換も含めて、彼が追求されることになった流れが微妙に分かりづらい描写になっていたのが少し残念。
一方、女にだらしないとか、妻との関係とか、人間オッペンハイマーの実像はなかなか意外で面白い。原爆を開発してしまった彼の苦悩と、人柄を描いた物語としてはなかなかよかったと思う。たしかに開発した科学者ではなく、実際に使うことを決めた者こそ責められるべき。トルーマン大統領との会合で2人の立場の違いを見せたのはとても効果的だった。トルーマンめ!
原爆投下を扱う話を聞くと考えてしまうことがある。日本だから原爆を落とせたんだろうなと。オッペンハイマーがユダヤ人てあることを示すシーンもあったし。ナチスドイツに勝つためとはいえ、多くのユダヤ人を殺すことになってもドイツに原爆を落とせなかったんじゃないか。やはり複雑な感情を抱くことになった映画だった。
頻繁に入れ替わる時系列と登場人物の多さに置いてけぼりになる場面もあ...
長かった。
所詮日本人は蚊帳の外
オッペンハイマーはマンハッタン計画の責任者だったため有名だが、プルトニウム原子爆弾の圧縮起爆原理を創案し、最も原爆の完成に貢献し、共産主義の理想に忠義を示した故にソ連に情報を流してしまったドイツ人科学者クラウス·フックスのほうが苦難に満ちたヒューマンドラマにふさわしい人物だと思う。クラウス·フックス役のクリストファー·デナムはそっくりだった。しかし、最後のほうでちょっと出ただけ。丸眼鏡の顔も丸い色白の人。パンフレットには掲載なし。残念。
そりゃ、キリアン・マーフィはいい男だし、興行的にも見込める。おいらもキリアン・マーフィー目当てで観たもの。実際のオッペンハイマーもキリアン・マーフィーに負けず劣らずの色気があるいい男でキャスティングは申し分ない。オッペンハイマーの父親はユダヤ系ドイツ人。この話はアメリカ原子力委員会の私怨に絡む内輪揉めがメイン。しかも長い。
日本人はまったく蚊帳の外。ロスアナモス研究所はいまなお先端科学技術の要所で、多くのアメリカ人の誇り。原爆は肯定的にとらえられている。オッペンハイマーのみならず、携わった科学者は少しは人命を奪うことに良心の呵責を感じていたかもしれないが、映画のシーンにあるように成功した喜びの方がはるかに勝っていたにちがいないのだ。第二次世界大戦中に原子爆弾の開発に着手したアメリカがイギリスと協定を結び、ドイツからイギリスに亡命した科学者などをオッペンハイマーのロスアナモス研究所に送り込み、原子爆弾の開発を促進したことには触れずに、オッペンハイマーと不倫関係にあった共産党員の精神科医ジーン·タトロック役にすぐ脱いじゃうフローレンス·ピューを当て、まったりした話にエロ場面を入れ、眠くなるのを防いだ感が強い。
フローレンス·ピューの固太りの体は嫌いじゃないけどさ、こんなエリート不倫男の開発した大量殺戮兵器にやられたと思うと悔しさ倍増。
ドイツが降伏したから、日本に使ったなんて言い訳。開発はかなり前から着々と行われていて、1943年には日本に落とす目的で開発を急いでいたんだから。水爆を作る余裕もあったし。しかも、オッペンハイマーはユダヤ系ドイツ人で、ドイツを故郷と感じていた。彼もまた時代の被害者であったと思うが、映画としてはあまりにアメリカの正当化に寄与し過ぎではいないか? クリストファー·ノーランの観るものを混乱させる時系列のいじりも悪意に思えてくる。
