「これは「結束バンド」としての新調作品」劇場総集編ぼっち・ざ・ろっく! Re: 映画読みさんの映画レビュー(感想・評価)
これは「結束バンド」としての新調作品
テレビシリーズは視聴済み。何周もしたほど好きな作品。
アルバムも購入済みで、かなり聞いている。
とはいえ、いくら傑作といえど12話のアニメを、サブスク全盛のいつでも観られる時代に劇場版総集編、それも前後編でする必要はどうなのかと疑問に思っていた。
楽曲が熱い作品であることは間違いないのだが、技術面や精神面で未熟な高校生バンドのできあがりというテーマもあるので、あまり上質すぎる音響で「上質」を聞くのも浅い解釈ではないか、解釈違いを起こしそうだなと…
杞憂であった。観てよかった。観るべき作品だ。
この前編で、12話中の8話終わりまでをかっ飛ばす。
夏休みのお家ご招待回などはまるごとカットされているが、
・新OP(新曲)
・ED(新曲)
・全編に渡ってちょくちょく新規追加シーン
が挿入されており、同じシーンでもぼっちちゃんの独白が抜かれていたりなどして、一つの90分でまとまる映像作品として新調されている。
いわゆるきらら作品の「日常系」のパートを削って、コメディ成分をやや減らし、メンバー4人がだんだんと真剣になっていくバンドものとしての軸を強調。
後々思い返せば、劇場総集編の告知画像は4人が横並びであり、キャッチコピーは「私がバンドをやってる理由。」……と、「決してぼっちちゃんが主役とは言っていない」のである。テレビシリーズでは無自覚なロックモンスターであるぼっちちゃん成分偏重、それをリードとする構成だったが、この劇場版は4人がそれぞれに主役(4人で1つの結束バンドが主役)という意図的な再構成・ややパラレルみさえ感じる新調バージョンだ。
例えば、12話構成ではわずかなスパイス&お約束の流れでしかなかったオーディション回が、相対的に長尺の扱いになったことで意味的な厚みを持たされている。
この劇場版の構成とトーンでは、星歌店長の「お前たちがどういうバンドか、わかったから」というのは、それぞれの個性を認めたセリフではないだろう。
ギターが逃げ、その代役として即席で連れてきたギターは完熟マンゴーの段ボールを被って姿を見せず演奏し、皆おしなべて演奏は下手……という12話構成ならアリなコメディタッチの衝撃デビューも、この劇場版では「あんな遊び気分でバンドしているつもりなら、(本人たちのためにもならないから)もう立たせる気はない」という気配が滲む。
あれは恥ずかしいことなんだぞ、お前たちは人からお金をもらってモノを発表するという実は真剣味が必要な場に、許しを請わずに言い訳せずに上がる気はあるか? という星歌の厳しい優しさが伝わる構成となっていたと感じた。この課題は、ぼっちちゃんメインだと「勇気を出して普段通りに演奏できればクリアできる」程度の課題だが、リーダーである虹夏メインで聞けば、バンド活動はお前にとってどの程度のものなのか(他のメンバーの甘えをどう許すつもりなのか?)という精神性を問われている、重たい問いかけになる。劇場版では尺を調整することでそれが達成されているのだ。
テレビシリーズでは「本物ロックモンスターぼっち+本物ではない他3人」という構造(OPでも、1人と3人は一度も同じステージで演奏していない)がぐりぐりと万力のようにねじこまれており「ぼっち・ざ・ろっく」は決して「結束バンドの話」がメインではなかったが、劇場版では調整の結果「ぼっちちゃんの記録」ではなく「ぼっちちゃんを含む結束バンドの記録」として微妙にベクトルをずらした、パラレルなパッケージングになっている。新OPで一瞬だけある、過去にお父さんが押し入れに練習場を作ってくれてるシーンを入れた意味も、「結束バンドはみんなの産物」という意味合いからだろう。
