「音楽は悪魔を倒す一番有力な武器である」映画ドラえもん のび太の地球交響楽(シンフォニー) Charles郭さんの映画レビュー(感想・評価)
音楽は悪魔を倒す一番有力な武器である
私は現在日本在住中国人会社員で、『ドラえもん』の大ファンです。
この映画レビューはもともと中国語で書かれたものですが、日本の『ドラえもん』ファンと交流し、共感を得るために、このレビューを日本のウェブサイトに翻訳して投稿することにしました。私の日本語能力が高くないため、翻訳に不自然な表現が含まれていたり、元の意図を完全に伝えられない部分があるかもしれません。その点についてはお詫び申し上げますとともに、読者の皆様のご理解と寛容をお願い申し上げます。
*ネタバレ注意
一。「みんなで音楽を楽しむのは楽しいね?」
最終決戦の前、ドラえもんは「ノイズ」の感染がひどく、機能がほとんど停止し、空き地のコンクリートパイプ前に倒れ込みました。ベートーベンの偽物であるベンート大師によると、「ノイズ」は音楽で消滅させることができるため、みんなで演奏を行うことにしました。
緊急な間に、指揮者が欠席でみんな混乱した、のび太のリコーダーが常にミスで、ジャイアンとスネ夫から文句を言われ。バンドは解散寸前、その時しずかが気を落ち着かせ、打楽器部の「副指揮者」としての役割を発揮し、リコーダーのペースに合わせてシンプルなカスタネットで新しいリズムを刻み始めました。
完璧な演奏で、「ノイズ」をドラえもんの体外に追い出して消滅させると同時に、相互協力の重要性をようやく理解しました。危機が解消された後、ミッカはチャーベックに向かって嬉しそうに言いました。「みんなでファーレをして、楽しいね?」これは、これまで一人で音楽をしてきた彼女が心から感じた感慨だと信じています。
孟子曰:「独楽楽不如众楽楽。」これは、「一人で音楽を楽しむ喜びは、多くの人と一緒に音楽を楽しむ喜びには及ばない」という意味です。音楽をしたことのある皆さん、誰でも似たような経験があるでしょう。他の人とアンサンブルをするとき、二つ以上のパートが完璧に合わさり、周波数の欠けを互いに補い合い、完璧なハーモニーを形成すると、鳥肌が立つような体験になります。
心理学の観点から見ると、この満足感は人間の潜在意識の弱点、すなわち安定と予測可能性への本能的な依存に由来します。同じ総譜、同じコード進行を共有する状況では、バンドの一員は他のメンバーが次の小節で何を演奏するか、どのコードを弾くかを完全に予測し、それに合わせて自分の演奏を行うことができます。
音楽以外の場面では、この現象は通常「默契」や「心の通い合い」と呼ばれますが、器楽合奏は複数の独立した個体を一時的に「心の通い合い」の状態に導き、この予測可能性がもたらす安全感と満足感を共有することができます。
耳の良いなら、映画全体を通してのび太のリコーダーが実際には常に安定して音痴で、他の人より少し高いことに気づくかもしれません。のび太の演奏技術の問題だけでなく、私が考えたもう一つの客観的な説明は、バロック時代の歴史的な遺産のため、リコーダーが典型的なソロ楽器として、標準の定音がA=442Hzである一方で、他のバンドメンバーは標準のA=440Hzです。さらに、のび太が吹く倍音が高いため、彼のリコーダーは常に音程から外れています。
空き地での演奏後、もう誰ものび太を足手まといだと笑わなくなり、決戦のアンサンブルでものび太の技術不足がさらなる危機を引き起こすことはありませんでした。映画の時間内で「長期間の練習による進歩」を支えることはできないため、「協力上の突破」による戦闘力の向上を描くのは適切な処理と言えるでしょう。
起承転合の「転」の部分として、空き地でのアンサンブルシーンのドラマチックな緊張感はまだ向上の余地があります。おそらく本作の低年齢化の基調が私たちが今見ている結果をもたらしたのでしょうが、これは残念な点と言えます。
二. 音楽は文明のお守りです
