キラーズ・オブ・ザ・フラワームーンのレビュー・感想・評価
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スコセッシ監督が描く「行き過ぎた欲望」と「公正な制裁」。
◯作品全体
すべてに共通しているわけではないけど、スコセッシ映画の特徴として「行き過ぎた欲望と公的な制裁」がある。「行き過ぎた欲望」はスコセッシ監督の過去作『グッドフェローズ』でいうところの立身出世のための抗争や粛清、麻薬取引がそうだろうし、『ウルフオブウォールストリート』だと、金持ちになるために公正取引から大きく逸脱した会社経営なんかがそうだろう。「公的な制裁」はその名のとおり、力や権力を使った私刑ではなく「行き過ぎた欲望」によって法を犯した主人公を公的な機関がキッチリ取り締まることを指す。『グッドフェローズ』であれば主人公に恨みを持つ人物による暗殺、みたいなオチではなく、麻薬取引がばれた結果、警察に人生の主導権を握られる「公的な制裁」があった。『ウルフオブウォールストリート』では、FBIが主人公・ベルフォートの違法な取引や脱税を調査し、逮捕に至る過程をじっくりと描いている。
本作でも受益権を一族で得ようとする「行き過ぎた欲望」による殺人計画があり、連邦政府の捜査官により捕まり、法の下に晒される「公的な制裁」があった。
スコセッシ映画におけるこの共通項の面白いところは、そのコントラストにある。「行き過ぎた欲望」は、言い換えれば主人公の才覚であり、情熱でもある。本作でいえば「金が好き」だという主人公・アーネストがウィリアムに指示を受けて利益を得ようとする。その姿は人によっては醜いものに映るかもしれないが、その徹底ぶりは情熱そのものだ。底辺にいたアーネストが這い上がろうとする姿含め、画面からあふれ出てくるような強いエネルギーが「行き過ぎた欲望」にはある。
一方で「公的な制裁」は情熱とは正反対の位置にある。映像作品の警察や検察、捜査官は情熱をもって犯人を捕らえ、時には派手なアクションとともに追いつめるのがほとんどだが、スコセッシ映画の公的機関は理性的で実力行使にはほとんど及ばず、法的手続きを遵守する存在として描かれる。それによって主人公たちの行き過ぎた情熱に冷水を浴びせる役割を担っていて、さらに言えばフィクションでよく見る「悪徳役人」じゃないから隙がないように映る。「公的な制裁」は執拗に追従する嫌なヤツに見えたりもするのだが、スコセッシ映画ではあくまでキチンと法に則って処理を進める真面目な役人に終始するのが面白い。
「欲望」にある特有の軽快なドライブ感と、「制裁」にある地に足のついたリアリズム。これがコントラストとなって、スコセッシ映画を、そして本作を形作っていた。
◯カメラワークとか
・序盤のシーンはエネルギッシュな立身出世の雰囲気があるから、場面転換も派手だった。会話劇のシーンから急に石油が爆発するカットに、みたいなのがいくつかあった。場面転換のアイデアの豊富さはスコセッシならでは感がある。
・ハエのモチーフ。最初は毒を盛られて重症化しているモーリーに寄りついていたけど、逮捕されてからはアーネストの周りを飛び回っていた。モーリーのは糖尿病の悪化で体が腐敗し始めたことの演出だと思ったけど、アーネストのは人生の転落を進み始めるシンボルっぽい使い方に見えた。エンドロールでもハエの音が聞こえたけど、映像で語らないからさらにシンボルっぽい。
◯その他
・終始アーネストが矮小な人間で居続けているのは面白くもあったけど、「金がほしい」という欲望の度合いがウィリアムによって測られ続けていて、元来アーネストが持つ欲望はどれくらいだったのかが分からなかった。弱い人間だから周りに操られるのはそうだろうけど、もう少しアーネスト自身の今までを語っても良かったんじゃないかな、とも思う。
モーリーに本当のことを伝えられないラストはとても納得できた。すべてをモーリーに話すと決断できるほどアーネストは強くないし、そんなすぐに人は変われない。愛を通じて人は変わる、みたいな、よくある作品にしていないところが好きだ。
・アーネストの表情の豊富さは捜査官のトムの表情変化の乏しさと対になっていた気がする。
事件の背景と差別の根深さ、これが氷山の一角かもしれない恐ろしさ
人を人とも思わない、という言い回しを地でいくような連続殺人が、100年前のアメリカで起こった。ネイティブアメリカンであるオセージ族が持つ地下資源の均等受益権をめぐって、権利を持つオセージ族の人間はもとより、真実を知る、あるいは知ろうとした白人までもが口封じのために殺された。
黒幕であるヘイルは、オセージ族に理解のある篤志家の顔をして彼らに取り入り、甥たちをオセージの女性と結婚させ、姻族となった均等受益権を持つ者たちを毒殺や銃殺で殺していった。しかも自分の手は汚さず、ごろつきに実行させその後は彼らも始末した。
利権を奪うのに何故このような方法を取ったかというと、地下資源の信託はオセージ族によって管理されており、均等受益権は売買が出来ず、相続によってしか受け継げないと定められていたからだ。