最小限で準最大の効果。すごい。すでにできあがったお惣菜の盛り方を変えるだけで、ここまで風味の違う料理を作れるものか。
初見の人にもそうでない人にも感触はいいだろうし、12話を浴びてさらに解像度を上げたいと思わせる導入にもなっている。つくづく、このシリーズは頭脳部も実行部もチームが強い。
音響面は立川シネマシティの極音上映で聞いたが、ライブハウス感があってよかった。
とはいえ一番満足度が高かったのは、本番ライブ回での各パート噛み合っていない『ギターと孤独と蒼い惑星』の下手バージョン。サントラに未収録なのでこれを良音響で聞けて、音楽音痴な私でも「ああ、各パートが微妙~にずれてて全体的にかなりひどい…」と理解できたのは収穫。前述の「人前で発表する怖さ」が迫ってくる内容で相乗効果を感じた。
そしてテレビシリーズではこのリカバーにぼっちちゃんが独白とともについに両目開眼、猫背のまま虎になるあのシーンが来るのだが、なんとその独白が抜かれている。渋すぎる。劇場版でのライブは「ぼっちちゃんの話ではない」からだ。「結束バンドの話」だから、ぼっちちゃんの個人リカバーが強調されず、4人が積み上げてきたものが発生させる必然としてシーンに組み込まれているのだ。わかる、めっちゃわかるけど、やりたくても、やらしてくれって言っても通るかよ、通すやついるのかよって感じ。制作の視座が高すぎる。ロックすぎる。
ここからやや余談的。
本シリーズはメタ的な視点で見てもロックな精神性の塊である。
露出はない、エロもない、百合やすれ違いもない、狭義の天稟すらもない(ぼっちちゃんは3年間毎日6時間弾いてきた努力の人である。そういう意味で広義の天稟はあるが)、水着回もないダンスシーンもない胸や体重を気にしてる子もない美少女回転寿司もない……お約束のきららジャンプですら「ストーリー中のアー写であるから、OPにも入れといた」と言わんばかりの斜に構えた無骨具合。
あるのは友情と、若き日々の苦しみと喜びだけである。ハーレムでもシ〇バニアファミリーでもなく、1990年代の「仲間」を何よりも欲したヤングアダルトの文脈だ。
芳文社がけいおんや他社ゆるゆりのヒットにより生み出したきららシステム、それに乗ってないヒット作は実は同社ゆるキャン△で達成されている。ゆるキャン△もぼざろも「特定のジャンルが好き、というわけでもない人たちにまでヒットしている」のだ。きららシステムを超えて一般エンタメの文法に乗せても、女子を並べればすれ違いからのお涙絶叫罵り合いにしたがるセンスとは一線を画している。エンタメ界の古豪たちにとって「なんで流行っているのかまったくわからない…(自分たちが信じてきた流行る要素が全くなく、全然ダメと切り捨ててきた地味な要素でしか構成されていない。理解できるのは楽曲がいい、ぐらい)」と、足下をぐらつかせる作品になっていることは間違いない。それでこそロックである。箱から包み紙から皮も中味も骨も栄養成分まで、もう最高に全部がロックで一本の矢印となっている。ロックを題材とした、ロックなアニメだ。ロックミュージックならぬロックアニメ。
総集編後編は4話しかストックがなく、アニメ版を知ってる者からするとAパートで終わる文化祭回が山場になりきらないことはわかりきっている。おいおいどうするんだ、である。
しかしここまでロックなハートに溢れた本シリーズである。
絶対に、何かやってくれるだろう。
現代をして最強の作品であることは何も疑っていない。
その圧倒的な強さで、言い訳や惰性にまみれたすべての古いものや温いものを破壊し尽くし、本物の叫びだけが実現できる超絶の王道エンタメを見せつけてほしい。
総評としては☆4.5だが、ファンマインドとしては当然☆5。