オッペンハイマーのレビュー・感想・評価
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天才の苦悩
常々、ノーラン監督とデビット・フィンチャー監督は資質が似てるなと思っていた。
今回観ていて、「ソーシャル・ネットワーク」を思い出した。
どちらも個性派カリスマ監督が天才の孤独を描いている。
そして、長時間を飽きさせず一気見させる力がある。
ま、観てる僕はド凡人なんですが💦
物語は、原爆の父と呼ばれる物理学者の苦悩を描いている。時系列がバラバラの上、ものすごいスピードで会話が交わされるので、付いて行くのが大変、というか付いて行ってない😅
それでも興味を失わず観せきる手腕は流石。
劇中、やはり日本人にとっては胸糞悪いシーンがあるのですが、それすらも狙い通りであり、ある意味よくやったなと思う。飽くまでもオッペンハイマーという人の目線で描く物語なので、納得も出来る。
テンポが良い作品なので退屈はしてないのですが、観終わって、疲れが出てしまう作品でした。
#クリストファーノーラン 監督
#オッペンハイマー
人間はガン細胞みたいなものです 滅びるまで増え続けるだけです
原爆の実験が成功した時、喜んでいるアメリカ人とは対照的に顔がひきつていくのを感じた
魔王の誕生を見るようだった
日本人だからじゃない
まさに、世界のあり方を変えてしまった瞬間
これまで何度も言っていますが
ヒトという種は、地球という小さな規模であっても存在してはいけないんじゃないかなと思ってしまうんですよ
人が素手で抵抗する人を殺そうとしたら、どれだけの労力と狂気がいるかは想像を絶するものです
特別な訓練をした殺し屋でもなければできません
でもナイフがあれば、人殺しはだいぶ楽になります
ただし、血まみれになるかもしれません
そして、拳銃
人差し指を少し曲げれは人を殺せます
少しの怒りとかの感情があれば、簡単に人を殺せてしまう
銃を簡単に買えるアメリカは、そういう状態です
核が存在するという事は人殺しどころじゃない
いま、世界中にある核爆弾で地球を何回滅ぼすことが出来るか
そして、原発です
天変地異やテロがあるだけで爆弾と化す原発を含めれば、地球に未来がある確率なんてとても少なくなります
本来、自然な状態なら爆発するはずの無いものをたくさん作っている人間って、地球にとってはガンみたいなものです
腹が立ったら殴ってしまういう単純な感情をまだ制御出来ない人類が破壊にだけ特化して進化し続ける歪(イビツ)
征服に、力の誇示に、宗教に武力を使うしか能のない連中が未だに世界を牛耳っている
そして、殴られたら殴り返すしかない世界
核爆弾ができてまだ、100年も経っていない
人に、いや地球に未来があるなんて、誰が想像出来るんだろう
だから、誰も先なんて見てない
のほほんと今を生き、寿命がつきるか、突然核の炎に焼かれるか
それがヒトの生なんでしょう
そういう意味では、動物や虫と一緒です
多分、もう取り返しは出来ない
そういう瞬間に、ふと我に帰って思い出させる作品です
アインシュタインがもう自分では何も出来ないと放棄したように、物理学者は遠い未来に希望なんてもっていない
全ては、始まりがあれば終わりは必ずやってくる
それくらいの悟りの境地なんでしょう
190分、つまり3時間10分
ほとんど会話
会話の嵐
字幕に集中するのはさすがに疲れた
吹替えにした方が楽だったかも
だから、マット・デイモンが出ていたことも、ルイスがアイアンマンのロバート・ダウニー・ジュニアだった事も、不倫相手が、ちょっと前に観た”砂の惑星 デューン 2”のフローレンス・ピューだったことも気づかなかった
というか、気にならなかった
奥さん、エミリー・ブラントだったんだ
ふーん
映像と音響はいい
前半はこれは一体誰が何を裁いているんだ?という場面が断片的に描写される
オッペンハイマーが問い詰められるカラーのシーンと、ストローズが問い詰められるモノクロのシーン
それでいてオッペンハイマーの過去も断片的に混ざってくる
りんごに青酸カリを入れてみたものの、家に帰ってから焦ってきて翌日急いで取りに戻ったり、
共産主義に染まって集会を指揮してみたり、
そこで出会った女性と付き合ったと思えば、不倫して別の女性と結婚して、最終的に元の女性は自殺して、
・・・・・・と、さまざまなシーンがバラバラ殺人にされて合体した状態で流れる。
正直ここまで時系列をバラバラにする意味がわからない。
バラバラすぎて、オッペンハイマーが何を考えているのか分からない(そういう人なのかもしれないが)
女性関係のトラブルと、他のイベントの時系列も分からない。
まっすぐストレートに見せてくれえ!と思っていると、原爆が完成しそうになってきたあたりで突如その時系列だけが流れ出す。
ああなんと見やすいことか!