一方、石油によって富を得たオセージ族を連邦政府は「無能力者」と定義し、後見人を付けることを義務付けた。これにより、オセージ族は自分の信託基金から引き出す金額に制約を受け、白人の後見人から金銭の使い道を管理されることになった。
オセージの人々が生きているうちは後見人としてその富をコントロールし、死ねば相続によって搾取する。根深い差別意識に端を発した後見人制度と土地の利権が、多くの人命を奪う犯罪の温床になった。
何より複雑で得体が知れないのは、ヘイルのオセージ族に対するスタンスだ。原作の記述によると、彼は牛の畜産などにより自力で財を成し、オセージ族が石油で富を得る前から、彼らに対し金銭的支援や寄付、慈善事業などをおこなっていたという。オセージヒルズの王と呼ばれ、彼もオセージ族を「生涯最良の友人」と言っていたそうだ。
彼の甥アーネストも、一見妻のモリーを心から愛しているように見える。2人の間に生まれた子が亡くなった時は激しく嘆き悲しみ、ヘイルに反して事件の証人となることを決意するほどだ。しかしその一方で、おじのヘイルに唯々諾々と従って事件解明のために雇った探偵を殺し、モリーの病状の悪化に疑問を持たず(あるいは最初から毒だと薄々知りながら?)インシュリンと称した注射を打ち続ける。妻が事件のことを尋ねると「オセージの人間には難しい」という言い方で誤魔化す。
思うに、彼ら自身も自覚できないほどの心の奥底に、オセージ族は自分達のような一人前の人間ではない、という偏見に満ちた前提が根付いていたのではないだろうか。現代の人権感覚でイメージする対等な人間同士の愛情と似ているのは表面だけで、どこか哀れみや愛玩のようなニュアンスを含んだ、対等とはかけ離れた感情を彼らが友情や愛と思い込んだだけではないのだろうか。
そう考えないと、ヘイルの悪行と開き直りにも見える罪悪感のなさや、終盤で入院してたちどころに回復したモリーを見たアーネストが、それでもなお自分が打ったのはインシュリンだと何の疑念も見せず答える態度が、私の中では説明がつかない。
このような人物造形を二面性と表現していいのかよく分からないが、ヘイルとアーネストという人物が難役であることは間違いない。
ディカプリオは、当初ホワイト捜査官を演じる予定だったらしいが、本人がアーネスト役を熱望したという。これは相当な英断。前者の通りだとホワイト捜査官が主役のような風情になって、作品の方向性自体が変わってしまう。それに、俳優としてこの役に挑戦したいという気持ちも何となくわかる気がする。
我が子の死により証言を決意したアーネストがヘイルと訣別するシーンは、ふたりの名優の演技のぶつかり合いでもあり、火花が散るような緊迫感があった。
裁判後の顛末は、ラジオショーの寸劇の形で語られる。実際にああいったラジオショーが、ラジオ局と捜査局との共同制作で放送されたそうだ。誕生したばかりのFBIの実績を宣伝するためだろう。
このくだりは、プロデューサー役でカメオ出演したスコセッシ監督の語りで締められる。ちょっとメタ的だ。
映画はここで終わるのだが、これは3章構成の原作の第2章までにあたる。
原作の3章では、作者デイヴィッド・グランの調査により、ここまで描かれてきたような鬼畜の所業をヘイル以外の白人後見人もおこなっていた可能性が示唆される。当時何の罪にも問われなかった後見人たちのもとに管理されていた他のオセージ族も、年間死亡率が全国平均の1.5倍を上回るほど不自然に多い人数が亡くなっていた。
ヘイルは氷山の一角に過ぎず、陰湿で残忍な犯罪の大半はその事実自体が闇から闇に葬られていたとしたら……。これがこの事件の背景で一番寒気を覚える部分かもしれない。
(原作はノンフィクションだが、中盤まで首謀者が分からない形で話が展開され、推理小説のような面白さがある。時系列で語られているだけではあるが、グランの語り口の妙も大きい。こういうテーマが広く読まれるのにスパイス的な面白さは決して不謹慎ではなく、むしろ大切な要素であると改めて思う。登場人物がめちゃくちゃ多い点は少々難儀だが、映画で興味を持ったなら是非一読をおすすめしたい)
心を包む悪魔
除隊したアーネスト( レオナルド・ディカプリオ )は、地元の有力者の叔父( ロバート・デニーロ )を頼り、石油により裕福な生活を手に入れたアメリカ先住民オセージ族が暮らす街にやって来る。
運転手として働き始めたアーネストは、オセージ族の娘モーリー( リリー・グラッドストーン )と出逢う。
愛する人に疑いの目を向けた時、そしてその疑いが確信に変わった時、彼女はどんなに苦しんだ事でしょう。愛する者に対し、そのような行為が果たして出来るのか … 。描かれる人間の欲深さが恐ろしい。
人の愚かさ、弱さをレオナルド・ディカプリオが熱演。
ー ずる賢いコヨーテ
ー 私の肌の色
機内にて鑑賞 (吹替版)
エンディングにもこだわりを感じる
大作の一言!!スコセッシ、ディカプリオ、デニーロが揃っているなんて…観ないといけないに決まってる!と思い映画館へ🎬やはり観てよかった!
