「かつて文学賞を受賞し、成功体験を持つ小説家、堂島洋子(宮沢りえ)。...」月 りゃんひささんの映画レビュー(感想・評価)
かつて文学賞を受賞し、成功体験を持つ小説家、堂島洋子(宮沢りえ)。...
かつて文学賞を受賞し、成功体験を持つ小説家、堂島洋子(宮沢りえ)。
ほとんど無収入のストップモーションアニメ作家の夫(オダギリジョー)とふたり暮らしだが、あることがきっかけで何も書くことができず、最近は食べるのにも一苦労な状態。
森の奥に人目を忍んで建てられたある重度障がい者施設で介護士として働くことにした。
若い同僚には、作家志望の陽子(二階堂ふみ)や絵の上手い「さとくん」と呼ばれる青年(磯村勇斗)ら入居者に向き合う介護士もいるが、そのほかの介護士の中には陰で入居者を虐待している者たちもいる・・・
というところから始まる物語で、描かれる内容は衝撃的なのだが、登場人物ひとりひとりの行動の奥底にあるものは、常に観る側にもあるものだろう。
その意味で、観るのが本当につらい。
洋子も彼女の夫も、陽子もさとくんも、生きていく上での存在意義を見つけられない。
見つけられない、というよりも、社会(というか、彼らが生きている世間、というか)の人びとが、彼らの存在意義・アイデンティを「簡単に」「安易に」否定しまうからだ。
さらに悪いことに否定する側は、そのことを「普通のこと」もしくは「相手にとって良いこと」と信じている(信じていないかもしれないが、否定することを自身の悪意の発露だとは感じていない)。
わかりやすいのは洋子の夫の場合で、まだ世に出ていない彼を、バイト先の先輩マンション管理員は「そんなアニメ、誰が見るんだよ」と安易に侮蔑する。
陽子も、敬虔なクリスチャン(で、かつ不道徳)な父親から否定され、文学賞にも落選している。
「さとくん」も、なんらかの事情で美術学校に進学できず、現在の職に就いているのだが、同僚たちは、入居者に寄り添おうとする彼を「変人」「厄介者」扱いする。
洋子の場合は・・・これは冒頭のシーンと絡んで来、かつ中盤で明らかにされるので書かないこととする。
世間から欲されない者は、存在すべきではないのではないか・・・
その考えが施設の入居者たちにも向けられる・・・
とそんな単純ではないのだけれど、存在意義を問う、というか、存在意義を問うことを問う、というか。
存在意義を問うことを問う、というのは「いま考えていることを問う」ということで、わかりやすい言葉でいうと「葛藤」ということになるのかもしれない。
その「葛藤」のシーンは随所に登場する。
しかし、「葛藤」することは、すなわち「生きている」ということであり、「我思う故に我あり」というではないか。
大量死傷事件を起こした者は、その「葛藤」を棄てた。
相手の中に自身を見、自身にとっての存在意義を棄てる。
殺してしまいたかったのは、自分自身なのだ。
映画は、それをワンショットでみせる。
このワンショット、監督としては相当な力技、相当な決断・覚悟が必要だったはずだ。
映画は安易な結末を設けない。
ささやかな希望は見せてくれるが。
観る側も相当な覚悟が必要な映画でした。