「凶行を「理解できる」という危うさと「理解できない」という他人事。。それよりもむしろ。」月 Zackさんの映画レビュー(感想・評価)
凶行を「理解できる」という危うさと「理解できない」という他人事。。それよりもむしろ。
「映画は、匂いを表現できない」
表現者のメッセージを受けた個人的な感想は一見大事なようで、結構どうでもいいことだった。
「挑戦を続ける監督」という謳い文句や、所謂「社会派」とか実際の猟奇犯罪をベースに、、などというセンセーナショナルななにかを期待するなら、評価は低いものになるだろう。しかし、そういった好奇心そのものが命に対する冒涜である。
きっと監督は途中で気づいたんじゃないか?
リアリティーを追求することの放棄こそ重要だと。
折しも中東での混乱の直後の公開はとても示唆的である。本当の暴力から遠くはなれた安全地帯から見下ろして批評するという傲慢さ足りうる。
自分は、この事件の責任は、あくまでも「個人」の犯行だとする。イデオロギーに支配されほころび探しの論理に囚われ「盲信」に陥った「個人」の犯罪だと思っている。
ただし、身体感覚の伴わない「死」や「暴力」が画面の向こうにあり、情報に溢れた「脳化」社会でロゴスに囚われた状況は誰にでもありえる。実際に行動するには勿論環境要因が伴うだろう。しかし凶行を「わかる気がする」とか「せっかくの才能が何故?」などと「理解しようとする」ことこそが、地獄への入り口だとしておく。
だってそれって、ただの好奇心ですよね?
誰もが陥りやすい評論社会。まさにイマココ(レビュー)の状況である。
逆に「こんなひどいことするなんて!信じられない❗」と自分とは一切に関わりがないと文字通り「汚物」に蓋をして想像を放棄する無責任を問うのが映画の主旨である。
その上で、この映画は社会を問う問題作としてではなく、ゾーンとしての感情を扱う映画として上質だと訴えたい。
私自身、ミステリー好きが高じて作品からなにかを読み取ろう、映画の醍醐味は考察にあり、などと一興に高じていた自分の愚かさに恥ずかしさを隠せない。だからこそ犯行そのものを主軸に添えず、平行した一つの結果とした作り手の良心に安堵した。
派手でも斬新でもなく、心象の揺れに効果的なカメラ運び、陰影、役割それぞれ演技の熱量バランス、「リアリティ」と「想像性」など、表現に対する作り手の真剣な態度を感じ取った。
扱ったテーマだけに事件そのものに触れずにはいられないが、筋そのものは難解ではない。しかし作り手の想いを「わかろう」とするのは容易ではない。「映画」としての味わい深さは、真剣に見るほど個々人それぞれの感想のグラデーションが浮き出るような奥行きのある仕上がりとなっていると思う。
物語の根幹には「汚れ」がある。「穢れ」ととるとイデオロギー臭くなるが、そのような気高いものでもない。
美しくもなく逆に過剰にえげつなくもない映像が「そこはかとない良心」を感じる所以だ。表情や台詞や声の調子、小道具を深く味わうべきだと思う。
そうすることで「謎解き」や「考察」に興じている自分の愚かさに気づく。
裏返して言えば、ミステリー好きこそ見るべき映画なのだ。がっかりするか内なる何かに気づくかで、人間を計られているとすら思う。
もし、収容された人たちを見て「目を背けたくなるのなら」なにも言わずに席を立って家でゆっくりワインでも飲んでいなさい。きれいなものだけを見て暮らせばよい。
もし、映像に「刺激の物足りなさ」を感じたなら、自分も病院に行く側足りえることを自覚しなさい。
と、ここまで散々不要な前置きをして、少しだけ感想を書く。
夫婦の物語である。
子どもを失って、横に並んで食事する二人の表現者は「同じ方向を向いて」もしくは「寄り添いながら」生きていこうとした。世にいうフランススタイルか。
(私は、夫婦は同じ立ち位置ではなく別の個人、平行線じゃなく、互いに補完し合うものだと思う。ただ、それができるのは間に子どもがいるからだ。などというと働く女性からはお叱りを受けるのだろう。)
対照的にラストでは、回転寿司店で「互いに向き合って」生きていくことを決意する二人に届くニュース。
絶望でも希望でもない。月と太陽が互いを照らして生きていく決意と深い闇。
ただ互いを見つめて「生きる」だけ。
「死ぬ」のは一度だけ。
実際に身近な死を見たり聞いたりもしないうちから
「人が死ぬってあっけないもんだよ。そんなに知りたいなら試しに死んでごらんよ。」
と知ったようなことを聞いて死んでいく子どもが増えているのかもしれない。
演出について。
「さとくん」の俳優は、変な色気を出さず真摯に役に向き合っていた。
ギラギラせず、冷徹でもなく、ただ観念と思い込みと想像力と偏った知識に飲み込まれただけ。ストイックに、嫌みなく、共感を呼び起こそうとせず、演じていた。
若かりし頃のはつらつとした宮沢りえから記憶が止まっている自分としては、主人公の「後ろめたさ」よく表していたと思う。場面によって、痩せこけた初老のようにも、洗練された少女のようにも見え、やがてそれこそトリアー作品の魔女狩りの主人公を体現していた。
若い頃から渋くてカッコいいイメージのオダギリジョーはシリアスどころか能天気に登場したが無論苦悩を背負っていないわけでもない。カッコよくない善人としての演技に好感をもった。
二階堂ふみも安定の振り幅のある演技で惹き付けられた。
さとくんの彼女のソフィーぶりは誰もが見逃さないよね。
(オマケみたいに書いた。)
共感、コメントありがとうございました。石井監督は良心をもって作品を撮ったのは間違いないと思います。ただ、映画に限らず生み出された作品は制作者がどんな考えで作ろうとも、発表された瞬間から世間に解釈されてしまいます。このセンシティブな題材が(宣伝の仕方や発言も含めて)さまざまな鑑賞者にどう捉えられ解釈される可能性があるか? その点の想像力が残念ながら監督には不足していたように思いました。
監督が「これは事実です」と訴えるのを目にして評価は変わった。
もう、私はこの監督を信用しない。
事実のなかに想像(嘘)を取り入れる行為なら、非難されるべきだ。
勿論、実際にある状況、事件を扱っている。
せめて「これはフィクションです」を強調しなければならない。