月のレビュー・感想・評価
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さとくんというアンチテーゼを生んだ社会=私たち
相模原障がい者施設殺傷事件をモデルにした作品ということで、正直かなり身構えて鑑賞した。あの出来事をフィクションに取り込むことの是非自体に懐疑的な気持ちを持ってしまったというのが本音だ。
辺見庸の原作は未読だったが、それを読む代わりに「やまゆり園事件」(神奈川新聞取材班・著)というノンフィクションで事件の概要をさらっておいた。原作からは視点人物の変更などかなり構成を変えていると聞いたためでもある。
実際観てみると、本作は事件そのものの実情に肉薄する話ではなかった。植松聖をモデルにしたとされる「さとくん」(植松聖が小学生の頃実際呼ばれていたあだ名と同じ)が何故あのような思想を持つに至ったかという部分は、むしろあえてぼかして描かれているようにさえ見える。
実際、パンフレットにある石井監督のインタビューによると、「生産性のないものを排除する」という思想は今の社会そのものが帯びているものであるため、植松という個人を掘り下げることはしなかったそうだ。
それは結果的に現実の事件に対して謙虚であることにも繋がっているように見えた。完全な創作ならさとくん個人の内面はもっと踏み込みたい部分かもしれないが、そこは「今の社会」の一員である観客自身に自分ごととして考えさせたいというのが本作のスタンスだろう。
ただ一方で、それならさとくんのディテールをあそこまで植松に寄せる必要があったのだろうかという気もした。
キャスティングはさすがに手堅い。個人的には、オダギリジョー演じる昌平が特によかった。自分とは全く共通点がないが彼の悲しみや喜びには感情移入出来た。オダギリジョーは奇矯な役もすれば、市井の人の風情を出すことも出来て、あらためて演技の幅の広い役者だなと思った。
ちょっと驚いたのは、施設の風景の場面で実際の障がい者の方が出演していたということだ。和歌山県有田市の障がい者就労継続支援B型施設「AGALA」の協力で、利用者本人に映画の内容を説明の上出演の意思を確認し、保護者にも了承を得た上で出てもらったという。なお虐待の場面の障がい者は俳優が演じている。
題材が題材だけに監督の覚悟は伝わってきた。だが、いくつか引っ掛かりを感じた部分もある。
ひとつは、障がい者の問題だけでなく、東日本大震災のことや出生前診断のことを絡めていることだ。
言いたいことは何となく分かる。震災においては、綺麗事が真実を覆い隠す一面があったし、出生前診断は、優生思想に繋がりかねない危険をはらんでいるということだろう。それらは、重度障がい者の社会との関係や、さとくんに象徴される命を選別する考え方とたいして違わないのだと。
それでも、ただでさえ繊細さが必要な障がい者を取り巻く問題を語る中で、震災と出生前診断のことにさらっと触れて、障がい者の問題と共通点があるだろうといわれると、私自身はどうしても「同じ俎上に載せていい話なのだろうか」と思ってしまう。
洋子たち夫婦が出生前診断の結果を聞きに行く日を現実に事件が起きた日に重ねているのが分かったシーン(カレンダーに丸印を付ける場面)は、正直そこまでやるのか、と思った。
監督は、自分の子供が産まれた時に感じた「健康な子供じゃなかったらどうしよう」という気持ちを強烈な差別意識だとし、それは自身の狭量さや不寛容さのほかに、社会のせいでそのような気持ちを持つのだと言っている。
出生前診断を受ける人は、内なる差別意識からそのような選択をするのだろうか。選択の理由には、違う意味での切実な事情もあるのではないだろうか。経済的負担、既に障害のある子を持っていたり親自身が疾病などで体力的に障がい児の育児が難しいなど。海外では妊婦の権利として認められ検査に保険が適用される国もあるなど、考え方の分かれる問題だ。これはこれで、本来なら当事者への取材が必要なテーマではないのだろうか。
また、複数の重いテーマを重ねると、重すぎて受け止めきれない人も出てくるだろう(障がい者の物語だけでも正面から描けばそういう人は出るだろうが)。本作を監督の意図通りの重さで受容するには、観る側の心にもある種の余裕が必要だが、観客だってそんな余裕を持って生きている人ばかりではない。
より多くの人たちに受け止めてもらうためには、ただひたすら深刻な描写のみを積み重ねるだけでなく、ある程度の飲み込みやすさも必要な気がする。
もうひとつは、主要キャスト以外の施設の職員2人が、ただの差別意識の強い人間としてしか描かれず、その背景の描写が不十分に見えたことだ。
河村プロデューサーは、事件の背景には社会の構造があると言い、長井プロデューサーも、本作の挑戦を日本社会での生活の根底に流れるシステム自体を問うことだとしている。であれば、あの2人の職員が何故あのような差別的態度を取るに至ったのかという部分こそしっかり描くべきだったのではと思ってしまう。
昌平の職場の先輩の描き方もそうだ。あまりに作為的過ぎる極端なキャラクターで、彼をあのようにした社会の問題より、この先輩個人への嫌悪感が先に立ってしまった。社会の差別意識を、登場人物個人の行動のみで表象することは、見られ方によっては誤解を生むような気がした。
