オオカミの家のレビュー・感想・評価
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異様なビジュアルに奇異的な着想。よくこんなのを作ったもんだの前に…どうかしてるぜ!w
ミニシアター系で話題となり、「ミッドサマー」の監督、アリ・アスターが絶賛した作品を鑑賞しました。
で、感想はと言うと…ストーリーは最後まで観るとあぁなるほどね。となるけど、…あんまりよく分からんと言う感じwだけど、どちらかと言うとこの映像美と言うか、ビジュアルセンスを楽しむ感じの作品かなと。
チリの2人組監督クリストバル・レオン&ホアキン・コシーニャが1970年代にチリに実在したチクアウグスト・ピノチェト軍事政権下のカルト・コミューン「コロニア・ディグニダ」に着想を得て制作したとされるストップモーションアニメで独特な映像センスに何処か奇異に映るビジュアルと雰囲気に加え、カルト・コミューンからの着想を得ているだけに何処かそら恐ろしさを感じる。
ストップモーションアニメとして様々な手法で表現が取り入れられていて、そこに二次元・三次元が組み合わさっていて、クレイアニメもあれば、グラフィティや切り絵、ガラス絵手法と様々な手法での表現演出の要素が取り入れられていて、そこにオドロオドロしい異様なビジュアルで構成されている。
ハマる人はドハマりするだろうけど、観る人を確実に選ぶだろう。
寓話的エピソードにいろんな宗教的エピソードとメッセージ性を漂わせていて、おとぎ話的な感があるけど、まあ、このビジュアルにアカンと拒否する人もいるかと。
何処か可愛らしさも感じながらとリアル感もあるし、ラクガキや本能的直感映像を感じさせるからか、まあ異様ですよねw
特にトイレのシーンと劇中のゴキがリアルでキモい。
生理的に受け付けない人もいるかと。
あと、劇中で「マ~リ~ア~」と響き渡る声が怖いんですよね~。
元となったコロニア・ディグニダは長きに渡って拷問や性的虐待、殺害をもって運営を続けたカルト団体らしく、治外法権と存在し、「国家の中の異国」「法律が及ぶのはコロニアの玄関まで」と様々な曰くがあり、そんなカルト団体から着想を得て、こんな作品を作り上げるとはなかなかなクレイジーっぷりw
アリ・アスターが絶賛と言うのも“ああ、アリ・アスターなら喜びそう♪”と納得w
終始気味の悪い雰囲気が漂い、結末はコミューンでの様々な切り口での結末と教訓が組み込まれていて「普通に生きるのだって、なんらかのコミューンの中」と考えると道徳的とも言える。
まあメッセージ性は後付けにしても、ビジュアルで好き嫌いは分かれるけど、観ないことには始まらない訳で観た上で嫌いと言う判断もある意味正解w
個人的には同時上映された短編作品の「骨」の方が気になる。100年以上前の作品として発見され修復されての上映とは言え、よくこんな作品を作ったもんだと感心。
勿論、それはこのオオカミの家にも言える事ではありますが、“まぁ、よくこんな作品を作り上げたもんだ”と感心しきりw。
興味があれば是非観てみては如何でしょうか。
不気味かつクリエイティブ
あえて映画の元ネタになった事件の予備知識を入れずに鑑賞したが、なんとなくどんな事件なのかがわかるような気がする。
古びた部屋の壁に描かれるアニメーション、少しずつ浮かび上がる登場人物、不規則な動き、歪な大きさ、閉塞感とざわざわした不安を感じさせる。
「黒い目は獣の目。知性がなくてかわいそう」などという強烈な差別意識と独善的思考。マリアの目を通して見えている豚。豚は本当に豚なのか。自分たちの言語が理解できない、自分たちの生活様式と同じではない者を人間としてみていない。
ただあくまでもマリアは心優しいマリアとして描かれているところ、終盤のペトロとアナの目が黒目に変わっていることを考えると、これはプロパガンダのパロディ映画なのでは?スターシップトゥルーパーズ的な。「黒い目はやはり獣」であると製作者は肯定していることになる。あまりにもインパクトが大きすぎるアニメーションなので冒頭をつい忘れてしまったが、まず始めにコロニーのイメージビデオが映し出され、その後にマリアが主人公のアニメーションが始まる。コロニーで作られた物語と、実際の事件を混ぜ合わせたような映画だとわたしは思う。
とにかく悪夢のようなアニメーションだと、いろんな方々が表現しているが、わたしもその言葉が一番この映画を表す言葉だと思う。
斬新な表現方法だしテーマも興味深い映画でしたが、少し酔いました。
ストップモーションアニメの可能性
