キラーズ・オブ・ザ・フラワームーンのレビュー・感想・評価
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スコセッシ監督が描く「行き過ぎた欲望」と「公正な制裁」。
◯作品全体
すべてに共通しているわけではないけど、スコセッシ映画の特徴として「行き過ぎた欲望と公的な制裁」がある。「行き過ぎた欲望」はスコセッシ監督の過去作『グッドフェローズ』でいうところの立身出世のための抗争や粛清、麻薬取引がそうだろうし、『ウルフオブウォールストリート』だと、金持ちになるために公正取引から大きく逸脱した会社経営なんかがそうだろう。「公的な制裁」はその名のとおり、力や権力を使った私刑ではなく「行き過ぎた欲望」によって法を犯した主人公を公的な機関がキッチリ取り締まることを指す。『グッドフェローズ』であれば主人公に恨みを持つ人物による暗殺、みたいなオチではなく、麻薬取引がばれた結果、警察に人生の主導権を握られる「公的な制裁」があった。『ウルフオブウォールストリート』では、FBIが主人公・ベルフォートの違法な取引や脱税を調査し、逮捕に至る過程をじっくりと描いている。
本作でも受益権を一族で得ようとする「行き過ぎた欲望」による殺人計画があり、連邦政府の捜査官により捕まり、法の下に晒される「公的な制裁」があった。
スコセッシ映画におけるこの共通項の面白いところは、そのコントラストにある。「行き過ぎた欲望」は、言い換えれば主人公の才覚であり、情熱でもある。本作でいえば「金が好き」だという主人公・アーネストがウィリアムに指示を受けて利益を得ようとする。その姿は人によっては醜いものに映るかもしれないが、その徹底ぶりは情熱そのものだ。底辺にいたアーネストが這い上がろうとする姿含め、画面からあふれ出てくるような強いエネルギーが「行き過ぎた欲望」にはある。
一方で「公的な制裁」は情熱とは正反対の位置にある。映像作品の警察や検察、捜査官は情熱をもって犯人を捕らえ、時には派手なアクションとともに追いつめるのがほとんどだが、スコセッシ映画の公的機関は理性的で実力行使にはほとんど及ばず、法的手続きを遵守する存在として描かれる。それによって主人公たちの行き過ぎた情熱に冷水を浴びせる役割を担っていて、さらに言えばフィクションでよく見る「悪徳役人」じゃないから隙がないように映る。「公的な制裁」は執拗に追従する嫌なヤツに見えたりもするのだが、スコセッシ映画ではあくまでキチンと法に則って処理を進める真面目な役人に終始するのが面白い。
「欲望」にある特有の軽快なドライブ感と、「制裁」にある地に足のついたリアリズム。これがコントラストとなって、スコセッシ映画を、そして本作を形作っていた。
◯カメラワークとか
・序盤のシーンはエネルギッシュな立身出世の雰囲気があるから、場面転換も派手だった。会話劇のシーンから急に石油が爆発するカットに、みたいなのがいくつかあった。場面転換のアイデアの豊富さはスコセッシならでは感がある。
・ハエのモチーフ。最初は毒を盛られて重症化しているモーリーに寄りついていたけど、逮捕されてからはアーネストの周りを飛び回っていた。モーリーのは糖尿病の悪化で体が腐敗し始めたことの演出だと思ったけど、アーネストのは人生の転落を進み始めるシンボルっぽい使い方に見えた。エンドロールでもハエの音が聞こえたけど、映像で語らないからさらにシンボルっぽい。
◯その他
・終始アーネストが矮小な人間で居続けているのは面白くもあったけど、「金がほしい」という欲望の度合いがウィリアムによって測られ続けていて、元来アーネストが持つ欲望はどれくらいだったのかが分からなかった。弱い人間だから周りに操られるのはそうだろうけど、もう少しアーネスト自身の今までを語っても良かったんじゃないかな、とも思う。
モーリーに本当のことを伝えられないラストはとても納得できた。すべてをモーリーに話すと決断できるほどアーネストは強くないし、そんなすぐに人は変われない。愛を通じて人は変わる、みたいな、よくある作品にしていないところが好きだ。