監督は、当時の施設の職員にはできる限りの取材をしたそうだが、かなり「難しかった」ようだ。そのため、ドキュメンタリーという手法では描けないからフィクションで、ということらしい。被害者遺族に取材を試みたかどうかは、私が読んだ範囲のインタビューなどでは言及自体ない。
物語では高畑淳子が遺族の代弁者になっていた。出演時間は短いが、当事者という意味ではさとくんと同じくらい重要な役だ。ただ、本作をもし遺族が観たらどう感じるか、私には全く分からない。
こういう問題を批判されるリスクなしに描くことは途方もなく難しいことだ。作中でさとくんが、洋子がきーちゃんの視点で小説を書いていることについて、利己的な側面があるのではと面罵した。そもそも原作がきーちゃん視点で書かれたものなので観ているこちらもどきっとしたが、監督は自分自身もそういう批判を受け得ることは承知の上ということなのだろう。
私自身は、重度障がい者がどう社会とつながっていくか、という問題については、まず知ることから始めたい、という気持ちになった。気になった点も書いたが監督の意図を感じとった実感もある。
重度障がい者が、施設ではなく、支援を受けつつ地域で暮らすという試みも近年進んでいるという。本作をきっかけに重度障がい者への理解を深める人が増えれば、その試みもいっそう進捗するのではないか。とにかく重い作品だが、そういう希望に繋がることを願う。
重くてズーン 考え込んでしまう映画
何の予備知識もなく見たのですが、かなり重い作品でした。
それだけなく、観る者を突き詰めるような「問いかけ」があり、とても苦しかったです。
映画というのは、万人とは言えなくとも、皆に「感動」、「衝撃」、「感慨」、「伝達」等を投げかけるものが多いのですが、この作品は、そんな紋切り型が決まったものではありませんでした。ラストになって、夫婦の再出発という予感が多少見えても、「救い」が見えてきたわけではありません。
2016年に起きた相模原殺傷事件。
津久井やまゆり園事件がモチーフになっていますが、映画はあくまでもフィクションです。
しかし、監督が投げかけてくるものが苦い現実というか、誰でも心に秘めている「見て見ぬふり」「他人事」「差別感」、これをどう説明したらいいのかと、映画を観たあと、考え込んでしまいました。
さと君が洋子(宮沢りえ)にいいます。
「僕は洋子さんと同じ考えです」
洋子が妊娠して、「子供に異常が見つかった場合、中絶を」と悩んでいるのだから、「無駄なものは排除しないといけない」という考えは洋子と同じというのだ。
かなり偏った言い分でもあると捉えられますが、もしも、私自身が同じ立場にあってそんな言葉を投げかけられたら、やはり考え込んでしまいますし、どんな言葉で返事をすればよいのか。
映画を観る数ヶ月前に、たまたま、知人と「障害者に対する強制不妊手術」について、少し語り合ったことがあります。そのとき、少し調べたのですが、1948年から1996年までは、「旧優生保護法」というものが存在しました。つまり、「不良な子孫の出生を防止する」ために、精神障害や知的障害などを理由に本人の同意なく強制的に不妊手術を行うことを国が認めていました。
そのことの賛否についてはここでは触れませんが、戦前からこうした「産児制限運動」を主導していた知識人の一人に「太田典礼」という医者がおりました。その人の主張とさと君の主張が似通っているのにはびっくりしました。(太田典礼は『安楽死のすすめ』という本を出し、避妊具リングを開発した人です)
太田典礼は「もはや社会的に活動もできず、何の役にも立たなくなって生きているのは、社会的罪悪であり、その報いが、孤独である」と言い切っていますし、また、「植物人間は、人格のある人間だとは思ってません。無用の者は社会から消えるべきなんだ。社会の幸福、文明の進歩のために努力している人と、発展に貢献できる能力を持った人だけが優先性を持っているのであって、重症障害者やコウコツの老人から〈われわれを大事にしろ〉などと言われては、たまったものではない」とも言っているのです。
さと君の「心がないなら人間ではない」という主張は、意味はわかっても、とうてい理解納得できるものではありませんが、太田典礼という医者であれ、さと君であれ、今後、同じようなことを主張する人が出てくる可能性は否定できません。
命の尊厳、生命の尊さって、一体、何だろう。
ただのむごたらしい殺傷事件を再現しただけの映画ではないことは間違いないですが、美辞麗句と言われようと、「生きているだけで愛」も否定したくない自分がいます。
希望と絶望
十人十色を感じすぎる映画です。
捉え方考え方受け取り方って本当に人と人は違うなと。
苦しいお話ですが現実にたくさんある話なのだろうなと思ってしまいます。
正義ってなんでしょうね。正解ってなんですかね。
あなたも俺なのでは?その問いに、私はすぐにNoが言えない。
苦しい映画だった。あなたはほんとうは重度の障害者にいなくなって欲しいと思っているのではないか?問いは、質問者と回答者の立場を何度も逆転させながら、映画を観る私に、繰り返し突きつけられる。多くの人が答えに詰まる瞬間を味わうはずだ。
題材となった2016年7月の「相模原障害者施設殺傷事件」を調べてみる。死刑囚となった実在の人物と、劇中で事件を引き起こす人物と、否応なく巻き込まれる登場人物たちと、それを安全な場所から観ている私たちとの間を、問いが串刺しにする。あなたはどうなんだ?ほんとうか?嘘をつかずに答えてくれないか?あなたも俺なのでは?
