「合戦場面は大スクリーンに映える。非英語圏の歴史が米英主導で映画化される功罪も」ナポレオン 高森 郁哉さんの映画レビュー(感想・評価)
合戦場面は大スクリーンに映える。非英語圏の歴史が米英主導で映画化される功罪も
本作の1週間前に封切られた北野武監督作「首」と今年の大河ドラマ「どうする家康」の両方で羽柴(豊臣)秀吉が主要人物として描かれたことから、日仏の激動期の傑物、秀吉とナポレオンの共通点に改めて気づかされる人も多かったのではないか。軍を率い敵を攻略する才能と時流を読む力で国政のトップにまで上りつめた立志伝中の人物で、大衆からの人気も高かったこと。正妻との間で子に恵まれなかったこと。そして、天下を取った後に無謀な外国出兵で大勢の人々を犠牲にしたこと。
フランスの英雄ナポレオンの生涯は英国人フィルムメーカーの心を捉えるのだろうか。スタンリー・キューブリックは1960年代末にナポレオンの伝記映画に着手し脚本も書いた(NAPOLEON Screenplay by Kubrickでネット検索するとPDF版を閲覧できる)が、1970年のイタリア・ソ連合作映画「ワーテルロー」の興行的失敗により、キューブリックの企画も頓挫してしまった。それから半世紀を経て、やはり英国出身のリドリー・スコット監督がついに本作「ナポレオン」を完成させた。脚本は「ゲティ家の身代金」で組んだデヴィッド・スカルパ(2024年米公開予定の「グラディエーター」続編にも起用されている)。
製作費は2億ドル(約290億円)とも言われ、総勢8000人超のエキストラ、最大で11台のカメラを同時に回したという合戦のスペクタクルに潤沢な予算を投じたことが如実に表れている。中でも1805年にオーストリア・ロシア連合軍と対峙し、ナポレオンが軍事的天才と悪魔のような残酷さを発揮する「アウステルリッツの戦い」のシークエンスでは、俯瞰による壮大なスケールと兵士の視点による戦闘の臨場感が絶妙に配され、このダイナミズムと映像の情報量は劇場の大スクリーンでこそ満喫できるものだ。
ただし、本作はナポレオン・ボナパルトをめぐる史実を忠実に描く伝記映画ではない。先述のアウステルリッツの戦いにしても、凍ったザッチェン湖で描写される部分は“伝説”であり実際には起きなかったというのが定説らしい。ジョゼフィーヌ(バネッサ・カービー)との関係性にも創作が多く含まれるようだ。
スコット監督の主だった歴史大作を振り返ってみても、ローマ帝国、エジプト、中世から近世のフランスといった非英語圏の歴史を、米英の資本で英語劇として映画化したものが大多数だ。「グラディエーター」「キングダム・オブ・ヘブン」「エクソダス 神と王」「最後の決闘裁判」そして本作もしかり。米国市場での興行を考えたら英語ネイティブのスターを起用して英語劇にするのは必然で(興行的成功が見込めるからこそ巨額の資金が集まるという面も当然ある)、ハリウッドの歴史物や戦争物ってそういうものだという慣れもあるだろうし、人種的にも言語的にも隔たりのあるアジアの観客にとってはさほど気にならないかもしれない。
とはいえ、史実に基づかない創作を多く含むこの米英合作の「ナポレオン」が、かの英雄の母国フランスでおおむね不評というのもわかる気がする。たとえばこんな風に置き換えて想像してみてはどうだろう。将来中国が米国に並ぶ映画輸出大国になり、外国の歴史を題材とする中国語の映画も量産するようになる。秀吉の生涯を描く作品も、中国人俳優が主演する中国語劇で、史実に基づかない創作エピソードが多く、笑いと哀れを誘うセックスシーンもあったりする。これを日本人が観たら、日本の歴史や文化に敬意を欠いている印象を受けるのではないか。非英語圏の歴史が米英主導で英語劇として映画化されるという“20世紀の当たり前”も、そろそろ考え直す時期なのではないか。そんなことを思った。