「ノーランの成熟と、この映画を不快と感じた人への反論」オッペンハイマー moviebuffさんの映画レビュー(感想・評価)
ノーランの成熟と、この映画を不快と感じた人への反論
私はノーランの前々作、ダンケルクのレビューを書いた時に彼の映画表現へのこだわり、シグネチャーである、「時間軸の編集」があの作品に関してはギミック的で不必要なのではと書いた。前作テネットもSFという設定を生かし、その時間編集が極端なまでの形で表れたギミック的な作品であった。
一方今作は複雑な時間軸でありながらも、基本的には核実験成功までの過程とその後の赤狩りによる彼への尋問が軸となり、交互に描かれ、なぜオッペンハイマーが水爆実験に手を貸さなかったかの動機が徐々に明らかになっていく。あくまでキャラクターの心情の変化や物語にそった形での時間編集であり、映画としてのスリルやメッセージ性を損なわずに見せる事に成功していると思う。しかもこの映画にはノーランが好むアクションやビジュアル的に驚くような面はほとんどない。核爆発のシーンの地味さはある意味肩透かしなほどであった(が恐らく意図的にカタルシスを避けたのだろう。)。物語と編集、音楽の力で3時間釘付けにさせてくれる。それが匠のレベルかというと、そういうわけでもない(例えばルイス・ストローズとの確執、そして彼がどのようにオッペンハイマーを追い込んだのかが若干わかりにくい)が、これだけの膨大な情報と登場人物の作品をまとめ上げ、派手なシーン無しで観客を飽きさせなかったというのはノーランのキャリアで考えても大きな達成であり、作家としての成熟であると思う。
さて、ここから私が目にしたニュースやSNSコメント欄等で見たこの映画に対する人々の感想への違和感、反論を書きたいと思う。
今まである程度、映画を観て来て、映像言語へのリテラシーがある人間なら、この映画の演出は明らかに「反核」であることも、オッペンハイマーが原爆を作った事を後悔している事も読み取れる。それは解釈とか想像ではなく明らかなレベルで。一度や二度でなく、何度も彼が後悔している事が心象風景からわかる様々な演出がなされている。
にもかかわらず、世の中にはこんなにも「台詞で言わないとわからない」人が増えてしまったということだろうか?
コメントの中には、開発に携わった人達が原爆開発成功及び原爆の投下成功に歓喜する場面を不快に感じたと言っている反核運動家の人がいて呆れてしまった。不快に感じるのは当たり前である。それは不快に感じるように意図した演出がされてるからだ。以下に詳しく論じる。
例えば、原爆投下によって手に入れた勝利を喜んでいるアメリカ人が映し出されることに複雑な感情を持つのはわかるが、大事なのは、なぜわざわざ喜んでいるアメリカ人を意識的に映しているのかという事だ。この映画ではそれを決して勝利に沸くカタルシスに使っているのではない。喜ぶ人々の映像は焼けただれた肌の女の子、真っ黒になった死体とのコントラストとして映し出され、映像もサウンドもゆがむ。オッペンハイマーはその状況を恐ろしい事として認識しているのは誰が見ても明らかだ。
その証拠に監督ノーランは、焼けただれた肌の女の子の役にわざわざ彼の実の子を使っている。広島で起こったことを他人事として扱い、アメリカの行いをヒロイックに描くのであれば、そのような事を意図してする訳がない。
また、軍部が日本への空爆の場所を決める場面。あそこでまるでボードゲームのように数十万人の人間が死ぬ爆弾を落とす場所を決めてる様子は、明らかにわざと「不快」になるように演出されてる。これから亡くなる人々を非人間化している不気味なシーンとして。その事に観客が気づくことが重要なのである。だから不快になるのは当たり前であり、それをもってこの映画の評価を下げるのは、起こった事象の評価と映画の評価を混同しているとしか言いようがない。
あと、これは映画とは関係なく歴史の観点からも。広島、長崎の原爆投下について、日本人である我々が被害者としてこの歴史を語り継いでいかなければならないのはもちろんだが、そこで感情的になり、客観性を失うべきではない。この映画で登場するハイゼルベルクから物理学を学んだのはオッペンハイマーだけではない。日本人の仁科芳雄もその1人だ。そして仁科芳雄は日本軍からの依頼を受けてウランの濃縮実験を行い、原爆を開発していた。結局戦時中に間に合わなかったが、実際にそれが使われたかは問題ではない。大事なのは、我々もそれがあれば、結局加害者として使っていたのだ。この事実を広島、長崎同様に日本人は歴史的事実として覚えておく必要があると思う。
二科博士だけでなく湯川博士も(関与の程度は別として)関わっていたと聞いたことがあります。
加害者、被害者としてではなく、(少し大袈裟な表現ですが)人類として、どのような感情を持ち、どのように行動するかが大切だと感じました。