・アーネストの表情の豊富さは捜査官のトムの表情変化の乏しさと対になっていた気がする。
プリ夫、楽しそうでよかったよ
オレはスコセッシの映画は正直苦手だ。 1)音楽がうるさい 2)映画オタクならではの技法が鼻につく 3)なんだか見ないと、映画好きじゃないと思われる 「グッドフェローズ」なんかは、まさしくそれで、なんだかオールタイムベストな超名作扱いだが、オレは、レイ・リオッタの顔は嫌いだし(これは関係ない)、終始やかましいし、後半まったく面白くなくなる。前半もそんなに面白いと思ってない。 そうだな、スコセッシ個人的ベストは 1位・ケープ・フィアー 2位・タクシー・ドライバー 3位・キング・オブ・コメディ これらの、「怖い⇔笑い」を行き来する作品が好きだ。というより、オレの嫌いな3点が気にならず、むしろスパイスになっていると感じるのが、この3作品なのかもしれない。 「ケープ・フィアー」はちょっと別格で、もう全編ホラーでコメディで、エンタメ全開でありつつも、見てはいけないものを同時に見せていて、演出も「やりすぎ」が心地よさでもあり、常人は不愉快を感じる傑作。 で、今回はというと、割と好きなほう。こじつけだが、上記3作の要素は本作にもあると思っている。 「キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン」 ・ ・ ・ 本作の音楽は、不愉快にうるさくなく、むしろ暗いシーンで実は音楽が心地よく、シリアスな展開でも(ラストで分かるように)エンタメ色はしっかりと残しており、殺人シーンも、雑な殺しであることを強調するかのように、派手で映える撮り方。 大きな流れは「グッドフェローズ」だが、同時に思い出したのは、プリ夫と初タッグを組んだ「ギャング・オブ・ニューヨーク」(2002)。 師弟関係などは全く違うのだが、時代や大作感のせいかもしれない。「ギャング」の時のプリ夫はまだ若干かっこつけが求められたのかもしれないが、タッグ2作目の「アビエイター」からオスカーノミネートの常連となるほどの変貌を遂げる。現在年齢48歳。もう少し若いころに本作に巡り合い、本作のあの演技が見たかったなあと思うし、これはデ・ニーロにしてもそうで、史実とは異なっていいから、もう少し若いころに演じてほしかったとも思う。(本作に関しては、よぼよぼのじじいだからよい、というのはあるが) と考えると、「ギャング」こそ、デ・ニーロとプリ夫が共演すべき最初の映画、デイ・ルイスは大好きな役者だが、アングロサクソンに見えなくったって、デ・ニーロでよかったんじゃないか、と。あの映画で不満だったのは、ニューヨークの混沌をメインに描くことを主として、デイ・ルイスとプリ夫の関係と決着があやふやになってしまったことだ。デ・ニーロとプリ夫なら、たとえ「あやふや」決着を迎えたとしても、当時の映画ファンは「師匠殺し」「親殺し」とまではいかなくとも、相当イマジネーションを掻き立てられたことだろう。これ以降スコセッシはプリ夫とばかり組んで、デ・ニーロと組まなくなったので、なおさら。 そんな妄想をしながら本作を振り返ると、スコセッシのもと、見事に変貌を遂げたプリ夫がスコセッシのもと、いよいよ初共演のデ・ニーロにああいった形で従がわれる役どころは、むしろ逆を行って面白いと思った。さんざん待った映画ファンの「親殺し」の期待に対し、見事に逆を行っているのは、「同じ作品を作らない」スコセッシならでは、なのかもしれない。 それはさておき、ちょっと気に入らない点を。 スコセッシはやっぱり女性を観客として積極的に呼ぶ映画を撮らない。 本作、唯一「ラブストーリー」として展開していこうと思えばいける素材だが、プリ夫がモリーを愛した理由、(あんな世界でわかっちゃいるけど)プリ夫を愛することになった理由、二人が愛し合うシーンが足らない、愛されていると同時に自分の家族が「明らかに」殺されてるのにも関わらず、自分の体の不調がでるまで、行動に出ない。 