最後にモリーがチャンスを与えてくれたのに本当のことを言わなかったアーネスト。優柔不断な性格を表してるわ。ほんまはあかん薬やって知ってて注射してたんやよね。どこまでも自己中心的なやつ。ビルのサイコパス感が…デニーロはマイインターンの時のような好々爺も似合うけど、ブラックな役の方が好きかもしれない。リリーグラッドストーンの目で訴える演技が印象的やった。
エンディングの雨の音にとてもこだわりを感じた。長さを感じない映画やった
セーラームーン
月に代わって皆殺しョ!
お仕置きは、お尻叩きだった
お尻置き?
でも皆殺しは嫌
毒殺も嫌
総合疾患症って…何なの?
総合的に皆殺し?
オセージ 大勢 皆 糖尿…
石油開拓映画? にしては石油少なめ
全身原油まみれなのに、平然としてる男達
強烈に臭そうだが…
スコセッシ長尺映画なので、ネットフリックスかな?と思ったら、アップルTV+ に変化
コロナ禍の影響みたいだけど…
以前アレだったからかな?
これ以上書くと、間違いなくレビュー削除されそうなので書かない
アップルTV+ は加入しないので、映画館で観る事にした
レオ様とデ・ニーロって…昔モメてた気が
今は、役を選ばない印象のデ・ニーロさま
ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ、アンタッチャブル、ミッドナイト・ラン、ケープ・フィアー、ヒート…などが特に好き
バックドラフトには出てたのか?
エンゼルハートは心臓の記憶しかない…
今作は、可もなく不可もなく…の展開が、ずっと続く印象だった
年数経過が解りにくい…地味に老けない男達
子供の成長シーンで年月を判断するしかない
この手の映画にありがちな、西暦表示や、第1章〜などの表示がない
間接的なメリハリがない
白黒レトロ映像が、露骨にチープ
スコセッシらしくない…?
そして美人不在で目の保養がない
削除しないで
懐かしいデビルフェイスのデ・ニーロと、青く輝く地球儀のようなレオ様の瞳だけで、200分を乗り切ろうとしている…?
ややショッキングな殺人シーンが多々あるが、そこまでの経緯が少し長い気もする
中盤、確信犯的なケツバット シーン
終盤、更に確信犯的なデ・ニーロのヒゲ剃りシーン
明らかにアンタッチャブルのオマージュである
200分を乗り切るには、ややスパイスが足りない…
もう少し音楽が賑やかなら、グイグイ引き込まれたかも
ヒロイン役?モリー (死なない奥さん役 リリー・グラッドストーン) が、香椎由宇に微妙に似てるような…?
どっかで見た事あるような…無いような…? いかにもな面々の白人俳優陣
(FBI) 捜査官役のジェシー・プレモンス
特殊メイクしたマット・デイモンだと思ってた
マットメイクデイモン
削除しないで
家ごと大爆死する夫婦と家政婦
奥さんの死体が綺麗に横たわっていたが、後頭部がめくれ上がっている
不自然すぎる
第一発見者が綺麗に寝かせた…様には思えなかった
スコセッシらしくない
犠牲者に対する追悼の意なのか…?
