月のレビュー・感想・評価
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脚本上で、原作のきーちゃんから洋子に主役をチェンジしたことは、余りうまくいっていません。物語は介護の闇と並ぶ形で洋子の葛藤がクローズアップされていくのでした。
長年の辺見庸ファンという石井裕也監督は、2016年の相模原障害者施設殺傷事件を描いた辺見庸の小説「月」の文庫本刊行時に、その文庫版あとがきを書き添えました。
一方「月」の映画化を模索していた故・河村光庸プロデューサーがその文章を読んで、石井監督に話を持ちかけたのです。
但し、オファーされたからといって軽く流せるような題材ではありません。石井監督も「覚悟を決めた」と取り組んだのがこの作品です。
それなりの覚悟を持って撮ったんことでしょう。その思いは感じられる映画ですが、軽快に物語を進める石井監督らしくない、直球勝負の作品でした。
もとより事件の映画化に物議はつきもの。その描き方に反発する向きも当然あることです。しかし本作が投げかける問いは根源的で、これは映画「ロストケア」同様に、見る側にも覚悟を問われる作品といえるでしょう。
■ストーリー
深い森の奥にある重度障害者施設 「三日月園」に職を得た元小説家の堂島洋子(宮沢りえ)は、人形アニメを制作する夫の昌平(オダギリショー)とふたりで暮らしていました。おかずを分け合う姿だけで、陽だまりのように温かな関係性が伝わりますが、子どもの不在は夫婦に深い影を落としていたのです。
職場では、小説家志望で同僚の陽子(二階堂ふみ)や絵の好きな青年・さとくん(磯村勇斗)らと働きながら施設の現実を知っていくのです。
洋子は働き始めて早々、他の職員による入所者への心ない扱いや暴力を目の当たりにすします。洋子はそれを施設の園長に訴えますが、まったく聞き入れてもらえず、園内の虐待を見ぬふりをするばかりです。洋子は、自分ではどうすることもできずに無力感を募らせるのです。
職務に熱心だったさとくんは、そのことについて、洋子以上に憤っていたのです。さとくんは正義感や使命感を徐々に増幅させていき、次第に″ムダなものないらない”という思想を育んでいくのです。そして、ついに狂気の行動に走ることになるのです。
彼らのために紙芝居を作って披露したりしている。
■解説
肢体不自由で口もきけない入所者「きーちゃん」の独白として構成されていた小説を反転し、映画はきーちゃんと同じ生年月日の洋子を主役としました。虚空を見つめ、沈黙の世界で命を繋ぐ寝たきりの入居者きーちゃんは、特に気になる存在です。
洋子は東日本大震災を題材とした小説で受賞したのですが、その後書けなくなっていました。障害を持った子どもを幼くして亡くし、新たに妊娠が分かっても産むかどうか葛藤するのです。
夢を持って介護職に飛び込んだ主人公が、現実の悲惨な失態に打ちひしがれる展開は、いかにも石井流です。他にも、小説家志望の陽子は才能のなさを自覚して洋子に嫉妬し、「きれいごとだけ書いている」と毒のある批判を投げつけるのです。また洋子の夫昌平(オダギリショー)はひたすら楽天的だが、人形アニメ作家としては芽が出ません。さとくんにはろう者の恋人がいます。登場人物のそれぞれに厳しい現実と直面せざるを得ない失望感が描かれていきました。
けれども本作は、施設での虐待の実態やさとくんの犯行も描写して事件を再現はしますが、その異様さを訴えるだけではありません。石井監督は「さとくんをいかに普通の青年にするか」を演じる磯村勇斗に求めました。だからさとくんの狂気は全く前面に出ていません。普通の好青年に見えてしまうくらいなのです。↓
ただし1ヵ所、そんなさとくんがすごい顔をするシーンがあります。私たちの社会が施設の奥に封印したもの。その究極を目にした瞬間の時のことです。そこから、さとくんは変わっていったのです。きっと私たち観客もそのシーンを目撃すれば、さとくんと同じ顔になっていることでしょう。このシーンを見れば、さとくんをシンプルに憎悪することなどもはやできません!善と悪の二分法的発想を木っ端みじんにする極めて危険な作品だと思います。 ↓