チリにあるナチスの残党が創り上げたカルト団体、コロニアディグニタを皮肉った作品。作品冒頭ではいかにも現地のチリで友好的に受け入れられているとアピールするが、実際は拷問、性的虐待、人体実験とまさにナチスの専売特許をこれでもかと行ってきたような恐ろしいコミュニティ。
同じドイツ系のアーミッシュとはえらい違いである。ちなみにエマ・ワトソン主演の「コロニア」でもこのカルト団体が描かれている。
本作はこのような恐ろしいカルト団体から脱走した少女が見た悪夢を映像化した作品。オオカミとはまさしくこのコロニアディグニタのことを指すのだろう。
逃げ出して自由になったと思われた少女も結局このカルト団体で受けた精神的束縛から逃れられず、空き家での生活も悪夢にさいなまれ続ける。そして最後には引き戻されるという絶望的な結末で終わる。
下手上手漫画というのがあるけど、本作はまさに下手上手アニメーション。あえて雑に作ることでそれが逆に味わいのある作風になっていて、また不気味な雰囲気も醸し出している。
ただ、正直言って予告編で受けたインパクトがピークだったかな。本編はちょっと退屈と感じてしまった。
それでも、作り手のイマジネーション次第でストップモーションアニメの可能性はまだまだ広がるということを知らしめた作品ではある。
貰った分しか与えられない
開始数分で鳥肌が立ちました。
私はストップモーションアニメを片手で足りる程しか観たことがなかったので、このような観せ方があるのかと。
公式HPも一切観ず、YouTubeの予告動画から予想していたテーマは三匹の子豚のみだったので観終わった後コロニア・ディグニダについて調べると、映画そのまま。事前知識があればより一層楽しめたのではないのか…否、後に視聴者がテーマの存在に気付き調べる事で知らなかった歴史や世界に触れる事は大事な良い機会だと思うのでNetflixのドラマなどを今後観る予定です。
まずコロニア・ディグニダ(WWII後にナチス残党がチリに作ったドイツ移民農場)について、これは先程述べたように観賞後に存在を知りました。
"尊厳のコロニー"まず名前がとても良い。
そのコロニーで崇めてる神の次に偉いのが少年に性的暴行を行うペドファイルであり、この作品内でマリアを探すオオカミ。
登場人物達の名前は監督お二人がカトリックのミッションスクール卒というのを考慮すると、
マリアはそのままイエスキリストの母。
ペドロは新約聖書の使徒ペトロ、岩の意、彼は天の国の鍵を持つ。
アナは悩んだけど内容を考えるとアナパブティスト(再洗礼)が由来なのかと。
マリア(イエスキリストの母)が新しく手に入れた家族/コミュニティが"天の国の鍵"と成人洗礼="自分の意思で決めた信仰"で成り立つとすると話は分かりやすい。
マリアはずっと閉鎖的コミュニティ/自分の意思を持てないコロニーで生活してきたので、外に出て新しい家を見つけ家族やコミュニティとなる豚達と出逢おうが"対等のコミニュケーション"は取れない。
生まれながらにしてコロニーで受けた経験が彼女に刷り込まれているから結局、支配されるかするかの二択。所謂、白雪姫症候群。
作中でもマリアは林檎食べてたし、少なからず意図してしているとは思う。
人間は経験した事しか出来ないし、他者からされた/貰った事(愛情や憎悪などの感情を伴う行為や言動)しかその他の誰かに与える/施す事は出来ない。
だからマリアは外(オオカミ)への恐怖心を煽りペドロとアナを支配し、家に閉じ込め、時に蜜(薬物)を使用し自分に従わせた。
コロニーでマリアがオオカミにされたこと、そっくりそのまま。
"愛"とは"親"とはなんなのか分からない。彼女は支配しかされた事がないから支配しか出来ない。
豚達の親になりたいけれども"無償の愛"というモノを知らないので言葉や所作を教えても一切身にならない事に、見た目に、行動一つ一つに、マリアは次第に苛立ちを募らせる。
全て真似事でしかないけれど、マリアはそうされた事しかないから仕方ない。
"天の国の鍵=マリアが作る新しいコロニー/居場所"であり"自分で選んだ信仰=マリア自身が教祖/親"となるはずだった1人と2匹の生活はそう上手いようには行かない。
だってペドロとアナはヘンゼルとグレーテルだったんだもん。
だからこそ後半で豚達の明らかな反発反抗に対しマリアのなんとも言えない反応は観ていて面白かった。経験した事ないことに遭遇すると唖然とするしかないよね、分かる。
声を振り絞りオオカミさんにドイツ語で助けを求めるマリア…なんて滑稽!まあでもこれが貴女の"再洗礼"ですね。自分で選んでるし。
オオカミさんはその点、沢山経験されているでしょうからマリアを最後の最後まで助けてくれるし超優しい〜!
