劇場公開日 2024年3月29日

「物語を読みほぐし、謎解きしたという「読後感」」オッペンハイマー ドミトリー・グーロフさんの映画レビュー(感想・評価)

3.5物語を読みほぐし、謎解きしたという「読後感」

2024年4月21日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

3時間の長尺だが、観るかどうか迷っている人には強くオススメしたい。物語の時間軸を自在に操作してみせる“ノーラン節”は本作でも健在で、ほぼ全編にわたって不穏に流れ続ける音響(劇伴)と相まって、3時間まったく緊張を途切れさせない。

劇場公開前ずいぶんと取り沙汰されたが、広島・長崎の直接的な惨状描写を封印したことも、本作が描くオッペンハイマーの“一貫した目線”をみれば合点がゆく。
そもそも、いかにリアルな描写でも——たとえ当時の実写映像を使ったとしても、「劇映画」であるかぎり、観客はそれを一種のスペクタクルとして消費してしまう。『ダークナイト ライジング』ではあっけらかんと核爆発を描いたノーランだが、さすがにこうした描写を本作で採らなかったのは賢明だったと思う。

このように牽引力と話題性のある作品だが、不意にココロを掴まれるとか自分の価値観がひっくり返されるといった「映画ならではのチカラ」は稀薄とも感じた。むしろ「物語を読みほぐし、謎解きした」という〈読後感〉があとに残るのだ。例えるなら、難関大学のひねった読解問題に向き合うときの感じに近いというか。

物語は、主に「2人の人物」と「3つの場所」を巡って時系列を前後しながら進む。
2人とは、原爆開発者オッペンハイマー(キリアン・マーフィー)と米原子力委員会委員長ストローズ(ロバート・ダウニー・Jr)。場所の方は、原爆の開発実験が行われた米ニューメキシコ州(ロスアラモス研究所および砂漠の実験場)、オッペンハイマーを弾劾査問する聴聞会、ストローズが召喚された米上院公聴会、この3か所だ。

ここでストローズのパートは、映画全体に占める比重が大きいわりに、オッペンハイマーの人物像に厚みを与えるまでに至っておらず、ストローズという政治屋の卑小さのみが目立つ。また、原爆というセンシティブなモチーフを扱う本作の流れのなかで、彼がお門違いな私怨からオッペンハイマーを陥れたとする“第一のオチ”には正直ガックリきた。

ついでに言うと、オッペンハイマーのパートで最後に明かされる“第二のオチ”(=オッペンハイマーがアインシュタインに耳打ちした内容)も、わざわざラストシーンまで引っぱるようなものだったのか疑問だ。

そのオッペンハイマーのパートでは、科学者というよりチームリーダー/コーディネーナーとして才を発揮する彼の姿と並行して、ある種のコミュ障ぶりや女グセの悪さが炙り出される。その中でも特に印象的だったのが、研究所内の原爆投下反対派を説得するために彼が言い放つ次のセリフだ——「我々専門家は、未来を予測し震撼するから、原爆投下は中止すべきと考える。だが人々はそれを使ってみてやっと理解し恐怖する。世界がその恐怖を知る時、かつてない平和がもたらされるのだ」。映画『第三の男』におけるオーソン・ウェルズの「鳩時計」発言にも匹敵するような、強烈な名セリフだ。

もうひとつ鮮烈な印象を残すのが、人類初となった核実験の描写だ。関係者たちは爆心地からほど遠くない地点で観測しようと、簡易なサングラス一つで核爆発の瞬間に臨む。テーマパークで新設アトラクションに臨むかのような能天気さ、溢れかえる高揚感。このシーンには文字どおり震撼した。
余談だが、ロスアラモスに建設された町ぐるみの原爆研究施設は、どこか『アステロイド・シティ』や『ドント・ウォーリー・ダーリン』に描かれた街を髣髴させる。

さて映画は中盤以降、“戦時”(第二次世界大戦/米ソ冷戦)体制下における国家と個人、政治と科学の対立を露わにする。
遠い未来と今この瞬間、あるいは地球全体と個人の生活圏とが互いに“通じ合っている”ことを熟知し、的確に未来を予見できる後者(=個人/科学)が、未来はおろか必要とあらば現実さえ隠蔽してしまう前者(=国家/政治)によって阻まれるのだ。

ここには、ノーラン監督自身のジレンマが滲んでいるようにも感じられる。ソレは、宮崎駿監督が『風立ちぬ』や『君たちはどう生きるか』で零戦の開発者や世界の創造主にこめた“想い”を思い出させる。あるいは、黒澤監督が『生きものの記録』に滲ませた“苦渋”といってもよい。

原因と結果、その過程を複雑に再構築してみせることで、物語に新たなビジョンをもたらすこと。そんな「物語の読み方」の「創造者」たるノーランが過去作にそっとこめてきたモノを、本作では一気に吐き出した感があるようにもみえるのだ。

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ルピノ