「2回観ました」月 にゃおこさんの映画レビュー(感想・評価)
2回観ました
一度では受け止めきれず、2回見ました。
25歳の娘が障害者であることもあり、
半分は当事者として、
でも問題に根本的に向き合えていないので半分第三者として映画を見ました。
思いがうまくまとまらず、
皆さんがどう感じたかの感想を知りたくてここに辿り着きました。
今も、「東へ西へ」の歌詞の「がんばれ」の意味が、180°真逆だったことに戦慄しています。私たちが問われていること。どちら側なのか紙一重だということ。象徴的だと思います。
皆さん書かれているように、セリフ一つ一つが自分に突きつけられているようで、本当にしんどい映画でしたが、それがこの作品の意図だと思うので、これからも都合の良い自分を感じながらしばらく生きたいと思います。
ある程度ディテールの話になりますが、
2時間に収めるため、視聴者に意図を伝えやすくするために、ある程度誇張された部分はあるだろうなと思いながら拝見していました。
例えば、昌平の同僚や、園の二人組の職員など。
ステレオタイプですが、ある意味「弱いものたちが夕暮れさらに弱いものを叩く」の構図なのかなと思ったり。
また、さとくんの彼女が聴覚障害で、
耳は聞こえなくても相手の気持ちがわかる人として描かれていました。
これは障害者を表現するときにとても重要なファクターで、原作の主題の一つでもあったと思うのですが、
ある機能が劣っているから他も全部できないのではなく、できないことがあるぶん、他が人より鋭敏である、という側面だと思っています。
さとくんの彼女は、さとくんの変化に気づいていた。だから出て行く時にあんなLINEを送った。
そんな鋭敏な彼女ですら、今夜決行すると気付けないくらい、さとくんは「普通」だった、ということを描きたかったのだと。
聞こえていたら止められたのに…。
当事者である彼女本人には、そう感じさせてしまう描き方ではあったかもしれませんが、
普段手話で会話するさとくんが、
あそこだけ言葉のみで宣言したのは、
さとくんが「劣っているところがある分優っているところがある」を理解しているからこその行動であり、とても示唆的だと感じました。
何が優って何が劣っているかをどう判断するのか?誰が判断できるのか?
聞こえているか、見えているか、感じているか、、、他人が判断できるのか?
そして聞こえないからこそ、見えないからこそ、話せないからこそ、内面がどんなに優っているかなんて、誰も判断できないのではないか?
でもそんなの綺麗事です。
私も毎日疲れています。
私が死んだら娘はどうなるんでしょう。
見たくないものに向き合わないと。
追記
原作読みました。必読です。
きいちゃんの内面を誰が判断できるんだ??