月のレビュー・感想・評価
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ほぼ実話
感想を書くの難しい。
映画を見て考えさせられる…って部分は、事件当時十分考えたので今更感はあります。
やまゆり園事件をベースにしているのは前情報で知っていましたが、
犯人の名前や事件の日付、手紙、刺青、髪の色、、実話に沿い過ぎていて驚きでした。
ありなのか…?誤魔化さない事が誠意なのか…?考え方は人それぞれ、かなり意見が割れると思います。
磯村勇斗はよく役を受けたなぁ…
オダギリジョーの不甲斐ない夫、二階堂ふみと磯村勇斗の不気味な雰囲気…イメージが定着してしまってる感はありますが、ハマり役でした。
残酷な現実と人の傲慢さ
凄まじい内容の映画だった。
これは見たくない現実に蓋をする現代社会に対する挑戦的な作品だ。
この映画を観た誰しもが考えさせられる。
自分は見たくない現実に目を背けてなどいないと本心から言えるかどうかを。
綺麗事では残酷な現実を変えることは出来ない。
受け取り手によっては障がい者を殺すことを決めた男性職員に同調する者もいるだろう。
彼の言葉を真っ向から否定する洋子の意見がまさに綺麗事にしか過ぎないのだから。
なのでこれは非常に危うい作品であるとも思った。
書けなくなった元有名作家の洋子は障がい者施設で働き始める。
物語が始まってすぐに洋子と夫の昌平の心の中に何らかのわだかまりがあることに気づかされる。
彼らは一人息子を難病によって失っていたのだ。
息子は口をきくことも立ち上がることも出来ずにこの世を去った。
洋子は自分と同じく小説家を目指し、ネタ集めのために働く陽子や、絵が得意な心優しいさとくんと共に障がい者たちと向き合っていく。
陽子にはこの仕事を軽んじているわけではないと話す洋子だが、昌平の前では思わず自分にはこの仕事ぐらいしか出来るものがないのだと本音をもらしてしまう。
本来なら社会貢献度のとても高い仕事であるはずなのに、やはり社会としては直視したくない現実なのだろう。
給料も安ければ感謝されることも少ない。
これは介護士などに限ったことではなく、世間は直視したくない現実と向き合う仕事を冷遇しがちだ。
そしてこの障がい者施設は世間からまるで隠されているように存在するため、中では信じられないような暴力行為が行われている。
障がい者をケアせずに閉じ込め、憂さ晴らしのために暴力を振るう。
もちろんここに描かれているものが障がい者施設の現実のすべてであるとは思わないが、これが見たくないものから目を背ける社会が作り出した残酷な現実の一端であるのは確かなのだろう。
最初は障がい者たちの手助けをするために働き始めたはずのさとくんが、やがてこの残酷な現実に触れて心が歪んでいくのも無理はないと思ってしまった。
いつしか彼は、障がい者は社会に対して生きる意味も価値もないのだと思い込むようになってしまう。
そして彼は社会に貢献するために彼らを殺害することを計画する。
そんな彼を止めるための言葉を洋子は持たない。
ただ認めるわけにはいかないと抗うことしか出来ない。
確かにさとくんの意見は一見正当性があるように感じられる。
しかしどうして彼に意志疎通の取れない障がい者には心がないと言い切れるのだろうか。
そして何故彼が生きる意味や価値がないとジャッジ出来るのだろうか。
個人的には人に対してだけでなく、自分に対しても生きる意味があるかどうかを考えるのは傲慢であると思っている。
陽子がこの施設の障がい者が幸せかどうかを洋子に尋ねる場面があるが、なぜ人の幸せを他人が判断できるのか。
この世界に役割のない人間はいない。
そして自分が望んだものでなくても、人はその役割を担って生きていかなければならない。
この世界はとても理不尽で残酷だ。
この世に生きている限り、どんな人でも苦しみから逃れることは出来ない。
どんな人にも闇はあるが、逆にいえば光も絶対に存在する。
この映画は苦しみの中の光と闇を絶妙に描き出している。
