「みずからの内に潜む優性思想とどう向き合うか」月 atsushiさんの映画レビュー(感想・評価)
みずからの内に潜む優性思想とどう向き合うか
相模原殺傷事件から7年、植松聖の死刑が確定して3年半が経過し、議論が尽くされずに事件が風化しつつあるなかでの本作品の公開の意義はとても大きい。
当然ながら、本作品は事実をもとにつくられたフィクションであり、辺見庸の原作からも石井監督によって大幅に手が加えられている。これは石井監督によるひとつの問題提起だ。
映画を通して、石井監督が伝えたかったこと、考えて欲しいことを、観客が丁寧に掬い取っていくことが強く求められる。要求に対するストレスや、彼の問題提起の手法に反発する意見が多いことも理解できる。
事件当時からパンデミックを経て、日本の社会環境はますます閉塞感や息苦しさが感じられるものになってしまった。自分が社会的弱者になりかねないなか、誰もまわりの弱者に手を貸す余裕はなく、いっぽうで政府や社会からも更なる「自助」が強く求められている。
作中の洋子と昌平は、自分たちが生産性を求め続ける社会システムからこぼれ落ちることを恐れている。そして、あらたに授かった命の存在をめぐっての「迷い」を、さとくんに見透かされ、大きく動揺する。
さとくんも、洋子も、昌平も、私たちの内面を暴き出す「鏡」だ。
私たちは、人間社会のなかに潜む「優性思想」に知らず知らずのうちに影響を受けており、そしてパーソナルな問題に直面したときに自分自身の内なる「優性思想」がたちあらわれてくる。
私たちの多くは、二項対立線上の端々にいるよりも、そのグラデーションのなかで生きている。対立する議論の渦中にいることを避け、深い森のなかに隠された存在に目をつぶり、そこに在るものが存在していないように振る舞う私たち。
洋子がさとくんと議論するなかで、対面する相手が途中から内面に潜むもうひとりの洋子になっていくシーンは印象的だ。どんなに消し去ろうとしても、自分の内に潜む「悪意」を消し去ることはできないのか。
そんな虚無的な結論に陥ってしまいそうななかで、私たちは人間という危険で危うい存在を、どう救うことができるのか、簡単に出せない問いに真摯に向き合うことを求めてくる作品だ。
atsushiさん
そうですね。
今ヒトとして生を受けているので、当事者となる日が訪れる可能性もありますものね。
今、自身が介助される状態ではなく、介助する役割りを担っている訳でもない。ただ、明日もそうだとは限らないし、その役割を職業として担って下さっている多くの方々が居て、日々疲弊し苦悩していらっしゃるかも知れないという事、当事者になって初めて思い知る苦しみや辛さ、『 当事者と無関心者のはざまで揺れ動きながら 』、まさにそういう事なのかも知れません。
atsushiさん
こちらこそ、ご丁寧な返信を頂き有難うございます。
語彙力も文章力も足りず、atsushiさんのように的確で無駄のない文章は書けず、感心しながら読ませて頂きました。
そうですね。とても重い問いを突きつけられる作品で、施設で働いていらっしゃる方々の本当の思いも気になっています。
atsushiさん
atsushiさんのレビューを読ませて頂きながら、泣きそうになりました。
作品を観ている時や、観終わった後( 今も尚。)、頭の中で色々な感情が渦巻いていたのですが、まさにそれをクリアーにして頂いた、そう思いながら読ませて頂きました。
素晴らしいレビューを有難うございます。