原爆完成に向けて真っ直ぐに話が進む。
映像、音、それによる緊張感
おお、すごい!という点で喜ぶスタッフと一体になりながら、やはりその暴力性と現場の文化祭前日のような陽気な盛り上がりとの不気味なギャップに恐怖を感じてくる
オッペンハイマーもそのときになってやっと恐怖を感じてくる
そして裁判(正確には裁判じゃないらしいが)のシーンの全体像が分かってくる。
原爆の父として賞賛されたオッペンハイマーが、今度はソ連のスパイ疑惑をかけられ失脚し、最終的には年老いてから勲章を与えられる。
アインシュタインは、人々がそうしたいからだと。そういう風にして罪の意識も全てオッペンハイマーになすりつけていきたいもんなんだと
どちらかというとそういう社会の大きな流れや構造に重きを置いている印象で、オッペンハイマーの個人を深掘りできているのかと言われれば微妙な印象
オッペンハイマー個人を描くのであれば、あんなに事情聴取の時間を長々と取らず、もっとプライベートを丁寧に描けたはず
事情聴取はまさにオッペンハイマーの周囲の人々を描くためのシーンになっている
個人的にはもっとオッペンハイマーの小さな問題を見たかった
なぜリンゴに青酸カリを入れてしまうような、不安定な人格であったのか
そこを詳細に描いてくれないと原爆の葛藤まで進めない
想像力に乏しいやつが失敗してからじゃないと後悔できなかった話、でしかなくなってる
知るべき作品
原爆開発、人間性、責任問題と内容テンコ盛り
世界の恐怖に引火した男
オッペンハイマーの原爆開発道程とその余波を、共産スパイ疑惑事件を交錯させて描くドラマ作。
傑作。
世界の在り方を変えてしまった現代のプロメテウス。その強迫的なまでの探求心と脆い理性。力を望む者の狡猾さと、世界の恐怖に“引火”したという後悔が、彼の心を擦り潰す。
* * *
星/雨/炎/硝子に重なる、極大化された光と波の幻想。量子力学に憑かれた男の圧倒的な脳内イメージ。ナチスが敗北してなお目的を挿げ替えて開発継続した最大の理由は、世界の破滅をも軽視するほどの科学への好奇心だろう。広島・長崎の犠牲を経てようやく自身の業に気付き、責め苛まれるももう遅い。「恐怖を理解すれば使わない」などという思惑も空しく、原水爆はリスクを十分理解しようともせぬ権力者共のパワーゲームの駒に加えられ、世界に引火した恐怖は今もなお焼き拡がり続ける。まるでオッペンハイマー達が試算した悪夢の如く。だからこそのあの言葉。
「我々は破壊した。」
* * *
原爆投下の描写については日本人としてやはり敏感にならざるを得ないが、“原爆をあくまでオッペンハイマーの視点で描く”との意図は鑑賞中にも理解できたし、広島・長崎の惨禍と為政者達の振舞いを見て水爆反対の立場に転じた彼を見て感じたのは、「開発者も米国も原水爆の誕生を喝采と共に迎えるべきでは無かった。この兵器は人の理解も及ばぬほどに破滅的且つ予測不能な代物だ」という激しい恐怖だ。
“戦勝スピーチ”の場面で心を引き裂かれた彼のビジョンは強烈だし、彼の憂慮とはかけ離れた卑小な嫉妬心や軍事的野心によって彼がいたずらに貶められる様を見れば、やはり原水爆は無知で欲にまみれた我々 人の手には余ると感じる外無い。