ソ連への牽制が一番大事で日本はただの舞台だった。黄色人種での人体実験だったんだと思う。爆心からの距離や被曝線量と人体への影響が測り易い都市を選んでいたんだから。ロスアナモスはもともとネイティブアメリカンの居留地だし。朝鮮戦争やキューバ危機で核が使われなかったのはクラウス·フックスの機密漏洩によりソ連がアメリカに遅れをとらずに核兵器を実戦配備したため、冷戦下の均衡が保たれたためだと指摘する人も多い。割を喰ったのは日本人だけ。そして、瞬く間に中国が核を保有し、北朝鮮がロシア、中国の鉄砲玉になって、極東アジアの平和を脅かしている現実。この映画を観るためのお金があったら、赤十字やユニセフに寄付したほうがいいと思う💢それと、ロバートダウニーJr(ストローズ役)のアカデミー賞授賞式の振る舞いも嫌だよね。早く終映にしてほしい。
【追記】1200円もするパンフ買ってしまった。読んでもピンとこない内容だった。
NHKがアメリカのテレビ局が作成したマンハッタン計画を正当化するような内容の番組を独自の解説を添えることもなくタダ流しするのは怠慢過ぎると思うのである。
彼らはボタンを押した。多くの人は「優位と破滅は紙一重」と気がつかない。
ある程度は事実関係の知識は持ってたが
その程度のレベルじゃ追いつかなかった。
それでも3時間は長くは感じなかった。
できれば「ネタバレ」を気にせずに
全ての登場人物や内容を押さえておくこと。
それがこの映画を一番楽しめる方法だと思う。
ネタがバレてもカット割までは分かるまい。
全編に渡り監督は問いかける。
手にしてはいけないものの正体を。
権力者は優位に立つことが全てと思い
調査し、策略し、罠を仕掛ける。
「核爆弾」という兵器を作り上げ
名を上げ、金儲けをし、優位に立つが
それが破滅への道と気がつかない。
学者は常に新しいものに挑戦する。
没頭し、探って探って探りまくる。
敵国と競う様にソレを作り上げ
ソレが完成した途端、恐れを感じる
オッペンハイマーの気付きと
アインシュタインの顔が全て。
彼の描いた、とある破滅のシーンは
今ある核を使えば簡単に現実化する。
※
指導者の機嫌で核が使われそうになってる今このとき、「後ろ向き」の人類を思い知る映画
結局人類の多くは後ろ向きに歩いているのではなかろうか。
と言う意味ではなかったんだろうけど→TENET。
事前情報何も入れずに見に行った。
マット・デイモン?マット・デイモン?マット……デイモン!
あらまー。
フレディ(マーキュリー)やった人しかわからなかった。
ミスター・ロレンスなんてわかるわきゃないでしょ。
トルーマン、一瞬ゲイリー・オールドマンが中の人?と思ったがそんなことはなかった、と思ったらやっぱ本人だった!遠視のメガネ効果。
ほんの数分あるかないかのカットのためにとんでもない予算が投入されている。
が、IMAX専用カメラ史上最も狭い部屋(推測)は予算削減のために組んだんじゃないよね?
そして現物主義の監督がモノホンを爆発させてたりしないよね?
するわきゃないとはいえ、現物を落っことされた我々からしてみると「それじゃスケール感が伝わらない」「ショボい」と思えてしまう映像だった。
音響はエグい。
「わー!すご〜い!」というより「うわぁぁあぁ」という感じ。
音に過敏な方々は注意が必要。
東京大空襲で10万人死んだ、という情報の提示は予期していなかった。
広島と長崎が風化しそうで、日本人ですら現在の港区青山あたりも焼け野原、ってのを知らない人が増え続けてる状況でこの情報はアメリカ映画の脚本として何を意味しただろう。
「この世界の片隅に」がまことに日本らしい日本側視点としたら、オッペンハイマーはまことにアメリカらしいアメリカ側だったのかもしれない。
ケネディ情報はダサい蛇足だと思った。
功罪を冷静に観れるか?
