「潮の気持ちの「痛さ」」バジーノイズ talkieさんの映画レビュー(感想・評価)
潮の気持ちの「痛さ」
最初はスマホで清澄を撮影していた潮は、いつの間にか(ちゃんとした?)デジカメで撮影する一方で、ただただ只管(ひたすら)「自分の音楽」を孤独に追い求める清澄ー。
そんな清澄にとって、潮が清澄に注ぐ「想い」が清澄には重くのしかかる…否、重くのしかかっていると潮は思い込んでしまう。
そして、そんな彼女の清澄に対する「想い」の空回りが、今度は反対に、潮自身にも重くのしかかるー。
彼女にとっては本当に切ない状況だったと思いますし、それだけに「急におらんようになって、ごめんなさい」という一片の置き手紙で清澄の前から姿を消した彼女の心痛も、画面を通してとは言え、それこそ「痛いように」伝わります。
本作のタイトルになっている「バジーノイズ」とは、本来は虫の羽音のような雑音ということで、音楽関係に絞って言えば、楽曲に変化を与えたりエッジをきかせたりするノイズということのようです。
本作では、潮は、清澄の生き方に大きな影響を与えた「バジーノイズ」だったのかも知れません(清澄が潮の生き方に影響を与えたであろうことも、もちろん)
そんなことにも思いをいたしてみると、充分な佳作と評して、間違いのない一本だったと、評論子は思います。
(追記)
清澄がひとりて創作するようになったのは、陸とのバンドがうまくいかなかったからなのでしょうか。
本作では、その解離の原因は、はっきりとは描かれていなかったと思いますけれども。
しかし、後にはアジュールとして陸との関係性を、いわば「再構築」した清澄―。
今日(きょうび)の音楽は独りで打ち込むこともできるのでしょうけれど、やっぱり他者(仲間)と奏でる音楽には、それ相応の価値があったということなのだろうと、評論子も思い直しました。
(追記)
<映画のことば>
「それで、こちらは?」
「清澄のファン第一号や。」
作中では、そうとハッキリとは描かれていないのですけれども。
しかし、清澄らの音楽を、いちばん最初に評価してくれたのは、案外、潮だったということでしょう。
そう考えると「次に鳴らしたら部屋を空けて出ていってもらう」とまで言われていたのに、清澄が潮の絶っての頼みで鳴らしたことにも合点がいきます。
そして、そこが(ミュージシャンとしての)清澄の「出発点」だったことにも疑いはなさそうです。
<映画のことば>
うちな、自分で何も見つけたことないねん。
好きなものも、やりたいこともない。
ずっと誰かにオススメされたものばっかりで生きてきた。
けど、清澄の音楽は、初めて自分からいいなって思った。
やから、大事にしたい。
清澄を応援したいんや。
(追記)
評論子の世代だと、音楽は、ピアノに向かって一音ずつ音を試しながら、一小節毎(ごと)に譜面を手書きで直していくイメージがあるのですけれども。
しかし、今の音楽は、パソコンのキーボードの前で創られていくのですね。
正に音楽は「打ち込むもの」となっているということなのでしょう。
話に聞くDTM(デスクトップミュージック)とは、きっとこういうものなのでしょう。
評論子には、そういう認識を新たにした一本にもなりました。
(追記)
<映画のことば>
「ほら、ジャングルとやらで買(こう)たらええ。」
「アマゾンですぅ。」
共感ありがとうございます。
音楽映画は常に、“売れる”描写をどう描くか、最後迄売れなかったり、売れた事で関係が変化したり、才能が枯渇したり。今作はプロデューサーの手を離れても売れたままで万々歳って感じだったんですが、それには悪徳Pのお目こぼしが有ればこそですよね。Pもコレはどうなのか?と思ってたのかもしれませんね。
桜田さんは、こっちの方が大きな玉ねぎより良かったです。