他作品なら血みどろ奥さんである
終盤の裁判シーンで、確信犯的サプライズの2人
ホエールが吠え〜る (ブレンダン・フレイザー)
しれっと ジョン・リスゴー
棺桶にはリンゴ
超長尺で疲れきった終盤で、びっくりゲストな2人だったが、終わりそうで終わらない展開に、感情まで飲み込まれていく…
この2人で締めるのかと思ったら、まだまだ終わらない…
2人の意味が無かった気が
体調を整えて200分鑑賞に挑んだのだが
中盤から名前迷子
眠気はないが、お尻が痛くなってくる
25年近く使い込まれた、イオnシネマの椅子の座面はヘタっている
映画館のせいにはしたくないが、お尻は素直である
超話題作ばかり上映して、本当に観たい映画は上映しないけど
割と観客が少なくて好きな映画館である
僕の地元はコロナ禍で映画館が潰れて、イoンシネマのみになった
本当に観たい映画は、2時間かけて遠出して観に行く…
ドライブが好きなので苦では無いが
脱線しすぎである
そして動物園の檻のような牢獄シーン
猿の惑星 創世記、羊たちの沈黙を思い出してしまった
まだまだ終わる気配がない…
もの凄い勢いで、元気になっていくモリー奥さん
元気モリモリである
夢がMORI MORI には、ならなかった
このくらいの勢いが、映画全体にあっても良かった気が
薬の中身を問い詰めるシーンは必要不可欠だが、途中経過が少し長い
この「少し長い」の積み重ねが、最近の3時間映画に多い気がする…
ラストにしれっと スコセッシ
少しセコい気が…
セコセッシ
削除しないで
石油開拓映画?は、ゼア・ウィル・ビー・ブラッドが1番好き
ジョーペシはいなかったよな
いつもの映画館②でいわゆる2番館的な上映嬉し
金曜日の夕方ながら観客は5人くらいだった
3時間半の大長編なので
下手な時間に見始めると後の予定が立たない
最初の公開時は時間が合わなかったのだ
大好きなデニーロとディカプリオの共演で
監督がスコセッシ 観るしかない
最近は配信のみでDVD化しない作品も多く
アナログオヤジとしてはつらい
二人のがっぷり共演はボーイズライフ以来では
ディカプリオは当時は天才子役的な扱いだったように記憶するが
いまはデニーロを助演に回すトップ俳優
終始眉間に皺を寄せてへの字口の主人公を熱演
なんとなくマットデイモンに似ていた
プロデューサーレオはキャスティングを考えていたのかも
歯の形とか色は当時のリアリティを再現
権力者の叔父に世話になって 言われたことに唯々諾々と従う
日本社会にもありそうな光景のような
ホントに家族を愛していたんだろうことは伝わった
内容はオーソドックスな近代歴史モノでヘビー
アメリカの黒歴史シリーズ
アメリカ人が触れられたくないところかも
先住民族の歴史までさかのぼれば白人の侵略ってどうなのよ
となってしまう
受益権とかなんとかきれいごとを言って
権力者が都合のいいようにルールを作る
権力者におもねっておこぼれにあずかる連中
みんなそれぞれ生きるために行動している
デニーロの髭剃りシーンとか裁判シーンはアンタッチャブル
いきなり殺すとことか遺体をぞんざいに扱うところは
グッドフェローズとかゴッドファーザーを想起
ラストその後の顛末を普通は字幕で説明するところを
公開ラジオショーで表現したのが贅沢
最後のナレーションはスコセッシ本人では
ジョンリスゴーとかザホエールの俳優とかもいたな
ジョーペシはいなかったよな
出演者が多すぎてしかも外人なので人間関係図は結局よくわからない
アップルが金を出すとこれくらいのゴージャスな作品に仕上がる
2時間に収めろとか口も出さないのだろう
やっぱりDVD化されないんだろうな
新年スクリーン1本目 幸先がいい
(ここからは映画と無関係)
終了後はひとり新年会
半田屋で生ビールとおつまみ あぁ楽しい
23時解散
多様性について考えさせられる問題作。
これは素晴らしかった。
「これぞ映画」という感じの映画。
スコセッシは長年にわたって映画を撮り続けている中で常に「今の映像」を提供し続けている。時代の空気やセンスにぴったり寄り添って作品を生み出す能力は驚異的だ。
1920年代のオクラホマ州。
油田を掘り当てて金持ちになった先住民のオセージ族の土地に、金目当ての白人たちが押し寄せる。
戦争帰りのアーネスト(ディカプリオ)は、叔父であるヘイル(ロバート・デ・ニーロ)を頼ってこの土地にやってくる。そこで運転手の仕事をするうちにオセージ族のモリー(リリー・グラッドストーン)と親しくなる。
ヘイルからオセージ族の女と結婚すれば金が流れ込んでくる、と吹き込まれて、モリーと結婚する。
そして、オセージ族が次々と殺されていく。
というもの。
映画における多様性は、現在ではほぼ必須条件になっている。
先住民と白人が共存する町を描くことで、多様性は表現できている。そして、そこで血みどろの争いが展開される。我々は体裁だけを整えて、心の底では多様性など実現できていないのではないか。そんな問いかけがなされているのではないか。
構造としては、英雄がある土地にやってきて、ミッションを達成することで報酬を手に入れる、というよくある英雄譚のパターンを使っている。しかし、英雄譚なら英雄が主人公なのだが、本作の登場人物は英雄ではない。構造だけ使っているのだ。
思い出したのは、同じく登場人物が欲望に流されて歯止めが効かなくなっていく「グッドフェローズ」(1990年)だ。
