「ポアロ対女霊媒師! 霊の実在をめぐる知的闘争の果てに呪われた館で見出した真実とは。」名探偵ポアロ ベネチアの亡霊 じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
ポアロ対女霊媒師! 霊の実在をめぐる知的闘争の果てに呪われた館で見出した真実とは。
なかで出て来た「アダムとイヴの原罪からくり時計」、超かっこいい! 超ほしい!!
ケネス・ブラナーのポアロ・シリーズ第三作目。
前二作は視聴済み。
今回の原作にあたるクリスティーの『ハロウィーン・パーティ』も既読。
というか、ちょうど手元にあったので、この機会に封切り前に読んでみた次第。
今までデイヴィッド・スーシェのドラマ以外で映像化のない珍しい原作選択だが、実際には親本とは似ても似つかない内容で、ほぼオリジナルといっていい。
発端の依頼者だとか、登場人物名とか、一部のキャラクターとか、原罪の象徴としてのリンゴとか、いくつかの要素だけつまみ食いして、あとは自由に創作したみたいな構成であった。
出だしは、
「なんで引退したポアロがヴェネチアに住んでるんだ?」
(原作では晩年のポアロはイギリスの片田舎に隠棲したはず)
「ボディーガードのラリアットネタとか、いきなりちょっとサムいんだけど」
「アリアドニの誘い出し方が強引すぎるし、こんなんでポアロのこのこ出かけるの?」
「結局、霊媒ハンター話がメインで、まるでハロウィーン・パーティ関係ないじゃん」
「なんでヴェネチアで地元の孤児相手に英語で劇やってて、みんな英語でしゃべってんだ? そもそも旅先でもないのに、ヴェネチアで集まってくる登場人物が全員英国人っておかしくないか?」
などなど、前二作に比べるとえらく雑なつくりだなあ、というのが正直な感想だったのだが、思いがけずポアロが襲われてからは、ぐっと引き込まれた。
なお、原作では、イギリスの田舎町で子供たちを招いたハロウィーン・パーティが開催され、そこで「リンゴ食べ競争」(手を使わないで水に浮かべたリンゴを食べるゲームで、英国のハロウィーンでは一般的らしい)用の水をたたえたバケツで少女が溺れ死にさせられる。少女は殺される直前「あたし、そういえば昔人が殺されるのを見たのよ」という自慢話をしていた。で、現場に居合わせたアリアドニが、ポアロのところに飛んできて、事件解決の依頼をする、という流れ。ね、なんかいろいろうまく入れ替えたり魔改造してるでしょ? あのリンゴ浮いてる水に頭突っ込まれるのは、ポアロじゃなくて、被害者の少女なのだ。ちなみに原作にヴェネチア成分はゼロです(笑)。
なにはともあれ、ケネス・ブラナーがやりたかったことは明快だ。
「ど真ん中ストレートのお屋敷ミステリ」。
しかも「お化け屋敷(ホーンテッド・ハウス)もの」。
さらには「嵐の山荘もの(クローズド・サークル=誰も出入りできない環境下での連続殺人)」!
で、その試みはそこそこうまくいっていると思う。
魔界都市のごとき、妖しい気配に満ちた沈みゆく街ヴェネチア。
得体の知れない瘴気漂う、荒れ果てた奇怪な館。
幽閉された子供たちの怨霊が医者を呪うという、おぞましい言い伝え。
そこで開催される子供向けのハロウィーン・パーティと、
参加客たちが身に着ける禍々しいヴェネチアンマスク。
謎めいた東洋人霊媒が仕切る大がかりな降霊会。
そこで引き起こされるグロテスクな連続殺人と、
ポアロの必死の捜査。超常現象と亡霊は果たして本当に実在するのか?
やがて明かされる意外な真相と、おそるべき真犯人。
細かいところには不満もいろいろあるけど、
総じていうと、ふつうに面白かった!