なので事件を「異常事態」「特殊事例」と片付けようとする常識、良識を問うているのです。「不都合なことは全部隠蔽」「なかったことにしたいんですよね」「無傷で手ぶらで、善の側に立とうとするのはずるい」……。セリフの一つ一つは、観客に向かって突き刺ささります。↓
高みの見物を決め込んでいた私たちは、欺まんと葛藤の渦に引きずり込まれるのです。見たいものだけを見て、触れたいものだけに触れる現代社会への警鐘とアンチテーゼが充満している作品でした。↓
↓
■感想~やはり石井裕也監督には向いていないジャンルの作品だ↓
脚本上で、原作のきーちゃんから洋子に主役をチェンジしたことは、余りうまくいっていません。↓
原作は、きーちゃんの一人語りで進められるのですが、全く話すことができないきーちゃんを、映画の主人公にするのは問題なことは理解できます。それで作品のストーリーテラーとして、洋子という原作にはないキャラクターを登場させたわけです。けれども洋子の本作における存在をなんとか理由づけようとしたため、洋子の抱える葛藤の部分のウェイトが高くなってしまい、後半は事件を通じた介護の闇に迫る本題と洋子の葛藤が並列して描かれてしまうことになったのです。
本当は、このテーマであれば大量殺人を犯すことになるさとくんを軸に進めるべきところだとは思います。しかしさとくんは、余りに自らの正義感に浸り過ぎていて、人を殺すことに全く迷いもためらいも、葛藤も見せないのです。それをまんまに描いたら、『13日の金曜日』のようなシリアルキラーの作品になってしまったことでしょう。
とすれば、事件の背後の闇に迫るためにも、映画「ロストケア」同様にさとくんの弁護人を登場させて、弁護人の視点から事件を描いていく展開もあり得たのではないでしょうか。
ところで、洋子の葛藤は新たに妊娠した子どもを生むかどうかです。それは、再び障害を持つ子が生まれるのではないかとの恐れであり、中絶するかどうかの葛藤です。石井監督は洋子の抱える葛藤と洋子を知的障害者施設の職員にして重度障害者介護の現実を体験させることでリンクさせようとしたのではないかと思います。
結局その思惑は実らず、物語はどんどん洋子の葛藤の落ち着く先へと進んでいくのです。本来社会的な問題として議論すべき問題描くはずだったのに、洋子と昌平の夫婦間の問題や洋子の再び障害を持つ子が生まれるのではないかとの恐れであり、中絶するかどうかの葛藤いう、いたって個人の判断や価値観に落とし込んでいく展開にはあれれ?と思いました。
洋子の葛藤が、本来ならば施設やさとくんと私たちの橋渡しとなり、介護の現実に距離を置いてきたわたしたちを、いや応なく直面させることになったことでしょう。そこがうまくつながらないのは、やはり石井監督の脚本の限界なのでしょう。
結論を言うなら、石井監督が脚本を担当するべきではなかったし、監督も前田哲監督だったら、もっと心に響くヒューマンドラマになっていたと思います。
■最後にひと言
森羅万象には仏性が宿ります。きーちゃんのような限りない植物人間に近い重度の障害者にも、健常者と同じ仏性が宿り、帰天するときは五体満足な姿で天国に還るのです。
介護の闇の背景にあるのは、月間手取り17万円しか貰えない低賃金と仏性が宿る人間がただの物に見えてしまう唯物論的な見方でしょう。けれども奇声を発し続ける障害者にも、全く無反応な寝たきりの重度障害者にも、完全無垢な仏性が宿っています。
もちろん、そういう環境に飛び込んで介護の仕事に向き合った場合、どんなに信仰心の篤いひとでも、毎日尋常ではない環境で仕事をしていたら、さとくんのように気持がおかしくなりがちになってしまうことは否めません。
だからこそ、そういう悲惨な現場に飲み込まれず、障害者の方々の仏性を礼拝し、穏やかな介護現場を作り出すような小説や映画の出現に期待したいです。
最近では、アルツハイマー患者の希望を描いた映画『オレンジランプ』や2007年のフランス映画で、脳梗塞で倒れ、身体の自由を奪われてしまったELLEの元編集長ジャン=ドミニク・ボビーの奇跡の自伝ベストセラーを映画化した感動ドラマである映画『潜水服は蝶の夢を見る』という秀作も存在しています。
障害者の魂と一体となり得たとき、どんな奇跡が起こりえるのか。そんなお話しに触れてみたいものです。
心って?