科学者の視点で描かれる、研究・発明の苦悩と葛藤。
小さい頃に近所で企画され、親の手を握りしめて見た原爆写真展。そして修学旅行の広島・原爆ドームで改めて実感・体感した悲劇の記憶。幼い時に受けた、あの衝撃的な日本の描写は本作には無い。
だがロスアラモスで行われた『マンハッタン計画(トリニティ実験)』、この実験で起こる事と頭の中にあるイメージが重なる瞬間。まさに息を呑むと言った表現がピッタリ合う。そして数十秒後、思い出したかの様に遅延して襲い掛かってくる現実。
原爆開発の他国間競争、そして時間との戦い。開発している科学者達とは別のベクトルで進んでいく、戦争という誰にも止められない国の暴走。
キリアン・マーフィー演じるオッペンハイマーの乏しい表情は、本人もきっとそうだったと何の疑いもなく受け入れてしまう程のハマり役だった。
本作で広島や長崎への投下描写が無かったのも、オッペンハイマーの視点からすれば納得。それでもほんの一瞬、あの酔っぱらいの嘔吐までの数シーンの描写をオッペンハイマーに絡めて入れてくれたノーラン監督に感謝。人間の想像力を最大限に活用して、あとは個々人に任せてくれた。
そして圧倒的な演技力で本作の主演を奪う程の勢いだったロバート・ダウニー・Jr.演じるストローズ。本作を観るまで知らなかった人物だったが、2つの伏線に見事にやられた。
"赤狩り"や"共産党"の予備知識だけは、鑑賞前に必要かも知れない。
何が良くて、何が悪いのか。何処に所属するとどうなるのか。この時代だからこその歴史背景がわかると、オッペンハイマーが翻弄されてしまった意味もある程度は理解出来ると思う。
(という自分も一回の鑑賞だけでは全く理解しきれませんでした(笑))
日本人の根底にある原爆被害国という意識は一旦横に置いておいて、科学者という1人の人間が戦争に翻弄される人生を擬似体験する3時間。新たな視点で原爆を考えさせられた素晴らしい作品。
ノーラン監督お得意の時間軸、カラーとモノクロで複雑に絡み合うが、絶妙な脚本で混乱一歩手前ギリギリで楽しませてくれた。何度も観たくなる傑作。
恐ろしい作品でした。
決して投下肯定作品ではなかったし、氏を美化もしてない。ノーランを信じててよかったという部分と、いや原爆の悲惨さはこんなものじゃない…という気持ちとで心がぐちゃぐちゃに。映画として素晴らしかったのは間違いない。投下のタイミングからは涙止まらず。投下の報告でこんなに泣くとは自分でも驚きでした。わたしも親も戦後生まれ、身内にも被爆者はいません。それでも、まぎれもなくわたしは被爆国に生まれたひとりなんだと思った。
「広島・長崎」と誰かの口から出るたびに胸がえぐられる思い。2度とこんなことで(攻撃目標として)日本の地名が出ることがないように心から願う。直接凄惨な被害を描かないからこそ「彼ら」にとっては開発のある時点、軍事作戦のある時点に原爆投下があったにすぎないのだ、そして「敵国」へのその成功を熱狂的に賞賛する人々…それらが逆説的に原爆や戦争の恐ろしさをかえって増す。…が、「直接的に描かないことで恐ろしさや重大さが伝わる」のは被爆国のわたしたちだからかも…?この描写で米国や非被爆国の人たちに恐ろしさが伝わるか…はわからないな。実写にこだわるノーランだけど、実験爆破シーンはCGを使った方が良かった気もする。あんなものじゃないと思うで。
原爆を落とす都市、日時、爆破高度までを、落とされる側と同じ「人間」が決める、という究極の傲慢さと恐ろしさに身震いした。そんな権利、世界中の誰にもないのに。「目を背けた」オッペンハイマーの一瞬の描写。死傷者の数。壮大な「過ち」「愚かさ」を描いた作品でもあると思う。
