「誰もが承認欲求のある当事者」月 てつさんの映画レビュー(感想・評価)
誰もが承認欲求のある当事者
序盤で、宮沢りえ氏演じる洋子が障がい者施設に初めて足を踏み入れていく場面の異様な雰囲気には、私自身が初めて訪問教育の臨時講師として重症心身障がい児施設に足を踏み入れたときも同じような雰囲気を感じていて、それはまた、『夜明け前の子どもたち』の序盤にも重なる。本作のパンフレットの評にも、二通諭氏がその作品を比較して取り上げているが、きー氏と誕生日が同じところから共感し、コミュニケーション可能性を感じた様子は、その作品だけでなく、『ジョニーは戦場に行った』『潜水服は蝶の夢をみる』等にも通じるであろうし、発達保障論の肯定的な面を拾い上げるのも重要ではあるけれども、職員の重労働という観点からの退職者の続出という共通な面にも目を向けるべきであろう。『人生、ここにあり!』等のように、当初感じていた異様性が、付き合いを深めるに従って変容していく作品もあるけれども、それらとは最終着地点が違うのだろうとも思った。育てた子どもの疾患のためにわずか3年で命が失われた痛みから立ち直れず、再びの妊娠にも、躊躇し、迷い、分身に言い負かされそうな描写は良かったと思う。虐待から利用者たちを救おうとした行動は、『トガニ』やテレビドラマ『聖者の行進』の支援者たちにも連なるが、そうした努力が途絶してしまうところにも、現実の悲劇の遠因があったのであろう。最後に洋子が「きー」の母のことを思い遣って走り出す姿に、現実の事件後にも、同じような行動をした職員たちの姿が反映されていると思われた。
二階堂ふみ氏演じる陽子は、そうした序盤の異様な雰囲気に連なる異常行動者の一人かと思ったが、健常者の職員であった。しかし、関係を深めてみると、洋子の経歴に賞賛を向けながら、やがては洋子の作品にも、出産への躊躇いにも批判的な意見を述べて追い詰めていく二面性をもった人物として描かれていて、事件の発生に際しては、「さと」の犯行に脅迫と自身の同調によって動かされつつ、利用者の命を奪うことには躊躇いをみせながら立ち会い続けた様子にも、現実の事件後に、同じような行動をした職員たちの姿が反映されていると思われた。
『波紋』でもろう者の恋人のいる青年を演じた磯村勇斗氏が演じる「さと」は、当初は利用者たちに優しい心根をみせ、『花咲か爺さん』の紙芝居を語りきかせていたが、その結末が「汚いもの」と表現していたところが引っかかっていた。それはよくばり爺さんの心だったと思われるのに、その志を喪失したのが残念なところである。先輩職員たちによるいびりによって、理想を失っていく様子は、現実の事件発生の経緯説明とも共通するのであろう。自分との線引きを始めるきっかけとなった重度利用者の姿との遭遇は、漫画『ブラックジャックによろしく(精神科編)』、さらに遡っては有吉佐和子氏作の小説『恍惚の人』での同様の症状の患者を想起したが、その姿に絶望するとは、今日的には学修によって身につけておくべきプロ意識の欠如と指摘されても仕方ないだろうし、2005年2月に石川県内の高齢者グループホームにおいて発生した職員による利用者殺人事件の課題が解消されていないとも思われた。ろう者の恋人との会話にも、手話を使わない部分が目立つように態度が変化していた。洋子と昌平にも同調を求めながら、それぞれの反論を論破した後、政治家に手紙を書いて持論の承認を求め、精神科病院に強制入院させられ、事件直前に退院していた経緯も、現実の事件発生までの経緯と一致していた。"PLAN'75"や『ロストケア』と大きく異なっているのは、特にこの、持論の承認を求めている点であり、あるネット評にも、登場人物それぞれに承認欲求があると指摘されたものがあり、実行犯の本質に最も迫っていることであると言えよう。また、殺される側からの視点で撮影する方法も、観る側を引き込む上で、工夫が凝らされていると思われる。同様に、施設の異様な雰囲気を醸している作品の一つでもある『閉鎖病棟』でも殺人事件が描かれるが、加害者の立場や理由が大きく異なっている。
オダギリジョー氏演じる昌平は、様々な悩みを抱える洋子の夫としては、当初、かなりすれ違っている印象が強く、社会人としても自信なげであったけれども、警備員の仕事をしていて、先輩からの揶揄に反論できるようになって、少しずつ自信を取り戻し、「さと」の言動にも同じように反論していたが、どうも殴り返されたようで、説得には失敗したようであった。終盤で昌平は、ささやかながら先に挙げた承認欲求を満たされた人物として描かれている点でも救いを見出せるとともに、この夫婦は、『福田村事件』における主人公夫婦と同じように、部外者から当事者へと巻き込まれる立場として描かれているとも言えよう。
序盤の場面での異様な雰囲気で連想したまた別の映画作品には、大江健三郎氏原作の『静かな生活』もあったが、改めて観直すと、妹ですら障がい者が社会に迷惑をかけるかもしれないという疑いの目を向けることがあったり、教師への恨みを晴らすために障がいのある家族への支援を装って近づいた男性が、障がい者の無能性をみくびって反撃を受ける様に、障がい者の不思議な能力の一端を描写しているのを改めて見出すことができ、大江氏が障がいのある息子への絶望と意識の転換を見出した経緯を綴った小説『新しい人よ眼ざめよ』にも、改めて光が当てられるべきであろう。
利用者やろう者の恋人役に当事者が抜擢されたのも、評価されるべきであろう。