「我は死なり。世界の破壊者なり。」オッペンハイマー 緋里阿 純さんの映画レビュー(感想・評価)
我は死なり。世界の破壊者なり。
『ダークナイト』『インターステラー』『TENET』等、今や世界で最も新作が待望されている監督の1人と言っても過言ではないであろう、クリストファー・ノーラン監督の最新作。第二次世界大戦下、政府の要請で原子爆弾の開発に携わり、後に「原爆の父」と呼ばれる事になるJ・ロバート・オッペンハイマーの人生を描く伝記映画。
個人的には、ノーラン監督にとっての新境地であったように思う。『ダンケルク』でも第二次世界大戦を扱っているが、あちらは音楽と作中の時間経過を効果的に扱って、観客に追い詰められた兵士の恐怖を追体験させる“体感型”の戦争映画という側面が強かったように思う。対して今作は、オッペンハイマーと彼に敵対するストローズの視点を軸に、稀代の天才の人生と原爆開発という人類の大罪を追ってゆく伝記映画なのだ。
まず初めに述べておきたいのは、本作は明確な“答え”を示すタイプの作品ではなく、あくまで我々観客一人一人が鑑賞後どう受け止め、どう考えるかという“考え”を促すタイプの作品だったのではないかという事だ。
また、本作はあくまで史実を基に淡々と会話劇で展開していく作品なので、ノーラン監督が得意とする「荒唐無稽なアイデアを、複雑な構成や物理学の知識を用いて格調高い作品に見せる」という特徴は多少鳴りを顰めている(オッペンハイマーとストローズの視点をカラーとモノクロ映像で区別し、交互に見せるといった構成の複雑さはあるが)。
本作1番の特徴は、膨大な登場人物の数々と、それらについてのある程度の基礎知識を要する作品であるという事。
宣伝チラシの登場人物紹介は、事前予習として役立った。パンフレットの充実ぶりも素晴らしく、人物紹介は勿論、作中の用語解説や時系列も記載されているので、鑑賞前の予習にも、鑑賞後の復習にも非常に役立つと思う。
ようやく本題に入るが、先述した通り、本作は明確な“答え“を提示しない。なので、これはあくまで私個人の本作に対する一つの考えである。
私が本作を鑑賞して抱いた感想は、【世界の破滅は、「賢者」の皮を被った「愚者」によって招かれるのかもしれない】という事だ。
既に指摘している人を見かけたが、本作は宮﨑駿監督の『風立ちぬ』を彷彿とさせる。主人公の堀越二郎は、あくなき飛行機への情熱で零戦の開発に携わる事になるが、オッペンハイマーもまた、愚直なまでに人類の可能性を追及した事で、パンドラの箱を開けてしまった一人という印象を受けた。しかし、あちらよりもオッペンハイマーの人間性は、より丁寧に、より具体的に描写されているように思う。念のため誤解されないように断っておくと、『風立ちぬ』に関する私の評価は、素晴らしい作品という認識だ。
『風立ちぬ』における堀越二郎の描かれ方は、空想家で自らの好奇心に忠実。女性に対する接し方は、「綺麗だ」と容姿を褒める言葉ばかりで内面を深く見ていない。所謂“非モテのオタク気質”な人物として描写されていた。だからこそ、特にクリエイターやそれを志す観客の中には、彼に自分達を重ねて「これは俺たちの映画だ」と、一種のクリエイター賛歌として評価していた部分もある。
対して、本作におけるオッペンハイマーの描かれ方は、類稀なる頭脳の持ち主だが、決して他者への共感力や想像力までも持ち合わせているわけではないという事が随所で示されている。子育てに追われ、精神的に疲弊して酒に溺れるキティや、2階で泣き叫ぶ我が子の元にすぐさま駆け付けない様子。そんなキティを放って、かつての恋人であるジーンの元へ行き、体を重ねる等、一時の感情に身を任せた自由奔放な恋愛に邁進する。正確には、ジーンとの交際中に人妻であるキティと恋に落ち、彼女を妊娠させてしまった事でジーンには別れを告げるという酷い有様。決して、良き恋人でも、良き夫、良き父親でもなかった事が示される。また、マンハッタン計画のメンバー選抜、足りない人員の補充におけるスカウトも、人間性より能力を重視したもので、それが後にソ連のスパイを招いていた事にも繋がる。