これは洋子と昌平の再生の物語でもあり、彼らの未来には一筋の光があった。
しかし、さとくんによって多くの障がい者たちは光を奪われてしまう。
何故彼を止めることが出来なかったのか。
どうして適切な言葉で彼を諭すことが出来なかったのか。
さとくんの心の闇も理解出来るだけに、最悪な結末にただただ虚しさだけが残った。
しかしこれはモデルになった事件があるように、現実にあり得ることなのだ。
もっと人が自分の傲慢さを捨て、そしてもっと他人に寄り添う気持ちを持てれば、社会は変わっていくのだろうか。
観終わった後もずっしりと余韻の残る映画だった。
事件から7年後の今
この映画のモチーフは言うまでもなく、相模原障害者施設殺傷事件だ。
モチーフではなく現実といってもよい。
社会を震撼させた事件から早7年もの月日が経った。そして悲しいことに戦後最大であった事件での死者数も数年後には更新されることとなり、2023年現在の映画公開に至る。
7年後の今、私は社会がより悪い方向へ進んでいると感じる。劇中でも言われていたが、大きな出来事があっても人々はみなそれを忘れる。
もしくは窓を塞ぎ、森の奥に閉じ込めるのかもしれない。
2023年は、発達障害ブームや親ガチャ論争・強者弱者のマウント合戦が繰り広げられる一方、”自分らしさ”という他人との差異をいかに強調できるかということが重要だと囁かれ続けている。
劇中でも示唆されていたが、生産性のある/なしはどこで区別されるのか?今や優生思想という言葉さえも見たくないものに蓋をしているとすら感じる。
一つの希望であると同時に苦い現実は、目の前の人生を誠実に生きるしかないということ。
我々一人ひとりの人生、そして連綿と受けつがれる人類史の先に答えがあると私は信じている。
月が欠けてる
石井監督、
宮沢りえ、
オダギリジョー、
二階堂ふみ、
磯村勇斗、
製作・竹内力。
コレだけのメンツ揃えて、
この内容は残念だった。
「ロストケア」にも似たテーマだったが、
救いが無い。
宮沢とオダジョー夫妻の再起の話、
にしては少し弱い。
磯村の変化も唐突だし、
磯村の彼女が何故聾唖なのか、
必然性が無い。
二階堂家族の不穏さも不要。
全体的に無駄遣い。
企画ありきで、
話を膨らませられなかった脚本、
事実以上の要旨が分からない。
コレもまさかの石井監督だとわ。
コレだけ有名で最悪な事件を題材にして、
その意図が明確でないのは、
はっきり言ってこの作品は不要である。
救いがない事件だったからこそ、
救いが欲しかった。
かなりモヤモヤ
フィクションと言ったとしても、明らかに元となった事件があって、それも関係者の方々がご存命な訳で、もうちょっと配慮した出来にして欲しかった。
施設なら責任者が必ずいて、ある時は新米?三人で宿直してて、事件の時は一人だったり。大きな音がしたから見に行ったのに、音の原因も調べない。扉に窓あるから、鍵開ける前に窓から照らして確認するよね。
二階堂さんが小説家って意味あった?。犯人の彼女が聾唖というのもとってつけたような感じで、本当に聞こえないよね、みたいに確認してたけど、仕事してるくらいだし、二階堂と飲んだ時の感じから、唇の動きは読めるでしょ。いろいろ、無神経な映画だと、思いました。
障害者施設で働いています。
私は障害者施設で働いている者です。映画を観た感想は、だいぶ角を取って作られたな。と言う印象です。
映像が暗い、事務所が暗いとか色々な書き込みを目にしました。確かに働いている職場の事務所は日当たりが良くて明るいです。そこじゃなくて、あの暗くて、不穏な雰囲気は職員の心の中を表しているんだな。と私は思いました。
幸いにして、私が勤めている職場には虐待はありませんが、強度行動障害や重い自閉症や知的に遅れがある方は時として大暴れします。噛みます。服をブリブリに破られた職員もいます。唾をかけられて、殴られたり、猛ダッシュで体当たりをされたり。自制が効かないので全力で向かってきます。それに職員が何名も取られて他の利用者さんに手が回らないとかザラにあります。映画の様に、虐待に走る、おかしな支援になる事は案外容易に起きてしまう空間ではあります。いかにそうならない思考を持つかが大変なんです。
