「大人への登竜門と、人生の棚卸し」違国日記 R41さんの映画レビュー(感想・評価)
大人への登竜門と、人生の棚卸し
違国日記──「違う国」に生きるということ
2024年の映画『違国日記』は、ヤマシタトモコ原作のコミックをもとにした作品だ。だが、その語り口は漫画的な誇張や説明を排し、むしろ純文学のような静けさと余白をたたえている。
タイトルの「違国日記」は、どこか耳慣れない言葉だ。「異国」ではなく「違国」。この違和感が、物語の本質を静かに指し示しているように思える。作中で、両親を亡くした少女・朝(あさ)が、叔母・真生(まきお)の家に引き取られたときに漏らす「まるで違う国に来たみたい」という言葉。そこから、このタイトルは生まれたのだろう。
朝が真生からもらったノートに綴った言葉。描かれなかった母の日記の空白。異国へと旅立ったのは母だったが、朝もまた「違国」へと来てしまっていた。母の白紙のページには、母の知らない朝の物語が、静かに、しかし確かに始まっていたのだ。
この物語には、二人の主人公がいる。作家である真生と、姪の朝。彼女たちは互いを通して、自分自身を見つめ直していく。だが、映画はその変化を声高に語らない。むしろ、役者の表情や沈黙、視線の揺れといった「言葉にならないもの」によって、登場人物の「本心」を描き出していく。
観る者は、彼女たちの沈黙の奥にある感情を読み取ろうとする。そこに、この作品の深い魅力がある。
朝にとって「大人」とは、必ずしも肯定的な存在ではなかった。自分の考えを押し付ける母。大好きだったはずの母の、嫌いな一面。男子限定の海外派遣プログラムに象徴される理不尽さ。朝の中で、「大人」は卑怯者の代名詞になっていた。
だが、真生やナナ、笠松といった大人たちと出会うことで、朝は「別の大人像」に触れていく。彼らは不完全で、迷い、何かに抗いながら生きている。母とは違う、けれどもどこか似ている。朝は彼らの姿に、自分自身の未来を重ねていく。
特に印象的なのは、真生が母を拒絶する理由を、朝が理解できないままでいることだ。真生が「変わらないし、変わりたくない」と言い切る姿は、まるで子供のようでもある。朝は、変わろうとしないことこそが「子供」なのではないかと感じ始める。
両親の突然の死によって、朝の世界は否応なく変わってしまった。だが、その悲しみさえ、しばらくの間は感じることができなかった。変なのか、普通なのか──他人の視点を気にしながら生きることの「普通さ」と「異質さ」のあいだで、朝は揺れていた。
やがて、事故現場に花を手向け、母の死に涙することができた朝は、ようやく「自分の本心」にたどり着く。母の日記を読み、友人の変化に気づき、親友の告白を受け止め、大人の言葉に傷つく同級生を見つめる。そうした一つひとつの出来事が、朝の中に「考える力」を育てていく。
変わってしまうこと。変わらないこと。変えられてしまうこと。皆が似ているようで、皆が違う。真生が「絶対に変えない」と言った姉への感情にも、わずかな変化の兆しが見えた。
朝が感じるその一瞬一瞬が、彼女が歩く「大人への道」なのだろう。誰かに教えられるのではなく、自分の頭で考え、自分の足で歩いていく道。
この作品には、そんな静かな強さが宿っている。言葉にしきれない感情の襞を、丁寧にすくい上げるような演出と演技。まさに、純文学的な映画だった。
いい作品だと思う。