その点では、ストローズの敵愾心の根元たるアイソトープ輸出議論の場面はやや淡白過ぎて思えたし、広島・長崎の写真を目にする場面では主人公の視点としてはっきり写真を見せるべきだったとも思う。そこが本作に対する数少ない不満点。
<了>
補足:
2つの時間軸を激しく往き来する構成ゆえ難解と感じる方も多いようだが、各場面で語られるテーマに着目しながら話を追えば、テンポは早いものの実は比較的シンプルと思う。本作での時間軸の交錯・対比はあくまでテーマを際立たせる為の手法と気構えしておけば良い。
あとはそこまで複雑な予備知識は無くとも、第二次世界大戦(特にドイツと日本)のおおまかな時系列や、米ソ対立に端を発する共産主義者締め出し運動≒“赤狩り”について軽く知っていれば十分に付いていけるレベル。
登場人物が多くて混乱するとの声もあるようなので、そこは公式サイト等で軽く下調べしておくことをおすすめ。
※これは伝記映画です!
参った〜、これは予習必須の伝記映画だ!
全く知識の無かった量子力学のさわりだけ摘んでから劇場に!
(シュレディンガー方程式とか核分裂の原理とか、彼の周辺の物理学者の専攻とか)
実際は、第二幕までは特に知識がなくても、科学者伝記映画として普通に観れる気がする。
原爆投下が映画のクライマックスだと思っていたが、
実際はそこまでが第二幕とは。。
問題は第三幕。
第三幕は、オッペンハイマーの聴聞会がメインで、これがまあ長い!
彼が共産主義者で戦中から目をつけられていた事や、戦後の赤狩りが重要な背景になっている。
何故彼が聴聞会にかけられているのか?ストローズが何をした人物なのか?最低限の知識がないと追いかけるのがきつい。
(自分は戦後の流れを全く知らなかったアホなので案の定???となる。)
厄介なことに、ノーランお得意の時系列の入れ替えが激しく、冒頭が聴聞会のシーンで始まる。
(正直あまり効果的と思わなかったし、これでアカデミー編集賞なのか?)
アインシュタインとの会話をラストにしたいのは理解できたし、むしろあれでいいと思ったが、他はちょっとやりすぎか。
あと、九割会話劇のこの映画で、ずーっと低音のBGMがズンズン鳴ってるのが気になった。
TENETは音楽が演出でプラスになってると思ったが、今回は残念。
映画の見せ方には結構文句を書いたが、
無条件に原爆に賛同していないこの映画がアメリカで作られ評価されたのはとても意義があると思う。
PJ内部で原爆投下に反対する科学者の動きがあった事や、彼自身の水爆反対へのスタンス変化等、後半は全く一様に観れない映画だった。
鑑賞後は、この映画をどう捉えればいいのか頭を抱えてしまった。
彼の周辺人物や聴聞会のことを調べてからもう一度観た方が良さそう。
数日経って追記↓
これを戦争映画として捉えてしまうと、結構モヤモヤすると思う。
原爆と被害の直接描写がない、という文句がまさにその類だ。
別に『核戦争後の未来・スレッズ』や『はだしのゲン』をやれとは言わないが、
例えば彼が目を背けても被害写真だけ映すとかしてもいいのでは?