注射の中身を聞くのは、中身の真実ではなく、プリ夫の答え、答え方なんだけれども、どっちを答えたとしても、事件が収束したあの時点では、どう答えたって、モリーの結論は同じはずだ。それはいいんだけれども、モリーが最後まで一人苦しんでしまっていること、プリ夫の、愛しているけど「それでも」あんな行動に出る「自分のなさ」を際立たせるには、もう少し二人が愛し合う過程を組み込んだほうがよかったんじゃないかなと思う。 様でなくなったプリ夫と、じじいのデ・ニーロ、3時間越えの映画ではハナから女性客を呼ぶつもりもないにしても。 こんだけ大金ぶち込んでも(appleとパラマウントがぶち込める)、貫ける、とするところが、「巨匠」ということか。 最後にハエ。 プリ夫に時にまとわり付くハエは、決断を迫られているとき。その存在は神か悪魔か。 エンドクレジットを全部見ない人には関係ないが、エンドクレジットで、オレらにまとわりつく。
事件の背景と差別の根深さ、これが氷山の一角かもしれない恐ろしさ
人を人とも思わない、という言い回しを地でいくような連続殺人が、100年前のアメリカで起こった。ネイティブアメリカンであるオセージ族が持つ地下資源の均等受益権をめぐって、権利を持つオセージ族の人間はもとより、真実を知る、あるいは知ろうとした白人までもが口封じのために殺された。
黒幕であるヘイルは、オセージ族に理解のある篤志家の顔をして彼らに取り入り、甥たちをオセージの女性と結婚させ、姻族となった均等受益権を持つ者たちを毒殺や銃殺で殺していった。しかも自分の手は汚さず、ごろつきに実行させその後は彼らも始末した。
利権を奪うのに何故このような方法を取ったかというと、地下資源の信託はオセージ族によって管理されており、均等受益権は売買が出来ず、相続によってしか受け継げないと定められていたからだ。
一方、石油によって富を得たオセージ族を連邦政府は「無能力者」と定義し、後見人を付けることを義務付けた。これにより、オセージ族は自分の信託基金から引き出す金額に制約を受け、白人の後見人から金銭の使い道を管理されることになった。
オセージの人々が生きているうちは後見人としてその富をコントロールし、死ねば相続によって搾取する。根深い差別意識に端を発した後見人制度と土地の利権が、多くの人命を奪う犯罪の温床になった。
何より複雑で得体が知れないのは、ヘイルのオセージ族に対するスタンスだ。原作の記述によると、彼は牛の畜産などにより自力で財を成し、オセージ族が石油で富を得る前から、彼らに対し金銭的支援や寄付、慈善事業などをおこなっていたという。オセージヒルズの王と呼ばれ、彼もオセージ族を「生涯最良の友人」と言っていたそうだ。
彼の甥アーネストも、一見妻のモリーを心から愛しているように見える。2人の間に生まれた子が亡くなった時は激しく嘆き悲しみ、ヘイルに反して事件の証人となることを決意するほどだ。しかしその一方で、おじのヘイルに唯々諾々と従って事件解明のために雇った探偵を殺し、モリーの病状の悪化に疑問を持たず(あるいは最初から毒だと薄々知りながら?)インシュリンと称した注射を打ち続ける。妻が事件のことを尋ねると「オセージの人間には難しい」という言い方で誤魔化す。
思うに、彼ら自身も自覚できないほどの心の奥底に、オセージ族は自分達のような一人前の人間ではない、という偏見に満ちた前提が根付いていたのではないだろうか。現代の人権感覚でイメージする対等な人間同士の愛情と似ているのは表面だけで、どこか哀れみや愛玩のようなニュアンスを含んだ、対等とはかけ離れた感情を彼らが友情や愛と思い込んだだけではないのだろうか。
そう考えないと、ヘイルの悪行と開き直りにも見える罪悪感のなさや、終盤で入院してたちどころに回復したモリーを見たアーネストが、それでもなお自分が打ったのはインシュリンだと何の疑念も見せず答える態度が、私の中では説明がつかない。