ちょっとしたドアの閉まる音に反応して暴れることすらあります。出演された障害者さんはきっと撮影と言う慣れない人、空間で不穏な中の撮影だったと思います。変化を嫌い、新しいを苦手とされるのでよく撮影できたな。と感心すら覚えます。
同僚は、殴られて骨折した者もいます。変な話、職員が下に見られたら、とことんかかってくる利用者もいます。障害者とは言え、殴られたり蹴られたり世間からすれば暴行と値することでも私達は我慢し、暴れず安心して生活できる空間づくりができる様な対応を常に考えていますが、実際心はボロボロで。。相手が誰であろうと殴られたら腹が立ちますが、みんな、あの時こうしたから良く無かったね。これから気をつけよう。そんな無理のある切り替えで日々頑張っています。
確かに預けっぱなしの親御さんもいます。とてつもない常識はずれのクレーマーもいます。
私は親でもあるので、深読み先読みして障害者の親だったら。。と美化しながら障害者の親御さんを考える事もあります。美化しないと、心が優しくなれない部分もあります。
すごく太った利用者さんの親御さんが(暴れたときに好きな食べ物を大量に食べさせると静かになるからと大量に食べさせていた。)痩せてほしいから散歩してほしいとニーズがありましたが、道路で急に暴れる事もあるので、公園でで散歩していたら「大人が公園で走っていて怖い」と通報された事もありました。本当に毎日疲れます。少しこの現場から離れたいとも思います。激務を超えています。
外でマスターベーションする方もいます。
それでも、誰にも命の線引きはできないと思います。殺すなんて言語道断です。
映画を観てもやっぱり答えはわかりません。
この子が大切なのよ。と言う親御さんもいます。そう言う優しい思いに耳を傾けて、優しい心を維持してもいます。
綺麗事抜きで、自分の子が障害があったとして、治療したら治る。くらい医療が進歩したとしたら、大金をはたいてでも治療する。が今ある思いではあります。
でも、本当に笑顔は可愛いですよ。心がないって事はないです。訴えだったり、苛立ちだったりで暴れるんですよね。見えない話せない。でも、指の動きだったりで訴えている事もあります。受け手がどう相手を見ようとするかで大きく変わってくると思います。
この映画の中の事はほんの一握りにも満たない出来事に過ぎませんが、世に知って頂いて考えてもらえるきっかけになったと思います。
心から感謝申し上げます。
観たいと思った映画にはいつも磯村勇斗がいる
もっと早く観たかったが、上映劇場が少ない。
やはり内容がセンシティブだからですかね。
さとくんの
「生産性の無い人間」という台詞にずっと胸が痛かったです。
私は健常者ですが、仕事だけでなくすべての「生産性」が弱いからです。
退職した会社の上司から「あげてる給料分の仕事をしていない」とはっきり言われたこともあります。
障碍者の方だけでなく、五体満足に生きていても私のような生きにくさを感じてる者も、この中に含まれているのでは?と考えてしまって辛かったです。
オダギリジョーは、そんな人の代表的な役なんでしょうか。甲斐性なしですが優しい人の役です。
なので、そんな彼が手塩をかけて作った作品が受賞したというのは深淵のような劇中の唯一の光でした。
私の知人の娘さんが施設へ入っているのですが、
やはり自分以外はご両親が面会に来ることは本当に少ないとの事です。なので、高畑淳子さん役のお母さんの話はリアルでした。
そして私自身も
二度の出産を経験、
検査の時は、「万が一、引っかかってしまったらどうしよう」と考えたものです。
とてもとても耳が痛い作品でした。
想像通り、娯楽とは程遠い話でした。
賛否両論あると思います。
それでも
事件を風化させない作品であること
と
役者の皆さんが素晴らしかったこと
だけは間違いないと思ってます。
熱演した磯村勇斗さんに頭が下がります。
