「欧米人の、欧米人による、欧米人のための原爆映画」オッペンハイマー yuuukoさんの映画レビュー(感想・評価)
欧米人の、欧米人による、欧米人のための原爆映画
私は長崎の人間です。また一時期、広島に住んでいた事もあります。
クリストファーノーラン、すごく好きな監督でした。メメントで知って今まで色々な作品を見てきました。でも...今作を観るのはすごくすごく悩みました。。。
ただ元々映像の仕事に携わっていた事もあり、長崎の人間である前に、ノーラン監督の最新作かつアカデミー受賞作品としての出来栄え・テクニックをインプットしようと、先入観を抑えて劇場に臨みましたが...、無理でした。今まで聞いてきた親戚知人の被爆体験が脳裏をよぎり、嗚咽が止まらず、映画どころでは無かった。
それは原爆の恐ろしさの演出に泣いたのではなく、その悲惨さを描く・残すことからノーランが逃げたこと、またそういう逃避の映像にアカデミーを与えた米映画界に悔しくて涙が止まらなかった。しかし日本の映画ファンも「この映画は伝記映画で、被爆の悲惨さを入れる意味はない!ノーラン最高!」というが...どこまでお花畑なのか。
オッペンハイマーが原爆の父である視点を抜き取り、いかにエキセントリックで変わり者だったか?だけを描く映画ならそれでいいが、世界初の原爆開発に責任者として携わったオッペンハイマーを描く映画で、実戦で使われた原爆の残虐さを正面から伝えず間接照明のようなフンワリ表現でお茶を濁すやりかたは、正直言って卑怯だと思った。
あれだけエロティックなシーンに拘泥した割に、そこは逃げるのかと。誤魔化すのかと。結局はアカデミーが欲しかっただけの、俗物監督だったのかと...
そういえば今作のスタッフリングは男女比などすごく苦労したそうです。なぜか?それは2024年から「スタッフ内の男女比率がアカデミー受賞の評価対象」になったから....
そう、ノーランは兎に角アカデミーが獲りたかった。欧米人の威光の源である原爆の父を題材に、平和・反核風な装飾で固めた戦略的商品の本作で「獲りに」行っただけ。
被爆国・日本人への配慮などない。ゴジラの山崎監督に「ぜひアンサー映画を撮ってくれ!」と白々しく話す対談が、逆に本作が被爆国と向き合わなかった証左でもある。
ただ一応、気を使った形跡はある。オッペンハイマーが原爆の被害を嘆く妄想シーンの中で、白人女性が被爆者のように焼けていくシーンがある。
その白人女性はカメオ出演したノーランの娘だそうだ。いわく「核兵器はいつか身近な人を奪うかもしれない恐ろしさを表現した」らしい...はぁ...
その程度の特撮シーンを差し込んだ位で、被爆国の溜飲も下がるだろう!と思い付いたノーラン親娘の能天気さを想うと...なんて傲慢な白人なんだとヘドが出る。
というか、そういう意味不明で歪曲したオブラート表現で塗り固めた本作が「反核映画の金字塔」のように定着・固定化することが非常に危ういと思った。
まだ日本人は「血の通った」被爆体験を語り継ぐことで、本当の核兵器の恐ろしさを知っている。しかし欧米人は、結局本作のような、原爆の悲惨さと同等に1人の白人科学者の呵責を描いてしまう価値観が正当化され、かつアカデミー賞という「世界共通のイイモノ」フレームに収められた事に、いわば第二の東京裁判のように感じた。
やはり歴史というものは、戦勝国が作り上げていくものなんだと、思い知らされた...
個人的には、もうノーラン作品だからと○○みたいに諸手を上げて有難がる気はないです。ただ、そういう欧米・マスコミの価値観を無意識に是としてきた自分自身を振り返る契機になったのは、学びの1つになりました。
『その悲惨さを描く・・・ノーランが逃げたこと』←全くその通りだとおもいます。『欧米人の威光・・・「獲りに」行っただけ』←ノーランはどうしても名誉が欲しかったんでしょうね。 『日本の映画ファン・・・どこまでお花畑なのか』→心に刺さりました…
『第二の東京裁判』…哀しいかなその通りです。特にアカデミー賞でのあのロバートダウニーの態度を見ればわかります。所詮アジア人に対する敬意なんか無いのです