「愛すべきショミカテ」キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン かなり悪いオヤジさんの映画レビュー(感想・評価)
愛すべきショミカテ
ネイティブの皆さんが円陣になって踊る〈花〉に見たてたラストの真俯瞰カットを見る限り、本作はその昔オイル利権を握っていた世界一裕福な先住民オーセージ族を次々と殺めていくホワイトたちの物語である。資産家の先住民の皆さんをまるで物を扱うように射殺したかと思えば、毒入りウィスキーや糖質タップリの食事でじわじわと弱らせていくえげつない手口。金のためなら手段を選ばない極悪非道の白人たちをこれでもかと醜く描いた1本なのだ。
1920年代アメリカのオクラホマ州。フリーメーソン!のキング(ロバート・デニーロ)が牛耳るオーセージの田舎町に甥のアーネスト(レオナルド・デカプリオ)が戦地から帰還する。マネーと(太めの)女が大好きなちょっとまの抜けたアーネストは、先住民のモリー(リリー・グラッドストーン)の運転手をしている内にすっかり惚れて込んでしまい結婚するのだが、金の亡者キングが仕掛けたオイルマネーを巡る陰謀の渦中に引き摺りこまれていくのであった。
そんな先住民差別(虐殺)問題に絡めながら、前作『アイリッシュマン』同様に、本作には監督マーティン・スコセッシの自己投影的演出がなされている。一人また一人と一族の人間が天に召されていく様子をリリカルに映し出したシーンには、御年81歳を迎えた巨匠スコセッシの死生観がはっきりと表れているような気がするのだ。「昔の知り合いや映画仲間はほとんど亡くなってしまった。今は犬だけが友達さ」とかつてアラン・ドロンが単独インタビューで語っていたことを、スコセッシも今現在身に染みて感じているのではないだろうか。
昔からずっと一緒にいて自分のことを本当に理解してくれている親戚や友人たち、仕事仲間がほとんど亡くなって一人ぼっちになってしまった時、オーセージの生き残りとなったモリーのごとく、深い寂寥感からわき上がる慟哭の声をあげずにはいられなくなったのではないか。しかも、最後は自分を守ってくれると信じていたアーネストいな、ハリウッドが金に目が眩んだ裏切者だったと知った時、その悲しみにはさらなる拍車がかかることを、この映画は切々と訴えているような気がするのである。
正義は勝った、しかし.....キングやアーネストが逮捕された後のシークエルに、ラジオドラマ風の演出をして見せたスコセッシの真意はどこにあったのだろう。(ブレンダン・フレイザーが出落ちしていた)裁判も含めすべてが茶番劇だったと言いたかったのだろうか。それとも映画を(生で)映画館へ見に行かなくなった観客に対するあてつけなのだろうか。興行的にコスパ最悪の3時間26分という超長尺の本作は、パラマウントのみならずAppleTV+が配給に加わっている。2億ドルの制作費を劇場上映だけでは回収できないと判断されたのだろう。
マーティン・スコセッシにとっては、手間暇かけてじっくり丁寧に作り込んだハンドメイドの映画が、劇場公開のみで元がとれ大きな利益をあげられてこそ“完全なる勝利”といえるのだ。本編の作りとは明らかに異なる、デニーロやデカプリオの声音を真似たなんちゃって声優やスコセッシ本人のキャスティング、そして何ともチープな効果音で再現されたラジオドラマは、ネイティブの皆さんには悲劇以外の何物でもない深刻な出来事を、“勝利”のためとはいえ見せ物にしてしまったことに対する贖罪だったのではないか。
この映画の道義的責任は全部監督である自分にあり、出演俳優等には一切責任はないのです。マイノリティ搾取を屁とも思わないしょうもない白人たちですが、中にはデカプリオ演じるアーネストのように悪事に手を貸しながらも家族を本当に愛した男もいたのです。だから、私たちを嫌ったりしないでね、と。エンドロール後のショミカテ(コヨーテ)の雄叫びは、白人=肉食獣を代表してスコセッシ自ら詫びを入れた、茶目っけたっぷりの演出だったのではないか。