石井裕也監督が宮沢りえに与えた原作にはない役割が、磯村勇斗の「さとくん」と二階堂ふみの「ようこ」が繰り返し突きつける「問い」を、さらにリアルで説得力あるものにしていた。
映画を見たあとに、Wikipediaで実際の事件直後にどんな議論が巻き起こったのかを調べると、多くの人がその問いにまともに答えられなかったことがよく分かる。
苦しい映画だったが、かすかに希望も読み取れた。それが救いだった。
とにかく暗い場面の映像が多い。
神奈川県にあった障害者施設での障害者は社会には要らないという理由から大量殺人事件を起こしたのをモチーフに描かれている。
小説家の洋子が障害者施設に就職して、その施設の現実を目の当たりにする。
部屋には鍵をかけ、暴力的なことも日常茶飯事、不都合なことは見て見ぬふり、衛生的にもかなり厳しい。
陽子の言葉に「洋子の東北の震災をテーマにした小説には現場のおいや音が感じられない」みたいなことがあったが、まさに外向きには障害者がその人らしく・・・みたいなことを謳い文句にしているものの、現実との乖離がある。
洋子は3歳で亡くなった、寝たきりでしゃべることのできない男の子がいた。その子と目の前の障害者の扱いにだんだん不信感を持つようになる。わが子がそんな扱いをされたらどう思うんだろう、と。
でも、そこしか行くところがない、という現実もあり、不都合なことは目をつぶらないといけないことも出てくる。
そして、スタッフもそんな環境で働いていると、障害者への憎悪や偏見、メンタルの崩壊も生まれてくる。そんなメンタルの崩壊が事件につながってしまったのがこの作品のテーマになっている。
事件そのものよりも、そこに至る雪崩のようにメンタルが崩壊し、一過性の思いではない事件への決意の狂気が静かに描かれていく。
回転ずしのような食事はよく幸せの象徴で描かれることが多いが、食べている時に事件が中継されているのは、事件もメンタル崩壊も幸せもすべて紙一重で、きっかけさえあれば誰でもそっち側になってしまうということである。
2時間半ほどだが、あっという間に感じた。
やりすぎ感は否めない
石井監督の映画は初めて鑑賞
まず最初に、皆さんのレビューのように整理した内容にはならない。
映画を見直さなくても、これからも似たような事件は起こるのだろうけど、
そんな時に時々思い出しては書き加えていきたいと感じています。
始まりの震災イメージのショットから暗闇に懐中電灯の光が当たっているところしか
見えない状況が続く。ここにも意味があるのだろうなと思いながら観進めていく。
観終わって時間が経つが、改めて思いなおしても、問われているのはそこで、
人は見える世界しか理解できないということ
映画の感想としては、こんなに暗い病院ってあるの?
ちょっとリアリティーなくない?
こんな職場なら誰でもおかしくならない?
そこらへんはちょっとやりすぎ感が否めない。
さと君が、耳の聞こえない彼女に「今から…」と宣言するシーン、
その前に一度「本当に聞こえないの?」と聞くシーンがある。
さと君はどこかで彼女に止めてほしくて、奇跡でも起こって止めてくれ
と心の底では思っていたのではないかと思うのです。
汚い自分を汚くてはいけない。と思うのではなく
汚いことをありのままに受け入れる。
本当に難しいです。
ひとまず終了
考えたくないものを見せつけてくる
私が今まで観てきた映画の中で、これ程心苦しく自分自身に刃が突き付けられるような映画はありませんでした。
自身の中の差別意識や見ない、考えないようにしてくる部分を容赦なく見せつけてきます。施設の中の残酷な現実と一見平和な、しかし各々の登場人物たちの歪みや苦しみが察せられる生活のシーンの対比が生々しいです。
障がい者とは何か?を考え、現実に起こってしまったラストのとある犯人の行動。視聴者にもあなたはどうするのか?を問いかけてきます。
もっと広く
見たくないものには目を背けてしまうという趣旨のセリフが出てきますが、この映画が短期間でさして話題にもならず限られた上映館で終わってしまうことが惜しまれます
障がい者の問題に正面からぶつかった映画です。事件を起こす元職員の描き方もリアルです
妄想的解釈や幻覚らしき症状もかなりリアルに描かれ、モデルになった事件の犯人と重なるところが多々あります。元職員の考えを独善的妄想的と批判するのは簡単ですが、それでは済まされないよと問いかけてきます。やや説明的なセリフもありますが、この問題の深さ、難しさを考えさせられます。
残念なのは、結局、世間はこの映画に背を向けて、見ざる、聞かざる、言わざるになるだろうなということです。この映画がヒットするような社会であってほしいです。
レビューを書いている人も内容を見ると施設の関係者や患者等の経験を持つ人が多く、関係のある人以外のコメントが少ないのです。それ以外の人に多く勧めたいのに。
私は施設の関係者ではありませんが、就いていた仕事の関係で、この映画で思い出されたのは、見学などの経験がある、特別養護老人ホーム、刑務所の保護房、家族の要望に従って監禁しているだけではないかと疑いたくなるような劣悪な私立の精神病院、障がい者施設などです。声や音、臭いも含めて。虐待をする職員も出てきますが、低賃金で、入所者に振り回され、なかなか生きがいを見出しがたい環境で待遇も悪いことからすれば、強くは責められません。最近では一番考えさせられる映画でした。
恐怖の中に垣間見える現実
津久井の障がい者施設で起こってしまった殺傷事件がモチーフの映画です。
相模原市出身者として、これから社会の障害をなくしていく者として、
見なければならない作品だと思っていました。
上記の事件がなぜ起こってしまったのかはわからないですが、原因と思われるいくつかがこの作品の中に散りばめられていたと思っています。
・施設で働く職員が、まるで障がい者を人ではないかのような扱いをする場面。
・暴れる障がい者を鍵付きの個室に監禁する場面。
・差別的な発言をする職員を、冗談だとして無視する施設長。
・働いている職員の、逃れようもない家庭の現実。
・悲しみにくれる主人公がその悲しみの答えを求めて、映画の障がい者施設で働くさま。
それらいくつかのプロットが混じり合った結果、映画の世界に引き込まれていき、
鑑賞が終わった後も、まるで現実感のないような気持ちが続きました。
振り返ってみると、過去に私が精神科の閉鎖病棟に入院した時に感じた苦しみと似ている点がいくつもあったかなと思います。
入院中は心も頭も重苦しい状態でしたが、暴れた患者が鍵付きの個室に移動されるさまを見たときは、どうしようもなく やるせない気持ちに心が覆われたものです。
そして、いつ出られますかと医師に聞いても、もう少しと言われ続け、先の見えない毎日。
これが病気なのか・病気でないのか、障がいなのか・障がいでないのか...