あの皮膚ペロペロと炭だけでは流石にえっ?て思う。
あくまで伝記映画であり、マンハッタン計画は彼の人生の一部。
赤狩りとオッペンハイマー事件を軸として映画として観た方がスッと入るかもしれない。
そう考えた時に、ストローズが彼を恨み復讐する流れは、無理に時系列操作せず、ある程度流れをまとめた方が理解できる気がする。
(ストローズ視点はモノクロになる親切設計だが、もう1人の主役として彼の人物像が入ってくるかは別問題かな)
この映画の現在地点は?
映画として、日本人として
クリストファーノーランが原爆の作品を作ると聞いて是非みたいなとー。しかし、日本で公開延期になっていたのも知ってたので、日本人としては残念な描写も多いのかと思いながら視聴。
前知識はなかったので、まずキャストがこんなに豪華なのかと、ロバート・ダウニー・Jr、マッド・デイモン、フローレンス・ビュー、エミリー・ブラント、ラミ・マレックetc…
これだけのそうそうたる顔ぶれで日本の映画にありがちなキャストで釣る予告編ではなかったのは、作品性なのか、監督のネームバリューなのか。
ここからは内容の話で、まずはじめに
レビューとしては、一言表すと評価できない、星はつけれない作品であった。作品としてやはり日本人として複雑な気持ち、あと、描写としての味付けの少なさである。
断っておくが、こと戦争に関しては別にアメリカが全部悪いのではないと思ってる。あくまでアメリカサイドからの話であることもわかっていた。
しかし、現実広島に原爆を落とされ、その後に歓喜される描写はやはり胸がえぐられる。あのまま戦い続けていたら双方の被害が、大きくなるからという理由づけもあったが。そのあとの長崎のシーンは二頭目ということもあり流される。サラッーと。
その後で、そこがラストならまだ壮大な演出で後悔の描写などいれてくれればキレイに幕引きだとわかるのだが、あくまで中盤の描写。
後悔や葛藤、多少描かれるものの、アメリカンスナイパーなど戦争作品と、比べると呵責のシーンは少ない。
さらに終盤は、ストローズとの原子力委員会での権力闘争が描かれる。
また、ここが登場人物との前提知識がなければ読み解くのに苦労するのだ。
この辺はパンフレットにかなり解説してくれてるので先に買って予習しておくのもありだと思う。
そしてここが個人的に何を描きたいかわからなかった。権力闘争がオッペンハイマー自身とストローズのやり取りがバチバチで半沢直樹よろしくならまだいいが、何もエンターテイメントともなく自責の念を少し抱えながら暗い感じで戦っていく。
原爆開発段階からストローズは色々トラップをしかけている。聴聞委員会を開きそれらを提示しつつ、ヤラセありきでオッペンハイマーを追い詰めて、
公職から追放する。
この辺が心理描写が少なく第三者からの発言ばかりなのだ。ここでオッペンハイマーの心理的苦悩などが派手にあればだが…(描いてることは、描いてるのだが、この人が、流されがちだからなのか?)現実としてはこんな感じだったのか、アメリカ人に対してソ連のスパイではなかったことを伝えたかったのか。彼の功績を称える映画でありたかったのか。
「原爆の父」と呼ばれようとも、1人の人間として描きたかったのか。
2個目は描写のしての味付けだ、やっぱり「インセプション」「インターステラー」「TENET」など画にこだわってきた監督なので今回もそういう描写に期待していた。だが自分的には不完全燃焼。
原爆のテストシーンは確かにすごかった、爆発の疑似体験、監督としてはここの実験の結果僅かだが地球全体を破壊する可能性があったのだがそれでもボタンを押したということを体験して欲しかったそう。
それはわかるのだが、また余計な演出としてモノクロのシーン、これが非常に物語をわかりにくくするトリックとなっている。普通はモノクロにするのは過去の描写だ。それが最初は逆でモノクロが現在の描写になっているかと思う。しかし違う、終盤現在に追いついても、モノクロのシーンが出てくるのだ。ここで初めて気づく、ストローズ視点からの描写シーンがモノクロなのだ。(間違ってたらごめんなさい、あくまで私はそう捉えました)