このような人物造形を二面性と表現していいのかよく分からないが、ヘイルとアーネストという人物が難役であることは間違いない。
ディカプリオは、当初ホワイト捜査官を演じる予定だったらしいが、本人がアーネスト役を熱望したという。これは相当な英断。前者の通りだとホワイト捜査官が主役のような風情になって、作品の方向性自体が変わってしまう。それに、俳優としてこの役に挑戦したいという気持ちも何となくわかる気がする。
我が子の死により証言を決意したアーネストがヘイルと訣別するシーンは、ふたりの名優の演技のぶつかり合いでもあり、火花が散るような緊迫感があった。
裁判後の顛末は、ラジオショーの寸劇の形で語られる。実際にああいったラジオショーが、ラジオ局と捜査局との共同制作で放送されたそうだ。誕生したばかりのFBIの実績を宣伝するためだろう。
このくだりは、プロデューサー役でカメオ出演したスコセッシ監督の語りで締められる。ちょっとメタ的だ。
映画はここで終わるのだが、これは3章構成の原作の第2章までにあたる。
原作の3章では、作者デイヴィッド・グランの調査により、ここまで描かれてきたような鬼畜の所業をヘイル以外の白人後見人もおこなっていた可能性が示唆される。当時何の罪にも問われなかった後見人たちのもとに管理されていた他のオセージ族も、年間死亡率が全国平均の1.5倍を上回るほど不自然に多い人数が亡くなっていた。
ヘイルは氷山の一角に過ぎず、陰湿で残忍な犯罪の大半はその事実自体が闇から闇に葬られていたとしたら……。これがこの事件の背景で一番寒気を覚える部分かもしれない。
(原作はノンフィクションだが、中盤まで首謀者が分からない形で話が展開され、推理小説のような面白さがある。時系列で語られているだけではあるが、グランの語り口の妙も大きい。こういうテーマが広く読まれるのにスパイス的な面白さは決して不謹慎ではなく、むしろ大切な要素であると改めて思う。登場人物がめちゃくちゃ多い点は少々難儀だが、映画で興味を持ったなら是非一読をおすすめしたい)
スコセッシの限界ゆえに生まれた恐るべき怪作。
本作にコンサルタントとして関わったオセージ族が、加害者である白人男性が主人公として描かれていることに複雑な胸中を表明したように、特権側の白人男性である監督がネイティブ・アメリカンの悲劇的な歴史を描く上で、どうしても限界が露呈している作品ではあると思う。しかし、原作では比重の大きかった白人捜査官を脇役に追いやり、関係者の中でも飛び抜けて情けない加害者を主人公に置いたことは、この連続殺人事件のどうしようもなさを描くにあたって現実的な策のひとつではあったと思う。 なぜ人はこれほどの愚行をしでかすのか。そして歴史的に愚かな蛮行はなぜ止むことがないのか。もちろん悪意が存在するからにほかならず、それをデ・ニーロ扮するキング・ヘイルが体現しているわけだが、キング・ヘイル単体で成し遂げられる悪徳などたかが知れている。ヘイルは自分よりも意志薄弱な者を操り、利用して、間接的に他人を支配する。その支配された側であるアーネスト(ディカプリオ)は、間違いなく加害者なのだが、同時に、日和見で長いものにまかれて、お人好しだけど善良ではない大衆の代表として機能している。 100%オセージ族の視点からこの歴史を描けばまたまったく違う物語になっただろうし、それはそれで非常に興味深い作品なはずでぜひ観てみたいと思うが、スコセッシが、ディカプリオがこの映画にアプローチしたときに、われわれはたやすく悪に加担する弱さを持っていることを明らかにする映画が生まれたことは、彼らが自分たちの限界を知った上での誠実さだと思うし、映画が、演技が、生き生きと輝きすぎていることは諸刃の剣ではあれど、人間のダメさを容赦なく描いた凄い作品であることは間違いないのではないだろうか。
スコセッシ流の語り口のビートが3時間26分、一向に途切れない