ノーラン監督は、決してオッペンハイマーに同情させようという気はないのだ。
しばしば議論の的になる、本作における広島・長崎への原爆投下や犠牲者に関するシーンの欠如に関して。本作はあくまでオッペンハイマーの視点に立った物語であって、原爆投下の瞬間を見ていない彼には、まして他者への共感力や想像力の乏しい彼には、あの時点で自らの行いに対する被害を想像する事は出来ないのだ。
だが、それでもノーラン監督は、映画ならではのあらゆる手法を用いて、オッペンハイマーに罰を与えている。投下の成功を祝したスピーチの際、「ドイツにも落としてやりたかった」と語る彼が見つめた観衆の1人に、原爆で焼け爛れた皮膚の人間が重なる。やがて、彼にとって喝采は悲鳴となり、足元には炭と化した人間の幻を見る。喜びの嗚咽を漏らす女性の姿は、家族や友人を失った被害者の悲痛な嗚咽に見え、肩を抱き合って座る男女は、瓦礫の山となった街で行き場を無くした人々に映った事だろう。
また、ラストで明かされる、アインシュタインがオッペンハイマーに掛けた言葉が実に印象的だ。
“君が十分な罰を受けた時、罪は償われたと彼らは君の肩を叩くだろう。君のためじゃない。彼らのために。”
この一言で、本作は原爆開発の責任者であったオッペンハイマーだけでなく、それに携わった全ての人々に、等しく批判の目を向けているのだと知る事が出来る。「開発には携わったが、自分達は使用に反対した。罪の意識を持っているオッペンハイマーの肩を叩く事で、自らも許された気になりたい。」と願う人々も痛烈に批判するのだ。
それを更に強調するのが、握手を求めるテラーを鋭い眼差しで睨みつけるキティの姿だ。あの瞳の中には、単に夫と敵対した裏切り者を見つめているだけでなく、水爆というもう一つの世界の破滅を招く兵器を生み出した者に対する怒り、侮蔑が宿っていたように感じられた。
あるいはそこには、ノーラン監督が本作で明確には示さなかった“答え”の一つがあるのかもしれない。
「人間の好奇心、向上心は素晴らしいが、その先には決して開いてはならないパンドラの箱もある。あなた方は愚かにもそれを開けたのだ」と。
もう一つ、ノーラン監督が明確な“答え”を提示しなかった事で浮かび上がってくる事がある。それは、【これは現実に起きた事であり、原爆の開発によって世界は変わった。そして、その変わってしまった世界で我々は今日も生きている】という事だ。
実際、つい先日ガザに原爆投下を提案する発言をした議員がニュースとなった。ラストでオッペンハイマーが想像した、“核の炎によって焼き尽くされる世界”の説得力が増すというのは、何とも皮肉な話だ。
現実だからこそ、未だ人類は答えを出せずにいる。だから、考えを促すのだ。フィクションではなくリアリティだからこそ、簡単に答えは出せないし提示すべきではないと考えたのではないだろうか。
長くなったので、ここから先は駆け足で行くが、オスカーを受賞した主演のキリアン・マーフィーとロバート・ダウニー・Jrは勿論、体当たり演技を披露したフローレンス・ピュー、ラストの眼差しが抜群のエミリー・ブラント、味のある顔付きになったジョシュ・ハートネット、他にも挙げ出したらキリがない名優達の素晴らしい演技の数々は、それだけでも鑑賞料金分の価値があった。
更に、監督の前作『TENET』でも組んだルドウィグ・ゴランソンの音楽が抜群に良い。会話劇中心の本作において、名優達の演技と同じくらい重要な役割を果たしていたと思う。
新境地に達し、更なる円熟味を感じさせるクリストファー・ノーラン監督の次回作が早くも楽しみで仕方ない。