重たい内容の映画なので、早い時間に鑑賞🎬
最初、夫婦会話のセリフがなんかぎこちなさを感じる。
子供を亡くしたからか、もともとそうゆう夫婦なのか。
奥さんが師匠だからか?
話せない障害者は人じゃないという言葉がある。
心がないからと判断されていた。
なんとも悲しい。
その人ではない生き物は価値のないと勝手に判断され、排除される。
自分は実質手を下す事はないが、道を歩いていたら、障害を持った人とすれ違う事がある。目を合わせないように、話しかけられないようにしている。何か危害を加えらるかもしれないと思っているからだ。
それは実質的に排除になるのか
それは差別かもしれない
施設で働いている人は
本当に凄いと思っていた。
唾をかけられたり、噛まれたりする事がある事は聞いていた。
他人の下の世話もする。
大変な仕事なのに低賃金。
施設の大量殺人と同時進行に進む
二人の夫婦の問題
障害を持った子なのかを検査するか、どうするか、また健康な子を産めないかもしれない。
高齢出産のリスク
私も、とても考える問題だ。
障害を持った子が生まれるかもしれないなら中絶をするというのと、生まれてから殺めるのとは何が違うのかという問題を突きつけられる。
私は見たくないものには蓋をしたいタチだ。この映画みて、突きつけられている。
あと、きーちゃん役って宮沢りえさんだった?
暗くて何が起きてるのかわかりにくい それも狙いか?
障害者だった子どもを亡くしフリーターの夫と2人で暮らす元作家の堂島洋子は、重度障がい者施設で働きはじめた。そこで彼女は、作家志望の陽子や絵を描くのが好きなさとくんなどの職員や、光を遮断された部屋のベッドに横たわったまま動かない、きーちゃんなどの障害者たちと出会った。また、他の職員による入所者へのひどい扱いや暴力なども見た。自分で言葉も発することの出来ない障害者が生きさせられていることに疑問を持つさとくんは、使命感を増幅させていき、安楽死という言葉を口にするようになった。そして・・・という実際に起きた事件をもとにした話。
2016年7月26日に起きた相模原障害者施設殺傷事件を題材にしたストーリーらしいが、どこまでが事実でどこが脚色なのかわからないのは良いとして、なんか既視感ばかりでほとんど驚きも感動もなく観終わった。
もっとドキドキ、ハラハラするシーンが有るかと期待したが、7年前のこの事件がなかなか衝撃的で、ニュースでも多く取り上げられてたし、その時も安楽死について考えた事もあり、本作から新しい何かを得られた感じがしなかったのだろうと思う。
重度障害者の様子を映像で観る、という機会、特に糞尿を部屋に撒き散らし、自分の体にも塗りたくり、裸でオ○ニーしてる映像は、なるほど、これが現実なのだろう、とは思った。
あの糞尿シーンが理由で全体を暗くしてる演出なのか?とも思ったが、とにかく観難い。
宮沢りえ、オダギリジョー、磯村優斗、二階堂ふみ、など役者に不満は無いが、テーマであるはずの安楽死についての扱いも浅いし、自分には刺さらなかった。
2回観ました
一度では受け止めきれず、2回見ました。
25歳の娘が障害者であることもあり、
半分は当事者として、
でも問題に根本的に向き合えていないので半分第三者として映画を見ました。
思いがうまくまとまらず、
皆さんがどう感じたかの感想を知りたくてここに辿り着きました。
今も、「東へ西へ」の歌詞の「がんばれ」の意味が、180°真逆だったことに戦慄しています。私たちが問われていること。どちら側なのか紙一重だということ。象徴的だと思います。
皆さん書かれているように、セリフ一つ一つが自分に突きつけられているようで、本当にしんどい映画でしたが、それがこの作品の意図だと思うので、これからも都合の良い自分を感じながらしばらく生きたいと思います。
ある程度ディテールの話になりますが、
2時間に収めるため、視聴者に意図を伝えやすくするために、ある程度誇張された部分はあるだろうなと思いながら拝見していました。
例えば、昌平の同僚や、園の二人組の職員など。
ステレオタイプですが、ある意味「弱いものたちが夕暮れさらに弱いものを叩く」の構図なのかなと思ったり。
また、さとくんの彼女が聴覚障害で、
耳は聞こえなくても相手の気持ちがわかる人として描かれていました。
これは障害者を表現するときにとても重要なファクターで、原作の主題の一つでもあったと思うのですが、
ある機能が劣っているから他も全部できないのではなく、できないことがあるぶん、他が人より鋭敏である、という側面だと思っています。
さとくんの彼女は、さとくんの変化に気づいていた。だから出て行く時にあんなLINEを送った。
そんな鋭敏な彼女ですら、今夜決行すると気付けないくらい、さとくんは「普通」だった、ということを描きたかったのだと。
聞こえていたら止められたのに…。
当事者である彼女本人には、そう感じさせてしまう描き方ではあったかもしれませんが、
普段手話で会話するさとくんが、
あそこだけ言葉のみで宣言したのは、
さとくんが「劣っているところがある分優っているところがある」を理解しているからこその行動であり、とても示唆的だと感じました。
何が優って何が劣っているかをどう判断するのか?誰が判断できるのか?