これは並外れた怪作である。まず驚かされるのは、冒頭のボルテージMAXの大噴射シーン。それを起点に3時間26分、いっさい弛まぬ物語のビートがゆっくりと魔術的なまでに高鳴り続ける。そこに現れる顔、顔、顔。ディカプリオ は若き日の精悍さとはまるで次元の違う底知れぬ人間性の境地へと辿り着き、口をへの字に曲げた表情などはジャック・ニコルソンの再来かと思えるほど。さらにデ・ニーロの温厚な中にクセある味わいが加わり、リリー・グラッドストンの芯のある眼差しが崇高さを添える。このアメリカの血塗られた歴史を象徴するノンフィクションを、ストーリー仕立てに脚色したエリック・ロスの筆致も実に見事。そしてなんといってもスコセッシの重厚な采配が冴え渡る。あらゆるシーンに乾いた凄みが迸ると同時に、人間の愚かさ、おぞましさ、口が開きっ放しになるほどの滑稽さと不可解さが詰まったエネルギッシュな仕上がり。その語り口を堪能した。
ディカプリオのダメ男ぶりがかつてないほど秀逸
3時間26分。近頃長くなった映画の中でもダントツの長さだが、人にもよるだろうが体感時間は約2時間超。理由は、エリック・ロスの脚本と、それを手にしたマーティン・スコセッシの演出が、1920年代のオクラホマ州、オーセージで連続する先住民の不審死事件を、終始サスペンスタッチで描いているから。それも、観客の頭の中に早くから真犯人が浮かんでいるのにも関わらず、作劇が面白過ぎて全然退屈しないという奇跡のような作品だ。 作劇の基軸になるのは、石油鉱業権を取得した先住民、オーセージ族と白人の関係性が逆転したことによる不協和音というか、不吉なムードというか。 やがて、映画がアメリカの近代史の隙間に埋もれていた、どんな人種差別よりもえげつない恥部を炙り出し始めると、漂う空気はサスペンスから社会派ドラマへとシフトして行く。そして、そんな暗黒の時間に訳もわからず取り込まれ、利用されるディカプリオ扮する帰還兵、アーネストの存在が、余計に歯痒く、見る側の心を抉りまくる。今回のディカプリオのダメ男ぶりはかつてないほど秀逸だし、彼を介してこの物語にもう一つ痛烈な基軸を構築した脚本と演出の力には、改めて恐れ入る。 来るオスカーのフロントランナーという評判は正しかった。
3時間26分を、長いと感じるか、感じないか。
この映画の長さを楽しめない奴はダメだ、という旨の意見を時々見かけますが、 短い映画で凝縮させる映画の凄みを知らない愚かな輩なんだろうなぁと思います。 だいたい、べつにストーリーにしたってよくあるクライムスリラーですし、この3時間26分の長さはやっぱり異常に感じましたし、 これを、あっという間だった、という意見にはさすがに首を傾げざるを得ません。 そもそもの話、この表現自体、個人的に甚だ疑問で、いや、もちろん比喩で言っているのは承知の上ですが、にしたってあっという間は大袈裟すぎるだろうと思っています。 …と、散々、苦言を呈しておいてなんのですが、 悩ましいのが、それでもこの映画、普通に面白いんですよね。 なにより、この長尺の割にそこまで不要と思えるシーンは驚くほど少なく、さすがベテランのスコセッシ監督の技だと思いました。 まあ、それにしたって長すぎですが…
心を包む悪魔
除隊したアーネスト( レオナルド・ディカプリオ )は、地元の有力者の叔父( ロバート・デニーロ )を頼り、石油により裕福な生活を手に入れたアメリカ先住民オセージ族が暮らす街にやって来る。
運転手として働き始めたアーネストは、オセージ族の娘モーリー( リリー・グラッドストーン )と出逢う。
愛する人に疑いの目を向けた時、そしてその疑いが確信に変わった時、彼女はどんなに苦しんだ事でしょう。愛する者に対し、そのような行為が果たして出来るのか … 。描かれる人間の欲深さが恐ろしい。
人の愚かさ、弱さをレオナルド・ディカプリオが熱演。
ー ずる賢いコヨーテ
ー 私の肌の色
機内にて鑑賞 (吹替版)
これが実話なのだから、実に悲しい。資源(石油)の利権をめぐって、搾...