一回脱走してても再び迎入れる懐の深さ、宗教やカルトの長の有るべき姿をしていて理想of理想。愛とは赦すことですからね。
あと作中に散りばめられた不安を煽る要素、最初から飛ばし過ぎでは?
・ナチスを表す十字
・マリア自身の姿→精神的な不安が本人の身体の形に現れる=ずっと定まらない、
・壁に映されるオオカミの目、声のトーン、話す内容など
・家の形の鳥籠、黄色の鳥
・読み聞かせの本の内容
・蜜→コロニー在籍時の洗脳のために使用されていた薬物
・蜜を塗ったり飲ませた後の豚達の容姿の変化→自分の思い描いた通りになる=洗脳成功の具現化?
・トイレに座るマリアに手が触れてくる→コロニー在籍時の性的虐待?
他にも沢山あったはずだけど思い出せないのがもどかしい。
最後に
「お前」って急に言ってくるオオカミさん。
そうでした、貴方がコロニーのお偉いさんでしたね。一応、プロパガンダのていで作ってる映像のラストでお前とか言っちゃうあたり最高です。
マリアを絶対に見捨てない、最後まで誠心誠意探し見つけ彼女に見合う労働も与えた旨、またペドロもアナも木になった=信者に迎え入れた意味だと思うので、そちらも重ねてとても素敵です。信者は多ければ多い程、良いですからね。
監督であるレオン&コシーニャのお二人は今作で初めて知りましたが、とても好きなテーマや世界観だったので過去作も、これからの作品も追えるよう常にアンテナを張りたいと思います。
円盤の発売が楽しみです。
観といたほうがいいよ!
面白い! 意味を考えずに、
ただアニメーション映像を観ているだけで充分楽しめる。チリにもやっぱりこんな才能ある人がいるんだなー、と分かっただけでも得した気分。併映の短編『骨』はちょっときつかったです。
インスタレーション・アート
現代芸術には社会問題や政治問題を積極的に表現する手法も大事な特徴である
それさえも内包する美の恐ろしさを体現できる作品であった
チリと言えばコンビニ等で販売してるチリワイン『アルパカ』、そしてサッカー強豪国 世界でも特異な国境の形を成している処として、文化や思想も実は深い闇が見え隠れしていることだろう それは歴史的にみても、世界中に存在し続ける『独裁者』の一人が君臨していた場所であることから容易に想像出来る
そして、同じ狢の一味が逃げ込んだ場所も又同国 それは搾取の上に成り立つ地獄という名の"コロニア・ディグニア" 少年少女に多大なる傷を負わせたこの団体も又現存していることの不思議さ そんな団体のフェイクPRの形式を取った皮肉さにも又アイデアの素晴らしさを感じる
クレイアニメ(紙粘土)、壁画等をストップモーションアニメでぐいぐい推進していくストーリーテリングが、強力な劇判と異様な効果音とも影響し合い、異形な映像へと変貌する様は、畏怖の念すら感じざるを得ない 気の遠くなるような画像数の編集、延々と繰広げられるストーリーには関係無い、アニメ制作上生まれる作業音、時折みせる性的な姿態の印象の植え付け そんな数多くのエフェクトや印象シーンをワンカット映像の体で、休み無くスクリーンを暴れまくる様は、脳の酷使が甚だしく、途中何回か意識が遠のいた程である それは寝る前に歌われる呪われた子守歌の仕業かもしれない 観客にさえも洗脳を施しかねない危険な芸術作品、十二分に堪能させて貰った
難解さがより不気味さを際立たせる
事前に、コロニア・ディぐニダという場所を取り扱っているというのは聞いていたので、全く内容が入ってこない訳では無いのだが、豚やオオカミといったものが、何を表しているのかは、はっきり分からない。
多分、何度か見ないと理解できないものも多いのかもしれない。
ただ、アニメーションの展開の仕方は、本当に度肝を抜かれる。
クレイなどの造形を変化させるだけでなく、部屋の壁に絵が描かれて、物語を語る手法は、全体的な空間を演出するのには、とても見応えがある。
これは、3Dアニメでは絶対にできない、アナログだからこその描きかた。
だからこそ、独特な世界観が人を魅了するのだろう。
予習必須の映画
予備知識なしにみたらワケがわからないが、「コロニア・ディグニダ」事件をアタマに入れてみると、そのものズバリ。
ナチスの残党がチリに逃げて作られたコミュニティー、独裁者パウル・シェーファーの支配のもと、洗脳、強制労働、密輸、拷問、殺人、性的虐待、児童虐待などが行われていたカルト教団、「コロニア・ディグニダ」。
ここから逃亡した子どもたちの証言で、この集団の内情が明るみに出たらしい。
「世間から誤解されやすいドイツ人コミュニティー」の美しい教えに反発して逃亡した怠け者でわがままな少女マリア。