聞こえているか、見えているか、感じているか、、、他人が判断できるのか?
そして聞こえないからこそ、見えないからこそ、話せないからこそ、内面がどんなに優っているかなんて、誰も判断できないのではないか?
でもそんなの綺麗事です。
私も毎日疲れています。
私が死んだら娘はどうなるんでしょう。
見たくないものに向き合わないと。
追記
原作読みました。必読です。
きいちゃんの内面を誰が判断できるんだ??
役者達の覚悟、観る側も覚悟を。
宮沢りえも磯村勇斗(サトくん)も
オダギリジョーも二階堂ふみも
役に入り込んでいた!
サトくんも元々はまともな人で、
施設で働くうちに変わっていく様が
凄かった。
家族にも見放され、施設の人からも
虐待されている人を助けるのだという
サトくんなりの正義感からの犯行。
でも宮沢りえやオダギリジョーが
言うように
理解できない、と思うけど、
あの環境にいたらそこに至る気持ち
がちょっと分かると思ってしまった
自分もいて、、、、
でも殺める以外にやるべき事がある
と色々考えてなかなか答えは出ず、
どっと疲れたけど、
観て良かったです!
オダギリジョーが救いでした〜
ある施設の事件という事でなく
ある事件をきっかけに作られたもののようですが、今の社会の本質を突いていると感じます。
ただ、事件の関係をそこまで深く知った上での発言ではないです。
まず思ったのは‥宮沢りえさんって、こんなに疲弊したおばちゃんにらなれるんだ😳
メイクなのか、ご本人の演技なのか分かりませんが、本当にびっくりしました。
私が感じた事というレベルでしかありませんが、宮沢りえ演じるようこ夫婦とさとくんを対比(?)しながらストーリーが進んでいく感じです。
以降は、私感です。賛否あると思いますが、書きます。
昔は、ちん◯、びっ◯、つん◯…それは今は差別用語として使うことはない言葉ですが、ある意味このような言葉を使っていた時は、障害者をインクルーシブしていた気がします。
それが、障害者になり、障がい者になりまた障碍者に、表記の上では良く(?)なってきたと認識しています。
それと同時に、障がい者が普通の世間から隔離されてきました。
隠蔽というか、無かったことにしたい人の思いがあったのでしょうか。
施設の隠蔽体質はそれはそれと置いておいて、私たちは社会に効率的に貢献できない人たちを、見なかったことにして、置いてきぼりにしてたと思います。
できる人できない人、いろんな人がごちゃ混ぜで生きられる社会だったらいいなと思います。
また、本当に障害も高齢者もそこの現場で働く人たちはとても高度な技術を求められながら、低い賃金で働いている事実を、そのままにしてはならないと思います。
この国は、どこに向かっていきたいのか分かりませんが、小さなチカラでも良き方向に向かっていけたらいいなあと思います。
最後に、映画に自身のありのままを曝け出して出演された障害をお持ちの方々に敬意を表します。
まとまりませんが。
向き合うということ
いつもの映画館①で
好きな監督の最新作なので楽しみにしていた
主演宮沢りえだし磯村勇斗も出ているしこれは観るしかない
全編に一貫する暗いトーンこれで2時間半はさすがに辛かった
退屈したとかそういう意味では全然なくてむしろ全集中して疲れた
本来この監督の作品にみられる
そこはかとないユーモアは抑え目だったという意味
オダギリジョーが殴るシーンで
次の画面でキズだらけになっていたところは唯一笑えた
あと宮沢りえとオダギリが最後の方で向き合うシーンで貰い泣き
向き合うということもこの映画のテーマなのだろう
エンドロールで原作モノだったと改めて知る
辺見庸の小説は前に読んだことがあって
やはり暗くそれ以来何となく遠ざけていた
外形上のストーリーはやまゆり園の事件に似ているので
実際の犯罪者もこのような境遇で
実は深い考えを持っていた人物だと誤解する恐れはある
オラはそうは思わない もっと短絡的な犯罪だったととらえている