これが実話なのだから、実に悲しい。資源(石油)の利権をめぐって、搾取する側と搾取される側がどんな時代にでもいるんだなと。なかなか考えられないことが起こるからこそ、観た方が良い作品。
4.5。
マイナス0.5は、好きではないんだけどの理由。 206分のなかで一瞬も上の空だった時間が無い。 映画としてのクオリティと隙の無さは、 私が言うことでもないか。 めちゃくちゃ真剣な話してるのに、 グッドフェローズへのセルフカバー感がお茶目。 あの映画を同じような美術と撮影技術で撮ったなら、 と震えてみる。 モーリー好き。見てて飽きない。旦那へむける顔が、 こいつバカ? バカでもいいかな❤️ 私もバカなのかも。。 もう夢でもいい バカなの? え。。辛 は?やっぱりバカだったわ。。 って変わってく表情!ずっと見守っていられた。
先住民という概念を改めて考えるきっかけに
先住民。元々そこに住んでいたのにも関わらず、 時代の流れに飲み込まれた彼らの部族のうちのひとつ 「オーセージ族」 彼らに対する謎の大量殺人が行われた事実から、 FBI発足のきっかけまでが丁寧に描かれていて。 この映画は全編を通して、人の弱さと強さを描いていたように思いました。 とにかく長い。長いけれども、長いからこそ見ながら考えることが出来る。 私にとってはそんな存在となった映画でした。 劇場で観た時、次々と亡くなっていく先住民の人々。 噂の範疇にすぎないけれども、皆が感じていた 「オイルマネーのために殺された」という状況証拠。 そして家族を疑わなくてはいけない状況の中で、 かろうじて壊れずに気持ちを保った女性。 家族を大切にしたいという気持ちと叔父との間で、惑い、 流されていく主人公。 雨の音、虫の音。 そして人の声。 劇場でこそ味わえる、考えることだけが出来る時間。 観る前に感じていたよりも、より深いアメリカの先住民の方々との歴史を 人の弱さを感じた一作でした。
長すぎる長すぎる長すぎる
事前に読んだあらすじ通りに進むお話でした。 何度も何度も見せられる同じ展開にはリプレイを見せられてるのかと思わされる。いくら実話ベースとは言え、エンタメとしては破綻していると言わざるを得ない長さに辟易とした。 デニーロに負けないディカプリオの快演によってかろうじて最後まで見ることはできたが、繰り返される寝落ちとの戦いに疲労困憊。昔の長い長い映画が無理だったように、これも無理でしたわ。
恐れ入りました!
あっという間の3時間。2時間ぐらいに感じた。デ・ニーロの底しれぬ腹黒さとデカプリオのダメ男っぷりが堪能できます。リリーグラッドストーンさんも最高でした。 ただ観る前は水分取るの気を付けて、トイレには行っておきましょう!
やっと見れた大作
3時間26分の大作をゆえに、劇場も稼働率が悪いからなのか、公開を早々に切り上げたり、レイトショーに回したりと、なかなか見に行けない条件でしたが 国際線のフライトで小さい画面でしたが運良く観ることができました。 ストーリーについては沢山の方は話しているので辞退します 撮影や画角、照明、衣装についてはスコセッシ作品という事で何もいう事はないでしょう 編集においては、裁判後の顛末において 劇場ニュース(朗読?)でササっと終えたのは、予算なのか、スコセッシが疲れたのか不明ですが、尻つぼみ感が否めません 所謂手を抜いたように思えます 200分も見させるならば、あのラストはいただけないので星はマイナス1としました。 って思ってたら 茶一郎氏のYouTubeをみて 映画ニュースのエンディング正しいようです 自分の掘り下げもまだまだだし 200分も見るとヘトヘトになり 思考力も鈍ることが分かり 反省しました
エンディングにもこだわりを感じる
大作の一言!!スコセッシ、ディカプリオ、デニーロが揃っているなんて…観ないといけないに決まってる!と思い映画館へ🎬やはり観てよかった!
最後にモリーがチャンスを与えてくれたのに本当のことを言わなかったアーネスト。優柔不断な性格を表してるわ。ほんまはあかん薬やって知ってて注射してたんやよね。どこまでも自己中心的なやつ。ビルのサイコパス感が…デニーロはマイインターンの時のような好々爺も似合うけど、ブラックな役の方が好きかもしれない。リリーグラッドストーンの目で訴える演技が印象的やった。
エンディングの雨の音にとてもこだわりを感じた。長さを感じない映画やった
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