「両雄並び立つポスターの「鼻」にほのめかされる、「ユダヤ系映画」としての本質。」ふたりのマエストロ じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
両雄並び立つポスターの「鼻」にほのめかされる、「ユダヤ系映画」としての本質。
最初にポスターを見て思ったのが、
「これが正真正銘の“ユダヤ系の鼻”ってやつか!」
ってことでして。
なんでも、ブラッドリー・クーパーが、近々公開予定の大指揮者レナード・バーンスタインの伝記映画『マエストロ』(ちなみに『ふたりのマエストロ』の原題は『マエストロ(ズ)』!)で主役のレニーを演じた際、「つけ鼻をつけて演じた」ことが「ユダヤ系に対する侮蔑的なステレオタイプに迎合するものだ」として、ユダヤ系芸能人・評論家の一部からメチャクチャ叩かれたらしい。(2023年8月23日の記事)
名前(~スタイン)からもわかるとおり、レニーの家系はウクライナ系ユダヤ人移民の出身である。
たとえば、イギリス出身でユダヤ系の俳優トレイシー=アン・オーバーマンは、クーパーのつけ鼻をブラックフェイスにたとえて批判し「ブラッドリー・クーパーが演技力だけでできないなら、彼をキャスティングしなければいい。ユダヤ人の俳優を使えばよかった」とインスタグラムに書いたそうな。
これに対して、当のレニーの遺族はブラッドリー・クーパーの鼻について徹底的に擁護し、「パパの鼻が素敵に大きかったのは事実だもの」とメイクアップで補ったことをむしろ大いに評価してみせたとのこと。
まあ、この議論の是非については置いておくが、このニュースでわれわれは改めて痛感させられたわけだ。やはりユダヤ系の「お鼻が大きい」ってイメージは、欧米ではきわめて堅固なんだな、と。
そう思っていたら、ちょうど『ふたりのマエストロ』が公開され、
ポスターには立派な鼻のふたりが横顔を見せて並んでいたという次第。
なんで、こんな話を長々としているかというと、
もちろん、単にこの映画の主演二人の鼻が
ガチで大きくて立派だからという「だけ」ではなくて、
『ふたりのマエストロ』という映画が、実はリメイク作で、
ベースとなっている元作が「イスラエル映画」だからなのだ。
元になったのは監督兼脚本家のヨセフ・シダーが撮った『フットノート』。
しかも、主人公の親子はトーラー(ユダヤ教の教え)を専門とする大学教授で、彼らの研究に対する賞の授与に関して「取り違い」が発生するという、バリバリの「ユダヤ教」映画だったりする。それをクラシック業界に「移し替えて」このリメイクは作られているのだ。
おわかりだろう。
だ・か・ら、本作の主演はイスラエル出身のイヴァン・アタルで「なければならなかった」し、父親役は「ユダヤ系」マルセイユ出身の画家を父にもつピエール・アルディティで「なければならなかった」。
「音楽家」という主題も、単なる思いつきで選ばれたわけではないはずだ。クラシック音楽の世界において、作曲・演奏の両面で、ユダヤ人の遺伝的優位性はほぼ認められているからだ。かの大ピアニスト(もちろんユダヤ系)ウラディーミル・ホロヴィッツは言っていたものだ。「ピアニストには3種類しかいない。ユダヤ人とホモと下手糞だ」と。
映画製作者はこの「裏のルール」を表面化させることを、必ずしも良しとしていない。
パンフでは、リメイク元の映画について軽く監督インタビューで触れている程度だし、出演者紹介でも解説でも、ユダヤ系に関することはほとんど書かれていない。
映画内で使われる音楽にしても、ど真ん中のユダヤ人作曲家であるメンデルスゾーンとマーラーはなぜかあえて忌避しているし、登場人物たちはみな、ごくふつうの「フランス人」として描かれ、ユダヤっぽさは完全に排除されている。要するに、「基本は」ユダヤ系映画として本作を観てほしくはないわけだ。
でも、ポスターアートにおける、あえて横顔でとらえた二人の「大きな鼻」は、間違いなく本作が「イスラエル映画のリメイク」であることを印象付けるための「誇り高きアイコン」に他ならない。
