「4/12追記:見るのを悩んでまで観る映画じゃない。正直、別に…である。ただしZ世代は見ておいて損はない。」オッペンハイマー おひさまマジックさんの映画レビュー(感想・評価)
4/12追記:見るのを悩んでまで観る映画じゃない。正直、別に…である。ただしZ世代は見ておいて損はない。
文頭追記
クリストファー・ノーランは誰も知り得ぬ恐怖を、ビジュアル化する、既に偉大さすらある、アーティストだ。映画はエンターテイメントであるという、普遍的な前提を水杭と打ち、素晴らしい作品群を私たちに届けてくれた。
ある時はアメコミのヒーローの悲哀を現実化させ、またある時は人間の深層心理を映像に仕立て、時間と犯罪を交錯させ、時には人類の及ばぬ遥か彼方の惑星に我々を降り立たせてくれた。
そのどれもが「人間が理解しているのにも関わらず手が届かないもの」で、かつ「人間が抗えないことを直感で感じられる恐怖」を描くのだ。サイエンスフィクションの表現者としての同氏は、天才的なアーティストの域にあると考える。
さて、本作『オッペンハイマー』はノンフィクション作話であるから、前述したノーラン氏の脳内映像の表現はどれも事実確認に収まる。これが表す事実はつまり「人間が既に手に経過したもの」ということ。「人の手に届かぬもの」の表現の天才が「手に届いたもの」を描いたということだ。
例えば「パブロ・ピカソの絵画」と言われたとき、脳裏にどの様な絵が浮かぶだろうか。異論も認めるがほとんどの人はあの独特な抽象画を思い浮かべるはずだ。しかしピカソの作品には写実的なものも多々あり、その事を知ってはいても代表作はと聞かれると、またほとんどの人は回答に窮するはずだ。
『オッペンハイマー』は、天才的なアーティストが、その特徴や強みを「使えずに」作られた映画だ。これは本来、ノーランの作品とすら呼べないものではないか。
人の考えた事を享受するだけではなく、たまには自分たちの想像力も働かせろ。そう言われているのは分かる。分かるが、ファンの残念な気持ちも分かってほしいのだ。
ことわっておきたいのは、私は同氏の映画の大ファンであり、彼は今でも世界一のSF監督であり、今後も作品を見続けると思う。
だからこそ、私は彼のアートであるSF作品でアカデミー賞を総なめしてほしかったし、今後その機会が訪れることを切に願う。
2024/04/12
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鑑賞後しばし 熟考。
オッペンハイマー博士についてはずいぶんと昔からある程度の知識は持っていたし、本作を観る前には再度、その人物史をなぞってみた。昭和35年の来日時講演「科学時代における文明の将来」の内容も読んだ。(どうか興味のある方は読んでいただきたい。晩年のオッペンハイマー博士の考えがよくわかる)平和記念資料館にも行きたかった(再訪)くらいだが、かなわず、ネットにある資料を悲しい気持ちで再度、見て回った。
そんなこんな、しっかり前準備の上で鑑賞した直後の感想はこうだ。
「この映画の何をどう評価すればよいのか??」
史実に基づいているし、台詞ひとつにも気配りをしているので、ある程度人物史を知るひとにとっては、真新しい情報もなければ面白みもないと感じた(ノンフィクションだから当然といえば当然だが)。
広島と長崎での虐殺(私個人の意思としてこの言葉を使わせてもらう。オッペンハイマー博士の本意での出来事ではなかったことと前提してなお)の描写が作品内では無いことはNHKクロ現のノーラン氏インタビューで知っていた。
だから、原爆実験での表現に地獄的なものを描いているのかと多少の期待をしたのだが、どうもそれも弱含みのように感じた。これも史実に忠実に描いたのかもしれない。
まあまあ安牌な線で描いたノンフィクション。
そんな感じだ。
ノーラン氏の『表現者』としての、思いというか、伝えたいことというか「これをわかってくれ!」という、間違ってても何でもいいから突きつけたい思い、みたいなものがどうも伝わってこない。
熱がないんだ。
いや、ウソを書けと言っているわけではなく、表現していいとおもうんです。
映画なんだから。
それが「否定も肯定もせず描いたオッペンハイマー博士の人物史」であるなら、正直なところ現存フィルムをまとめたNHK「映像の世紀」とか、BBCの歴史ドキュメンタリーを見ているときの方が、グッとくるし、現実感としてゾッとしたりして心が動くというものだ。