迷って迷って答えを決め続けた延長線上に、今の生活があります。
入院していた頃と変わらない自分の核は、障がい者と同じ、とも言えます。
ただ、安易に同じと言っては、映画で、施設長が開けるのを禁じている扉を磯村君が開けた後のワンシーンのように同調しすぎてしまう危険性があると思います。
ただ、多少誇張している部分はあるかもしれないけど、この映画で表現されたことは、経済成長ばかり追い求める社会の裏で起こっている現実に近いものだと思ってます。
だからこそ、この映画で監督が伝えたかったことを、現実を知らない多くの方に知ってほしいと願っています。
そこで知った感覚が、最後のシーンで宮沢りえ さん・オダギリジョーさんが決意したのと同じように、どうしようもない現実を変える力になると信じています。
これだけは言えます。
最高の映画でした。
PS: 映画で昌平のセリフを聞きながら、節々で感じる空元気の演技に、オダギリジョーさんの凄さを感じました。
とにかく救われない映画
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東日本大震災を題材に本を書いたら売れた宮沢。
だがやがて書けなくなり、障害者施設でパートで働くことになる。
震災を取材に行った時には、汚いものや臭いものも多く見た。
但しそれらをありのままに書くことは編集者が許さず、美化して書いた。
それで書けなくなったのだった。日の当たらない障碍者施設を経験すれば、
また何か書けるのではないかという期待も持っていた。
しかし働いてみると最悪で、職員が利用者に障碍者を振るうこともあった。
また近づくことを禁止されてた部屋に、夜勤時に行くと衝撃の光景を見た。
閉じ込められて糞尿まみれで放置されてる障碍者だった。
一緒に目撃した職員の青年のスイッチが、これで入ってしまった。
心を失った者はもはや人間ではなく、存在する価値などない、
だから施設の260人ほどを全部自分が殺す、と言い出したのだった。
もちろん宮沢らは、それは間違ってるとか色々言って止めようとする。
が、結局予告通り最悪の事件が起こってしまい、ジ・エンド。
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とにもかくにも、救われようのない映画。
上記の悲惨な本筋以外にも、色んなエピソードが描かれる。
同僚で小説家の卵の二階堂ふみの話、売れない映画監督の夫が受賞する話、
夭折した2人の子供は病気で「心を失ってた」話、宮沢がまた妊娠した話、
宮沢が障碍者施設を題材にまた書き始めた話・・・。
が、どれも本筋とはそんなに関係して来ない。
青年は言った。誰かがやらなければならない、これは国のためでもある。
ほとんどの人間は単にラクな選択だから善を選んでるだけであり、
本当は手を下す勇気がなかったり、責任を負いたくないだけ。
確かにその主張自体は鋭い所をついてると思う。
またこの青年の、生きる姿勢自体は素晴らしいと思う。
見てはならないものを見て方向性がおかしくなってしまっただけで、
もともと真面目で一生懸命、思いやりもある優しい人間。
また事件を起こした理由に私利私欲が一切ないだけに、救われない。
心を失った者は本当に人間なのか?難しい問題である。
施設での描写を見てると、心のない人間に存在価値は感じない。
周囲に迷惑をかけるし、本人も暴れたりして苦しんでる。
そのまま存在が消えたらいいのにと思ってしまう。
そして普段から目を向けないようにしてる。
これは、きっとほとんどの人間がそうだろう。
自分が被害を被ってないから、殺そうとまでは思わないし、
また殺すなんて可哀想という気持ちがはたらいてそう行動しないだけ。
この映画を見て、こういう問題が実際にあるであろうことを知った。
でも、これからも目をそらし続けたいと思ってるズルい自分がいる。
とにかく色々と考えさせられる映画。そしてとにかくやるせない。
扱うべき題材なはずなのに、テーマそして構造、描き方が陳腐
人種差別、人間と非人間という思想、優生思想、生が気持ち悪くて臭いということを認めること、あるいはそれを認めずに無いものにすること、「自分とは違う」存在を受け入れられないということ、無いものにすること。今まさに世界で起きている虐殺と限りなく近い思想の種について考えている題材であるはずで、語らなければならないことについて語っているはずなのに、なぜかこの映画を最後まで観ても考えが深まらなかった。残念だった。
それぞれの存在が鏡になって、どちらがどちらなのか誰が自分で、自分ではないのか、そんなふうに問われていく演出はふさわしかった。
しかし、最後まで、「自分は人間」って思っている人たちからの視点でしか描かれないままで、施設の中で生きている人々のこと、この映画を作っている人たちはちゃんと見ていたの?聞いていたの?本当に、葛藤を描いたの?
結局、この映画は「刺さんなかった」。
この映画を作った人も、悲しみ?で言葉を失ってしまっていたのかな…?
すごく、残念です。
結局は何も描けず、すべった感じ。
俳優さんたちも、それぞれの役の人生に向き合って演じたはずなのに。
でも、じゃあ、殺された人たちの人生には誰が向き合ったの?この映画を作る人たちの中で。
最後まで、ミミズや蛇が暗示するだけ?
