月のレビュー・感想・評価
全69件中、61~69件目を表示
【”人間の心の無い奴はいらないです・・。”誤った優性思想の基に行われてしまった凶事。そして障碍者の鮮血を浴びた下弦の月。今作は鑑賞側に”命に軽重はあるのか。”と問い掛けてくる重くて哀しき作品である。
ー ご存じの通り、今作は2016年に相模原市の”津久井やまゆり園”殺傷事件に着想を得た辺見庸の小説の映画化である。
私事で恐縮であるが、この事件は出張帰りに購入した新聞で知り、そこに大見出しで映された犯人の植松聖がパトロールカーに収監される際に振り返った笑顔が悪魔のようであった事を鮮明に思い出す。
だが、今作では犯人の残虐性よりも見る側に対し、命に軽重はあるのかを問い掛ける構成になっている。-
◆感想
・作家のスランプに陥っている堂島洋子(宮沢りえ)と夫昌平(オダギリジョー)の間には三歳になる男の子がいたが、先天性の心臓の病で他界する。
洋子は再び妊娠するが、同じような状況の子が生まれないか担当医(板谷由夏)に相談しつつも、浮かない顔で新しく働き始めた障碍者施設に足を運ぶ日々。
だが、夫はその報告を聞き、”やったー”と喜ぶのである。
ー この夫婦の存在が、作品に”命に軽重はあるか”と言うテーマを鮮明に与えている。特に夫の昌平は唯一、人間の善性を強く保っているように描かれる。ー
・障碍者施設には家庭で厳格だが浮気を繰り返す父に対し、嫌悪感を持つ若い陽子(二階堂ふみ)や笑顔のさとくん(磯村勇人)、ことなかれ主義の院長(モロ諸岡)、障碍者に対し嫌がらせをする若手二人の職員がいる。
ー さとくんは紙芝居を作ったり、園内でも笑顔を絶やさない。
だが、洋子と同じ生年月日の”キーちゃん”の母親(高畑淳子)意外、親族は来ないし、何年も部屋に囚人のように閉じこめられた障碍者もいる。-
・さとくんはそんな状況を見て少しづつ考え方が変わって来る。彼は”ナチスは嫌いだ。”と言いながら誤った優性思想に染まって行く。
ー それは、さとくんが人間扱いされない障碍者を”解放”しようとし、結果的に世間の為になると思い込んでしまったようにも、私には見えた。ー
<さとくんは夜勤だった陽子を無理やり連れ”こいつは心を持っているか!”と問いかけ、障碍者に刃を突き立てる。
そして、且つて”キーちゃん”の為に壁に張った月にも、無情にも鮮血が掛かるシーンは哀しい。
今作は鑑賞側に”命に軽重はあるのか。”と問い掛けてくる重くて哀しき作品なのである。>
■補足
・障碍者施設員の描き方が、一方的過ぎるきらいは気になった。一生懸命、障碍者の面倒を見ている人が、大多数だと私は思うので。
声と、心の声。
三年前に幼い子を亡くしてる夫婦、洋子と昌平、現在書けなくなってる作家の洋子と自主制作で短編映画を作る昌平の話。
作家活動はしてなく、仕事になってない旦那、生活の為に障害者施設で働く事になった洋子、その障害者施設で働く者達の施設利用者への対応を目にした洋子は…
洋子の同僚のさとくん、素はちょっと悪い奴かもだけど施設では利用者に向き合い仕事真面目な奴、だけど周りにいる同僚に恵まれず真面目にやってる事をバカにされたことで…
利用者、意思の疎通、心のない利用者は…施設で働くことで作家活動を再開することになった洋子のストーリー。
リアルでもあるだろう施設で働く者が利用者を虐待、あってはならない事だと思うけど働く側の苦労って仕事とはいえ大変よね!間違いなく。大変だから、見きれないから家族側も施設へお願いするんでしょうし。
ただ真面目にやってる施設、真面目に働く方達はいるから何かこういった作品が流れる=イメージ悪くなるで気の毒と思ってしまう。
さとくんのとった行動は間違ってるけど、発したセリフは何か納得出来る部分はあったし、利用者側もあんな扱い、利用者側の一番いい答えって何なんですかね?私には分からない。
磯村勇斗君は大好きな俳優さんの1人なんだけどちょっとテーマが重たいね!(笑)
観てて何かしんどかったです。
サトクンに言い返せないだでけでなく、自分の中にもある優生思想にがく然とする。重度障害ということが全然分かっていないことを知る。
最初の方で洋子(宮沢りえさん)がきーちゃんに出会う場面で圧倒される。
きーちゃんはベッドに横たわったまま動けない。聞こえず話せず目も見えない。僕はきーちゃんが僕の親、子ども、パートナーだったら生きていてほしいと思う。しかし、自分がきーちゃんだったら生きていたいと思うのだろうか?