ノーラン氏がクロ現インタビューでお話されていたが、ご自身の息子(10代)が『核問題よりも環境問題の方が重要だし興味がある』に衝撃を受けた---へのカウンターとして、今のZ世代に事実を見ておいてほしい、だから作った本作、というのがノーラン氏の唯一のメッセージなのだろう。それはそれで良きことと思う。
でもね、
はっきり言ってアカデミー賞7冠受賞はやりすぎだ。
作品全体を眺めると、物語の核心部分が、三部構成のラスト1時間のところ。本作の主題のようになっているし、それはそれでアメリカ国内ウケは良いだろう。だって「2022年に米エネルギー省は公職追放することになった54年の処分を撤回した」わけだから、翌年に公開の本作の意義はそこ、ラスト1時間の物語になってしまっている。(1時間目=序章、2時間目=ロスアラモス)
よく考えると、あえてそうしたような気もするが。
いま世界では、核の脅しが流行っているので。私の感覚では3つの国が血気盛んに核の脅威を振りかざしている真っ只中だ。アメリカだって目には目をと言いたい。が、言えないので、もう少し人命コストの低いミニ核兵器の開発に躍起になっているようだ。
死後ずいぶんと経過してからの、オッペンハイマー博士への処分撤回は政治的なニオイがしてならないのだが。
それで翌年、このような作品が生まれ?
アカデミー賞総ナメ?
ああ、そういうことですか。
日本人として云々とは言わない。そもそも私は日本人だし、誇りとまで言えそうもない程度のナショナリズムは持っている。原爆の惨禍をみなまで描かなかったことは悲惨な歴史をエンタメにしなかったノーラン氏の良識としておきたい。ノーランSFは大好きだ。
山崎監督のアンサーに期待したい。
まんまとクリストファー・ノーランにノセられましたわ~~
ほんと、いろいろなことを考えさせられる映画でしたね、レビュー拝見していてもみなさんそれぞれ、ご自分なりの考えを書いておられて読み応えがあります。
かばこさん、コメントありがとうございます。
レビューも拝見しまして、その通りと共感しました。
私はどうも疑り深いので邪推しがちで…(^_^;) おそらく本作にそこまで政治的な意図は無いのだろうとも思っています。ただそんな事があるかもしれないから気をつけないとね、という自戒はあります。この作品のノーラン監督の意図が「ほら考えてしまうでしょう」という謎掛けにあるとしたら、まんまと乗っかってしまった小生でございますね。
今も昔も日本人は物事をエモく、ロマンチックに考えてしまいがち。悪く言えば感情先行型なところがあって、それがモロに出ているような戦時中の大政翼賛会主導の社会では言いたいことも言えず、国民は若者は、どうして命を投げ出さなければならないのか結局分からないままに死んでいった方も多かったでしょうね。戦後の記録で、元軍の参謀の方の聞き取りで「もうあそこまで行ったらしょうがない」とか「引くに引けない状況でありましたから」とか、戦後になっても思考の方向性が変わっていない例も多々あったようですし。
数年前に御年100歳間近で逝去した義理の祖母に聞いたことがあります。戦時中の若者と、今の若者は違うとおもう?と。そしたら答えは「なんも違いもあらしまへん。いっしょ」と言っておりました。
それでも現代は、民衆にSNSの力、ネットワークの力がそなわりました。映画COMでのこのようなコメントのやり取りも、意見の違うもの同士の相乗効果になったりして良いことと思います。無駄にせず有効活用していきたいものですね。
私も、「映画として」本作を観ました。
確かに、世界中がキナ臭い今、この映画が生まれ、アカデミー賞7冠。
ヒロシマ・ナガサキの惨状を具体的に描かず、オッペンハイマーへの嫌悪感も少ない作り。。なんとなく政治的なものがあるようなないような気がしました。
米英、ナチス・ドイツですら、自国の若者を戦場に送らずに済むことを当たり前に考えていた(日本は散らすことを賛美していた)ことですが、これは若者の命を守る人道的なことからだけでなく、戦後を視野に入れているから、戦後の社会を担う若者をごっそり失う損失への危惧もあったからではないでしょうか。(戦場になっていないアメリカは少し事情が違うのかもですが)日本はそれすら考えていなかった、子供か。どっかの誰かが言ったとされる「日本人は12歳」(そういう意味で使われたのではないかもですが)を目の当たりにした気がしました。