3匹の子豚(子供)に逃げられた(手を貸した?)ことで「お仕置き」されて自らも逃亡を図り、潜伏する隠れ家を探してそこに隠れていた子供二人と合流、ちょっとの間幸せ気分で暮らしていたが、浅はかな彼らは食糧不足で内輪もめして、食われそうになったマリアは結局、偉大で心が広い「オオカミ」パウルに助けを求めてコミュニティーに戻り、戻った彼女はその後、反省して従順で積極的なコミュニティー協力者になるという、コミュニティーの寓話風「プロバガンダ映画」の体。
不穏でおどろおどろしい画は、プロバガンダ側が作ったマリアの心象風景、(当然彼らの精神的異常性ダダ漏れ)と解釈していたら寝落ちしないで済んだかもしれません。
恐怖芸術
上映館が少なく局地的に話題となっていた本作。すさまじいものを観せられた。二次元と三次元と絵画と紙粘土と…言葉ではまるで説明不能な表現は観てみるしかない。
でもって全編がなにかと怖い。ずごごごみしみしの音効が怖い。マ、リーア~の声が怖い。劇伴が怖い。塗料だらーが怖い。ブタが怖い。でかい顔が怖い。古いフィルム見っけましたな設定が怖い。鑑賞後に調べたらコロニア・ディグニダがそもそも怖い。「金髪と白い肌で美しくなった」って、ナチのアーリア人種優越論そのままだし…。
気が狂った人が作ったとしか思えないけど、公式サイトの監督2人はフツーのおっさん。ただ、どんだけ手間暇かけて作ったのだと想像すると、やっぱり狂っているに違いない。
同時上映の短編も不気味だけど、本編観た後ではかなりファニー。
ストップモーションは、ジャンクヘッド を観てズッポリハマりましたが...
ストップモーションは、ジャンクヘッド
を観てズッポリハマりましたが、その後の
MADGODも全く・・: 本作こそはと
多少期待して見ましたが更に・・
難解とかのレベルでは無く、ただ率直に
「つまらない」だけの苦痛の時間でした
映像はそれなりに楽しめましたが
私には理解出来ませんでした。
同時上映の『骨』よりも長い分、見やすくわかりやすい(何かを感じ考え...
同時上映の『骨』よりも長い分、見やすくわかりやすい(何かを感じ考えやすい)。
外からやってくるオオカミが、内から食い破るものとして反転する様が面白かった。常に内/外がゆらぎ続ける感じ。
痛みがここに存在すること、ストップモーションでしか描くことのできない痛み
本作に関する背景知識を持たずに映画を鑑賞。
はじめ映像の迫力に圧倒され、映画の世界観に釘付けに。
繰り返される印象的なモチーフ、トイレ、マリアの横で床に置かれた裸の男性の絵画などが引っかかりつつ、み進める。
中盤ほどから、胃のあたりから込み上げてきて、吐きそうな感覚になりつつ、時々目をつぶってなんとかやり過ごす。
気分が悪いのに、映画を観たい気持ちの方がまさる。
帰宅後、映画について調べてるうちに、この映画のテーマを知って、今回の映画体験を理解した。
元々画面が揺れ続ける作品を見ると酔ってしまう体質なので、鑑賞中はストップモーションの細かい揺れに酔っているのかと思っていた。
ただ、それ以上に、この映画のテーマを頭で理解できない状態であっても、身体はここで描かれるテーマを体感していたように思う。
鑑賞中、疑問に感じていたことのひとつに、絵や人形たちがなぜこれほどまで膨大な時間をかけて、描き直され、延々と作り直され続けるのか、と思っていた。
壁に描かれた絵が少しずつ動くが、描き進むだけでなく、描き進んだ分の絵が潰され、気が遠くなるほどの作業量が費やされる。
アニメーション自体時間のかかる作業だが普通もっと描くサイズは小さい。
これほど大きな壁を描くために使われた時間を考えると、気絶しそうになる。
どうしてこれほど膨大な作業量が必要だったのかという疑問は、映画のテーマを知り腑に落ちる。
映画のテーマである、ある"家"の人々が感じていたであろう時間の感覚が、一つの壁に何層も何層も塗り重ねられる絵の具と、散り散りに壊れ続け組み立ち切らない人形の欠片たちによって現されていた。
ここには、一度描かれた線が次の瞬間に綺麗さっぱり消えて滑らかに動くようなCGアニメーションでも、ある一人の演者が表情をつくることでも描くことのできない、この映画でしか描くことのできないものがあった。
ここで起きていたことがずっと残り続ける感覚と、無数の人びとの痛みが確かにここに存在すること。
そして、本作のテーマも、「チリという国で昔あった遠くの出来事」というテーマにとどまらないとも感じた。
ジャニーズ事務所という小さなコミュニティで起こり続けてきた性暴力。
そして統一教会というカルト宗教と政治の繋がり。
痛みに触れて、、、
これは凄い!「崩壊と再構築」の永劫の連鎖によって自己と世界の不確定性を描くデカルト的傑作。