映画では入院するまでで話を終えて
あとは観客の想像に任せても良かったような
入院のときに車いすに乗せられているところの意味がよく分からなかった
施設の中の描写のおどろおどろしさはやりすぎ
いまどきはもっと明るいだろう
最近武田鉄矢の朝のラジオでこの事件のことに触れていて
犯人が問う障害者に生きる意味があるかといった言葉に巻き込まれてはいけない
という論に共感する 犯罪者の思う壺論と似ているのだがちと違う
なぜヒトを殺してはいけないのかという問いも同じ類いだと
そんな質問に付き合う必要はないと
ちなみに清水義範はエッセイの中でちゃんと答えていて
それを許すと社会が壊れるからと明言していた
磯村勇斗を始めこの映画に関わった役者とかスタッフのタフさには敬意を抱く
この人たちみたいに長いものに巻かれず自分の足でしっかり立つ人物になりたい
終わったら22時
映画とは違うが半月が西の空に見えてキレイだった
明日は休暇だ 日帰り入浴とビールで健康を謳歌するのだ
しんどい
2016年、実際に起きた事件をモチーフにした本作は、
戦後最大の被害者数を出した殺人事件として、
また、その被害者が施設に入所していた障がい者の方々だったという事でも衝撃的な事件でした。
冒頭から不安を掻き立てるような映像。
暗くジメっとした湿度を感じさせられ、
食物連鎖、弱肉強食を印象付けられます🐍
漂う空気が常にしんどい。
宮沢りえ・オダギリジョー(夫婦)の関係性に
歪さを感じ(最終的には好転するが)
二階堂ふみの不気味さが秀逸でめちゃくちゃ怖い(褒めてる)
磯村勇斗、よくこの役を受けたなぁと感心し、
教師を目指していた好青年が「闇(病み)堕ち」する姿は、
フィクションとして捉えて見る「さとくん」には
少し同情も覚えてしまいます。
この事件を風化させないための作品ではなく、
根強い差別、慢性的な人出不足、いじめ、
人間関係、薬物など、近年の日本の闇深さを
掘り下げまくっていました。
洋子(宮沢りえ)と陽子(二階堂ふみ)の背景は
本当に必要だったか?と疑問に思うところが多々あります。
あえて震災や宗教について触れたのだと思いますが、
あらゆる情報が盛りだくさんな割には、
物語全体への繋がりには欠けていたように感じるし「不要」と思うところも散見されます…。
この手の作品は、もう少しシンプルに描いてもいいんじゃないのかなぁと個人的には思いました。
月。照らし出されるもの。
こちらのサービスで初めてレビュー機能を使います。
まだ鑑賞されていない方にとって参考となる有益なレビューが書けるかどうか確信もないまま。
ただ、ここまで書いてこなかった人間がこの映画については書かないままではどうにも消化しきれない思いが残ったのだなということが伝わるだけ、このレビューにも意味が生まれるのではと思い投稿させていただきます。
背景にあるだろうモチーフ、想起される事件があっての作品だろうことは知った上で選んだ映画ではありましたが、態度としては、見せていただいているものをなるべくそのまま鑑賞することに最後まで努めたつもりです。
◇
ある人にとっては「考えないこと」「向き合わないこと」にしておかなければ、日々を前向きに歩けないようなことって、確かにあって。
でもまたある人にとってはその「考えようとさえしていない」「向き合おうとさえしていない」態度がどうにも合点がいかなくて。
その双方が時に自分のなかに同時に存在しながら、距離を取ることも許されず、衝突を起こすこと。
これも、確かにあって。
なぜ月を照らさなければいけないのかを、太陽は考えるのか。
太陽に照らされることで初めて照らすことができる月は、なぜ自力でそれをしようとしないのか考えるのか。
あるのかを問われる「心」は、そもそも、あるなしで表現できる対象なのか。
耳が聞こえずに言葉を話せない人間がするハグに込められた心はなにか。
言葉を話す人間が言い放つ、心ない言動にのせられた言葉に、心はあるのか。
