「オープニングとエンディングにグッとくる」劇場総集編ぼっち・ざ・ろっく! Re: M.Nさんの映画レビュー(感想・評価)
オープニングとエンディングにグッとくる
物語自体は、後編同様特段の変化もないのですが、個人的にオープニングによってぼっちの解像度が上がったような気がしましたので、今更のように投稿しました。
物語冒頭(アバン)で、いきなり物語は中盤辺りのぼっちと虹夏との会話から始まります。そこで虹夏はぼっちに、どうしてバンドをやりたいのかを聞きます。そこで、映像は一気に中学時代にギターを上手くなることを誓った時に戻るのですが、私はここで、図らずもグッときてしまいました。私としては、ここはまさに後藤ひとりのパーソナルをたった数秒で表現した場面に思えたからです。
私は、テレビ版を観ているため、この後にどのようなことがあったのか、また、この時に彼女が何を考えていたのかも知っているのですが、確かこの時に彼女が実際に口に出したのは、父親にギターの在り処を質問したということだけだったように覚えています。家族は、部屋の外から、鏡に向かってギターを構えているぼっちを眺めているだけ。つまり、あの世界の誰も、どうして後藤ひとりという少女が一日六時間も練習するほどギターにこだわることになったのか知らないのではないかと思いました。加えて、映像が再び虹夏との会話に戻った時にも、ぼっちは俯くばかりで自分の考えを言いません。
テレビ版を観ていて思うのは、恐らくぼっちは今まで自分の意見を言いたくても自分が納得できる言語化ができず、いつまでも「私が何か発言して良いのか」ということばかり考えては自己否定し、妄想に逃げるということを繰り返していたのではないかな、と思いました。要するに、この時点でぼっちは、そもそもの生き方が孤独に生きるようにできているようにすら思えてしまい、個人的に大変切なくなってしまいました。
何故なら、そのような彼女の問題は、何かしらの外的要因(家族関係や友人関係、外的障害等)のような、所謂「仕方ない」と誰もが理解を示せるものではなく、ひどく内的で病気とも言えずないレベルの、所謂「努力不足」と揶揄されるような類のものです。しかし個人的にはひどく重大で切実な性格的特性あると思ったからです。それは、彼女自身、絶対にどうにかしたいだろうし、一方で直したいと思えば思うほど空回り、彼女が思い描く理想からは遠ざかるものでもあるとも思え、事実、これまでの彼女は孤独に頭の中だけでアリーナを満員にしていたのだと思います。
と言った感じで、とにかくぼっちはこれまで誰にも自分の意志を示したことはなかったと思うのですが、もう一つ、何となくですが、ぼっち自身も自分がどうしてここまでバンドにこだわっているのか、ちゃんと言語化できないのではないかな、とも思いました。まず、ぼっちはいつも焦ります。他人に否定されることをひどく恐れるあまりの思考回路なのでしょう。その結果、上記したように空回っていると思うのですが、行動が混乱する人は、大抵の場合は思考も混乱しています。つまり脳内ですら上手い言語化ができていないことが推測されます。結果、上手く周囲に自分の言葉を向けることができません。しかも、テレビ版のアバンで幼少期のぼっちは斜に構えて周囲から遠ざかったのではなく、「自分が入ってよいのかな」という、「自分=異物」のような考え方で動けなくなっていましたので、その頃から、彼女にとっての思考回路は「自分は異物」だということが推測できます。しかもその異物は「特別」というポジティブさではなく「邪魔者」というネガティブさによってコーティングされているように思えるので、まるでセルフ人種差別をしているような状態なのかも知れません。結果、ぼっちの行動理念は「自分がどうしたいか」ではなく「周囲が自分をどう扱うか」となり、人生の主体性が喪失された状態となっているのように見えます。それらを鑑みると、ぼっちはこれまでの人生で常に周囲を主体にして生きてきており、自己実現というもの(所謂「大きくなったら~」の具体化)すらまともにやっていないのではないか、心の中で描いたアリーナですら「分かりやすい成功した自分」としてしか考えていないのではないか、と思いました。
個人的に、ぼっちがそもそも求めていたもの(人生の主題)は何かと考えると、中学時代ギターを志す切っ掛けでもある、テレビでバンドマンが言っていた「陰キャでもバンドはできる」的な発言からしても、ギターを上手くなりたかったことではなく、単に誰かと一緒に何かをやって存在を認められたかっただけだと思うのです。それが、上記のような、思考が上手くまとまらない特性を有している可能性を考慮すると、何となく、そこも実は良く分かっていなくて、だから、虹夏にも何も「言わない」以上に「言えない」ところもあったのかな、とか思ってしまいました。実際は、人並みに存在を肯定して欲しいだけでも、上手く言語化して気持ちを伝えられないだけで、そう見られてきた15年間だったのかも知れません。
などと、冒頭の回想シーンを観た時に一気に流れ込んできた気持ちを長々と記載してしまいました。とにかく、上記のような理由で個人的にこのオープニングは、人に上手く自己表現できないぼっちの人生そのものを体現したもののように見えてしまい、ものすごく切なくなりました。
また、直後に流れるオープニングやラストに流れるエンディングは、テレビ版のような「世界にぶちかませ」的な外向的かつ上昇的なテーマから一転して「自分は何やってんだろう」と急坂を全速力で掛け降りるかのような内的でシリアスな路線に変わった印象に映り、孤独と自分への失望、それでも誰かに認識してもらいたいという、ありふれているけれど満たすのは実に難しい欲求を示しており、個人的にギャグ少な目になった前編を上手く表していると思いました。坂を下っていても進んではいるのがいかにもこの作品らしいな、とも思いました。
以上となります。長文失礼しました。ご拝読いただき、ありがとうございました。