あれだけインパクトのある予告編とポスターアートを見せられると、もはや観に行くしかない感じはひしひしとあったのだが、やたら難解そうな雰囲気も漂っていて、果たして自分にアジャストできるのか不安もあった。
だが実際に観てみると、「意味がよくわからない」以上に(そんなことはどうでもよくなるくらい)ぶっ飛んだ映像体験が待ち受けていて、もう大★大満足。
併映の14分の短編「骨」(べつに映画comに項目が立っていたので、そちらに感想はつけました)も含めて、真の天才の仕事に、ただただ圧倒された。
少なくとも、ヤン・シュヴァンクマイエルやユーリ・ノルシュテイン、ブラザーズ・クエイあたりの諸作品に耽溺しながら生きて来た僕らのような人間にとっては、四の五の言わず問答無用で観るべき映画だし、逆にこの映画でストップモーションアニメに初めて出逢った若いみなさんは、ぜひこれを入口に上記の作家たちの傑作群にもアクセスしてほしいところだ。
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「オオカミの家」は、チリに実在した「コロニア・ディグディダ」という入植地を題材としたアニメであり、複雑かつ捉えどころのないストーリーラインと政治的含意を有している。
内容的には、ファウンド・フッテージ(見つかった古いフィルム)の体裁をとり、コロニア・ディグディダが作成したプロパガンダ映像という触れ込みとなっている。
要するに、敢えて悪の側に立って(羊がオオカミの皮をかぶって)つくってみたフェイク動画というわけだ。
内容的には、たぶん、こんな感じだ。
コロニーから逃亡した少女マリアは、とある小屋で二頭の豚を見つけ、アナとペドロと名付けて育てる。そのうち、豚は人間の形態をとるようになって、三人は家族として幸せに過ごすことに。最初は、外にはオオカミがいるから出てはいけないといって二人を育てていたマリアだが、ある日、ついに食料が尽きてマリアが外に調達に出ようとすると、逆にアナとペドロに拘束され、二人によって食べられそうになる……。
オオカミと豚の童話/寓話的エピソードといえば、当然グリム童話の「三匹の子豚」が想起される。外敵としてのオオカミを恐れて隠れ処に住まう本作は、まさに「三匹の子豚」を本歌取りしたものではあるが、結局オオカミの本体は姿を現すことなく(かわりにその「声」がナレーターとして常にマリアに圧をかけ続ける。壁には「巨大な眼」だけが現れる)、物語は内部分裂による「新たなコロニー」の解体と、登場人物のメタモルフォーズという意外な結末を迎える。
オオカミが、マリアにとっての支配者であり捕食者でもあった、コロニーの指導者パウル・シェーファーを指すこと自体は論を俟たないが、では「オオカミの家」において、果たして本当のオオカミはいったい誰だったのか? 意図しないままにシェーファーと同じような支配体制をしいて、アナとペドロを束縛するに至ったマリアもまたオオカミだったのか。あるいは、もとはただの「豚」だったにもかかわらず、マリアの被支配下に置かれて順応してゆくうちに、むしろマリアを「食べよう」と思考するに至ったアナとペドロこそがオオカミだったのか。
捉えどころのない「寓話」であるだけに、その真意をいろいろと考えだすとそれこそ切りがないが、本作の主題やストーリーを読み解く秘密は、実はストップモーションとしての「技巧」のなかにこそある。それは間違いない。
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ストップモーションアニメーションとしての『オオカミの家』には、きわめて明快な特徴が三つある。
一つは、三次元のクレイ&パペットアニメに、二次元の「壁画」のようなアニメが併用されていること。
二つ目に、全編を通じて造形物が特定の形状を保つことなく、常に様相を変化させ続けていること。
三つ目に、上記と関連して、カメラも常に動き続けているうえ、全編を通じてワンシーンワンカットという、長回しのつくりになっていることだ。
まず、三次元と二次元のアニメーションの併用について。
いろいろと脳内を検索してみたが、こういうことやってたストップモーションアニメの作家って今までいたっけなあ? どうも思いつかない。なんだか新機軸のような気がする。
とにかく、演出上の効果は抜群だ。
今回の物語において、登場人物であるマリア、アナ、ペドロと同等かそれ以上に重要なのが「家」であり「壁」であることは、観た誰しもが認めるところだろう。
「家」は、ヒロインを規定する「世界」そのものであり、「法則」であり、「規範」であり、「呪縛」である。
「壁」は、彼女と二匹の豚を囲い込む「世界の境界」であり、「内側に閉じ込めるための檻」であるとともに、「外界から守ってくれる安全な防壁」でもある。
同時に、「壁」は物語を映写する「スクリーン」でもある。