そもそも、日本人ってこういう「お屋敷謎解きミステリ」が大好きだけど、欧米の本格ミステリ映画でここまでゴリゴリのやつってなかなかないから、それだけで基本的には大満足。
謎解き部分も、あまり触れるとネタバレになるので踏み込まないけど、相応にクリスティーらしい感じに仕上がっていたのではないだろうか。
だんだんロジカルに謎解きが進んで、とある手がかりをきっかけに最後に世界観が一変するといった衝撃性や驚愕性はあまりないが、オリジナル成分80%でこのくらいの仕上がりなら、文句をいうのは野暮というものだろう(やる気は素晴らしいけど、ほぼすべてのトリックとロジックがはちゃめちゃで超がっかりだった『ナイヴズ・アウト』とは次元が異なる)。
どうせクリスティー原作でクローズド・サークルのお屋敷ミステリをやりたいなら、『ハロウィーン・パーティ』よりもっとしっくりくる長篇があったような気もするが、いざ考えてみても意外に思いつかない。
『スタイルズ荘の怪事件』や『ねじれた家』はマナーハウスものだが、クローズド・サークルものではない。クリスティーのクローズド・サークルものといえば、なんといっても『そして誰もいなくなった』だが、あれはノンキャラクターものだ。
むしろ、必要となるアイディアの中核だけ原作扱いの『ハロウィーン・パーティ』からいただいておいて、お屋敷要素や舞台立てはいちから「創作」するほうが、ブラナーとしても作りやすかったのかな?
ヴェネチアの街の暗黒面を描いた「こわい映画」といえば、なんといってもイギリスのニコラス・ローグ監督が撮った『赤い影』が筆頭格だと思うが、そういえば、ヴェネチアを舞台としたジャッロ(イタリア製の謎解き風味スラッシャー・ホラー)って意外とないもんだなと思っていたら、最近になってスペインのアレックス・デ・ラ・イグレシア監督が『ベネシアフレニア』というなかなかの傑作を世に送り出した。
今回はアイルランド出身のケネス・ブラナー監督が、ヴェネチアを舞台とした稀少な純本格ミステリ映画――それも、王道のお屋敷本格に挑んでくれたというわけだ。
(本家のイタリア人も、もっとがんばれw)
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毎回、ケネス・ブラナー版ポアロには明確な「作品のテーマ」が設定されている。
第一弾の『オリエント急行の殺人』では、「神の正義と法」及び「復讐の大義」がテーマだった。第二弾の『ナイル殺人事件』では、「名探偵の宿命」と「愛の逆転劇」がテーマだった。
第三弾の本作の場合、扱われているのは「霊の実在性」といっていいのではないか。
すなわち、理性主義と神秘主義の対決――科学のみを信じるか、スーパーナチュラルを信じるか、という、本格ミステリにおいて根源を成すテーマだ。
われわれ日本人にとって、お墓参りやお盆の送り火など、祖霊信仰はアニミズムに根差した比較的「自然で体感的な」形で、日々の生活に滲透しているように思う。
欧米人にとって「霊魂」とは、もっと生々しく宗教と結びついた存在であり、19世紀の「科学の世紀」において、その存在を認めるかどうかはきわめて重大な議論の対象だった。
スピリチュアリズムは、決していかがわしい擬似オカルトではなく、学者や知識人が「科学」として真剣に研究する分野であり、降霊術もまた、実際にきわめて頻繁に開催された秘儀であった。たとえば20世紀初頭でもコナン・ドイルが降霊会に傾倒していった話はよく知られているし、逆に「脱出王」ハリー・フーディニが霊媒ハンターとして活躍していた話も皆さんご存じだろう。
本格ミステリのジャンルでも、降霊術・降霊会はきわめて重要なアイテムであり、これをモチーフにした著名な長篇ミステリだけでも、たぶん優に100くらいはありそうだ。
カーター・ディクスンの『黒死荘の殺人』、クレイトン・ロースンの『天井の足跡』、へイク・タルボットの『魔の淵』、ピーター・ラヴゼイの『降霊会の怪事件』、ポール・アルテの『第四の扉』などなど……。本格物ではないが映画化が素晴らしかったマーク・マクシェーンの『雨の午後の降霊術』、それからノワールと降霊術の奇妙な混淆物であるウィリアム・リンゼイ・グレシャムの『ナイトメア・アリー 悪夢小路』。ウィリアム・ホープ・ホジスンの『幽霊探偵カーナッキ』なども、霊媒ハンターものの一変種として忘れられない。日本でも、横溝正史の『悪魔が来りて笛を吹く』の密室殺人は降霊会の夜に起きてましたね(火炎太鼓がどうのってやつね)。