結局、「人間」に靴で潰される存在のままでしか描かれていない。
何が日の光にあたって美しい、スローモーションで映される障がい者たち、ですか?
そういうカットでしか、彼らを描けませんか?
「側」という、構造を崩さないまま、最後まで「得体の知れないもの」をどうしようか迷う「人間側」の心情しか描かれませんでした。
何を描きたかったの?テーマが謎です。
最後の、入所者の方のお母さんが泣くシーンとかも、悲しい、という感想を抱かせるだけだし。
自分の、子供たち(亡くなった子供と今お腹の中にいる子供の2人)に対する思いと障がい者に対する思いを重ねて揺れる心がテーマ?
うーん…薄い…
自分の心の中の優生思想に気が付かせるのが魂胆…?
それだけ…?
もっと描くべきものがあったはず。
こんなことは事件を知っている人なら考えることなはずです。映画の中ですべきなのは、その先の対話だと思います。
〈月〉も、ハイタッチも、二階堂ふみさんの役の存在(〈嘘〉について考えさせるとか、汚いものを見るとか)も、映画のテーマの中で結局はほとんど意味がないままだった。
本当に残念な映画です。
重要な映画になり得たはずなので、とっても残念です。
残念であることについて書きたかったので、評価すべき点については書きません。
もうすでに賞も取っている映画なので、されるべきところはされていると思います。
そういうわけで、テーマとしては表面的に似てしまっている『ロストケア』の方が考えるに値する映画だと思いました。
でも、この映画『月』が考えるべきなのは、「見たくない現実を見ないようにしている人々 ー あなた」ではなく、差別、と、それが罷り通ってしまっている社会のありようですよね。「あなたも犯人みたいなことを考える人の一人かもしれない」などと刃を向けるのが目的になってしまっていては、問いかけ、考え続けることにはなりません。
問題は、個人の思想だけに問われているのではないと思います。この映画はそこまでいけなかった。
最後に。
「この人話できますか?」
と訊くさとくんのことは、
心に残り続けるかもしれません。
彼が何に葛藤していたのか、のヒントとしては。
結局、作り手は、ほとんど彼の思想についてしか興味がなかったのではないでしょうか。
目を背けてならない事実
普段、障害者の支援の仕事に携わっています。同僚から山ゆり園のことが映画化されたと聞き、しかも磯村勇斗さんが植松被告役と聞いて、普段映画やドラマでの磯村さんの悪役を演じる演技が好きだったので、これはハマり役だろ!と思いすぐ見に行きました。
作品の感想としては登場人物全員が闇を抱え、ただただすごく暗い、特に序盤の展開はダルく長ったらしいと感じます。
不謹慎なのかもしれませんがやはりサト君の心情の変化、そしてそれがどんどん捻じ曲がっていき、最終的に犯行に及ぶその心情に物語の一番のクライマックス的な盛り上がりがあるように思いました。
あくまで山ゆり園のことをそのままやってるわけではなくその事実の題材をベースにしながら物語が作られています。
どこまでが本当でどこまでがフィクションかはわかりません。
題材がフィクションではなく、本当にあったことでまだ終結していないので物語はものすごく中途半端なところで終わります。
ただ、この作品は普段障害者支援に関わる自分にも、いや世の中全体にもサト君の言葉はすごく投げかけられてるようなメッセージがありました。彼のやったことは許されないことではあるけど、彼の言っていた言葉や思い、世の中が目を背け、臭いものに蓋をする、そんなことに誰もが無関係ではないと思います。世の中がこれからも考えていかなければならない、目を背けてはならない問題がこの作品には詰まっています。
そして何より磯村勇斗さん本当に大変な役どころをしっかり演じてくれていました。脇を固める役者さんもどれも皆素晴らしい役者さんばかりで演技としては安心して見れました。
自分の中の優生思想に気付かされる
公式には言われていないが、やまゆり園事件をベースにした映画。あくまでフィクションという線引きはわかりつつも、現実の植松にいささか肩入れしたストーリーと感じた。植松は決してヒーローではなく、自己愛の強い異常者だったと思う。
一方で、「じゃあ自分には、サトくんを批判することはできるのか?」という問いに否が応でも向き合わされる。まさに洋子が直面する「障害があるかもしれないから堕ろす」という考え方は、サトくんと同じなのではないか?と。
サトくんと洋子と洋子の内面がぶつかり合うシーンは、素晴らしい緊張感でした。
できれば、洋子と昌平がくだす決断までをこの映画で見届けたかった。
そして、二階堂ふみさんは、ザラつき感のある女を演じさせたらほんとにピカイチです。
さて…どおしたものか。
さて、作品についてだけども…皆様、熱演だった。
のっけから重苦しい雰囲気で物語は始まる。
あのご夫妻は、区切りをつけきれずにいたんだろうなぁと思う。時間も足りなかったのかもしれない。
宮沢さんが自問自答するシーンに圧倒される。同じように自問自答してた。そしてやっぱり彼の事は止めると思う。命がどうのと言う観点ではなく、一職員が決行していい事ではないからだ。
患者に意思表示が出来ないのならば、それを決断していいのは血縁者だけだ。患者の命と将来に責任を持てるものだし、その責任を背負っていけるものだけだ。
磯村氏も素晴らしかった。
台詞の抑揚といい佇まいといい…自身の正論を述べる人であり、他者にとってはそれが異常だと思える人だった。
二階堂さんに至っては、この人こそ天才だと思えてしまう。冒頭の宮沢さんとのカットバックから既にギリギリの人の目をしてた。
冒頭の旧約聖書の解釈は人によるのだろうけれど、作品を見て「え?」って思ったのが、彼による1人目の殺人の次のカットがご夫婦の「おめでとう」「ありがとう」ってカットだった。そして血塗れの彼にカットは移る。わざわざソレを被せる意図は何なんだと驚いた。
