「愚かな人間には過ぎたる兵器 ノーランがアメリカと人類に突きつけるメッセージ」オッペンハイマー ニコさんの映画レビュー(感想・評価)
愚かな人間には過ぎたる兵器 ノーランがアメリカと人類に突きつけるメッセージ
量子力学が目覚ましい発展を見せた時代を生きた天才オッペンハイマー。同胞のユダヤ人を迫害するナチスが原爆開発をしており、彼が一目置く物理学者ハイゼンベルクがそれに関わっている。それに対抗する「ガジェット」開発への助力をアメリカが自らに望んでいる。そんな時代の要請が、内向的でナイーブな研究者だった彼を、カリスマで名だたる物理学者たちを率いるリーダーに変えた。
ナチスへの怒りと、彼らが先んじて原爆を実現することへの焦り、そして愛国心。そこには、物理学者としての知的探求心もきっとあっただろう。
それらの動機は、私欲とは距離をおいたある意味純粋なものである反面、完成したガジェットが現実に使われた結果もたらされる地獄絵図を見通す目を曇らせた。
第二次大戦後の安全保障に関する公聴会で、オッペンハイマーは言った。
「技術的に甘美なものを見つけたら、まずやってみる、それをどう使うかなどということは、成功した後の議論だ、と(科学者は)考えるものです」
しかし科学者には、特に原爆のような国策で開発したものに関しては、使い方を決める権限はない。一方、それを決める権力を持つ人間は、国家間の権謀術数や政治的駆け引きにまみれている。
この構図を考えた時、誰か原爆投下を止められる者がいただろうか、と思う。確かにオッペンハイマーはロスアラモスで科学者たちを牽引した。だが、仮に彼一人が開発を拒否したとして、アメリカという大国が大量破壊兵器を求め、テラーのような科学者たちがいる限り、多少時期が遅れることはあれ、止める道はなかったように思えてならない。
トリニティ実験の直前、ドイツが連合国軍に降伏した。オッペンハイマーはこの時点でグローヴスに、ロスアラモスの研究所を継続すべきでない旨の手紙を出した。「ヒトラーより先に原爆を持つ」ことを至上命令としてきたロスアラモスの科学者の中でも、敗色濃厚な日本への原爆投下の是非が論じられた。一部の科学者は原爆投下反対の署名を集めた。だが、研究所を去る者は誰一人いなかった。
戦後、オッペンハイマーが水爆開発に反対しだしたと見るや、国は赤狩りを口実に彼を排除した。ストローズの私怨だけではなく、ソ連の核開発の脅威がそこにあった。
物理学者の藤永茂氏は、著書「ロバート・オッペンハイマー 愚者としての科学者」で、20年以上オッペンハイマーの記録を追い続けた末の答えとして「広島、長崎をもたらしたものは私たち人間である」と述べている。本作を観た私も、藤永氏に近い感想を持った。
確かにこの映画には、原爆投下後の広島や長崎の人々が晒された凄まじい災禍の描写はない。「被曝」の恐ろしさを知る私たち日本人の間で、描写不足との批判が上がるのも無理はない。
だが、人間が大量破壊兵器を持つことへの疑念を訴えるにあたり、さまざまな視点や切り口があることもまた表現のあるべき姿だと思う。ノーランは、圧倒的な兵器の力や大義がいかにして大量殺戮への罪悪感を覆い隠すか、その陥穽にあっけなくはまる人間の弱さや愚かさを描くことで警告を発している。強大すぎる兵器は、その存在自体が時代の趨勢を作る。それを平和裡に御する能力は、人間にはない。
オッペンハイマーが1965年にテレビ番組で回想とともに述べたバガバッド・ギーターの一節(「われ世界の破壊者たる死とならん」)は、ドキュメンタリーなどでよく引用され、彼を特別な人間のように印象付ける。しかし天才と言われた彼もその反面で、人並みの弱さと、原爆が正しい判断の元に管理されるという無邪気な幻想を持ったただの人間だったのだ。
ラストでアインシュタインが発する予言めいた台詞はノーラン監督の創作だ。設定上、この邂逅は1947年だが、その後1963年にオッペンハイマーがエンリコ・フェルミ賞を受賞した時の映像が重ねられる。アメリカはこの授賞によってオッペンハイマーの名誉回復を図ったが、その贖罪の姑息さを、アインシュタインの言葉を通じて監督は指摘しているように思えた。時代の都合でオッペンハイマーを理不尽に切り捨て、持ち上げるアメリカの勝手さも、本作は批判する。
ノーラン監督らしく、物語は時間軸を忙しなく切り替えながら進んでゆく。だが、オッペンハイマーに起きた出来事の時系列と、彼に接した主要な人物、それを演じる俳優の顔を予習しておけば、完全にとは言わないが比較的わかりやすく観られる作りになっている。ノーラン作品の中では親切な部類と言えるかもしれない。
上に書いた藤永氏の著作は、文庫で3冊ある原作よりもコンパクトにオッペンハイマーの生涯や人間関係を把握できるのでお勧めだ。映画の中でちらっと出てきた原子爆弾の構造、砲撃法・爆縮法の説明も図解付きで載っている。
IMAXフィルムの恩恵は、ロスアラモスの広大な風景などで感じたが、トリニティ実験のきのこ雲は、映像自体には正直期待したほどの恐ろしさがなかった。
遅れて到達する轟音と爆風、実験成功後に講堂でオッペンハイマーを賞賛する人々が踏み鳴らす足音がそれに重なる。胸を震わせる重低音が効果的だ。彼の視界でその風景が閃光に白飛びし、皮膚がめくれる女性が一瞬映る。日本人から見れば手ぬるく感じる被曝描写ではあるが、この女性をノーランの娘が演じたことに、彼のメッセージがあると信じたい。
こんばんは
8月22日に、共感数100以上のレビュー件数が10件に到達しました。
ニコさん始め皆さんから多くの共感を頂いた結果だと感謝します。
ありがとうございます。
今後とも宜しくお願いします。
ー以上ー
こんにちは
本作で、クリストファー・ノーランは非常に理性的で理詰めな人だという印象を受けました。どちらか、誰かに偏ること無く、フラットに世界を見ている感じ。
顔がめくれていく女性を演じたのは彼の娘、という事実を明かしたのは、「自分の娘が被害者だったら?」被害者はあなたと同じ人間です、という、映画そのものに影響を与えない控えめなメッセージだったかもと思いました。
共感&コメントありがとうございます。
音楽については、悪目立ちするようなテーマを使ってなかったのは良かったと感じました。アインシュタインはあの髪型、日本人にもポピュラーな顔ですしね。
>日本人から見れば手ぬるく感じる被曝描写ではあるが、この女性をノーランの娘が演じたことに、彼のメッセージがあると信じたい。
ここに心から共感します。
いつも読み応えのあるレビュー、拝読させていただくことが楽しみです。ありがとうございました。
自分は度々、昨年公開された「福田村事件」と重ねて考えてしまうのですが、あの頃はこうだった、大部分の人は疑問に感じず自責の念に駆られた人は少数だった、この事実をフィクションとして描いたのが全てだと思いました。「福田村」より更に冷徹な視線で。