この演出も、わかりやすくするならいいが、よりわかりにくくなってるので必要ないと思っていた。
ネガティブなものが多いが、最後に良かった点としては音、音楽の使い方である。
以前から「インターステラー」などでも「無音」で音の強弱がしっかり着いていたが今回は画が淡々と描かれてる分音による演出が、素晴らしく思えた。
ただ、ストーリーとしては日本人としてはこの映画は手放しに称賛しにくいものであると思う。
む…難しかった
国家と科学者の距離感
神経症気味の有能な物理学者が、ナチスと対抗するための国家機密プロジェクトのリーダーに抜擢され、ナチス崩壊後は対日戦を終わらせるためと称して原子爆弾の開発に成功し、時代の寵児となった後、赤狩りの時代に失脚したが、それは有力政治家との確執によるもので...と盛りだくさんな内容で、登場人物が多く、時制も前後していて、頭で理解しようとしても追いつかない。映像、音響とともに身を委ねるしかないが、それがクリストファー・ノーラン監督の狙いでもあるのだろう。
日本人としては、原爆被害の実態を描いていないことに関心が向くが、画面中に直接映されないものの、主人公が被害の映像を観てショックを受けるシーンや、世界を破滅させる兵器を開発してしまったことに苦悩する姿はちゃんと描かれている。
最も印象的だったのは、大統領との面談シーンで、自責の念に駆られている主人公に対し、大統領が「恨まれるのは爆弾を落とした私であって、爆弾を作った者のことなど覚えられもしない。」と言い放つところ。
作品全体を通して考えさせられるのは、国家と科学者の距離感。主人公が辿る国家との関わりを見ていくと、いかにもアメリカ的だなと思いつつ、今の日本でも、学術会議の任命問題や国家機密保護法など、ごく身近な問題であることに改めて気付かされる。
有名俳優がたくさん出ていることにも驚くが、主役のキリアン・マーフィは、主人公の繊細さと屈折さを体現している。ロバート・ダウニー・Jrは、眼鏡を外すまで気が付かなかった。アインシュタイン役がそっくりで誰だろうと思ったら、トム・コンティだった。
見どころはいろいろあるが、一度観ただけでは理解しきれない。改めて見直したら、理解も深まるだろう。
意図的な分かりにくさ一度の鑑賞では消化不良
日本では「要注意案件」として公開未定と異常事態からついに公開となった本作品。簡単に言えばスケール感の超大作でも栄光と挫折のドラマチック作でもありません。とにかくわかりにくい前半。カラー映像とモノクロ映像の二つの映像パートがあります。さまざまな人物が登場して専門用語が飛び交います。よってカラーは現在でモノクロが過去と思われました。ところがカラーがオッペンハイマーの視点、モノクロがストローズの視点と分かりました。この視点と時系列が目まぐるしく入れ替わるので混乱しかありません。2回以上の鑑賞必須作品です。オッペンハイマーの視点においては原爆開発は意義のある研究としていた彼がこの開発により殺戮を引き起こす可能性も理解していたことが描かれていきます。終盤はオッペンハイマーは「聴聞会」で取り調べを受けます。このパートもあまり説明がありません。この「聴聞会」の目的はオッペンハイマーのセキュリティ・クリアランスを取り消すか否かというのが目的でした。併行してストローズの公聴会のパートも展開されます。こちらはストロークが商務長官にふさわしいかという会です。この会でのオッペンハイマーの発見、水爆開発での意見の相違によりストロークのオッペンハイマーへの憎しみにより策略が展開され、核開発推進派の陰謀に満ちた聴聞会となります。ここまでくるとさまざまな人物との絡みが明確となり、原爆を開発した人物の生涯というドラマでないことがよくわかります。原爆による悲惨な映像が無いという指摘はありますが、それ以前での真珠湾攻撃、東京大空襲というのも言葉のみで映像はありません。それは事実だけを見た場合、アメリカによる原爆開発はどのように見えますか?と投げかけていると思います。これを映画として世に出した点では凄い作品と思います。