レオン&コシーニャは、クレイやパペットをこま撮りで操る一方で、「壁」を用いた様々な絵画表現の形でも物語を展開する。三次元と二次元のあいだを自由に行き来しながら、変幻自在にそのあり方を流転させてゆくマリアたち三人のキャラクター(クリスチャン・ボルタンスキーによる人形と影の織り成すインスタレーションを少し想起させる)。
「壁」は、三人を外界から分かつ機能を持ちながら、その「上」で彼らが生きる二次元の「生活空間」としても機能しているのだ。
一方で「壁」には、マリアたち三人以外にも、監視者の巨大な眼が立ち現れたりもする。すなわち、壁の上には「壁の中で暮らす」三人も存在すれば、「壁の外にいるはずの」オオカミも存在するというわけだ。
なぜそういうことになるのかというと、実はこの「家」と「壁」それ自体が、マリア自身の精神世界の具現化に他ならないからだ。
この家は、カルト集落から逃げて来たマリアの「癒しのシェルター」であると同時に、二頭の豚を我が物とし続けるための「豚小屋」でもある。
すなわち、この「家」は、被支配者であるマリアが支配者から自らを守るための隠れ処であると同時に、支配者であるマリアが被支配者である二頭の豚を閉じ込めておくための檻でもあるということだ。
なんにせよ、この「家」という「場」は、マリア自身がこしらえた彼女のための場所なのであり、彼女の内的世界そのものといってもいい。
そして、外界と家の内部を分かつ「境界」としての「壁」もまた、マリア自身がこしらえて設定した「世界の果て」であり、マリア自身が規定した「世界の外形」でもある。
「家」と「壁」はマリアを閉じ込めているように見えて、実はマリア自身がこの「家」と「壁」を自分の領分として決めて、頑なに守り、維持している。
極論すれば、マリア自身が、「家」であり、「壁」でもあるのだ。
このあやふやで多重的な状況が、物語が「人形」にとどまらず「壁」にまではみ出してくる原因となっているし、逆に言えば、本来なら単なる舞台背景でしかない「家」や「壁」をもう一方の主役として際立たせる結果にもなっている。
要するに、本作では「キャラクター」と「家」はメインとサブではなく、混然一体となったひとつの内的世界として「マリアの心象風景」を表わし続けており、その具象化こそが「壁」をスクリーンとして用いる本作独特の技法だ、ということだ。
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第二、第三のポイントである、物質と視点双方に見られる「万物流転の法則」。
この特異なセンスが、本作を特別なものにしているのは確かだ。
通例、ストップモーションは「命なきモノを動かすことで生命を吹き込む」ことで満足する。アニメ作家にとっては、どんなモノを動かすかというのは重要で、そのモノは明確でゆるぎないキャラクターを伴っていることが大半だ。
ところが本作は違う。
マリアのキャラクターも、アナやペドロのキャラクターも、まるで一定しない。
一定しないどころか、常に生成されては崩壊する過程を繰り返していて、すべては常にあやふやで、不定形で、不確定のままだ。
物語のシチュエイションと、時間の経過によって、三人のキャラクターは留まることなく千変万化しつづける。一続きのワンシーンのなかで、三人は何度もぐずぐずに朽ち果てては、仕切り直すように頭部と手だけから細胞分裂のように増殖&再生成される。
その結果生まれた三人の外観は、つねにまちまちだ。張りぼて細工のようなとき、二次元の壁の絵のとき、マネキン人形のとき。ましてアナやペドロは、もとは「豚」だったのがいつの間にやら人間に成り上がっているし、年齢も子供だったりもう少し大きく見えたりと、定まった姿というものをまるで持ち合わせていない。
そんな生まれては崩れ、生まれては崩れする三人を、一人称かも三人称かも定まらないカメラが、ひたすら家の室内をうろうろと動き回りながら、追い続ける。
起きている現象と、その結果語られる物語は、難解かつ不鮮明だが、表わそうとしている事象そのものはきわめて明快だ。
要するに、アイデンティティが定まらない。
だから、形も定まらないのだ。
コロニーから逃げて来た少女。
「オオカミの家」は、彼女の内的世界だ。
少女には、確たるものがない。
だから、生まれ続ける。
そのとき、そのときの自己規定によって、
新たな自分を獲得しては、
あやふやなまま崩れてゆく。
同居人は豚なのか、人なのか。
アナとは誰なのか。ペドロとは誰なのか。
それも、マリアの「認識」ひとつで流転する。
そのとき、そのときの他者規定によって、
新たなアナ像、ペドロ像が一から再構築される。
でも、それって我々だって同じじゃないのか?