talismanさん、仰る通りですね。
以下は本当に私見ですので、異論を感じる方も多々いらっしゃると思いますが、おそれず言います。私達にできることの一つは、正に学生運動のそれであったような中世的な"直接運動”ではなく、皆が過去の歴史を正しく学ぶことで"正しい判断をもつ社会”を醸成すること、だと思います。ちょっとおかしいぞ、という事をしっかり判断できる"素の状態”が社会的レベルで存在していることが大切ではないでしょうか。目に見えない事なので心もとない気持ちになるかもしれませんが、実はとても重要だと私は考えています。
こんな事がありました。少し脱線してしまうのですが、東日本大震災の直後よりしばらくの間、テレビから企業CMが消えてしまいました。とはいえ何も流さないと無音の間がうまれてしまうので代わりにACジャパンという社団法人の倫理CMのみが流れ続けるという状態が続きました。悲惨な天災の直後であったことで日本国内が支え合いの精神が高まっていた時期だったと記憶していますが、日々の都内の混雑した電車内で、普段はあまりそのような行動を取らないのでは、、という雰囲気の若者が、高齢者や幼児を連れた親子に声をかけ、席を譲る姿を何度も見ました。これから日本はどうなっていくんだろうという、不安感や焦燥感のような気持ちが蔓延したところに、ACの倫理的な啓蒙が少しずつすり込まれ、普段はスマホに夢中で他人に見向きもしないような若者たちの心境に変化をもたらしたのかな、と思いました。
今、世界では戦争で絶望を感じながら生きている人たちが沢山います。世界の難民の数は6250万人と言われています。英国の人口が6700万人、カナダの人口は3900万人ですから、難民の数は凄まじいですよね。日本が世界に貢献するためには、日本人が正しい知識のもとで、世界からみて良いと評価されている面をしっかり守っていくんだという、そんな意識を一人ひとりが持ち続けることではないでしょうか。
本作はどうもボディブローのように各方面で問題喚起させてくれますね。もしかすると存在意義の非常に高い映画なのかもしれませんね。
おひさまマジックさん、コメントありがとうございます。戦いは文明の一部、うーん、確かにそうですね。大文字書きの歴史 =戦いの歴史を私たちは学んだのでした。そして現在は、たった一人の人間によって戦いがおき戦わされている、そう思わざるを得ません。それがわかりやすい国々が一方にあり、わかりにくいけれどわかる国の一つが日本だと思います。私たちは絶望に向かっているんでしょうか。それとも世の中こんなものと思いながら生きていくしかないんでしょうか。私は自分はどうなってもいい、でも若い人達のことを考えると苦しくなります。お祭りみたいな学生運動していた世代を恨む気持ちがゴワーっとでてきます。長々とごめんなさい
ゆ~きちさん、なるほど。キリアン・マーフィーのコメント、確かにこの作品の結びの言葉として相応しいものですね。本当は監督さんが言うべき言葉に思えますが…(^_^;) そう願ってやみません。私は、感覚×経験=感性と考えます。感覚は時に判断を誤りますが、感性は裏切らない。おかしな例えですが、七味掛け過ぎて辛い思いをしたら次は少なく調整します。戦争で辛い経験をした人は再度やろうとは判断しないはず。だから平和な時代に生まれた若い人々こそ、歴史の事実を知るべきと思います。その意味で本作の存在意義は高いとはおもっています。
思慮深いコメント、ありがとうございました。私も考えさせられました。
オスカー7冠だったことで全世界に興味を惹きつけた作品でしたが、日本人として忸怩たる思いが払拭できないんですよね。もっと中立的に観るべきでしょうが。
色々ケチのついた授賞式でしたが、キリアンのオスカーのコメントが救いでした。反戦につながれば…。
caponeさん、コメントありがとうございます。
たしかに難しい&複雑な構成になってました・・・(^_^;)
危機迫るノーラン監督の作風(ノーラン節とよびたい)×ノンフィクション=ややこしすぎる、ということかもしれません・・。
Mさん、共感コメントありがとうございます。