この映画を通して事件を想像したり向き合うという表現は、当事者としての経験や実際を知ろうとしてこなかった私には(適切な言葉に至りませんが)あまりに傲慢な気がしています。
まずは映画が示したこと、制作に関わられた俳優の皆さんが表現してくれたことに向き合って、これからの私の日々にどんな変化が生まれてくるのか、内省を大切に生きていこうと思います。
私が、しっかり照らし出される作品であることは間違いないのではと感じました。
多くの方に鑑賞してもらいたい作品だと私は思いましたので⭐️5つ、つけさせていただきました。
最後まで読んでくださってありがとうございました。
生きてても意味ないなんて大きなお世話 人を殺す権利は誰にもない
原作は2016年の夏に相模原市の知的障碍者施設で起こった大量殺人をモチーフにした辺見庸の小説で、それを石井裕也が映画にしたというのだから観るしかなかった。障碍者と老人の違いはあるが、3月に公開された「ロストケア」とテーマ的には近く、19人を刺殺した「さとくん」を見ながらずっと松山ケンイチを想起していた。要するに「安楽死」の問題なのだが、誰もが「なんで生きているのか」なんて分からないのに、ましてや他人様のことをとやかく言うなんて余計なお世話である。磯村勇斗は嫌いな役者ではないし、今回もどう演じてくれるのか楽しみにしていたが、まあちょっと相当残念だった。彼の力量不足なのかキャラクター設定が定まっていないというか彼自身が「さとくん」をつかみきれていないのであろう、唯一見ごたえのあった宮沢りえとの対決にしても、松山ケンイチと長澤まさみのバトルに遠く及ばない。ボクシングジムで鍛えたり刺青を入れたり金髪に染めたり気持ちは分かるのだがどれも小手先の演出にしか見えず、聾の彼女を抱いて「今日殺してくるよ」と告げるシーンはすごく美味しい場面なのに、ただフラットに演っているだけで真実味が無いのだ。ラスト近くの回転寿司屋でカタカタという音と寿司の皿が流れていくアップが続く場面がなぜか心に残って、やっぱり石井裕也はへんな監督だと最後に確認した。
厳しい現実と向き合うことの過酷さ。
この映画は相模原障がい者施設での事件を題材にしており、犯人である”さとくん”の主張(優生思想)は誰しもが少なからず心のどこかに持っているような気がした。しかし、その主張はいくら綺麗事と言われようとやっぱり認めるわけにはいかないということをこの映画からは強く感じた。
”さとくん”も初めからそのような思想を持っていた訳ではなく、なぜそのような思想を持つに至ったのかということが細かく描かれていた。労働内容の過酷さは勿論、労働に見合わない低い賃金の問題、同僚からのイジメなどそういった様々に絡み合う厳しい現実から逃れるために事件を起こしたという背景がある気がした。どういった背景があるにせよ、犯行自体は身勝手極まりなく、到底理解できるものではない。厳しい現実を生きる人にとって現実と向き合うというのは残酷なほどに過酷なのもまた事実である。誰しも厳しい現実と対峙せざるを得ないときが来ると思うが、そういった時にどういう態度を選ぶのかという普遍的なテーマを扱っている映画だと思った。障がい者施設で働かれている方々には尊敬の念を強く持った。また、この世に生きる全ての人にどうか幸あれ。
みずからの内に潜む優性思想とどう向き合うか
相模原殺傷事件から7年、植松聖の死刑が確定して3年半が経過し、議論が尽くされずに事件が風化しつつあるなかでの本作品の公開の意義はとても大きい。
当然ながら、本作品は事実をもとにつくられたフィクションであり、辺見庸の原作からも石井監督によって大幅に手が加えられている。これは石井監督によるひとつの問題提起だ。
映画を通して、石井監督が伝えたかったこと、考えて欲しいことを、観客が丁寧に掬い取っていくことが強く求められる。要求に対するストレスや、彼の問題提起の手法に反発する意見が多いことも理解できる。
