「知る喜びと愛する歓び」哀れなるものたち つとみさんの映画レビュー(感想・評価)
知る喜びと愛する歓び
こんなに自由にインスピレーションと思索の海に溺れられる映画は滅多にない。ヨルゴス・ランティモス監督の作品はシュールな社会派コメディだと思っていたが、「哀れなるものたち」はかなりアップテンポで直球に近い作品だ。
ずっと期待して楽しみにしていたけど、早くも今年のベスト映画候補である。う~ん、好き!
知る喜びと愛する歓びが螺旋のように絡まり、一人の女性を加速度的に成長させていく物語は、生きることへの賛美でもある。
何かを知る、というのは途轍もない喜びである。何も知らないベラが、1日に15の単語を覚え、性的歓びに目覚め、哲学を知り、世界の残酷さを目の当たりにする。
全てはベラが「知る」ための冒険なのだ。
更に、最初のモノクロ世界でも既にゴッドが知る喜びについて言及している。
父親から親指を傷つけられた少年時代のゴッドは、痛みのあまり他の四指を見ていることしか出来ず、その結果皮膚組織の仕組みを知った。
少年ゴッドはその時笑っていたのだ。科学的観察がもたらした発見は、身体の痛みを忘れさせるほどの喜びだった。
その知的好奇心はベラにも受け継がれ、例え「1つで十分」と言われたエッグタルトも食べたいだけ食べ、結果盛大に嘔吐する。
「経験してみないと分からないじゃない」という明快な行動が、全てにおいて発揮され、何物にも縛られないその奔放さがベラの特徴だ。
そして、その唯一無二の振る舞いが「本当に哀れなるもの」を産み出してしまう。
ベラには「社会の良識」が欠けている。欠けているから魅力的であり、欠けているから悪魔的なのだ。
ゴッドもマックスも勿論ベラを愛しているが、ベラの秘密という「情報」が欠けていたからこそ、ダンカンはベラに興味を持った。
ベラの秘密を知らないままその美しさと奔放さに魅力を感じたダントンは、プレイボーイぶりを発揮し彼女を連れ出すが、面倒な駆け引きもしない代わりに空気も読まない(読めない)ベラに忽ち翻弄されることになる。
「社会の良識」が欠けているから、ズケズケと物を言い、下品な振る舞いに恥じ入ることもない。公然と矛盾を指摘し、譲歩してダントンを構うこともない。全く思い通りにならないベラに、哀れ既に心を奪われたダントンは社会的にも精神的にも破滅の一途を辿る。
思えばゴッドも色々なものが欠けている。胃液が無いから外部で胃液を調達し、「社会の良識」より科学的探求に重きを置く。その容貌は傷だらけで、顔色一つ変えずに死体を切り刻む様は「常識人」から見れば当に怪物。
彼の傍らにいるのは「凡庸から紙一重で踏みとどまっている」マックスとメイドのプリム夫人だけ。
ゴッドとベラは表裏一体で、「社会の良識」から追い出された存在なのだ。
だが、ゴッドもベラもちっとも哀れではない。欠けている事を認識し、欠けているからこそ愛するもの・大事なものに真摯だ。
「哀れなるものたち」二本目の柱はズバリ「愛」であり、それは性愛だけでなく親子の愛でもある。
ここでもベラとゴッドは一見奇妙な親子愛で一致を見せる。
ゴッドはベラに愛を注ぎ、世界から守ろうと屋敷に閉じ込めていた。それはベラの「世界を見たい」という欲求と相反した行動で、結果的にベラはゴッドの元を離れてしまうが、彼のベラへの思いは間違いなく親子愛である。
ベラが去ったあと、ベラと同様の女性フェリシティが登場するが、ゴッドは彼女に愛情を示さなかった。フェリシティの成長はベラに比べて遅く、ベラの成長速度には親(ゴッド)の愛が深く作用していたことが伺える。
そしてそこから導き出されるのは、父の跡を継ぎ、ベラとフェリシティ(と数多の動物たち)を誕生させた天才外科医・ゴッドウィンは、やはり彼のチチ親に愛されていたという事実である。
ゴッド曰く「最低のクソヤロー」である彼の父親の言葉で、唯一真に迫るのは「慈愛を込めてメスを入れろ」なのだ。
息子の身体を切り刻んだマッドな父親ではあるが、その執刀に愛が宿らなかったことは一度も無いのだろう。
強烈な痛みと引き換えに人体の構造を観察し、消化出来ない不便を抱えてもなお、外科医として大成し精力的に活動するゴッドウィン・バクスターは、父の愛なくして存在し得なかったのだ。
「良識」からすればグロテスクで下品とも取れるストーリーですらあるが、真摯な観察と思考を駆使すれば、不条理なのは「社会の良識」の方だ。
思ってもいないことを口にし、的当な相槌と思考停止を駆使し、「なぜ?」という問いを「そういうものだから」で封殺しようとする。
カラフルでファンタジックな、絵本のようなショットの中で、欠けながら自由に自分を肯定するベラの物語を是非堪能して欲しい。