この部分の映画での危機は、のび太が翌日の音楽の授業を逃れるために、ドラえもんの因果律の道具「予言日記」にこんな一文を書いたことに始まります。「今日音楽がなかった。」確かに、その日の音楽の授業は先生が急用でキャンセルになりましたが、のび太が何の条件も限定しなかったため、世界中のすべての音楽も一緒に消え去りました。
予言日記は物理法則を破らない前提で、この命令を忠実に実行しました。多くの低確率の事件が同時に発生し、音楽を再生したり演奏したりするさまざまな装置がちょうど同時に故障し、歌を歌える人も声を出せなくなりました。この目立たない小さな変更は実際に人類社会を前例のない混乱に陥れました。同時に、小惑星探査機から送られてきた小惑星のサンプルには、「ノイズ」と呼ばれる危険な生物が混入していました。のび太の無茶苦茶な行動により、地球は一日で音楽の保護を失い、「ノイズ」が感染を始めました。
映画では、音楽が消えた結果をカートゥーン的な手法で表現しています。もし藤本先生がまだ生きていたら、この部分をもっと想像力豊かに作り上げることができたかもしれません。しかし正直に言って、このような状況が現実に起こったとしても、「音楽が欠如すること」がどれほど深刻な結果をもたらすかを具体的なシーンで説明するのは、少し無理があるように思えます。
音楽の重要性を正確に説明できる人はいないかもしれません。それは他の7つの芸術形式と同様に、人類文明の装飾品であり、明らかに「不必要」なものです。しかし、私は誰もが同意するでしょう:音楽がないことは決して良いことではありません。
一度に「音楽」という秩序と調和の象徴を失った人類社会は、混沌と獣性の反撃を受け、コミュニケーションと協力の能力を徐々に失い、対立と混乱に陥り、最終的に破滅します。そして、抵抗の手段も非常にシンプルです:完璧なアンサンブルを通じて、有機的文明としての人類が欠かせない二つの重要な資質、すなわち規則を作成し、それに従う能力と、協力と協調の能力を示します。
決戦アンサンブルで、最終的に勝負を決めたのは、地球自体が持つ「音楽」も戦いに加わったことです——風鈴、セミの鳴き声、包丁とまな板の音、電車の走行音など。最初に音楽ホールに来たとき、ミカとチャーベックは「これらのものはすべて音楽です」と主張しましたが、のび太たちも観客も、おそらく今になって初めてこの主張の意味を理解したでしょう。
地球全体が戦いに加わった「雑音」のモンタージュの中で、私に深い印象を与えた短いシーンがあります:雨の中の都市の廃墟で、ロシアの兵士が口笛を吹いていました。多くの戦争映画にも同様のショットがあります。戦意が高まっているとき、音楽は人々を鼓舞することができます。迷っているとき、音楽は人々を導くことができます。元気がないとき、音楽は人々を慰めることができます。故郷が戦火で廃墟と化しても、音楽が存在し、心の奥底で音楽を奏でる衝動が存在する限り、文明に戻る信念は消えません。
三.適度な科学普及の強度
前作「天空の理想郷」よりも少し強いのは、本作の科学普及(説教)要素があまり意図的に設定されていない点です。これは原作の趣にかなり近いです。映画では自然に人類の楽器の起源を説明しています。つまり、ドイツ国内で発掘されたシェーベンハウゼンの骨笛を通じて、ドラえもんの「思い出コロン」を使ってこの骨笛の誕生を演じました。
ミュージカ星人の最後の血統であるミッカの妹も約4万年前に地球に避難し、ヨーロッパ中部に降り立ちました。彼女はミュージカ星の文明のシンボルである緑のリコーダーを持っており、地球で成長しました。地元の人々は音楽に感動し、彼女のリコーダーを模倣して、白鳥の骨(実際にはハゲワシ)から骨笛を作りました。
ミッカの妹の緑のリコーダーは音楽ホールを復活させるための重要な道具であり、最後の音楽噴水はそれが吹き出す五音音階で起動する必要がありました。しかし、ミッカがミーナから祖先から受け継いだリコーダーを手に入れたものの、長年の劣化で最高音が欠けていました。