ニュースが流れるシークエンスでも、回転鮨のレーンの描写がある。
何故、こんな物の描写が入るのかと首を傾げる。止めどなく起こる悲劇の暗喩が回転鮨なのかと思ったりするが、それにしてお気楽な感じもしなくはない。
けれども何かハッピーな事とは紐付けられないような雰囲気でもあって…考えれば考える程、厄介な事しか浮かんでこないような気もするので追求しないでおこうと思う。
高畑さんの登場には驚いた。
面会に来るご家族がいる設定なんだと。
ここでまた話がややこしくなる。いや、話自体はややこしくはならないのだけれど、保護者の立場も考えねばならぬのかと憂鬱になったのだ。
思うところはありはするが、当事者ではないので何を言っても余計なお世話なので、自身の胸の内に秘めておこうかと思う。
⭐︎の評価はほぼ俳優陣の演技に敬意を込めて、だ。
作品自体は宮沢さんの自問自答のシーンが、そのまま監督の葛藤にも見えなくはなかった。
▪️余談
※当初、冒頭に書いていたのだけれど感想よりは「私見」に近いので前後を入れ替えた。
俺も精神病院に行かなければいけないのかもしれない。彼の考え方を真っ向から否定できない。
行動に移す程思い詰める前に俺なら辞めてはいるが。
自分の死生観による所も大きいのだけれど、それを他人に当てはめる程、乱暴ではないとも思ってる。
17万って給料に驚いた。
大変な仕事だと思うし、何故それを選んだのだろうと疑問にも思う。俺には分からないだけでやり甲斐はあるのだろう。職員の方々には使命感みたいなものもあるのかもしれないと勝手な事も想像してはいる。
臭い物には蓋、なんて事を作中で言われるのだが、ちょいと異論がある。確かに向き合ってはいないが向き合う必要が今の俺にはないからだ。
自分の人生だけでも精一杯なのに、わざわざ関わりのない問題を抱え込みたくはない。
俺には俺がやらなくちゃいけない事が山程あるんだ。
それを卑怯と言うならば、そうなのだろう。その他の事は自分が当事者になった時に考えようと思う。
理想と現実は違うし、理想を押し付けるのはもっと違うのだと思う。ただ、17万は安過ぎると思う。
俺はやれないし、やりたくない。
やらなければならない時はやらざるを得ないのだろうし、当事者達の苦悩や葛藤も知らずに、意見を述べる程愚かではない。
3.11についても触れてはいたけど、別に忘れてないと思ってる。電気代は上がってるし、復興税なんてものも払ってる。それが支援なのだと思ってるし、それ以上に協力出来る事も今の俺にはない。
再三言うが、抱え込まなくていい問題は、抱え込まない方がいいと思ってる。
「忘れる」って事にしたって、忘却は脳の防衛本能だとも思ってる。100受けた悲しみや傷を100持ったままでは生きていけない。0になる事はないけれど、せいぜい20くらいにはなってくんないと明日に進めないように思う。
作中では中絶と安楽死を同列に語ってはいたけれどいかがなものかと思う。「要らないから殺す」は両者ともにいささか乱暴すぎる。極論、根っこは一緒だろと言われても承服しかねる。そもそも両者とも赤の他人に決定権はない。故に彼が言う「安楽死させてあげる」なんて文言に正当性などないのだ。
本人から意思表示がなければ患者であれ赤児であれ、その内側も慮るしかないのは同じで…何を投影するかなのだと思う。
そう思い込みたいのだ。
笑顔になれば楽しそうと思いたいし、言葉に反応すれば通じてると思いたいのだ。
実際は分からない。なんせ確かめる方法がない。
目が開いてれば見えてると思いたいし、耳があれば聞こえてると思いたい。それは願望でしかない。
切実な願望だ。
後は、患者の行動なりリアクションなりを推し量る観点が間違ってる。彼の場合、自分を基準にしてはいけないのだ。彼の観点からすればそう思うのは至極当然ではあるけれど、元々動ける人間が10年寝てるのと、最初から動けない人間が10年寝てるのとは価値観からして違うと思うのだ。
彼が行った犯罪は世直しのような類いではなく、暴走した自己主張なのだと思う。
テロリストと似たようなモノだ。
決して容認できるものではない。
見て良かったとも思わないけども、見なければ良かったとも思えない衝撃的な作品だった。
月の明かりに照らされて・・・‼️
この作品は介護施設を舞台に、光、喜び、葛藤、トラウマ、劣等感、妬み、狂気など、人間の様々な感情と人間性をあぶり出した傑作‼️物語全体を包み込むような月の明かりが印象的な作品でもあります‼️宮沢りえさん扮するするヒロイン洋子と、オダギリジョーの夫・昌平。3歳の息子を先天性の心臓病で亡くした辛い過去を持つ夫婦‼️人形アニメーションの制作に励む昌平と、作家でありながらデビュー作以降書けないでいる洋子‼️そんな洋子が介護施設で働くことになり、息子を失ったトラウマと再び対峙することに‼️洋子の息子を失ったトラウマと、介護施設で直面する葛藤を表現する宮沢りえさんの演技力は素晴らしいと思います‼️二階堂ふみさん扮する介護施設の職員・陽子。