天才科学者の必要性とは
オッペンハイマーの世界観
史実を基にしているので、この映画の見どころはストーリーそのものではなくオッペンハイマーから見た彼の人生とその世界の描き方だと感じた。
冒頭でアインシュタインとのシーンがあり、ラストでもう一度描かれることで彼との会話が映画全体、というより彼の人生を総括するような構成になっているが、偉大すぎる発明をした科学者はいずれ己の罪を背負うというアインシュタインのセリフはこの映画が全体を通して表現したオッペンハイマーの世界観をうまくまとめていて、時系列的には途中であるにも関わらず非常にラストに相応しいシーンであった。
さっさと見よう
今の時代、実際にあった戦争や物事を題材にすると上映するな!なんていう連中が出てきたりするが私はこれは上映をしなければならない作品だと思うよ。そして私たちは考え方を改めるべきだとも。
これは単なる歴史劇のようなもので、別にこの行動を称えている訳では無い。あまりにも戦争を知らない、経験をしていない私たちは核がなんなのかを知るにおいてはいいと思うのだ。映画きっかけに知識をみにつけて危機感でも持ったらいいのです。
これを上映している彼らには非は無い。だって彼らが核を作った訳では無いのだから。戦争を起こした訳では無いのだから。むしろこの作品を上映されなかったら、この話でさえ知らない、オッペンハイマーさえ知らない人間だって出てきただろうに。
悲しいから、悲劇だから、なんて理由で作品を中止にしたら見なかったりするのはあまりにも酷い。
なら悲劇的なものはどうしたら無くなったのか、もし私たちが当事者になったらどうすればいいのかを考えるためにあるんですよ悲劇は。喜劇なんかよりもよっぽど自分のためになる。(この作品は悲劇ではなく歴史劇的だが)
たまに外国人は嫌だ、なんて連中がいて理由を聞くと「過去の戦争」の話をしてくる人がいる。これは経験者ならまだしも、それを母に持っていて、もしくは祖母に強く聞かされてなら分かる。ただ、私たちは結局何もされていなくて、しかもその後に生まれた海外の方たちだって別に何もしていない。恨むべきは当事者、そしてトップであることを忘れている人が多い。誰も総理大臣なんかに反論できないだろう。戦争時に反対したら一発でやられてしまうのに。起こしたことが悪なのだから。
みんな人種の壁を勝手に作って、当事者でもない人たちを悪くいうのはやめようと、少しでも思ってくれたらと見ながら考えました。
静かで美しく残酷な爆発
最高峰の頭脳と欲望と思惑の先The pinnacle of intellect, desire, and ambition.
あの当時の空気感をヒシヒシと感じた。
本当に未知であった
原子爆弾を創り上げていくとは?
その過程の緊張感、
手計算で、原子爆弾で何が起こるのか?
実験しても良いのか?
爆発によって
そんな可能性も示唆されていたと
驚く場面もあった。
アインシュタインに
可能性について意見を求める場面もあった。
世界初の原子爆弾の実験
トリニティ実験の行われていく過程、
準備の緊張感、
未明の嵐が去り、カウントダウン、
地上に現れた核の焔は
今の我々はその恐ろしさを知っているが
映画では、悪魔的な美しさで描かれた。
未知の領域に突っ込んでいく
優秀な頭脳達の熱狂ぶりは
その先が未知数という意味では
今のAIの開発競争を彷彿とさせた。
I could feel the atmosphere of that time vividly.
Creating an atomic bomb—something truly unknown at the time—how did they go about it?