クリスティーにも、降霊術を扱ったミステリがいくつかある。
まずは『シタフォードの秘密』。これは、降霊術のお告げで死を宣告された人間の様子を雪の中延々歩いて観に行ったら本当に殺されていたというもので、ノンキャラクターもの。
それから『邪悪の家』。こちらは、むしろポアロの側が犯人のあぶり出しに降霊術を利用しようとする。他にも何本か降霊術を題材にとる短編があって、パンフによれば、脚本家はノンミステリのホラー短編「最後の降霊会」に影響を受けたということだ。
あと、女流作家アリアドニ(クリスティー本人が元ネタとされる)が登場する『蒼ざめた馬』(ポアロは出てこない)も、降霊術やら悪魔教団やらが出てくる実にいやな話で、メイントリックの類似性も含めて、今回の映画に影響を与えている可能性は十分ある。
ともあれ、「霊は実在するのか」という大命題に、今回ポワロは直面する。
ポアロの立ち位置は無神論者のそれに近いが、これはむしろ欧米では「珍しい」スタンスだ。
彼がいうとおり、霊の存在や悪魔の存在を認めれば、それは「神の存在を認める」ことに他ならない。ポアロは少なくとも「人の人生に介入するような神の存在を認めない」がゆえに、「亡霊や霊媒や悪魔の存在も認めるわけにはいかない」。
まわりのキャラクターはさまざまなフェイズから、ポアロに対してある種の神学論争じみた「霊の実在」に関する議論をふっかけてくる。その際たる敵が、ミシェル・ヨー演じる霊媒で、ふたりの思想的対決はさながらS・S・ヴァン・ダインの『グレイシー・アレン殺人事件』でも読んでいるようだ。
本格ミステリにおいて、作中のロジックの一環として霊的存在を最終的に認めるかどうかというのは、ディクスン・カーの『火刑法廷』以来、いろいろと実験のなされてきた試みであって、今回のポアロは結構ぎりぎりのところまで追いつめられる。
その背景には、前作『ナイル殺人事件』で試され続けた「名探偵であること」の苦悩と使命に、ポアロがもはや疲れ切り、引退を標榜するような「もともと心の弱った状態」にあったことも大いに関係しているし、さらには終盤明かされる「アレ」の身体的な影響もあって、余計に自分の内面と向き合わざるを得なかった部分もある。
最終的に、エルキュール・ポアロは、論理の刃によって事件を解決することに成功し、世界は理性の光のもとに明晰な輪郭を取り戻し、彼は「名探偵」としての矜持をふたたび手に入れる。
だが、本当に世界は、科学とロジックだけで読み解けるものなのか?
ヴェネチアという街の裏側に、街を浮かべる海の深淵に、それだけでははかれない「非日常」は今も広がっているのではないのか?
解決篇の後に感じる、得も言われぬ居心地の悪い余韻は、そんな人ならざるものの存在が引き起こしている「何か」なのかもしれない。
その他、小ネタに関して、以下箇条書きで。
●原作では住み込み(オ・ペール)女秘書が、登場人物によって「オペラ娘」と呼称されるシーンがあるが、たぶんこれが本作に登場する屋敷の女主人が「オペラ歌手」という設定になっている元ネタだと思う(笑)。
●本作では、とにかくモノがよく壊れる。そして大きな音を立てる。シャンデリア、食器、家具。ラストシーンでポアロが机の端のコーヒーカップを内に押し戻すのは、その負の連鎖は断たれた、という宣言だ。ちなみに机の端の食器は、不安定な状態を表わすとともに、西洋絵画の伝統において「メメント・モリ」(死を想え)を表わす象徴的モチーフである。
●ミシェル・ヨーのぐるぐる回る降霊シーンは、ちょっと笑ってしまうくらい鬼気迫る仕上がりでGJ。あのへん、昔の降霊術の実話とか、悪霊憑きの出てくる映画を研究して、うまく取り入れている。自分で顔をかきむしりながら「赤目を剥く」って、意外に見たことのない薄気味悪さで印象に残ったが、あれミシェルのアイディア?
●本作のミステリ要素は、「脅迫」「妄執」「過去」と、きわめてクリスティーらしいテイストで、原作者の傾向を理解した改変が成されていると思う。犯行の手法もたびたびクリスティーが取り上げたもので、脅迫犯の正体も「クリスティーごのみ」。ただしアリアドニの扱いにはちょっとびっくりした。