観たいと思った作品はいつも磯村勇斗さんが出演することが多く
ヤクザと家族、PLAN75、渇水、ビリーバーズなどなど、
社会派をついつい好き好んで観てしまう私には
敢えて難しい役どころを選ぶ彼は
今後も目が離せない俳優さんです。
上映劇場が増えますように。。。
社会福祉や社会保障は「無知のベール」で
少し前に、意図せずやまゆり園(本作品のモチーフとなった)の付近を通り、起こった事件について思いを馳せました。
そういうタイミングで映画が公開されたので、見たくないことが描かれていたとしても観に行かねばという気持ちで観ました。
自閉症者施設で利用者の生活支援・介助の仕事経験があり、親戚に知的障がい者施設で過ごしている者がいる身としては、施設内の様子の描かれ方は、最も汚い瞬間、最も危険な瞬間を寄せ集めていると考えればリアリティのあるものでした。しかし、そういう状況は、ほとんどの場合において一瞬とかごく一時期であるので、リアリティがないとも言えます。
物語は、優生思想に取りつかれた元職員が、意思表示ができない障がい者を大量に殺戮するという話です。
先天的か後天的かに関わらず、障がいを持つと、生活していくために支援や介助が必要になることがあります。そういった不確実性は、一定確率で生ずるものであり、それ以上でもそれ以下でもないものです。
だからこそ、現実世界で自分が置かれている状況を一旦置いておいて、自分が生活していくために支援や介助を持つ立場(種類や程度があるのでいろいろな立場で)であったらどういうことが必要なのか、そしてその必要なことを可能な限り(必要なことを全て満たせるかどうかは社会の進化具合や経済力に左右されることもあります)満たすためには社会がどのように設計されているべきなのか、そういう立場(無知のベールで包まれた状態)で考える必要があると思うのです。
しかし、この映画で殺戮者となった元職員のように、現実世界で自分が置かれている状況を出発点にして考える思考様式は、最も濃いケースではこのような事件を起こすことにつながるし、薄いケースでは、映画で言われていた、見たくないものは見ないし、あっては都合が悪いものは隠蔽する社会づくりにつながっているのだと思います。
なお、思考様式の違いに関わらず、現実的な防犯対策は、防犯カメラによる録音録画、施設の出入り口での身元確認の充実化や、警備スタッフや警察の介入をスムーズにする連携訓練により、仮に何か起きたとしてもすぐにバレるぞ、逮捕されるぞという抑止力に頼って施設運営するしかありません。これは障がい者施設に関わらず、人が集まる場所共通のものです。
本作品の映画鑑賞は、このように改めて自分の考え方を記録するきっかけになりました。
辺見庸原作と言えるのだろうか
公開すぐの週末に鑑賞したものの、辺見庸がこんなドラマチックでケレン味がある作品を書くのか?と気になって原作小説を読んでみたところ、映画とはまったく異なるものだった。原作は、映画にも出てくる寝たきりで身動ぎしないきーちゃんのほぼ一人称視点で空想的にさとくんの行動を捉え続ける話であり、映画化にあたってほとんどのものが客観的に語り直され付け加えられている。
さとくんを除いた主要キャラの堂島洋子や昌平、陽子はもちろんのこと、小説家設定や東日本大震災、脳に障害を負って死んだ第一子、出生前診断などなどすべて映画オリジナルである。それらは原作できーちゃんの語りに出てくるごく一部のエピソードやイメージや言葉から発想されたものだとはわかるが、小説は、津久井やまゆり園事件を下敷きに、凄まじい文章力で重度障害者の実際を赤裸々に描写しつつ、さとくん=植松聖の考え方や社会の在り方を、反語的に痛烈に批判したものだ。
映画の感想ではなくなってしまった。映画本作はとにかくヘビーではあるけど、最悪の汚れ役を演じた磯村勇斗やずっと不安げに眉間に皺を寄せる宮沢りえはじめ、オダジョー、二階堂ふみとキャストは熱演していた。ベタなところもあるにせよ演出もがんばっていたし、これまで2本しか観たことがない石井裕也監督作としては一番印象に残る作品だった。ただ、障害者施設の描き方はかなり偏っているし、リアルな大量殺人の場面まで入れる必要があったのか?とは思う。