そのことを、僕はB.クーパーの「つけ鼻」騒動で再確認できた。
ユダヤ系の配役には、ユダヤ系の俳優を。
ブリュノ・シッシュ監督は、まさにその要請に「正しく」応じてみせたのである。
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映画としてどうだったかと言うと、
まあ普通に面白かったかな、と思う。
家族劇としては、とてもオーソドックスな「フランスらしい」ノリで、過不足ない仕上がりだったのではないか。特に、
「離婚家庭の元奥さんが、仕事でのパートナーを続けている」
「三世代の家族が出て来て、それぞれの世代感が強調される」
「性交渉が恋愛の重要な要素として映画内に散りばめられる」
といったあたりはまさにいかにもな感じで、トリュフォーやらロメールやら『ラ・ブーム』やらクロード・ミレールやらで散々観てきた、「これぞフランス家族映画」というノリをいやでも感じさせてくれる。
出演者も演技派ぞろいで、安心して観ていられる印象。
多少、なぜか表情に乏しいというか、みんな眠そうな眼差しで見つめ合ってるシーンが多い映画なので、あまり溌溂とした感じはないけれど、それぞれの苦悩やらやってられない感じはとても上手に表現されていたように思う。
とくにお父さん。浮かれ立ってエラそうに回りに吹聴してまわってたら、ぜんぶただの勘違いのうえ、家族はみんな先に知ってたとか、それはさすがにツラいよなあ(笑)。
一方で、クラシック音楽を扱った映画としては、しょうじき「どうかな」と思わされるところも多かった。
パンフで今をときめく鈴木雅明・鈴木優人親子が「音楽に関する不必要で余計な描写がなくて、ストレスなく観れましたね」(優人)「不自然な演奏場面が少ないのが良かったです」(雅明)と言っているから、そこまで気にすることはないんだろうけど……。
そもそも、パリで活躍しているフランス人の大物指揮者が、スカラ座の音楽監督になるのが夢って設定自体、そんなことふつうにありうるんだろうか?と思ってしまう。
かつての、アカデミーによる「ローマ賞」授与があったグラン・ツアーの時代ならまだしも、現代において、フランスの芸術家がイタリアを目指す流れは、あまりないような気がする。むしろ総じてイタリア・オペラとか、ひそかに下に見ているのではないかと。
たぶん念頭に置いているのはダニエル・バレンボイムなんだろうけど(2007年より客演指揮者、2012~17年にイタリア人以外では初めての音楽監督。彼はユダヤ人でもある)、彼は望まれたからスカラ座に行っただけで、本当はパリ・オペラ・バスティーユの音楽監督のほうになりたかっただろうし、明らかにべルリン国立歌劇場での音楽監督としての仕事のほうが比重は大きかったように思う。
結局、「ユダヤ人の」バレンボイムがフランスから初めてスカラ座に行ったから、この映画の設定もそうしただけなんじゃないだろうか。
実際、映画のなかで親子ともオペラのピットに入っているシーンがまるで出てこないのに、父ちゃんがスカラ座に執着している理由がよくわからないし、スカラ座のコンマス(正確にはコンサート・ミストレス)がパリに来ているとか、パリから逆に一人連れていくとか、歌手ではなくてヴァイオリニストに焦点があたっているのもイマイチ解せない。もちろんスカラ座オーケストラはコンサート活動も行うが、基本はあくまで座付きのオケなので、オペラの上演がメインで、就任公演にしてもふつうはオペラを振るのがふつうではないかと思う。だから、コンマスに話の焦点があたるのはどうにも違和感があるわけだ。
コンマスついでにいうと、映画のなかでは「第一ヴァイオリニスト」みたいな言い方をしていたような気がするが、第一ヴァイオリンというのは、ヴァイオリンで主に上部の主旋律を担うパート全体を指す呼称なので、混乱するのでふつうは言わないと思う。
あと、自分の愛人なり婚約者なりを、指揮者を務めるオケで重用するばかりか、コンマスにまで抜擢しようとするなど、それこそ言語道断で(いや、実際にないことではないんですが(笑))、その女性を今度は、新任で音楽監督になるスカラ座にも引き抜いて連れてくとか、まさに公私混同も甚だしい。
