劇場公開日 2023年9月8日

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「「最後のシーン」に対する是非」6月0日 アイヒマンが処刑された日 TWDeraさんの映画レビュー(感想・評価)

3.0「最後のシーン」に対する是非

2023年9月10日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

私にとって「ナチス関連」は学生時代に勉強したことより、大人になって映画や本で知ったことが知識の殆どです。その中でも印象に残った作品が『ハンナ・アーレント(13)』で、その衝撃に思わず(その日)続けて観たのが『スペシャリスト 自覚なき殺戮者(17)』。たまたま続けて観られる環境にあったのもついていたのですが、その後も興味をもてたことは有意義なことだったと思っています。
アイヒマンは戦後捕虜収容所から逃走、その後アルゼンチンへ逃亡して潜伏していたところをモサド(イスラエル諜報特務庁)に拘束され、そしてイスラエルへ連行。その後、裁判を経て死刑となるわけですが、この作品は判決の直前から始まります。
現代でも、というか現代だからこそ勘違いされがちな「ユダヤ人とは人種ではない」ことが改めて気づかされるのが主人公の少年ダヴィッドの存在で、彼はモロッコからの移民者で学校の中でも「はぐれもの」の立場。教師からも「問題児」のように扱われます。
判決直前ということもあり、町中がアイヒマンへの復讐心でピリピリムード。ただ、見方を変えればハンナ・アーレントの言う「ごく平凡な人間が行う悪」を思い起こさせる人々の言動が見え隠れすることに気が付きます。
そんな中で歴史上だと見えてこない人物・アイヒマンが収監されているラムラ刑務所で、アイヒマンの警護にあたる刑務官のハイムが非常に興味深い存在です。ちなみにハイムもモロッコ出身。立場上、比較的バイアスが小さいだろうという前提で就いている任務であるはずですが、兎に角、死刑執行前に何かあってはならないその状況に、走り回るハイムのプレッシャーに同情してしまいます。
そして、サイドストーリー的に語られるイスラエル警察の捜査官ミハを軸としたシーンが、地味ながら重要なことを伝えようとしています。劇中、ミハが自身がナチから受けたトラウマと言って過言ではない経験について、外国人に対する語り手になることを意図的に強いられる状況に、「人身御供になる必要はない」と同情されます。しかし彼は「当事者が語り、伝えることは重要」と返します。これ、何気にこの映画の最後のシーンとも対になる話だったりするのですが、そもそも、繰り返し語ることはそのことを風化させないためだけでなく、後年、事実を不都合と感じる人間は破廉恥にも「そんなことはなかった」という輩が出てくるのも悲劇的な実情です。興味がある方は、ホロコーストを否定する相手と戦う『否定と肯定(16)』などを参考にしてみてください。
と、いろいろ気づかされる作品ですが、正直、いきなりこの作品観ても残念ながらそれほどの感動はないと思います。事実を基に創作されているようですが、個人的に、最後のシーンはちょっと興覚めかな。

TWDera