あの作品の作りはスコセッシの必勝パターンなのではないかと思う。もちろんストーリーは全然違うのだが、構造が同じだ。わかる人は気がつくと思う。
ただ、「グッドフェローズ」と違うのは主要人物の感情が丁寧に描かれているところだ。ディカプリオやデ・ニーロはもちろんだが、リリー・グラッドストーンが素晴らしかった。彼女は言葉を発しなくても、かすかなしぐさや顔つきで多くを表現していた。
製作費2億ドル(300億円)。全世界では6700万ドル(100億円)の興行収入を達成しているとのこと。ただし、ネットで調べると、アメリカでのヒットの目安は、総興行収入1億ドル以上。年間トップ10を狙える大ヒットは2億ドル以上ということなので、どこまで伸びるか、といったところ。
ちなみに自分が観た劇場では542席ということだが、100人も入っていなかったのではないか。1回の上映の観客数だけで判断するわけにはいかないが、日本では苦戦するような気がする。
個人的にはすばらしい映画だと思う。3時間30分という長尺も必要だったと思う。テンポはよくて無駄に長いわけではない。ただ、この長さとIMAXで2700円というチケット代の高さを考えると、それでも観ようと思うのは、本当に映画が好きな人だろうとは思う。
スコセッシとディカプリオの最強タッグによる、「花と月の殺人事件」
2017年に発行されたジャーナリストのデヴィッド・グランのノンフィクション作品
「花と月殺人・インディアン連続怪死事件とFBIの誕生」
を原作としている。
実話なのです。
マーティン・スコセッシは映画化を模索する2019年には
オセージ族の首長と面談して
協力が得られるかを確かめている。
私の「アメリカン・インディアンの人々」のイメージでは、
西部劇で果敢なまでに白人と戦ったアパッチ族の、上半身裸と顔に
にペインティングして、
羽根飾りの付いた髪飾りを被り、白人の頭の皮を剥ぐイメージとか、
4分1先住民族との混血であるジョニー・デップの監督・主演作品
「ブレイブ」1997年、
ネイティブ・アメリカンの青年の苦悩を描いた映画から、
突然飛んで、
2017年作品「ウインド・リバー」の中では、
近年は先住民保留区と言う特区で、
作物も育たない痩せ地に追いやられ、
麻薬とギャンブルに溺れて働く意欲のない人々・・・
そんな偏ったイメージしか持たなかった・・・。
だから《石油の利権で金持ちになったインディアン像》には
少なからず違和感があり、意外さの方が強かった。
(こう言う先入感から見ると)
帰還兵で腹に銃痕を持ち特技も学問もない
アーネスト(レオナルド・ディカプリオ)が、
美貌と自信に溢れて
金持ちのオセージ族のカイル一家の一員
モーリー・カイル(リリー・グラッドストーン)の
美しさと財力に惹かれて結婚したのは
とても納得出来る。
そして町の名士で人望のあるのアーネストの叔父の
キング・へイルは
モーリーと結婚させてカイル家の財産を横取りする
野望を持つのだった。
この映画は石油がオセージ族の住むオクラホマ州オセージ郡から、
1920年には突然吹き出したことから、先住民族のオセージが
利権を得て財を成した事を題材にして、
カイル家の母親とモーリーの姉と妹2人が毒殺されたり、
銃殺されたりで殺される。
そしてたったひとり生き残ったモーリーもまた
糖尿病で夫のディカプリオからインスリン注射と一緒に
緩やかな毒物を注射されて、どんどん体力を失っていく。
しかし一族が次々と殺される危機を察知したモーリーは
自らワシントンに出向き、時の大統領に直訴する。
それがFBIのフーバー長官の耳に入り、
FBI捜査官トム・ホワイトが派遣されて、
本格的な捜査がはじまるのだ。
この事件によって、
オセージ群のオセージ族は20人〜45人位が殺されたとされるが
原作者のデヴィッドは、200人位が殺されてる筈だと言う。
アーネストは妻の毒殺を進めつつも、
片方で妻モーリーを愛していると言う
複雑でねじれた構図。
そして3人の子供はオセージと白人の混血。
とても微妙な立場にいる男だ。
娘のリトル・アナが死ぬと自分の子の死を、
身も世もない程に嘆き悲しむ、
それまで、キング・ヘイルの言いなりになっていたのに、
娘の死をきっかけにキング・ヘイルに不利な証言をするに至る。
すべてを正直に話し出す。
ズル賢い白人と結婚したことにより女系家族
カイル家の不幸が連鎖して、
やがてオセージ族はジェノサイドのように殺されていく。
そして聡明なモーリーですら、近代医学を信じずに
夫のアーネストを信じてのインスリンと毒入り注射を受け続ける。
この映画で特徴的なのは、オーセージ族の男女が100人程度が
演者として出演している点だ。
混血化が進んでる現在なのに先住民役の出演者は
一目でなぜかインディアンと分かるのだ。
女性は平面的で赤い皮膚と呼ばれる黄色で肉付きがよくて、
体格が良い。
そこにこの映画のリアリティの大半がある。
この原作に惚れ込んで企画を持ち込んだディカプリオは、
監督はもちろん最も信頼するマーティン・スコセッシを望んだ。
ディカプリオは当初、ジェシー・プレモンスが演じた
FBI捜査官・トム・ホワイトを演じる筈だった。
しかしディカプリオは愚かな甥であるアーネストの役を自ら切望した。
FBI捜査官役では、先住民を《救済する白人》の映画になると
危惧したのだ。
ディカプリオには愚かで駄目男アーネストこそがこの映画のテーマ、