ただ、戦後の部分が少し長いようにも感じたのと、フローレンス・ピュー氏が胸をさらす必要があったかな?というのは気になりました。これは他の作品でも感じることで、エロスやヌードをテーマにしている作品以外で、女性のバストトップをさらす必要性があるのか、最近はいつも思っています。オッペンハイマーの生々しい人間的な部分を描写したかったのかもだけど、それなら別に裸の背中を映す、とかでも充分伝わるだろうと思うので。
見終わったらシワシワ
割と人間ドラマだよと聞いていたがそんなことなかった。ちゃんとプロメテウス的世界を描いていたと思う。映像と主題とが、時間を操作したがるノーランの作家性と(ようやく)うまく一致したのではないか。/キリアン・マーフィもRDJもよかった。RDJに至っては、あとから「あれか!」となる始末。/善悪なんてそう簡単にはわからないこと、未来は予測可能か・コントロール可能か、ということを通して人間というもののダメさと限界を突きつけられ、それは当然こちらに残された宿題になるので、見終わったらシワシワである。
(2024.4.2追記)原爆の惨状を描いてないという批判もあり、そうかもしれないが、それを直接描かなかったのに、原爆なんかにそうそう手を出すもんじゃねえ、と思わせたのがこの映画の凄みではないか。
(2024.4.23追記)原爆の被害の惨状に関する描写についてしつこく考えていて、アジアへの軽視みたいなことも考えたんだけど、それでいうと『バービー』の方がそれを感じたんだよなあ。先のアカデミー賞受賞式でも話題に上がっていた、“そもそも視界に入ってない”みたいな意味で。
うーん、これはさすがに無理があるなぁ。
ノーラン監督の作品はこれまで
なぜか食指が動かず本作が初。
感想を一言でいえば、寅さんの名台詞
「てめぇさしずめインテリだな」
’
わかりにくさは予習を相当したので
クリア。
映画は、天才科学者の光と闇にスポットを当て
時代が変われば世間の評価がガラリと
変わること、核の虚しさ、無意味さ、
「一人を殺せば殺人だが、百万人を殺せば
英雄である」の怖ろしさを描こうと
しているのだと思う。
’
だからゆえ、なるべく社会や政治的背景を
省き、オッペンハイマーに寄せたのも
理解はできる。
後半は、サリエリとモーツァルトを彷彿と
させる対比も有りだろう。
’
けれどことは原子爆弾だ。
政治的駆け引きの中ですべて行われた大惨事、愚行を
天才の内省だけで追いかけるのは、やはり片落ち
だろう。
’
せめてパート1,2と分けてもっと歴史も含め
綿密に描いて欲しかったなぁ。
’
ノーラン監督の目的はただ一つ 単なる一時の娯楽として映画を観に来ただけの大衆に、核兵器使用の恐ろしさについて強制的に自分の頭で考えさせることだったのです
オッペンハイマー
2023年7月米国公開
被爆国の日本では2024年3月公開と8ヶ月遅れたのはご存知の通り
その理由もここのレビューでも渦巻く被爆国としての特別で複雑な感情があるからです
広島長崎への原爆投下を描いていない
その被爆の惨状を描いていない
その後も続く原爆症も描かれていない
これに尽きるかと思います
本作への激烈な反発が日本中で沸騰するかも知れない
もしかしたら日本の上映館や配給会社へも抗議が殺到するかも知れない
下手をすると不測の事態も起きかねない
そう考えだすとなかなか日本公開の決断をするのは勇気がいったはずと思います
結局、アカデミー賞を総ナメするほどの海外での高い評価が後押しになり公開されたのもご存知の通り
日本公開から3ヶ月経ちました
日本での反応は予想通りのものでした
しかし、とても冷静な受け止め方で心配されたような事態は何も起こりませんでした
自分も早々に観に行きました
でもなかなかレビューする気になれませんでした
なにかモヤモヤする
それが言葉に纏まらないのです
結局、皆さんと同じなのかも知れません
先に挙げたことが引っかかっているだと思います
でも違う
実はノーラン監督に見事にはめられているのではないか?