彼女が難聴であるという設定も、センシティブな題材のわりには映画内でうまく活かされているとは思えなかった。単純に朝起きて補聴器をはめるとブラームスが聴こえてくるシーンと、指揮者が大太鼓叩きながら迎えに行くシーンがやりたかっただけのような気がする。
ミラノ座に話を戻せば、自分の秘書が仕出かした電話のかけ間違いの後始末を、これから招聘する指揮者に丸投げで押し付けるとか、さすがにそれはちょっとあり得ないだろう。
なので、この映画はそもそもの大前提の部分からしておかしい、ということになる。
これが、たかだかユダヤ教の宗教学者に与えられる賞に関する話なら、事務局がうっかりのうえ適当で、留守電から逃げ回ったすえ息子になんとかならないかと泣きつくって話もあっていいかもしれない。だが、それがミラノ・スカラ座で事が音楽監督の招聘ともなると、話は別だ。パンフで鈴木親子が、かつて一度マジで「オファー間違い」があって息子の代わりに父親が振ってしまったケースがあったことを紹介していたが、音楽監督のオファー間違いともなると、ふつうに陳謝するべき案件だし、あんな偉そうに息子の指揮者に問題解決を一任したりは絶対にしないはずだ。
加えて、ゲルギエフが単純に「ロシア人だから」という理由で、奥さんがアルツハイマーになったから退任とか、下賤で卑劣な愚弄ネタをかましていいわけは、断じてない。
このあいだ観た『TAR』でも、現役のドミンゴやデュトワやガッティを性犯罪者として下げまくるネタを連発してたが、何? 最近クラシック界ではこういうの流行ってるの?? ぜんっぜん面白くもなんともないんですが。
その他、映画内で使用されている楽曲が、モーツァルトとかラフマニノフのヴォカリーズとか、比較的軽めの通俗よりの楽曲ばかりなのはどうなんだろうかとか、
どんだけ横暴で偉そうな指揮者であっても、リハにやって来て『第九』の第二楽章の冒頭だけさらって、いきなり帰るなんてありえないんじゃないかとか、
小澤征爾のリアルな映像を挿入しておきながら、そこに小澤が振ったのではない他人の演奏をくっつけて流すのは、さすがに失礼なのではないかとか、
とにかくいろいろとひっかかるところは多いんだけど、
親子をつなぐピアノ曲としてブラームスの間奏曲(それも後期の)が使われていたのはポイントが高かった。通常、こういう場合って通俗曲だとショパンとか使われそうだし、渋めの選曲でもシューベルトもしくはシューマンってケースが多い気がするが、ブラームスの曲にあたったのはブニュエルの『自由の幻想』でラプソディ第2番を聴いて以来かも。
何度聴いても良い曲だよね。
この映画の主題である「指揮者親子」というのは結構な実例があって、鈴木親子や尾高一家、ヤルヴィ一家のほか、ザンデルリンク親子、チョン・ミョンフンとチョン・ミンなどが良く知られるが、何と言っても最も有名なのはエーリッヒ・クライバーとカルロス・クライバーの親子だろう。父親がきわめて厳格に拍を刻むタイプで、息子は曖昧に雰囲気で「踊る」タイプだったのも含めて、今回の役作りの参考にしているのではないか。
ただ「音楽家親子」という話は、99%「才能の遺伝」という話でもあるので、この話のラスト近くで明かされる「とある秘密」というのは、個人的には今一つ承服しがたかった。
はっきりいって、僕は環境や教育だけで指揮者になれる才能が育まれる可能性があるとはまったく思っていないので……。そのオチにするなら、そもそもなんで音楽家を題材にしたんだ?? って思ってしまう。
あと、ラストのネタ。
あれは……えーっと、どうなんだろうね?(笑)
ふつうに考えれば噴飯もののネタで、たとえば小澤とメータだって「交互」にやってたから成立したんだと素人考えでは思うんだけど、だからこそ「見たことのない圧巻のエンディング」なわけで(だれもこれまでそんな演出やろうとしなかったっていうw)、まあこれはこれでいいのかなあ?
一応、会社の後輩の元学生オケ出身者に、あれで本当に弾けるものなのかはぜひ確認しておきたい。