そして、やはり映画にするにあたっての脚本に盛り込まれた上述のさまざまな人物や設定やエピソードが、重度障害者施設で起きた実際の凶悪事件・犯人と対置されたことで、事件とその背景が一般化され、鑑賞者の中には犯人の思考・行動にも理があると考えた人が少なからずいることに危惧を覚えた。本作を観て考えさせられたとか、世の中きれいごとばかりではないとかの感想を見ると、もう絶望的…。
当たり前だが人間は矛盾を抱えているし、なんでも筋が通ってすっきりするのが正しいわけではないけれど、本作を観て考えさせられて実行すべきは、エッセンシャルワーカーの待遇を大幅に向上させ重度障害者のケアを充実させること以外にないと思うのだが(ちなみに福祉に回す金がないとか言うなら、米国から何発かミサイルを買うのをやめりゃいいだけだ)。
小説の文庫版に寄せられたあとがきで辺見庸の大ファンだという石井監督は、当然、現代日本での社会的弱者の在り方を批判すべく映画化で一石を投じたかったのだろう。ただ正直、売れっ子で多忙な監督が掘り下げるには手にあまる題材だったように思う。
われらの中にある優生思想と向かい合って
映画の中に「出生前診断」について、産科医と洋子、そして洋子夫婦の会話がある 高齢出産となって「リスク」が高まるからとして勧められる「出生前診断」 それは生まれる前からダウン症などの障がいを持って生まれてくる可能性についての「命の選別」として、「定着」しつつある現実がある 検査結果によっては中絶を多くの人が考えている現実の中で、障がいを持つ人や認知症を患う高齢者に対する、虐待がニュースなどで伝えられている 暴力や汚物を浴びながらの身体介助、少人数の体制の中で「効率」を求められる介護の現場において、まじめにすれば擦り減っていく、他のスタッフから孤立してしまう現場では、真剣に向き合うことをあきらめ、放棄してしまう職員が増えていき、国の定めた人員基準を満たしさえすれば、中身が問われない介護が一部の現場では行われている
おむつ外しを懸命にやって、結果要介護度が低くなり収入が減ってしまう高齢者施設よりも、何もしないで放置して寝たきりを作っていく施設の方が、要介護度が高くなり収入が増える 要介護高齢者・知的障がい者だけではなく、時折虐待が報じられる精神病院においても同様のことがある 効率を求めれば施設は大規模となり、法律順守の名のもとにマニュアル化された介護となり、必要でない事(普段のコミュニケーションとか本作の紙芝居のようなレクレーションとか)は省ていくことになるのだろう 結果社会にとっての生産性が尺度となっていく時代が進んでいくことに、何も私たちはできない 出生前検査の結果によっては中絶を考える人が多い現実なのだから
高齢出産の女性が増えていく中で、私たちが見ようとしなかった現実と対峙すること
親になろうとする人たちが向き合わなくてはならない問題であります
個人的な話しですが、この映画ロケ地は和歌山県北部です 病院・専門学校・大学などを使っているのですが、洋子が買物をするシーンに登場するスーパーは、私が子どもの時から通っていたところ(スーパー松源 西浜店)であり、懐かしさでいっぱいになりました
(10月19日 京都シネマにて鑑賞)
優生思想の垂れ流し
初めに言っておきたいのは、この映画は、植松聖をモデルにした人物の歪んだ思想をセリフで延々と垂れ流す一方、それに対抗する言葉を見出しえないまま終わるという点で、殺人犯への共感を呼び起こしたり、差別思想を広めたりしかねない作品になってしまっているということです。
ハンセン病差別を扱いながら理不尽な差別にむしろ乗っかってしまった「砂の器」と同じ誤りを犯しているのではないでしょうか。
また、作中の殺人犯の言う「必要のない人」を、才能がなく夢が叶わないので生きている意味を見出せないでいる人と同列であるかのように描いていますが、両者はまったく違う次元の話ではないですか?