いま、ここにあるアイデンティティが確固たるものだなんて、誰が決められる?
本当は、自分も、他人も、世界も、時間の経過と関係性の変化のなかで、常に形を変え、その瞬間、その瞬間、生まれ直しているのではないか?
おそらく、レオン&コシーニャのコンビは、コロニア・ディグディダの寓話にかこつけて、そういったことを我々に問いかけているのではないか?
「常にエゴとはなにかを問いかけ続ける」
「その結果として、何度も何度も自己が再規定される様を、きちんと“かたち”で表現する」
その意味で、本作はきわめてデカルト的な哲学的思索を視覚化した作品だと、僕は観ながら思ったのだった。
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最後に一点、「言語」と「音楽」について触れておく。
本作は、ドイツ語とスペイン語のチャンポンで作られている。
チリの民間人の一般的な言語はスペイン語だが、コロニア・ディグディダはドイツ人入植者のコロニーであり、そこで使われていた言語はドイツ語だからだ。
オオカミのナレーションは、当たり前のようにドイツ語をしゃべる。
マリアは基本、スペイン語で話しているが、いざという瞬間、たとえば「助けて!」と誰かに祈るときはドイツ語に立ち返る。これが妙に生々しい。
コロニーの支配的生活から脱したマリアは心機一転、新たな生き方を模索しているはずなのだが、言語において旧コロニーへの心理的依存が抜けていないことが現れているから。
本当はマリアもまた、オオカミかもしれないことがドイツ語から漏れ伝わるから。
人間は、育った「悪い環境、親、教育」の呪縛からはそう簡単に逃れられないし、叱る言い方も縛る言い方も、やられたことの繰り返しになってしまうから。
マリアが、アナとペドロを慰撫する時歌うのは、ブラームスの子守歌だ。
鳴り響くBGMは、ワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」と「ローエングリン」(このフィルムがプロパガンダ映像を模していることに留意)。
そもそも本作の土台となるグリム童話自体、チリではなくドイツの童話である。
新コロニーの破綻とマリアの迎える最後は、アイデンティティをついに確立し得ないパペットの視覚的不安定性とともに、「ドイツに汚染された言語と音楽」の面でもアプリオリに暗示され続けていたといえる。
なんにせよ、個人的には傑作だと思った。
何か大きなものに支配された世界に生きる、
よりどころのない、あいまいな「私」という存在。
そこに自らを被せて見られる人にとって、
本作は「聖典」として、永遠の輝きを放つことだろう。
皮肉たっぷりのアートでホラーな映画
コロニア・ディグニダという元ナチスが作ったチリにあるドイツ系移民の楽園(自称)がモチーフの映画。
みんな誤解してるみたいだから私たちのすばらしさを映画を通して伝えようみたいな皮肉たっぷりのセリフから始まる。
とにかく遠回しに表現してるので、ずっと考えながら観るような感じ。
じりじりと不気味な映像が展開していき、独特の世界に引き込まれる。
オオカミと子豚が出てくるけど、誰がオオカミで誰が子豚なのか、最後までつかみどころのない映画だった。
個人的にはもっと短くしてもよかったかなと思う。
同時上映の骨はもっとわかりません!
