「「この映画はホラーでありスリラー」。2つの時系列がある特異点に収斂する脚本は見事」オッペンハイマー REXさんの映画レビュー(感想・評価)
「この映画はホラーでありスリラー」。2つの時系列がある特異点に収斂する脚本は見事
「ホラーでありスリラーでもある」とはキリアンマーフィーがインタヴューで語った言葉。まさに、と思う。
真理を追究する過程の高揚感。
アメリカの混乱期の赤狩りという身内狩り、共食い、権力闘争の緊張感。
2つの時系列がある特異点に収斂する脚本は見事で、身震いがした。
序盤、ミクロの世界とマクロの世界が交差しその美しさと不思議さに魅入られる。その映像は、不安定なゆらぎで世界が構築されているということを視覚的に体感させ、壮大なドラマを予感させるとともに、見る側を不安にもさせ、オッペンハイマーの見ている世界を共有するような錯覚を覚えさせる。
素人の私でさえ、宇宙のことを考えると「何もない所から物質が生まれるわけがないのに、物質はどこから生まれたの?」など、馬鹿は馬鹿なりにそら恐ろしくなるので、世界の見え方が違うオッペンハイマーが精神を病むのは理解できなくはない。
科学者たちの理論を実験で証明したいという熱量や、世界の理(ことわり)を解き明かしたいという好奇心、国家のビッグプロジェクトに関わる高揚感に、こちらの心もある程度並走していく。
でも「日本」「投下」という言葉が出てきたとたん、心が硬直した。
「戦争を終わらすために」というアメリカの大義名分は、やはり日本人には受け入れがたい絶対的な拒否感がある。と同時に、これがイスラエルとパレスチナなど、現状各地の紛争が終わらない道理も理解できてしまう。爆弾を自分の国に落とした相手を、許せるはずがないのだと。その相手が「(攻撃したことは)正しい」と言い張っていると、尚更。
政治において過去を謝罪することがニュースになると「ただの形式の謝罪にどれだけ意味があるのだ」と皮肉めいた目でみてしまいがちだが、嫌、そんなことは無いと考えを改めた。謝罪はこういった当時の大義名分を覆す威力がある。しかしそうなると謝罪する側は母国の人間に顔向けができない。おだててそそのかして戦争に庶民を駆り立てたのは噓だということになるから。
話はオッピーに戻る。彼がもし実験に失敗していたら。ナチス政権下のドイツでヒトラーが手にしてたのだろうか。歴史にIfはないというが、オッピーがいてもいなくても、代わりに誰かがいずれ同じ様な兵器を作ったのだろうとは思う。歴史の流れというのはそういうものだから。
だから客観的にオッペンハイマーを判断することは難しいし、はっきりいって、できない。
「スリラー」の部分で、オッペンハイマーへの一瞬一瞬の「没入感」は凄い。
しかしノーランは、兵器を作り出した人間としての彼に「共感」はしえない、一定の距離をもって描いているようにみえる。
実際にボタンを押すのは彼ではないにしろ、明らかな大量殺人兵器を作っていたことは事実。ユダヤ人という出自がどこまで彼に影響していたのかはわからない。爆弾が投下されることに対して、他人事のような振る舞いにも見えたため、他の民族ヘの心の距離感があるようにも見えた。
ただきっと、原爆は、彼が思っていた以上の威力があったのは本当なのだろうと思う。
アインシュタインが素粒子論に対して否定的だったのか、理論の遅れを取っていたのかはその方面に詳しくないのでわからないが、ここでは破滅的な物をもたらすことを予見していたから、あえて身を引いていたように思えた。
また、武器を使用することに反対していた科学者たちの一団がいたのは救い。
音楽のルドヴィク・ゴランソン、スターウォーズの「マンダロリアン」でもテーマ曲を手掛けた。音楽が映画の前に出ないのに、必要不可欠。DNAの螺旋のように、がっちりと融合してノーランの撮った映像になくてはならないものとなっている。