後半、洋子とサトクン(磯村勇斗さん)が対峙する場面。
サトクンの思想と問いに言い返す言葉を見つけられない洋子と僕がいる。
入所者に優しく寄り添っていたサトクンが洋子に問う、「きーちゃんは幸せだと思うか?」と。
つまり、サトクンは洋子に(そして僕に)、「自分がきーちゃんだったら幸せだと思うのか?」 と問うているのだ。 洋子は(そして僕も)言葉に詰まる。
「生産性がない」と言うサトクンにも何を伝えればよいか分からない。
この時もう1人の洋子が洋子自信に問うて来る場面も圧巻だ。
出生前診断で障がいが見つかったとき中絶するのは命の選別、優生思想ではないのか?サトクンは生きている障がい者を殺すつもりだが、生まれる前に選別して中絶する自分はサトクンと同じではないのか?洋子が洋子自身と僕に問うて来る。僕は「イヤ同じではない」と返す。 だけど、もし「サトクンと一体どこが違うんだ」と問われたら返す言葉がない自分にがく然とする。
色々なことを考えるキッカケになる映画だ。僕には答えが見つけられない問いも多い。
-_-b まずは、、、。
まずは上映館と上映枠を増やすべきです。なんだか少ないですよね。素晴らしい映画ですよ。
知的障害者は人の心を持っていないから殺した方が世のためだという犯人の主張。ダメに
決まってるんだろう、、、、、、、、。本当にそうですか?自分の子が知的障害者だったら、野獣のような声を出し、糞尿を撒き散らしてもそう思いますか?どうなの?犯人からの釜が今も私の喉元に引っかかってます。綺麗事を言えば喉元かき切られそうな映画ですよ。
宮沢りえはいい演技でした。紙の月での演技も好きでしたが、本作も抜群にいい。代表作になるでしょう。
回転寿司の平和
140分と少々長いけど、途中緩むことなく見続けることができました。役者のみなさんが本気で取り組んでいてとても良い演技を見ることができました。施設で勤務をする主人公は人間のココロの裏の声を聞くという課題を持ち、直面した時の対峙の方法に悩みます。自分も「早く殺せ!早く殺すシーンを出して!」という正直で真っ黒な自分のココロに気付かされた映画でした。安全なところに安穏としてますね。本当にごめんなさいです。ラストあたりのお寿司が平和に回っていながらTVで事件を報じるシーンはとても良かったです。
色々と
色々と思うところ、感じるところはある。とりあえず、目を離さず離れず、一気に見れた。他の作品の前に流れる宣伝を見て、「この題材でもう映画化するの⁈」が正直なところ。
どう見てもあの事件を参考にしているのはわかる作品で、犯人はまだ主張も変えずに生きている。
色々な意見があるのは当たり前で、ただ、このあらゆる事件がすぐに忘れらていく世界で、問題提起するのは必要かと。
後味が良いわけもなく、ずっしり重い。色々と考えざる得ない作品。
24年10月再見
重い話であるが、他の人のレビュー見たら、あーその辺はそういうふうに見えるのかと、人によって同じものを見ていても違うように見えるものなんだと感じた。特にさとくんの彼女の話。さとくんの彼女が健常者なら止めることができた、なんて表現には全く感じなかったけどな。さとくんは障害がある人を全て差別してるわけではないというのをわかりやすくするための、聴覚障害のある彼女だったのかと。
など、まあ色々おもったりした。
タイトルなし(ネタバレ)
かつて文学賞を受賞し、成功体験を持つ小説家、堂島洋子(宮沢りえ)。
ほとんど無収入のストップモーションアニメ作家の夫(オダギリジョー)とふたり暮らしだが、あることがきっかけで何も書くことができず、最近は食べるのにも一苦労な状態。
森の奥に人目を忍んで建てられたある重度障がい者施設で介護士として働くことにした。
若い同僚には、作家志望の陽子(二階堂ふみ)や絵の上手い「さとくん」と呼ばれる青年(磯村勇斗)ら入居者に向き合う介護士もいるが、そのほかの介護士の中には陰で入居者を虐待している者たちもいる・・・
というところから始まる物語で、描かれる内容は衝撃的なのだが、登場人物ひとりひとりの行動の奥底にあるものは、常に観る側にもあるものだろう。
その意味で、観るのが本当につらい。
洋子も彼女の夫も、陽子もさとくんも、生きていく上での存在意義を見つけられない。
見つけられない、というよりも、社会(というか、彼らが生きている世間、というか)の人びとが、彼らの存在意義・アイデンティを「簡単に」「安易に」否定しまうからだ。