本当にそうですよね!私もそこが勿体ないと感じてしまいました。幸いにして原爆実験の目の当たりにしたことは無いので、本当はあのような感じだったのかもしれませんが(水爆の推進者だったエドワード・テラーは実験後「こんなちっぽけなものか」と言ったとも。政敵への嫌味とも取れますが)。でも、そこにノーラン監督の表現者の思いを入れてほしかったですね~
ゆ~きちさん、コメントありがとうございます。
世界でも多くの人が不快な気持ちになると思います。比率の問題で日本人にはそう感じる人は多いとおもいます。日本人は当事者なので実体験した諸先輩方から受け継いでいて、そのように教育されていますからね。映画はプロパガンダに利用されてきた歴史がありますが、本作がその一種と考えるのは邪推に過ぎるとは思っています。が、ゼロでもないような・・・
talismanさん、しっかりコメントをありがとうございます。私もしっかりご返信します。
人類が出現し文明が誕生して間もないあたりから、争いや戦争は起きていて、人類史のほとんどの時期に戦争が存在することから、もはや争いは文明の一部なのではないかと考えてしまいます。
ひとつの争いの「流れ」の場面の必要に応じてtalismanさんの仰る"プロパガンダの種類”は変わっていくのだと思っています。だから、国柄や国民性により言葉使いに多少の違いはあれど、基本的に権力が人を促す手法は共通のものだと思っています。明確な違いがあるとすれば時の権力者がどう考えるのか、くらいでしょうか。
どうして戦争が起こるのか。私は、現代の国際情勢をリアルタイムで体感することで持論を持つに至りました。私の考えでは「権力者とそれに付随するレガシー欲求」が原因。レガシー欲求があるから権力者は権力を持つに至るのは自明なのですが、昨今の争いを観察していると、いずれもたった一人の人間の考えや、その人物が望むレガシー構築によって人や軍隊が動かされ戦わされているように思えてなりません。国家間の戦争と、その辺りで偶に起こる暴力ケンカの違いは、当事者の権力の有無なだけで、「こうしたい」という思いや考えを他者のそれを無視してでも行う行為として、その本質は大小違いは無いかと思ったりします。
では、どうするべきなのか。その周辺の考えを晩年のオッペンハイマー博士は持っていた人物のようです。ぜひ日本来日時の講演を読んでみてください(J-stageという論文公開サイトで「科学時代における文明の将来」と検索するとPDFのダウンロードが可能です)。
地球上のほとんどの人間にとっては戦争なんていらない!はずなのですが…悲しい事にただただ犠牲になるのは権力と最も遠い場所にいる、女性たちや子供たちです。
「原爆実験の表現」
私も、まさにそこが一番ひっかかったところです。NHKやBBC云々の所は私も同じように感じたことでした。
被害の状況を描かないのだったら、トリニティの実験こそが、この映画で原爆の恐ろしさを伝えることのできる唯一の場所だったように感じました。
共感ありがとうございました。
日本人だけなんですかね、この、原爆と聞くだけで何とも言えない不快な気持ちになるのは。私も全く刺さらなかった作品がオスカー7冠に、納得してないです。
おひさまマジックさんのレビュー、とてもよく分かります。本当に勉強不足なのですが、いわゆる「敵」をうちのめすことはどこの国でも大昔からやってるというのは分かります。
一方で20世紀になると、自国の若い兵士をこれ以上死なせたくない、精神的に追い込みたくないと、アメリカもドイツも言っていた(映画からの知識で本当かどうかわかりません)。日本に関してはどうなんだろう?日本の若者をこれ以上死なせたくない、苦しませたくないという、それがアメリカやドイツ同様にたとえ建前であったとしても、当時の日本は言っていたのかな、そういうことを発言しながら会議していたのか?残念ながら知らないと思いました。もし知っている・読んだことがあるとしたら、お国の為に死ね、です。それも日本人が作った映画とかドラマからです。江戸時代の感覚から何も変わらず、根本的に変えることもせず明治時代を経て昭和に入ったから、何もわかってないのかなと思います。切腹は光栄、有り難い的な江戸時代の侍感覚を、もう士農工商なくしたはずの昭和でも残ってたんでしょうか。
すみません、長くダラダラと。ごめんなさい