演技陣はよかったので二つ星にしますが、いまも優生思想は確実に存在して、それと知らずに染まっている人がたくさんいます。
たとえば、裁判が続々と起きている旧優生保護法による不妊手術を「子どもを育てることのできない人のためのやむを得ない処置」だと強弁する形で、思い切り優生思想を擁護している人がごまんといます。
その現状を踏まえてなお、これが「本当の現実を見ようとした作品」と言えるのかどうか。私はそうは思えませんでした。
障害者支援施設で働いてます。
高齢者介護施設、障害者支援施設の利用者様には、我が家にはかないませんが、我が家のような環境で、家族のように寄り添いながら、介護支援に心がけて働いています。施設で働く職員へのケア、メンタルヘルスが十分に行われず、職員は精神的にも追い詰められている事も多々あります。
映画『月』にあるように、この様な施設の存在を、多くの皆さんに知って欲しいと思います。障害があろうがなかろうが隔てなく生きていける地域(世界)を望みます。
全編にわたってこんなにも台詞の一言一言が胸に刺さる映画があっただろうか。
封切前から期待していた映画、だが賛否両論の嵐。
難しいテーマ、題材だけに予想していたが個人的には映画の役割りって娯楽でもあったりするけど社会の問題を皆に考えさせるきっかけにすることも担ってると思っている。
あの凄惨な事件を題材としてると言うが、この映画がなかったとしてあの事件を覚えてる国民がどれだけいるだろうか?
人は誰しも大なり小なり問題を抱え悩みながらも幸せに暮らしてる事が大半でしょう、けれど宮沢りえ夫婦や高畑淳子が演じたものにとっては、そんな大半の平凡に暮らす人の影に隠れてつらい思いを抱えて生きている。
そんな一面には目を背けて、出来れば関わらずに生きて行きたいと思うのが普通の社会において、少しでも考えて欲しいというところだろうか。
たまたまモチーフが障害者を隔離する施設において行われてること、そこから殺人事件に至る事ではあったが、他にもこのような見て見ぬ振りや表沙汰にはされていない、否、あえて出さない事がいくらでもあって、一般的普通に暮らす人達、また既得権益のために都合好く悪事を揉み消す権力者や企業など、我々が知らないところ、知ろうとしないところで行われてるということがあるんだと警鐘を鳴らしたのだろうか。
そんな難しく取り上げようとしない問題を取り上げて作品にしたスタッフには敬意を評したい、また演者の台詞のひとつひとつが本当に重い、観るものに問いかけているかの如く一言たりとも聴き逃してはいけないとさえ思う素晴らしい脚本でした。
それを演じた役者さん達すべてが本当に素晴らしく、俳優さん達がこの重く難しいテーマの映画に真摯に取り組んたのがわかります。
磯村勇斗と宮沢りえの掛け合いのシーン、二階堂ふみの酔いに任せて話すシーンなどすべてが我々にも語り掛けてるようであった。
高畑淳子演じる障害者を子に持つ当事者がこの映画を観てどう感じるのか気になるところです。
解決不能な問題提起?