さらに悪いことに否定する側は、そのことを「普通のこと」もしくは「相手にとって良いこと」と信じている(信じていないかもしれないが、否定することを自身の悪意の発露だとは感じていない)。
わかりやすいのは洋子の夫の場合で、まだ世に出ていない彼を、バイト先の先輩マンション管理員は「そんなアニメ、誰が見るんだよ」と安易に侮蔑する。
陽子も、敬虔なクリスチャン(で、かつ不道徳)な父親から否定され、文学賞にも落選している。
「さとくん」も、なんらかの事情で美術学校に進学できず、現在の職に就いているのだが、同僚たちは、入居者に寄り添おうとする彼を「変人」「厄介者」扱いする。
洋子の場合は・・・これは冒頭のシーンと絡んで来、かつ中盤で明らかにされるので書かないこととする。
世間から欲されない者は、存在すべきではないのではないか・・・
その考えが施設の入居者たちにも向けられる・・・
とそんな単純ではないのだけれど、存在意義を問う、というか、存在意義を問うことを問う、というか。
存在意義を問うことを問う、というのは「いま考えていることを問う」ということで、わかりやすい言葉でいうと「葛藤」ということになるのかもしれない。
その「葛藤」のシーンは随所に登場する。
しかし、「葛藤」することは、すなわち「生きている」ということであり、「我思う故に我あり」というではないか。
大量死傷事件を起こした者は、その「葛藤」を棄てた。
相手の中に自身を見、自身にとっての存在意義を棄てる。
殺してしまいたかったのは、自分自身なのだ。
映画は、それをワンショットでみせる。
このワンショット、監督としては相当な力技、相当な決断・覚悟が必要だったはずだ。
映画は安易な結末を設けない。
ささやかな希望は見せてくれるが。
観る側も相当な覚悟が必要な映画でした。
元津久井やまゆり園の職員として。
過去に津久井やまゆり園で働いており、7.26もそれ以降も法人に所属していた身として、色々なものを(無論、清濁併せ吞んで)見聞きしてきた人間としては書かなければならないと思い、筆をとっています。プロのレビュアーではありませんので乱筆乱文、ご容赦ください。
✴この作品を観た人、このレビューを見ている人、業界の方、できるならばここを起点に感想と議論を重ねて行って欲しいです。事件を風化させないためにも、自身の障碍者観を世間に照らし合わせるためにも。
公式には明言をしていないけれど、あの事件をモチーフとした映画であったらしく、
関係者さんのご厚意もあって7月に試写会で鑑賞させていただきました。
きつかったです。
冗談でも何事でもなく、上映中止にすべき作品だと思います。
その時もその後も感想は同じなんだけれど、あるライターさんから「思ったのならそれを文章にしないと」とアドバイスを受けたのでここにつらつらと書いてみる。
はっきり言って辛らつだし、思い切りネタバレなのでそういう意見を聞きたくないという方はここで回れ右を推奨します。
・はっきり言って辛い。それは同席された知り合いの映画監督さんとも意見は同じでした。
・大前提として、「これをもってやまゆり園事件というものを理解したと勘違いされるのは甚だ心外」ということです。それが全国上映をされて流布することが恐怖でしかない。
・ネタバレになっていきますが、個々のエピソードに連続性がないし、そのエピソード、いる?というものが多い。
・例えば宮沢りえは震災311を経験して小説にしたということだけど、その経験が映画本編のどの行動にもかかわってこない。
・二階堂ふみも作家志望の施設職員ということだけど、作家である必要性はほとんどないし、この辺りのエピソードも作中で触れられるけれども内容には全くかかわってこない。
・二階堂ふみの家族構成にゆがみがあった事や、キリスト教徒であることも作品の中で紐づけされているわけでもない。途中ワインを飲み干す場面があったけれど、あれはユダの裏切りのオマージュかな?だから??という感じ。
・さとくんの人となりについては当初利用者思いであった青年が壊れていく、という流れはあるけれどもその変化があまりにも唐突で、職場に人間関係との軋轢や誰にも言えない環境によって徐々に壊れていくというわけではなく、あるエピソードをもって唐突に「壊れる」表現になっている。
・しかも壊れる要因が利用者さんの行動によって。という感じでこれではまるで「障害のある人が原因で事件が起きた」という印象に観客をもっていこうとしているようにも見えてしまう。