それもこれも全部ノーラン監督の思う壺だったのではないのか?
私達はノーラン監督の計算通りの反応を示していただけではないのか?
やっとそこに思い至りレビューを書く気になりました
ノーラン節というものがあります
それが何かと説明せよとなるとこれは難しい
でも確かにノーラン節というものはあるのです
本作に於いてもあります
例えば時系列を複雑にして構成するというノーラン監督作品の特徴は本作でも踏襲されています
何故、そのようなことを毎作やるのか?
何故、複雑に時系列の操作をやるのか?
何故、誰もがすぐに理解できる平易な時系列の構成にしないのか?
そこに答えがあると思います
時系列が複雑になると私達観客は考えなくてはなりません
そんなに難しい作業ではないのですが
これがこうなってこういうことなのかという頭の回転が常に上映時間の間ずっと続くのです
するとどうなるのか?
普通の時系列であると、上映中の間私達は実はなにも考えていないで観ているのです
単に筋だけを追って、エンドマークがでたら、「あーおもしろかった」か「まあまあだな」とかのただの表面的な感想だけが残るのみなのです
それをノーラン監督は嫌っているのだと思います
強制的にでも私達観客に映画の内容について考えさせようとしているのだと思うのです
複雑な時系列を、観客の頭の中でそれぞれが自分に理解できる形に再構成しなおす作業をさせ続けると、観客は作品のテーマやメッセージについても否応なしに考えざるを得なくなるのです
それが監督の主張するところと同じものになるかも知れませんし、監督の狙い通りのものではなく観客の独自の考えになるかも知れない
いずれにしてもノーラン監督の作品を観て、その作品のテーマについて自分の考えがまとまって行くのです
すると自分の頭で考えたことは自然と人に話たくなるものです
映画館の帰り道のカフェや居酒屋やバーで、あるいはSNSでべらべらと作品について自分はこう考えると語りだすのです
その内容は俳優がどうだったとか、映像が綺麗だったとか、音楽が良かったとかそんなことではなく作品の主張するテーマやメッセージに対して自分はこう思ったというものになっているのです
それこそがノーラン監督の狙いであって、それこそがノーラン節と呼ばれる物の正体なのだと思います
ノーラン監督は本作を原爆をテーマに映画を撮るにあたり、21世紀に於ける核戦争の危機を全世界の観客に通り一辺の核戦争反対の映画を観せることでは不十分だと考えていたと思います
観客それぞれに、原爆について自分の頭で考えさせたかったのだと思うのです
それ故に敢えて広島長崎の原爆投下シーンをみせなかったのだ思います
原爆投下シーンと被爆の惨状
それは普通の監督ならそれを映画のクライマックスにしようとしたはずです
観客もそれを期待して観に来ることでしょう
しかしそれをわざと見せないことで観客自身に想像するように仕向けたのです
原爆が実際に都市に使われたときどうなってしまうのか?
核の炎の下に何十万人の人間が暮らしていたならどんな地獄になったであろうか
観客自らの頭で考えさせようとしたのです
原爆投下は広島長崎だけに起きたことではなく、これから世界のどこの都市にでも起き得ることなのだ、つまり自分の住んでいるところのことなのだと考えさたかったのだと思うのです
だから原爆投下のシーンの代わりに、ドイツ軍のV2号ロケットが米軍の重爆撃機のはるか上空を何発も夜空を高速で通り過ぎて海を越えてロンドンに向かうシーンがあるのだと思います
あのミサイルの弾頭にもしも原爆が仕込まれていたなら?