悪夢的アニメーション表現
人形を使ったストップモーションアニメ、というだけではなく、絵画表現も用いて部屋全体をキャンバスのようにしている、ヤン・シュヴァンクマイエルをイメージさせる、という記事を読んで興味を持ち観に行ったものです。
実在したカルト教団施設をモチーフにしているという部分も気になりました。
アニメーションは二次元と三次元が入り混じった不思議な感覚のもので、壁や家具や人間が奇妙に変容してゆくさまは、とても見応えがありました。
全体の構成も皮肉めいたもので、主人公のめくるめく悪夢が展開されてゆくような物語も不安感が拭えません。
オオカミの家から逃げ出してきたと思われる主人公が、オオカミのやり方を踏襲しているのではないかと感じる部分があり、主人公が作っているこの家が「オオカミの家」ということなのか、逃げ出しても主人公の家=精神世界はオオカミに支配されている「オオカミの家」ということなのか、などと考えましたが。
ラストの展開も合わせ、なんともやるせない複雑な気持ちになります。
悪夢的な物語と異様に変容するアニメーション表現はとてもよく合っていて、インパクトのある面白い作品でした。
全くの予備知識無しで観ない方が良いと思う
何かの賞を貰ったストップモーションアニメのホラー映画という情報だけで本編を鑑賞。
【良かった所】
音響が良かったのか、セリフが耳の奥にまで届く感じで凄くリアリティーがあった。
手間暇が凄く掛かっている映像というのは随所に感じられる。
本編は、74分と短いのでそれ程苦痛では無かった。(面白ければ問題無いですが)
「マァリィィアァァァ-----」のフレーズが凄く耳に残ります。
【悪かった所】
予備知識無しなのでストーリーは殆ど最後まで理解不能でした。(終わってから、このサイトの他の方のレビューで弱冠理解した次第です)
各キャラクターの顔が定まらず、誰なのか解らない。また、感情移入出来る様な造形のキャラではない。
顔だけが巨大化した映像とかが突然差し込まれたりで、何を表現したいのか理解不能な所が多々有り。
オオカミと豚が登場しており、「これは3匹の子豚のオマージュなのか」とか考えながら観ていました。
結局、ラストはハッピーエンドなのかバッドエンドなのかも解らず映画館を退出。
以上が予備知識無しの映画鑑賞素人の正直な感想です。
制作系の脳みそには強刺激。
たしかにアウトプットは禍々しく見えるけど、おとぎ話だった。動く絵本みたいな。
美大や美術系の学校に行ってたり、制作系の人は絶対見るべき。信じられない手法と手間がかかってて空いた口が閉まらない。まばたきも惜しい。
数箇所の美術館で制作風景を展示しながら完成させた、ってもう制作途中からすでに作品としてできあがってるじゃん。ありえない手法で感嘆が止まらない。
そもそも、ストップモーションアニメーションという枠で括るのがちょいと窮屈。
↓監督自らこうルールを決めてるから。
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これはカメラによる絵画である
人形はいない
全てのものは「彫刻」として変化し得る
フェードアウトはしない
この映画はひとつの長回しで撮られる
この映画は普通のものであろうと努める
色は象徴的に使う
カメラはコマとコマの間で決して止まることはない
マリアは美しい
それはワークショップであって、映画セットではない
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作品の大きさもミニチュアじゃなく、1/1の大きさ。
なんで壁に服をかけた状態の上から塗るのか…大変なのをわかった上でのドM体質。
少しずつ塗り替えていく手法から、すこしずつ出来上がっていく彫塑表現、平面から立体、立体の手間には透明の板を使った平面と立体を組み合わせた表現、登場人物の見た目は統一されない。こんな不安定で完成度の高い作品、みたことない。
芸術点は、つまり最高!
その上で物語は、示唆に富んでいる。
チリに存在していた政治家と組んで非人道的な活動をしていたコミューン「コロニア・ディグニタ」をモデルにした作品で、宗教という皮を被った倫理観ゼロのオオカミの洗脳と主従関係、チャイルド・グルーミングを繰り返してはいけない、という激しめな教訓をアートとして昇華して後世に残そうとした作品だと思う。
得てして残っていくのは絵本、しかも怖い方が脳みそには強く刻み込まれる。
マリアは、365日続く無償の強制労働と処罰、性虐待の被害者
オオカミは、コミューンの大人
逃した豚は、戦犯とみなされた人間
家で先にいた豚は、コミューンから逃げ出した人間(黒人や黄色人種)
コミューンでは白人で金髪がよしとされていたぽいので、その見た目ではない戦犯は人間扱いされていなかったのかもしれない=豚として表現して、ペドロとアナを蜜を飲ませて見た目を変えて人間らしい生活をさせたいというマリアの優しさだったのか。
ただ蜜が何を暗喩しているのかがわからなかった。。あれ、なんですか?
寝ると悪夢を見るのは、日常的な虐待・拷問のせいで、産みの親とも引き離されるルールで「家族」という概念が生まれた時からない状態で育つため、ペドロとアナとは家族のような感覚すらなかったのでは。かなし。
でも食べ物がなくなると、ペドロとアナはマリアを食べようとする。
恩を仇で返すような表現だけど、それだけ誰も信用できないし冷静な判断なんてできないくらい虐待・拷問が精神を蝕んでしまうという暗喩なのではなかろうか。
不気味…だけど面白い
人形が苦手なので時々固唾を飲みながらの鑑賞でしたが見る価値はあります!
実写→2D→建物全体…と表現方法が変わっていくのも面白いところでした。
前知識も入れてから見に行ったのですが、ところどころ難しいところはありました。
初見で見てもいいとは思いますが、少し内容調べてから行っても問題なく鑑賞できると思います。
特に見に行ってからはコロニア•ディグニダついては検索してしまいましたね…こんな恐ろしいことが世の中にあったとは知らなかったです。
それにしても同時上映の『骨』も不気味なこと…サイコーでした!
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