・職場の環境は確かに劣悪であったように表現されているけれども、それも個々のエピソードとして捉えられているだけで連続性を持たない。
・その後さとくんは文字通り壊れていくわけだけど、それを止められていない周りというのも違和感が残った。ドキュメンタリーでない以上、どこかでアンチテーゼのような場面や意見を見せる事や何かしらの希望を残すような表現を盛り込むことだってできたはずなのに、そういったことはしないでひたすらにさとくんという人物を「巨悪なサイコパス」として暴走させていく事に製作者側が執心しているような感じであった。
・多分、現場では流れを止められるような出来事はなかったのだろうから、ある意味事件を題材とした映画としては正解なのであろうけれど、それでも抗った人たちがいた事は知っているし、優性思想というものにノーを突き付けようと必死に努力した人たちがいた事は知っている。そういった人たちの取り組みを載せないで、もしくは(文字通りの)暴力でねじ伏せてしまう作品の流れは、事件をモチーフにしていながらあえて客観性を捨てて製作者側の都合で事実を歪曲して伝えようという意図すら感じてしまう。
・そして作品中最も問題があると感じたところだが、さとくんの彼女が聴覚障碍者という設定についてだ。
・作品中、さとくんが彼女に事件をほのめかす場面がある。その場面があろうことか、聴覚障碍者でなければ事件を防ぐことができたような表現になっていた。これには唖然とした。まるで彼女が聴覚障碍者だったから事件は起きてしまった。と言わんばかりの最悪の改変だと思う。
・無論さとくんの彼女の描写の中で聴覚障害であることが作品のストーリーラインに関わってくるのはほぼこの場面だけ(他にもいくつかあるけれど、正直同じような表現。「耳さえ聞こえていれば…」と思わせたい意図が見える)。これはもう悪意があるとしか言いようがない。この場面は怒りを通り越してあきれた。
・この表現に関しては聴覚障害者の当事者団体ははっきり言ってクレームを入れるべき内容に思える。それは観終わった後同席した方々とも話題に上がった。
・かくして事件は起きて作品は終わるんだけれど、ここで終わらせて何がしたかったのかがより分からなくなる。事件を乗り越えようとか、何かが問題提起されるわけでもない。
・総じてこの内容で144分はまったくもって理解ができない。時間を無駄にしたと見終わって正直思った。
・無論「はっ」となった瞬間もあった。きーちゃんを殺したさとくんがきーちゃんの亡骸に「かわいそうに」という場面などは心のないと言っている障碍者にさとくんが無意識に「かわいそう」という感情を抱いている。イコール人として無意識ではまだ認識しているという心の動きを表しているようで良い?表現であったと思う。
・総じて薄い、テーマ性の乏しい作品でした。
・やはり不安なのはこれが10月から全国上映されて事件の背景が障碍者にあったんだと世論が信じてしまうことだろうな。と思う。本当にあった事はもっと根が深くて、現在はどうなっている。ということも知らずにやはりこの事件については闇に葬っておくべきだ。障碍者は施設に入れておくのが正解なんだ。という結論に至られてしまうのだけは避けるべきだと思う。
他の方がどう感じるのかは分かりませんが、私はこの作品、非常に危険性をはらんでいると感じました。
・同席した映画監督さんの話、「今世に出ている事や世間が知り得ている事は裁判の証言だけで、それを料理した場合、あれが限界。
『私達や関係者が知っていても世に出ていない』
事を出すわけには行かなかった。ある程度ノンフィクションに沿った映画というものは確定した事実以外は中々とりあげられないから」という言葉が悔しいけれど腑に落ちた。
・だからこそ、この事件がまだまったく掘り下げられていないのだということを知って欲しい。まだまだ世間には広がっていない事があるのだということを知ったうえでこの映画が投げかけている問題を一人一人が考える切欠になってくれる事を祈っています。
追伸
やまゆり園のスタッフルームは扇風機ではなくエアコン完備で机もちゃんと事務机でした。
あと、居室のドアに設けられている窓は丸じゃなくて四角でした。
そこだけは訂正しておきたい。
最後に、あの事件で亡くなられた19名の方々のご冥福を心よりご祈念いたします。
全69件中、61~69件目を表示