いやそれは現代では普通のことなのだ
そう観客に考えるようにした思考の補助線のシーンであったと思います
何発もの原爆が自分住むの都市に雨のように降り注ぐのだと想像できるように
いつも通り複雑な時系列でなぜそうなったのかを観客に主体的に考えさせる
さらに原爆投下と被爆の惨状を敢えて見せない
その事で観客をフラストレーションに陥れる
仕方なく観客は自分自身でそれがどんな映像になるのかを想像する他なくなるのです
そうすることで観客は原爆投下について、核兵器の使用について、個々人、人それぞれなりに様々に考えだすのです
そして映画を観終わったあとその各自の考えを友人や家族にベラベラと話だすのです
SNSに書き込むのです
原爆=核兵器の恐ろしさ
その使用がどんなに恐ろしいことなのか
そのような考えが観客の何倍にも広がるだろう
ひいては世界中人々の考えとなることにまで持っていきたい
それがノーラン監督の本作での最大の目的だったのでないでしょうか
ノーラン監督のその目論見は計算通りに成功したのです
観客は自らの頭で考えたかのように口々に、原爆投下の凄まじい被害を描いていない!と言いはじめたのです
被爆の実態から目を背けている!
実はノーラン監督がそう観客に批判を言わせるように仕組んでいたのも知らずに
ノーラン監督の目的はただ一つ
単なる一時の娯楽として映画を観に来ただけの大衆に、核兵器使用の恐ろしさについて強制的に自分の頭で考えさせることだったのです
世界中の観客がまんまとそれにのせられていたと思うのです
その結果がアカデミー賞総ナメということになりました
つまりノーラン監督の目論見は大成功したのです
観客一人一人に自主的に考えさせることに成功したのです
だだひとつ問題は、そんなことをしなくても日本人だけはそれを考えることができるということです
しかしノーラン監督はそれをわかっていたと思います
それでもお気楽に本作を一時の娯楽として観にくるであろう世界の大多数の大衆に考えさせることを優先したのだと思うのです
広島長崎への原爆投下を描いていない
その被爆の惨状を描いていない
その後も続く原爆症も描かれていない
私達がそう思い本作を批判するのは当然なのです
私達日本人は原爆=核兵器を使用することの絶対禁忌をわかっているからです
しかし、米国やそのほかの世界の国々の人々が被爆国の日本と同じわけではないのです
彼らにどれほど重大なことなのか
それを自らの頭で考えて貰うためにあえてこのように撮られていたのです
2020年の前作TENETでは、ノーラン監督は歴史の逆行を阻止しなければならないと、私達観客に考えることを要求しました
そして本作ではノーラン監督は、核戦争の阻止を訴えているのです
ウクライナ戦争で、プーチンは核恫喝を実際に行いました
戦闘機に核爆弾を外部から見えるように搭載して欧州に向けて飛行させたのです
そしてつい最近では、核兵器の使用訓練を実際に行ったのです
そのことを単に非難する映画を撮ったところでそれは反ロシアのプロパガンダ映画だと言われるだけです
世界中の人々が自らの頭で考えた結果、そんなことを絶対に許さないという考えを持つこと
それが本作の目的だったのです
昨年、広島に旅行して、原爆ドームと平和記念資料館にいきました
平和公園の原爆死没者慰霊碑には「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」と刻まれています
誰が?
それは世界中の人々がそう思わなければ達成できません
本作をみて、何かを考えること
それが過ちを繰り返さないことの努力の一つであることには間違いないと自分は思います
アカデミー賞を総ナメにするのは当然だと思います
原爆開発者の苦悩の軌跡が見事に描かれている!