搾取し迫害する白人の映画であり、
アーネストが悪事にどうしようもなく巻き込まれてしまって、
オセージ族迫害がエスカレートして行く
急速な流れを誰も止める事が出来なくなるのだ。
(一度燃え盛った炎は簡単には消し止められない)。
ディカプリオの代表作のひとつとなるだろうアーネスト役。
ディカプリオの頭の良さと俳優としての貪欲さを裏付けたと思う。
アーネストの愚かさを私たちは笑う事が出来ない。
欲の皮の突っ張った白人は、もしかしたら自分かも知れないのだ。
人間は一歩間違えば妻や夫の財産や生命保険金を当てにするのが
ごく自然にあり得る事なのだから・・・。
随所に黒白の小さなサイズでニュース映像が挿入される。
ラストのエピローグでは、ラジオ解説者の役で
マーティン・スコセッシ監督も登場して、
軽口のような饒舌さで、事件の顛末を語る。
戯画化されたそれは、無声映画の解説のようにユーモラスに伝えられる。
それにしてもスコセッシとディカプリオの6作目のタッグとなった本作。
2人はお互いの信頼と絆がお互いのチカラを最高に引き出すことを知る
最強のパートナーである。
アメリカ近代史の汚点である先住民族迫害の歴史。
世界を見ると、
スペイン人に滅ぼされたインカ帝国、
日本の北海道に住んでいたアイヌ民族、
オーストラリアのアポリジニ、
北極圏のイヌイットやアリュート、
先住民が人口の60%を占めているの南米ボリビアなど、
もある。
それにしてオセージ同士で話すインディアン語。
その意味の分からない言語がもたらす《響きと神秘性》
それがこの映画に途轍も無い恩恵を与えている・・・
そう、私には思える。
オイルマネーに群がる人々
オイルマネーに群がる人間たちとそのお金を持つ人々。
襲うのではなく、死肉に群がるハエの様に強かに近づき徐々にマネーという汁を搾り取る人たちを描く。
その渦に自ら飛び込み取り憑かれていく男の末路と同時にお金を手にし幸せというものを手に入れることが遠のいていく部族の人々の儚さを、社会の悍ましさと同時に描くことで彼らの選択のなさがとても悲しげに映る。
見応えありました。
ディカプリオの演技見たさにみてきました!
いや!いるいる!ああいうダメな奴!八方美人にしてるうちに相手にいいようにされちゃってその場凌ぎでドツボにハマり〜な。
喉元すぎれば何とやらで目の前にいる間は本当に誠実だし、特に相手に対しての自分の立ち位置に従ってもの考えるから従う選択肢しか持ってないうえ全ての人にそうしてるうちに本人も整合性合わなくなって分かりませんて態度でいる事で無意識のうちに見て見ぬふりをして逃げるのが処世術になってんだよね。
この不器用さのせいか金持ちになっても捕まっても人間性が全く変わらないのがすごくて、言ってる事はハッキリしないし掌返しでコロコロ変わるんだけど人格がそのまんまで裏表ないもんだから何故か嘘がつけない様に見えてこの人ってこれがそのまま素なんだなっていう謎の安心感。
あの疑心暗鬼のコミュニティじゃ奥さんにとっては心の支えにもなるでしょう。
と、私見ばりばりですがそう思わせてくれる演技ほんと良い。
奥さんの方は沈黙がキーワードでしたね。静かにしてる、あえて言わない、秘密にして川に流す。被害者であり共犯者的な立ち位置にもいる筈なのに語らない事で賢く思慮深い人に見える。目に語らせる力のある女性でこちらの演技も凄かった。
この夫婦はどちらも犯罪の主犯ではないけど、それぞれ無知と賢さのポーズをとって罪を深めてしまった組み合わせかなと思うと絶妙。ディカプリオなんで川に流すのサインを受け取れなかったんだ…そこだけは汲み取って欲しかった。
この曖昧な立ち位置の2人を中央に置いたおかげで、差別意識や社会背景も色々見えて色々考えさせられました。白人への憧れや憎しみ、原住民への軽蔑、気違い沙汰を当たり前に実行させてしまう選民意識。根深い。
差別が煽られて蔓延すると、普通の人もサイコパス化簡単にしちゃうもんだよなぁ、とナチスものとか見ると思うけどあの加害者側の当たり前でしょって態度はホラーでした。
もし何らかの形で社会的弱者に生まれてしまったら、要領よく生きる知恵もなかったら、無知か無言でやり過ごすしか無い時あるしそれも生存戦略だと思う。だから両方持ってるデニーロをギャフンと言わせたいけどそうはならないんだよなぁ
保身とはなにか
面白かったー。長いので心配してたけど、あっという間。/最後のアーネスト、保身といえば保身だが、本性(ほんせい)がむき出しになった瞬間とも言えるなと。/ラッキー・ストライク・ショーの場面がいちばんエグいといえばエグい。何事も消費なのである。ということへの自覚が、スコセッシの出演により明らかになるという。これはどうしたって白人の側にしか立てないスコセッシの誠実さだと思った。
面白かった、長かった
もう一回観たいなぁ〜でも長いなぁ〜
休憩時間が欲しかったなぁ
でも全シーン面白いから、配信で観れるようになったらちょっとずつ味わいながら観たいなぁ、でも映画館の大画面でまた観たいなぁ〜でも長いんだよなぁ〜(エンドレス)
追記
実際のアーネストは、出所した後に、息子(劇中でカウボーイと呼ばれてたかな)の家を訪ね、息子は受け入れて一緒に暮らしたという、そこまでなぜ映画で描かなかったのか?アーネストは救われるべきでは無いと、スコセッシは考えたのかもなぁ。
・今回のMVPは間違いなくグラッドストーン。眼差し、表情、佇まい、...