幼い頃から体罰を受けてきた父の浮気を知る陽子‼️そんな父や母との家族関係に悩み、作家になるという夢も、まったく芽が出ない時に出会った洋子への、劣等感と妬みを増幅させてしまう‼️そして磯村隼斗扮する介護施設の職員・さとくん‼️患者たちに手製の紙芝居を読んでやる心優しい男‼️しかし、同僚たちからは余計な仕事を増やすなと馬鹿にされ、その同僚たちの患者たちへの虐待を目の当たりにした時、狂気の世界へと堕ちてしまう‼️このさとくんがヒトラーと比べられるシーンがあるのですが、さとくんの彼女は聾唖者の女性‼️さとくんは障害者を社会に必要ナシと判断し、殺害を計画するのですが、自分の彼女みたいに意思疎通ができる人間は必要であり、介護施設の患者みたいな人間は必要ナシとラインを引いているところが恐ろしい‼️悪の論理ですね‼️最近の無差別殺人の犯人は、さとくんみたいな悪の論理が存在してるんじゃないかと思うと戦慄です‼️舞台となる介護施設も夜の闇に雷が響いたり、森の中にポツンと建っていたり、周りをヘビが徘徊していたり、クモなどの虫の描写があったり、まるで幽霊屋敷のような描写がなされており、この作品の世界観の構築にひと役買ってます‼️そして介護施設で日常的に行われている虐待‼️ここでは虐待のシーンを直接観せることなく、夜の闇に響き渡る物音や叫び声で表現していて、想像力を煽るという意味で秀逸‼️ただ部屋に閉じ込められた患者さんが便まみれで放置されてる描写は、強烈なショック度です‼️そして虐待をする職員たちの罪の意識の無さ‼️見て見ぬフリをし、現実を直視しない職員たちの後ろめたさ‼️その辺の描写も丁寧に描かれ、好感が持てます‼️そんなさとくんも精神病院に収監され、洋子も新しい小説の執筆を始め、妊娠も発覚‼️昌平も小さな映画祭で自分の人形アニメーションが賞を受賞‼️全てが順風満帆に向かっていた時、思いのほか早く退院したさとくんによってもたらされる悲劇‼️惨劇‼️ラスト、記念日に回転寿司屋で、今後の人生について前向きに話し合おうとしていた洋子と昌平‼️さとくんによる凶行がどんな影響を及ぼすのか❓観る人の判断に委ねられるラストですが、どちらに転んでも洋子と昌平にとって新たなトラウマとなるはず‼️恐ろしい終幕です‼️
たとえ大事なことがわからなくても
「みんなちがって、みんないい」と言う。
金子みすずの、詩の一節だ。
ぼくはひとつの疑問として、その〝ちがった〟中に、
本当の〝まちがい〟や、
かえって本当の〝ただしさ〟があった時、
人は「それ」を、見分け、守ることが出来るだけの
決意と、それに伴う判断、
を持ち合わせているのだろうか、
という個人的な、疑問を思ってしまう。
「月」に出てくる、事件を犯した〈さとくん〉は、
「みんなちがって、みんないい」という考えよりも、
その手前か、ましてや奥か、
自分の〝ただしさ〟を他人の命に当てはめた
とぼくは思う。
それは劇中のオダギリジョーの役が指摘するする通り、
矛盾を持っていると感じる。
〝まちがい〟であると、一個人としてぼくも思う。
〈さとくん〉は言う。「わからないから」と。
わからない人は、そうしていいと述べる。
だが、ぼくは思う。
世の中には、たとえ大事なことがわからなくても、
代わりに〝わかっている〟人を見つけること、
その者を頼りにすることで、
世界を理解する人がいる、
と、ぼくは思う。
ぼくはあるワークショップに参加した時の
ある親子の方を思い出す。
障害をもっているお子さんは、
たとえそのご本人が作業を出来なくても、
代わりに作業をしているお母さんが楽しそうにしているのを見て、
とても喜んでいた。
それを思うと、人は決して、
自分ひとりで何もかも理解する必要は無いんじゃないかと思う。
だから、「わからない」からといって、人の命を勝手に決めたりするのは、〝まちがい〟であると、ぼくは思う。
社会の中で、
〝まちがい〟も、
その〈さとくん〉における〝ただしさ〟も、
「みんなちがって、みんないい」という、『負』の観点からのある種の多様的考えによって、
逆に防ぐことも、できなかったのではなかろうか。
「個性」というのは、いつしか、ただ人の特徴や長所を指摘するだけでなく、
人の短所や、かなり間違ったことでさえも、
「個性」として指し示すようになってしまったのではなかろうか。
そうした意味でも、「月」の中に出てくる職員たちは、
「個性的」と言わざる得ない。
ぼくはそうした役柄をあえて登場させたのか、観ていて分からなかった。
また一観客として、何故このように暗く、施設内を映すのか、とても疑問をもって観た。
ぼくは今作を、作り手の文芸的作品として捉えた。
そうした意味で、事実性がどこまで事件の本質を捉えているかは不明であると感じる。
こうした映画の見方も、ぼくの「個性」として捉えられるのだろう。
言葉や気持ちにおける普遍性よりも、有名度や評価的観点からの、個性における普及性の方が、社会により影響を及ぼす可能性を思うと、気持ちも暗くなる。
こうした投げかけの中でも、せめても「記憶」し、生きて行かなければならない。
ラストの、事件に対する思いか、現実への気持ちか、
決意を確かめる二人が印象的だった。
その思いには、事件を忘れないこと、その中には未来に生きようとしていた人々、生きていた人々の思いも含まれているのは確かだ。
ぼくはそう思う。
重くて、苦しい。
自分は昔、障害者施設で働いた経験があるため、支援者としての視点で、この映画を観たいと感じ、観に行きました。
実際の事件は、当時もかなりのショックを受けたため、覚悟はしていましたが、映画の内容はかなり重たく、事件をモチーフにしたシーンは目を背けたくなるほど、苦しかったです。
あと、映画に出てきた支援員がみんな虐待だったり、マイナスな気持ちを抱えて支援をしてるように描かれてるのが、モヤモヤしました。支援員の仕事がしたくて、働いている人もいるのに、どうしてマイナスな面ばかり描くのか、辛かったです。
私はこの映画を観て、とても絶望的な気持ちになりましたが、津久井やまゆり園の事件を忘れずに、自分に何が出来るか考え続けたいと思いました。改めて考えるきっかけをつくってくれた作品なので、多くの人に観てもらい議論出来たら良いなと思った。><
うん〇に触ってない奴がうん〇を描くな
この映画の感想はこれに尽きる
一緒に観た介護福祉士の娘と、ケアマネジャーしてる私の感想
映画を観終わって、しばらく無言で映画の内容に触れなかった娘が、堰を切ったように『本当にデカさない映画、世の中に出してはダメな出来、監督の自己満』と言い切った長女
私、本当はレビューはマイナスにつけたい!