事件当時からパンデミックを経て、日本の社会環境はますます閉塞感や息苦しさが感じられるものになってしまった。自分が社会的弱者になりかねないなか、誰もまわりの弱者に手を貸す余裕はなく、いっぽうで政府や社会からも更なる「自助」が強く求められている。
作中の洋子と昌平は、自分たちが生産性を求め続ける社会システムからこぼれ落ちることを恐れている。そして、あらたに授かった命の存在をめぐっての「迷い」を、さとくんに見透かされ、大きく動揺する。
さとくんも、洋子も、昌平も、私たちの内面を暴き出す「鏡」だ。
私たちは、人間社会のなかに潜む「優性思想」に知らず知らずのうちに影響を受けており、そしてパーソナルな問題に直面したときに自分自身の内なる「優性思想」がたちあらわれてくる。
私たちの多くは、二項対立線上の端々にいるよりも、そのグラデーションのなかで生きている。対立する議論の渦中にいることを避け、深い森のなかに隠された存在に目をつぶり、そこに在るものが存在していないように振る舞う私たち。
洋子がさとくんと議論するなかで、対面する相手が途中から内面に潜むもうひとりの洋子になっていくシーンは印象的だ。どんなに消し去ろうとしても、自分の内に潜む「悪意」を消し去ることはできないのか。
そんな虚無的な結論に陥ってしまいそうななかで、私たちは人間という危険で危うい存在を、どう救うことができるのか、簡単に出せない問いに真摯に向き合うことを求めてくる作品だ。
見て見ぬふりをすること
あの事件を題材に石井裕也監督が映画化すると聞いて、本当にできるの?公開できるの?と危惧していたが、ミニシアターながらほぼ満員のお客さんの中で観ることができ、そのことだけで素直に良かった。
実際の障害者も出演しているようだし、ナチスや優生思想という言葉もはっきり使われていて、現在の日本映画ではタブーというか、忌避されてきた部分を真っ当に取り上げている。その点は、放送禁止用語が飛び交う「福田村事件」と同じ。
多分、石井裕也監督でなければ、観なかっただろう。この題材をゴリゴリの社会派作品に仕上げられたら、あまりに観るのが辛い。辺見庸の原作を換骨奪胎したようだが、石井監督ならではの軽みと希望が加えられている。ただ、これだけの題材を扱うにしては軽すぎる、という批判はあるだろう。そもそも現実の事件からまだ7年という生々しい時期に映画化するのはどうなのか、という思いが拭えないところはある。
俳優陣は、出演すること自体に悩んだだろうが、宮沢りえをはじめ、みな力は入っていた。磯村勇斗は、近頃の問題作の常連という感じ。特に良かったのが、オダギリジョー。ちょっと情けなく、危うい感じの役をやらせたら比類がない。
この作品の大きなテーマである「見て見ぬふりをすること」については、自分の考えがまとまらない。そのことを「嘘」だと言い切るのは違うと思うし、「だから自分が何とかする」というのは独りよがりになってしまうのでは、としか言えない。
人間の尊厳の意味を問う傑作
試写会で観た「愛にイナズマ」に続き石井裕也監督の作品が続く。対極にある2本だがともに傑作。
一昨年に相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で起きた殺傷事件。入所者19人が殺害され、職員を含む27人が負傷した。
今作はこの事件をモチーフにした辺見庸さんの小説を映画化したもの。
介護に苦しむ人々を救わんとする映画「ロストケア」と類似のテーマ。
呼吸をしていれば、心臓が動いていれば人間として守られなくてはならない、それこそが人権であるという現在の考え方。
そのことによる歪みは余りにも大きい。
人間としての尊厳を守るためにも、新たな加害者を産まないためにも、システムを確立することが望まれる。
救いは宮沢りえさんとオダギリジョーさんの夫婦だった。
ラスト、りえさんの言葉に嗚咽をもらした。
「俺、生きててよかった」と心の中で叫んだ。
苦しまずに逝ったなら良いのですが