The tension throughout the process,
the calculations done by hand to determine what would happen with an atomic bomb,
the question of whether it was even acceptable to conduct an experiment,
and the shocking realization that such possibilities had been considered—
there were moments that left me astonished.
There was even a scene where they sought Einstein’s opinion on the potential outcomes.
The world’s first atomic bomb test, the Trinity test—
the tense preparations,
the storm clearing before dawn,
the countdown,
and then, the nuclear flame that erupted on the surface of the Earth.
We, in the present, know its terrifying consequences,
but in the film, it was depicted with a demonic beauty.
The frenzy of brilliant minds plunging into the unknown
reminded me of the current race in AI development—
an endeavor where the future remains uncertain.
JFKの名前までだして。。。ハリウッドが民主党びいきな事は知っているが、日本人の目は節穴てはないよ!
アカデミーショーを取ったので、バイアスの係った映画だと覚悟して、とりあえず観ました。
この映画を「反戦映画!」と言う人は。。。アレです。
この映画は、原爆には肯定的な映画です。
予備知識と歴史観なく、この映画を観る事は、
真実とは関係なく、米国の都合の良い点だけを洗脳される事への"無謀なる挑戦"であり、ぜったいに勧めません。
主要登場人物数人は、判別できるが、他の人物が誰なのか、どのような肩書で、どんな相関図になっているのか、
背景を理解していない人が、この映画を観ても、まったく意味が解らないのではないかと、危惧します。
僕も判らない人 多々。
また、前半1/3位まで"白黒シーン"は"公聴会前後のできごと"を示すものだと、勘違いして映画を鑑賞していましたが
途中から、その判断の間違いに気づき、
本作の「カラーと白黒とのすみわけ」は、時間軸ではなく
主人公:オッペンハイマー視点かどうかのポイントである事を、理解する事が たまたま できたが。。。
本作では、交差する"時間軸"の対応と、登場人物の"名前"と"肩書"と"日時"を
絶えず、テロップとして入れ続けた方が、
観ている人には、映画の内面を観る事に専念できて、親切だったと思う。
逆に、鑑賞者に深堀りさせずに、流れだけに集中させる目的と 深い部分を理解させずらくさせる「オレ様」的な手法は
「監督が、自分が創った映画の解釈を、よく魅せる為」の邪道な手法であって、正統派映画で使う手段ではない。
幾度と出てくる 主人公の"脳内シーン"は、「インターステラ」を彷彿させるマトマリがあったが、
日本人からすれば、アレは「ウルトラセブン」の世界で、
絵的には美しいが、物理学者の脳内は、本作品のような映像では けしてない と、理系的には感じた。
セリフを持つ、ほぼ全ての役者が着ている服は、超1級の仕立て の"完璧なる 服のすばらしさ" を魅る事ができた事に感動し、ため息さえ出ました。
個人的な疑問だが、WW1の時点では、既に実用化されていた放射線防御服(鉛服)を研究者たちが、着ていないのは、不用心だと思った。考証的には史実なのでしょうけど。
口封じの為に、施設内の人間を 早期に始末したかったのか?
劇中、ピカソの絵が数点 登場したが、
広島・長崎の被災画像を映画内に出さないならば、代わりに ゲルニカ(ピカソさんによる スペインでの爆撃された街の抽象画)を出す事こそ、本作中では、必要だったと思う。
それとも、当初は作中にゲルニカを入れたが、映画の論点が、そっちに行かない様、ソフトな映画にする為にカットしたのか?