中途半端な思いと観るべきではなかったという後悔が押し寄せる作品でした。相当の覚悟を持って観る勇気を試される?必要があるかどうか、私的には微妙で作り手の思いや意図が理解不能でした。
残念😢
113
悪臭は精神を蝕む
洋子が小説執筆を再開したときの、小説の冒頭があまりにもありきたりで陳腐、上っ面だけの文言で、これを良しとする程度の映画か、とがっかりした。
だがさとくんと対決した場面の洋子の脳内独白でそっくり覆って、そこからちゃんと見た。
堂島夫妻が、お互いに気を使いすぎ、緊張感できりきりしていて、観ていて疲れる。
オダギリジョーの夫は観た限り優しい人だが、感情を溜め込んで爆発しそうな危うい雰囲気があって(3年も働かないでシュミに没頭させてもらってる後ろめたさから?)、私には二人がなんか居心地悪い、気持ち悪い夫婦に見えた。
夫婦の再生を描きたかったのかもだが、無駄に尺とってるようで思い切って端折っても十分伝えられたのではないかと思う。夫婦のパートの比重はもっと小さくて良いです。
「成功者」の洋子と、埋もれたままで鬱屈のある陽子とさとくん、汚いものにあっさり蓋できる洋子と、向き合ってしまう陽子とさとくん、両者の対比が常にある。
陽子とさとくんの周囲には「汚いもの」しかない。
さとくんは「がんばれ、もっとがんばれ」と自分を叱咤激励して逃げ道を許さずそれらに向き合う。
全部に向き合って我が事にしたら人として崩壊しますよ、全部は背負いきれないし、しなくて良い。神ではないから。
汚いもの全部を我が事として背負い込むさとくんは、ある意味神のような性質なのかも。
生きていい人殺していい人を「自分が」選別するという、人の分限を遥かに超える発想をするのはそれ故か。
施設の同僚たちはクズだが、利用者のことは他人事と割り切って自身の心身を守っているとも言えると思う。
陽子は、他人を「問題に向き合っていない」と非難するが、自分はそうではない、と上から目線のマウンティングのようだ。彼女は嘘をついたりマウンティングしたり飲酒して管巻いたり、自分をごまかし逃げ道を許しているので、極限まで思い詰めることはないと思う。
さとくんはなぜ凶行に及んだのか
原因と考えられるものはいくつも提示されているが、映画として特定し、そこに誘導しないのが良い。
個人的に、さとくんがよく指摘していた「臭い」が、結構な引き金ではと思う。
悪臭は精神を蝕む。鼻につくのでいつまでも記憶に残って何かにつけ蘇ってくるし。
綺麗事とリアルで決定的に違うのは「臭い」だ。
施設の、労働環境が劣悪すぎる。介護職一般、低賃金で重労働、なのに尊敬どころか蔑まれたりする仕事。こんな環境も凶行を引き起こす大きな要因でしょう、職員が入所者を虐待する気持ちも責められない。
例えば同僚が言うようにさとくんが「教師にでもなっていたら」こんな事件は起きなかったはず。
重度の障害者を抹殺することと障害児の堕胎はどう違うのか
どこかのナチが言った、ホロコーストは、ウィルスの駆除と同じではないか
こんな問いについて、おそらくほとんどの人が、線引きの基準を持っているが敢えてあからさまにしない。自分の設定した基準が正しいと言い切れないことを知っているから。
暗黙の了解ということでぼやかしておくと思う。
磯村勇斗がとても良い、というか凄い。
さすがに五代雄介は言わないけど、磯村くんはまだ「アラン」とか呼んでしまいそう。
アランだからとことん向き合っちゃうのかも
モヤモヤ
『舟を編む』の石井裕也監督だけあって、間や演技力を使い、セリフ過多にしない演出はよかったです。
役者陣の演技も素晴らしかった。
しかし、複雑かついろんな感情が同時に芽生える、異様な作品でした。
まだ関係者の記憶も生々しい今の段階で、(時代を切り取る意図の)小説はともかく、目に見える「映像作品(映画)にするなよ」という否定的な気持ちと。
「テレビじゃ踏み込めない心情表現をここまで踏み込んだ」上で、問題提起したことに対する賞賛に似た気持ちと。
(さらに、後述しますが、なんだか気持ちを弄ばれたような不快感も)