高畑さんが演じていた様な親御さんは実際に居たんでしょう、それを思うと悲しくなります。 大きな事件でしたが、その事件の大きさに対して世間や被害者様の声が少なかったようにも思えた事件です。 厄介払いされた方も居たのでしょう、ただただ苦しまずに逝ってたなら良いと事件当時から思っていました。
🎵 月は流れて、東へ西へ 天狗舞よりも月桂冠「つき」
石井裕也監督らしい鬱映画である。
独特の世界感の表現に成功したかも。
深い森の奥の社会から隠ぺいされた障がい者養護施設を舞台に、ひとりよがりの優越感(相手を見下す心理や態度)や優生思想について、メビウスの輪の上を歩くが如く出口のない迷路から逃げ出せない感覚にハマる。
クセの強い俳優(二階堂ふみ、モロ師岡)の洋子に対する辛辣なセリフや馬鹿みたいにワンパターンのマウントを取ってくるマンションの管理人などはとても不愉快。
心臓病の子供を手術中のトラブルから3年間の植物状態の末に失った夫婦。妻のことを師匠と呼ぶ気弱な夫と処女作後まったく書けなくなった小説家の妻。今後妊娠しても生むかどうか、出生前診断するかどうかの答えも出せない。父親から虐待されながら育ちながらも実家を出ないひねくれ女。ネガティブなことを言わせたら右に出るものはいない。軽度の知的障害があり、その素直さゆえに物事に執着しがちな若い介護職員のさとくん。
これらの少ない登場人物に閉鎖的な舞台設定。
一番恐ろしいのは劣等感の裏がえしの根拠に乏しい優越感。
それに優性思想がかぶってくると鬼に金棒。
施設の所長は現実を見なさいと言って職員を丸め込もうとする。
さとくん(磯村勇斗)は陽子(二階堂ふみ)の毒にまずやられてしまったような気がする。
不快な匂いと音は視覚以上に感情に訴えてくることを滔々と話したり、はなさかじいさんの悪い爺さんの話などがループして、おかしくなってゆく。
自分とコミユニケーションを取れない心のないものは人間ではないと決めつける。
一方、ろう者の彼女は障がい者でも手話でコミュニケーションとれるからと
都合のいい線引きをする。
そんなさとくんはわざとろう者を恋人にした気がする。
さとくんが歌う井上陽水の「東へ西へ」。
このころの陽水のアルバムの曲は憂鬱な歌詞で溢れている。
🎵 がんばれ みんな がんばれ 月は流れて 東へ西へ
オダキリジョーが三人に負けじ?と、すごく真面目な演技。
よかった。短編映画で賞もらえて。
でも、天狗になるときっと離婚することになる予感。
回転ずしの玉子のエピソードも石井裕也の独特の世界感。
誰も取らないのでぐるぐる廻っている玉子は最終的には廃棄されるのか?
あなたが今取ったのは~ 金の皿ですか? 銀の皿ですか?
私はつつましく謙虚に暮らしております。
600円の金の皿はがまんして、100円の皿。
天狗舞よりも月桂冠「つき」
あくまでもこの何の知識も無く、この映画を観た前提として書かせてもら...
あくまでもこの何の知識も無く、この映画を観た前提として書かせてもらう。だいぶ自分自身と向き合わせられた作品であった。かなり難しい問題なので、私的に答えは出せるはずもないテーマだったが、映画の演出のように自分に問われていることから逃げられない空間であり、作品であった。
正直面白いという作品ではないが、忘れられない作品になった事は間違いない。
ほぼ実話
感想を書くの難しい。
映画を見て考えさせられる…って部分は、事件当時十分考えたので今更感はあります。
やまゆり園事件をベースにしているのは前情報で知っていましたが、
犯人の名前や事件の日付、手紙、刺青、髪の色、、実話に沿い過ぎていて驚きでした。
ありなのか…?誤魔化さない事が誠意なのか…?考え方は人それぞれ、かなり意見が割れると思います。
磯村勇斗はよく役を受けたなぁ…
オダギリジョーの不甲斐ない夫、二階堂ふみと磯村勇斗の不気味な雰囲気…イメージが定着してしまってる感はありますが、ハマり役でした。
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