ぐしゃっと自分のう〇〇を握りしめてから臭い嗅いでみろ
自分たちも毎日排泄してるでしょう?それをさも自分たちは排泄とは無関係かのような描かれ方に、大きな違和感しか感じない
宮沢りえが演じたようこ、最後まで実際に介護してるシーンはなく見学してるようなスタンスだし、苦虫を噛み潰したよう顔で利用者を見るだけ
あそこまで不適切なケアだけを描くのは現場をあまりに浅く見ただけの人が脚本描いたからだと思う
さとくんを演じた磯村、もう一人のようこを演じた二階堂ふみも、本当に働いている人に見えなかった
カレー食いながらう〇〇の話する現場なんだ!
う〇〇さえ愛おしい、う〇〇の臭いでどの利用者なのかがわかる!そんな世界なんだ
この人にとって、今日が最期になるかもしれないからと介護している大勢の私たちは、この映画には描かれていない
あの5人の職員以外の職員が描かれてないの、なぜ?
ああいう5人みたいな人も入り込む世界だけど、なぜ一生懸命利用者に話しかけながら介護して、ぐちも言いながらだけど、笑って働く職員が描かれてないのはなぜ?
5人を描くなら、大勢のちゃんと仕事してる介護職員を描かない?
う〇〇まみれになってしまった利用者を、見なかった事にする介護者3人のシーン
もう介護職の私たち二人は失笑しちゃった
あんな暗く描くシーンなの⁈
現場の私たちなら、一度扉を閉めたとしても『さぁ、やるか!』って協力し合って介助に入り、のちには大当たりだった話しとして労い合うヤツ
あんな苦虫を噛み潰したような顔しながら働いている介護職員だけじゃない!
現場知らない人がみたら、ああいう人しかいないんだと、誤解するだろう
誰にだって老いや死はやってくる
健常者なら、ずっと健常者で生きていられるような
障害者になる確率がないような描き方も非現実
誰にだって障害者になる可能性があるってことが描かれてない
大勢の私たちは反応ない利用者に、笑顔で話しかけながら介護してるよ
介護職員だけ『なぜ〇〇者に?』という話しになるの?警察だって自衛官だって消防だって、教員、保育士だって、どんな職業の人だって、そういう〇〇者になる人はいる
植松が入り込んで、ああいう事件を起こしたのは、陰惨な介護の現場、最低な仕事へのモチベーションしか持ってない低俗な職員のせいかのような描き方も許せない
国の決めたギリギリな人員配置基準や介護報酬のせいで、労働の対価として見合った待遇を得られず、常に質の高さを求められながら、踏ん張っている大勢の介護職員たちを、おおいに失望させてくれたわ
綺麗事じゃないことを突きつけられた、みたいなレビューがたくさん出ている事にも『いや、これは介護の現実じゃないよ!』と大きな声で言いたい
監督さんの言いたいことを表現するのに、大幅に勝手に都合よく切り取られたりつぎはぎされて利用された気持ちがして、とっ散らかってまとまりのない映画だと思う
これをフィクションと思わない大勢の人たちが、出てしまうことに危惧しか抱けない
観ることができて良かったです。
地元の映画館では公開終了してしまったので、高速乗ってわざわざ観に行きました。
観ることができて本当に良かったです。
【かつてあったことは、これからもあり かつて起こったことは、これからも起きる。太陽の下、新しいものは何ひとつない。】
旧約聖書の一節から始まりました。
いきなり考えさせられました。
原作は読んでいませんが、事件のことは少し調べました。
重いテーマです。
目をそむけたくなる場面もありました。
生きてるって何?
簡単なことは言えません。
映画の作りとしては、
事件と宮沢りえさん夫婦のことが、リンクしている描写に無理がなくて、
わかりやすかったと思います。
宮沢りえさんは、ちゃんと年齢を重ねた女性を演じていて、
とっても良かったです。
磯村勇斗君も、かなりの覚悟で演じたのだと想像できます。
ワンテイクで撮影したという長台詞も、見事だと思いました。
あのシーンは、すごかったです。
このテーマを映画にしたことが凄いです。
重いけど、見た方がいいと思う作品です。
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