ちなみに、この品質は奇跡的なもので、同じ年代のシェーベンハウゼンの骨笛が発掘されたときは十数片に砕けており、修復には大変な努力が必要でした。
音楽噴水は最後の音階が足りず、起動できませんでしたが、ミカがどうしようもないとき、のび太は自分のリコーダーを取り出し、最初にミカを魅了した「no」の音痴な倍音を吹きました。噴水はパスワードが正しいと判断し、音楽ホールが無事に再起動し、みんなは「ノイズ」の攻撃に対抗する要塞を手に入れました。
なぜ音楽噴水に五つの音が必要なのか?人間には五本の指があるからです。これが最もシンプルで正しい答えです。すべての定音楽器は人間の手で演奏されるため、五本の指に対応するのが人間に適した楽器です。十二平均律が出現する前に、五音音階は人類最原始で基本的な音階であり、人類音楽の基礎です。
もし少し深く掘り下げると、のび太の音痴な音が音楽噴水に認められたのは偶然ではないかもしれません。実際には、どんな非常識な音でも噴水は認めるでしょう。なぜなら、それは音楽の創造性と異端の一面を代表しているからです。
ミカが初めてのび太の音痴な音を聞いて大喜びしたのは、その音が常識を超えていたからですが、ミカはそれが好きでした。すべての音律にはそれぞれの限界があり、すべての旋律の組み合わせは無限に見えますが、実際には有限です。
音楽の発展は、厳密な計算と研究だけでなく、稀有な能力、すなわち突破と革新にも依存しています。「新鮮さ」は音楽作品が際立つための大きな利点です。非常識な音素を聞いたときにすぐに顔をしかめる音楽家はプロフェッショナルですが、その後すぐに理解し、さらには評価や参考にしようとするかどうかが、真の芸術家と凡人を区別する鍵です。
四.各方面の断片化した感想と不足
1.映画にはヴァクナ(ワーグナーの偽物)という別のキャラクターがいますが、このキャラクターについて別に触れたいと思います。ヴァクナは巨大な音楽劇場、いわば「音楽工場」を守っていました。このキャラクターの存在意義は「天空の理想郷」の賞金稼ぎ、マリンバに近いもので、映画から「独裁者ボタン」で削除しても、物語に何の影響も与えない純粋な余分なキャラクターです。
2.最終戦の前半では、メンバー全員が「ノイズ」と正面から戦い、地球の音楽援軍が参戦する前に、ドラチームが最高の出力として黒須克彦「夢をかなえるドラえもん」のメロディー第一フレーズの変奏を演奏しました。これは私が最も好きなOPであり、「ドラえもんの歌」よりも好きです。星野源が書いた音楽ゴミをここで使用しなかったのは本当に良かった。これからもずっと使用しないでください、感謝します。
3.本作にしずかのお風呂シーンがないことです。ドラえもん映画の長年の良い伝統として、しずかは必ずお風呂に入る必要があります。これは一線であり、交渉の余地はありません!今井一暁監督は、人々の道からどんどん遠ざかっています。藤本先生が天国にいますが、あなたがこんなに乱暴に振る舞うことを許しません。国賊を討つ、覚悟しなさい!
結論:
一般的に考えられているように、人が音楽に純粋な愛情を持ち、それが一切の功利性を持たないとき、その愛情は純粋なものです。音楽の存在を維持すること自体が、人類文明の存在を維持する必要条件です。そして、音楽への熱情を持ち続けることは、自分の人間性を持ち続けることです。のび太が演奏会をこなした後、リコーダーの練習を続けることを決めました。なぜなら、この楽器は彼にとって特別な意味を持っているからです。成長の過程で、彼は実際に一歩を踏み出しました。これからの人生でも、音楽は常に彼のそばにあり続けるでしょう。この世界のどの人間にとってもそうです。
「音楽を愛するからこそ、それを抑圧する保守的な伝統から解放しようとします。音楽は情熱に満ちた自由な芸術であり、屋外の芸術であり、自然のように無限であり、風、空、海のようです。」
——クロード・ドビュッシー
2024.3.2
日本横浜