最初の核爆発の轟音と振動に、肺腑をえぐられるような恐怖感を味わいました。それは水爆の中から生まれてきた山崎監督のゴジラの咆哮と同じように聞くものを揺さぶり、恐怖に落とし入れる感覚に不思議な一致を感じました。アメリカ側から見た第二次世界大戦の終結を急ぐために、降伏を拒む日本軍部の頭を切り替えさせるために原爆を落としたという理屈を聞くと、とても悲しい気がしました。アメリカ人は当時広島、長崎への原爆投下されたばかりの頃、正義の鉄槌を日本に加えたと捉え、熱狂的にオッペンハイマーの実績をたたえていますから、戦争の正義ほど無意味なものはないということが、身に染みてわかります。アメリカは日本とドイツに原爆を落としたかったそうですが、ヒットラーの自殺でドイツでは起きませんでした。そんなふうにして歴史を俯瞰してると、広島と長崎の不幸が軽んじられるような気がしてならないのは私だけでしょうか。人類が犯してはならない原爆の使用は、この映画を見ている限りは、当時のアメリカの大統領の心の中にサタンが居たとしか思えません。むしろオッペンハイマーは、原爆を開発する使命を帯びて、この世に生まれてきただけで、それを忠実に実行したにすぎないと私は思います。この宇宙には善も悪もありません。ただ川の流れのように、歴史はあるがままに進んでいきます。誰もそれを阻止することができないものかもしれません。ただ、3次元の世界では、物理学300年の歴史が核兵器を誕生させたというのが否定できない事実なのです。それを担ったオッペンハイマーは幸せだったのか不幸だったのか。そのことを一人ひとりに考えることを促す名作だと思います。そして付け加えれば、日本の立場から描かれる原爆を描いた映画の上梓を切に望みたい。
もっと分かりやすく、短くはならなかったのか
予備知識を蓄えてから見に行こう
不思議な映画でした。正直にいうと、あんまり響いてこなかったです。
退屈はしなかったし面白くないとは微塵も思わないし、むしろとてもスリリングで長尺も感じることなく、やや前のめりで観られたのですがノーラン映画特有の時間軸の入り乱れ方が正直不要なものに思えました。
演出もあまりにも大仰すぎてオッペンハイマーに感情移入できる映画にはなっておらず、もっと客観的に社会的な出来事と、自分がやるべき仕事と、自分の周辺の人間関係をどういう意図で選び、進んでいったのか、その原動力やその根底にある思考をもっと知りたかったし、理解したかったです。
原爆描写うんぬんとは全く違うポイントで、ここ数作のノーラン映画に気持ちが乗らない自分を感じています。
時系列の操作など、ノーラン的映画手法に満ちていることを理解したうえで鑑賞したい一作
原爆開発の中心人物として著名なロバート・オッペンハイマーの、原爆開発前後の動向を描いた作品です。
しかしクリストファー・ノーラン監督は、もちろん本作を典型的な伝記映画の枠組みにはめ込むようなことはしていません。本作においてノーラン監督は、オッペンハイマーの人生を様々な時点で分断し、つなぎなおしています。時系列が前後し、カラーとモノクロームの映像が錯綜する物語は、たとえオッペンハイマーの経歴を予習していても、把握することは極めて困難でしょう。「オッペンハイマーの伝記映画」あるいは「原爆開発の過程を追ったドキュメンタリー的な作品」を期待してしまうと、確実に混乱してしまうことになります。つまり本作は、まぎれもなくノーラン監督作品、さらにいうなら彼の作品群の現時点での集大成です。
本作が原爆(核兵器)についてどのように認識しているのか、非常に気になるところですが、作中では軍や政府の決定をやや批判的に描いているものの、核兵器の功罪について明確は立ち位置は示しておらず、広島、長崎の被害についても踏み込んだ描写は避けています。
未だ原爆投下について世論が割れている米国社会の現状を踏まえるとやむを得ないとも言えますが、オッペンハイマーが原爆投下の状況を幻視した際の一人の女性の表情、そしてその役を演じているのが誰なのかを踏まえると、ノーラン監督のメッセージは自ずから明らかとなるでしょう。ロスアラモスの「あの瞬間」もまさに圧倒的な迫力ですが、終盤のオッペンハイマーの幻視もまた、よく注意して観てほしい場面です!
全928件中、621~640件目を表示