本作は「原爆の比較実験の意味」の重要部分には触れておらず、
ガラス鉢に、B玉を入れるだけで、お茶を濁しているが
アメリカ人自身やアメリカンマジックに汚染された多くの鑑賞者は。。。
『1945年時の日本に対する、国連側が取れる戦略は「原爆投下」と「ダウンフォール作戦(日本上陸作戦)」の2択しかないので、
「原爆投下の方が、両国両軍とも損害が少ない」選択肢だった』と、本作映画でも世論でも弁明しているが。。。
当時の日本は、1944年初頭から、再び和平工作に趣をおいて、再開していたが、
日本が何度も提示した"降伏条件"を まったく譲歩しないアメリカは
日本の持つ全派遣を手に入れる為に、日本を完全に粉砕しなければならなかったのだが、その2択のみの考え方の呈示こそ" 米国の帝国主義"の何物でもない。
当時のアメリカが本当に、和平を選ぶならば、幾らでも手法はありました。
この当時の両国が持っていた考え方を たとえていうと、
"日本の将棋型戦略概念"は、戦争の中で、敵の駒(地域)をドンドンこちら側の味方につけ、
最後は相手が「まいりました」と言えば、戦いが終わります。
即ち、敗者が終焉のタイミング(降参)の権利をもつのに対して
欧米の"チェス型の戦略概念"は、戦いによって、味方(人)も犠牲するが、敵(人)を殲滅し、
最後は敵王の動きを完全に封じる 勝利を目的とした
あくまで「勝者側本位による戦いの終焉」する論理に基づいています。
本作の中で、オッペンハイマー氏の悪意を表現してしまうと「坊主にくけりゃ、袈裟までニクイ」と映画評価が落ちる事を恐れて、
映画(映画評価)を護る為に
監督は、あえて、広島・長崎への投下・罪である"汚点"をはぐらかせていたが、
オッペンハイマー氏には、途中 何度も原子爆弾・水素爆弾を中止させるタイミングがあった筈だが、
それをしないばかりか、ウラン型とプルトニュウム型の"比較実験"を 同規模な街を使って行う事を、推奨した人間です。
原爆を作るだけならば、臨界点爆発だけで済む"ウラン型"だけで良い筈なのに、
あえて水爆とは反対方向に分岐を行わせるウランから生成(超ウラン元素)する 第二段階である「プルトニウム」を使用し、起爆剤を必要とさせてまで"プルトニュウム型"を並行させた事は
水爆製造の阻止を裏隠した意図があったと、僕は洞察している。
B玉を使ったプルトニウム型への誘導も。。。
また、原子爆弾開発・製造に当たっての全体オーガナイザーは、オッペンハイマー氏ではなく、
バットサイモンさんが演じた レズリー・グローヴス氏であり、包括的な評価を受ける冪人間は、彼であるが、軍人ゆえ、その名誉?が、民間人であるオッペンハイマーに棚ぼたされただけである。
オッペンハイマー氏は、長崎に落とした2発目のプルトニウム爆弾を、あくまで"製作しただけ"の人間であり
ウラン型 プルトニウム型 双方の開発・製造者でもない 単なる制作現場(ロスアラモス)の現場監督でしかなく。
オッペンハイマー氏が最終進化型である"水素爆弾"に関して、反対をした事は、論点ではなく、
あくまで彼は、当時の流行りである"赤"だったと、僕は考えている。
劇中、「核爆発により連鎖反応で、地球全ての空気まで、連鎖爆発するかもしれない」と主人公達に警告していたが、
故ホーキング博士は、LHC素粒子加速器による 素粒子の衝突実験はブラックホールを2次的に生成し、地球自体を飲み込むかもしれない」と忠告している。
アインシュタインさんを、映画に出したのも、映画に見せかけ的な趣をつけた小ネタでしかない。
オッペンハイマー氏は小賢しいが、本監督も小賢しい。
本作を観て、言いたいことが沢山あったが、ここでは相当な部分を割愛したが、
これ以上の長文は、ここでは辞めて、
後日、FBに書くようにします。
3度鑑賞した「シン・ゴジラ」では、毎回
「日本に原爆を落とす」という脅しで、僕は無意識の内に 涙が止まらなくなるが、
日本人は、けして"原爆被害"の経験を忘れない為に、「シン・ゴジラ」を、たびたび見る事が責務である。
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