・今回のMVPは間違いなくグラッドストーン。眼差し、表情、佇まい、どれをとっても凛として美しいのに、どこか儚げで危うい。だけど溢れるオーラは圧倒的に強く、魂の慟哭に全てを持って行かれる。
演技や表情にぐっと惹き込まれ、間違いなく物語を牽引していた。
スパイクリーも主演女優賞はこの人だと発言しているらしいけど、それあるかも、と簡単に思ってしまうぐらいには鮮烈な印象がある。
・最後、上からの踊りのシーンは鳥肌モノ。
ラストシーンは、歴史は円環しているとも捉えられ、切なく苦しくなった。
・エンディングで静かに響き渡る自然の音は民族に対する畏敬の念でもあり、犠牲になった、いくつもの魂に捧げる静かな祈りにも聞こえる。
・後半、ジリジリ追い詰められていくディカプリオと衰弱していくグラッドストーンの、手に汗握る演技合戦。ずーっと持続する緊張感で、眠くなる隙がない。
・タルサの虐殺への理解はマスト。時代背景など理解してから見るのがオススメ。今作に関しては原作本の需要高いはずだから、劇場で販売して欲しい。エンドクレジット終わった後に原作本販売サイト飛べるQRコード映し出されるとかあっても売れそう。フライヤーにあってもいいと思う。今回のイベントに関しては村山さんから「大草原の小さな家」の背景について言及もあったから、イベント後、それも合わせて原作本販売されていたら自分の財布ヤバかったと思う。
話の中で「遥かなる大地へ」なども出てきたので、作品についてもっと知れる一覧集あると便利かもしれない。
陰惨な歴史
こびり付いた泥に塗れたディカプリオと透き通るような清らかさのインディアンの女性の対比が印象的だった。
この作品が警鐘なのか懺悔なのかは分からないのだけれど、その対比が語るものは大きい時思われる。
まぁ、長い。
時系列が前後する事もなく、順を追って物語は進んでいく。特にミステリーがあるわけでもない。
ただただ金に執着する白人が原住民を蹂躙していく話だ。狡猾に善意の仮面を被って、ゆっくりと侵食していく。そのドス黒い闇を描くにはこの時間が必要だったのだろうと思われる。
元凶は「金」なのだろう。
格差を産み嫉妬を産み、慈愛を奪う。
資本主義の根幹とも言うべき「金」がもたらす悪意は計り知れない。「富を得る」それが正当性の理由になると他の事には盲目になるようだ。
そんな中、ディカプリオの役所は難しかったと思う。
おそらくならば彼女を守る為にやった事もあるんだろうし、その事で彼女が悲しみの淵に突き落とされても「消失」よりはいいと考えてたのかもしれない。
そんな彼女に毒を投与する。
もう何に支配されてるのかさっぱり分からない。
一応の裏付けは語られるものの、二律背反する感情を諦めたようにも感じる。
あんま見た事ないような顔をするディカプリオが印象的だった。終盤は苦虫を潰したようなへの字口が戻らなかったように思う。
デニーロは流石の貫禄で…アレに睨まれたら太刀打ち出来ないと本能が告げるような役作りだった。
モーリーさんが凄かったなぁ。
あんなアクの強いキャラに囲まれて、尚、周りを暖かく照らしてるような空気感が途切れなかったもんなぁ。
無口だけれど無知ではないを体現してらした。
なんちゅうか、金に囚われた人達の底無しの悪意に晒され続ける作品だった。
スコセッシの最後の作品??