まず否定的に感じた要素として、いくら創作小説を原作にしたとはいえ、題材は露骨に2016年の「相模原障害者施設やまゆり園殺傷事件」です。
なにしろ作中の犯行日時が、実際の事件と同じ2016年7月26日未明ですから。
犯人の愛称が、実際の犯人の名をもじったものですし。
ナチスは悪と言いながら、優生思想そのものの犯人の思考。
社会的生産性を有さず、自らの意思を他人に伝達する能力がない障害者を、独善的かつ主観のみで生かしていいか、心があるか、と決めつけ選別し、「効率的」に処理する。
その異常さを見せつけられて、胸糞が悪かった。
一方で、誰の心の中にも、無意識に差別的な意識は存在するので、その心のありようや生き方を選ぶのは自分自身なんだということを見せることは社会のためにも必要で。
原作小説は、身体を目ひとつ動かせない入所者「きーちゃん」と、犯人の一人称で、「心があるって何なのか」を問うような内容なのだが…映画だとモノローグだらけで映像に向かないので、元作家の洋子(宮沢りえ)を設定していました。
このキャラの内面を描くことで、犯人の心理を肯定する気持ちと、許さない・許されないという気持ちの両方が誰にでもあると見せたのは、大いに意義はあると思いもしました。
特にラスト近く、洋子の自問自答のシーン(宮沢りえの演技)は圧巻でありました。
同時に障害者施設の職員たちがいかに心を病んでいくかを描写していて、社会そのもの(および国の在り方)に病理の根源があることを指摘していたのは重要。
とはいえ、(追い詰められているのはわかるが)職員たちが入所者たちへ虐待を恒常的に行うのは、ある意味仕方なく、悪者のように描くと受け取れもしました。
こんなに忍耐とプロ意識が必要な、精神的にきつい仕事に、非正規雇用のパートをあて、正規雇用でも月手取り17万程度の低賃金、だれからも感謝されず、家族も見舞いに来ないで評価もされない……
というご指摘はごもっともではあるが。
それは全国の同様の施設に勤務する人々に対する侮辱ではないのかとも感じ、腹が立ちました。
この点が最も手放しで褒められず、私の中にはこの作品を否定したい気持ちが生まれた原因だと思いました。
そのほかに、不快感を生んだ正体はいくつか心当たりが。
自分の中の差別意識へスポットライトをあてられたからかもしれませんし。
もしくは、こんな気持ちが制作側の掌で転がされたから生まれた気もして、作り手側の「俺たち頭いいんだぜ」みたいな癇に障るこざかしさを感じ取れてしまったのかもしれない(これは故・河村光庸氏の企画・プロデュース作全部から匂ってくる共通点ではあります)……と冷静に分析してはいますが。
なんかこう、一言で言い表せません。
あえてまとめるなら「モヤモヤした」かな。
改善策はあるのだろうか
障害者に限らず介護施設に従事する人には、想像しても頭が下がる。言葉が通じない相手は本当に忍耐がいると思う。淡々と仕事をこなしたらジレンマは生まれないのかもしれないが、でも相手は人だし何かしら情は生じる。介護士のケアも必要。こんな事件が起きないよう願う。
重い。ただひたすら重い…そして辛い。
おそらく例の悲惨な事件がモチーフになっていると思いますが、それはあくまでモチーフであり、施設における職員の言動を含めてフィクションだと認識しています。
ただ、あのような障がい者や高齢者の施設には往々にしてありがちな事も実体験として持っています。あれほど虐待されたわけではないけど、あの母親の「(虐待は)分かっていますけど、でもここに預けるしかしょうがないんです」という台詞はとてもよく理解できます。
だから「見たくないものを見ないようにしている」という言葉は辛いです。その通りなのですから。
映画の話に戻ります。
登場人物はみんなどこかしら壊れかけています。犯人だけでなく、あの夫婦も、施設の所長や職員たちも、ビル警備員も、、、
でも、それを許容せざるを得ないと自分を誤魔化していかないと、生きていけないから。
とにかく、重くて、そして辛い映画でした。
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