劇場で見た初めてのマーティンスコセッシ映画。彼の映画の主人公に善良な人間はいないってことで、「グッドフェローズ」も「ウルフオブウォールストリート」も両方悪役が主人公だったけど、今回の映画は多少違った。
デカプリオは悪人だけど、完全な悪人ではなくデニーロにこき使われる哀れな退役軍人。トムホワイト役を蹴ってあえてアーネスト役になったデカプリオは、アーネストが置かれた複雑な状況を理解して演技していた。オセージ族のモリーとの結婚生活の裏でオセージ族を殺していく残酷さ、最後にはモリーに毒を盛るという非道さが、なぜか100%デカプリオの責任とも言えずになかなか複雑な感情になった。
順当に人を殺していく前半シーンは常に暗かった。先住民がここまで出てくる映画も最近は中々ない気がする。ポリコレかな?マーティンスコセッシの遺作になるかもしれない。
「ウルフオブウォール・ストリート」「グッドフェローズ」とかにあったあのテンポの良さはあまり感じなかった。むしろ、「沈黙」の部類に属する映画じゃないかな?なかなかすごい作品だった。
実話なんすごすぎる
アメリカって国はなかなか闇の深い歴史があるなーと実感する映画😢
デニーロの一見いい人を装った悪人っぷりとかほんま演技が凄すぎ。
ディカプリオの悪人とまではいかないなど、善人でもないダメ亭主っぷりもなかなか。
3時間半という超ロング映画だったけど、間延びすることもなく楽しめました‼️
身につまさらるダメさ
娘と観てきた。上映時間も結構長いから観るかどうか悩んだが、場合によっては劇場でスコセッシの新作を観るという機会がラストかもという思いもよぎったので鑑賞したら傑作だった。フレッシュで、まだまだ作品撮りそうだから最後なんてことは無さそうな勢いだった。
娘は結局のところディカプリオが何をやりたいかサッパリ分からんかったという感想を述べていたけど、ホントにそんな映画だった。その場その場で流されて、保身の為だけに行動する小さな人間のどうしようもなさ、ほとんどそれだけを描いていて、しかし何気ないやりとりのひとつひとつがそれぞれの思惑を何層にも含んでいるからスリリングで、演出、演技、編集の力と相まって、時間を感じさせない面白さだった(とは言えもう少し短くして欲しかったが)。
それにしてもディカプリオ演じる主人公のダメっぷりは徹底していて、叔父に言われて糖尿病の薬に混ぜていた液体が本当に妻の身体を楽にする何かだと、愚かさから信じていたのかも、少なくとも妻という他者だけは本気で大事にしていたのかも、という観客の淡い期待を最後の最後に裏切る最低なキャラクターでありながら、その脈絡のない行動にはどこか自分自身や自分の周囲の人間の姿が重なって、何ともいたたまれなくなったり、自省を促されてしまったりさせられた。
あと、デ・ニーロ。凄い役者なのにわりと何でも出演するから、最近では相対的に何となくエッジを感じなくなっていたけど、スコセッシと組むと迫力が違って、ディカプリオとの新旧スコセッシ組の演技合戦は見応えがあった。それとブレンダン・フレイザーも良かった。ハムナプトラの頃から今までに色々あったらしくて容姿もすっかり変わっていたけど、かつてのヒーロー的な佇まいと愛嬌に加えて、その裏側に仄暗さも感じさせる雰囲気をまとっていて、個人的にちょっと思い入れのある役者でもあったので、今回の捜査官役のハマり具合は嬉しかった。
というわけで、わりと当たり外れのあるスコセッシ、今回は当たりの作品だった。次回作もあるかな。次は2時間無いぐらいの、コンパクトにギュッと締まった作品を観たいところだが。
悔しいけど面白い
まずは3時間越えの映画なのに
トイレ問題、お尻耐久レースともに難なく完走できました👏
これもひとえに、作品の面白さによるものでしょう(笑)
(相性もある)
レオナルド・ディカプリオ
かつて、天使かと思えるほどに美しかった青年から
これほどまでに武骨さが滲みだし
苦虫を噛み潰したような表情で、常に自信もなく
頼りなさが全面に出た役を演じた事があったでしょうか。
2015年の「レヴェナント:蘇りし者」では確かに
武骨さはあったけれど、自信に漲った役どころでした。
その彼が今回演じたアーネスト
英雄として称えられる帰還兵のダメ男っぷりが
妻モーリー(リリー・グラッドストーン)だけではく
観ている側も歯がゆく、イラつかせ、でも憎めない。
口角を下げ、少し上目遣いのあの頼りない眼差しは
今までに観た事がなく、今回の彼の演技の秀悦さは
本作の肝となっています。
ディカプリオは「かっこいい」だけの役者ではなく
まさに「演技派」として成長し、
これからもますます期待できますね。
そもそもスコセッシ監督作品に
デニーロとディカプリオの豪華共演って贅沢です。
人間のどす黒い欲望、金に群がる白人、権利の強奪のための
殺人はいとも簡単に実行される。あぁ恐ろしい欲深き人間。
反面、モーリーとアーネストの「愛」の物語でもありました。
悔しいけど、必見です。
追記)
ロバート・デニーロの強欲で無慈悲で不気味で
憎たらしい役どころが最高なのは、もはや当たり前なので←
手抜きではないです(笑)
.
デニーロとディカプリオ
見てるだけで3時間あっという間。特にディカプリオ、若い役は少し無理あったけど頭の悪いダメ男っぷりがすごい。面白いかと言われれば微妙だけどなんか引き込まれる。オーセージ族の女性のモリーの美しさも良かった。
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