「そういう職業でもあったのですね。レーサーというのは。」グランツーリスモ talkieさんの映画レビュー(感想・評価)
そういう職業でもあったのですね。レーサーというのは。
<映画のことば>
「事故はお前のせいじゃない。俺のせいだ。もっと早くにピットへ…。」
「そんな…。」
「フルークプラッツは、飛行場という意味だ。あそこでクルマは逆風で舞い上がり、不幸な事故に。」
「僕が走らなければ…。」
「レースは、死と隣り合わせだ。」
「僕が運転していた。」
「自分を責めるな。」
考えてみれば、当たり前のことながら、レーシングカーは、より軽く、より速く作られているわけですから、それだけ事故も起きやすくなっているのだと思います。実際のところ。
本作で、ヤンが遭遇したというこの不幸な事故も、現実のもののようです。映画の設定としてではなく。
(実際の事故の映像が、ネットの上にあるような記述もあります。)
ゲーマーとして、ゲームと向き合っているだけなら、こんなふうに、レースを観戦して楽しんでいた人を死なせることも、あり得なかったー。その自責が、痛いほど伝わってくるようでした。画面から滲(にじ)み出て来るように。
レーサーという職業の、いわば「負の側面」を垣間見てしまったヤンの心の痛さは、果たしていかばかりなものだったでしょうか。
ゲーマーを経て、それが、いわば「憧れの職業」であったが故に、その心痛も、格段のものだったと推察します。評論子は。
時として、モータースポーツには付き物の「事故」に辟易してしてしまい、レーサーを引退までしてしまったチーフ・エンジニアのジャックには、そのことについて、焼けるような後悔の念が、拭い去りがたく、自身につき纏(まと)っていたようです。
そして、自分と同じ轍を、ヤンには踏ませたくないー。ジャックのその想いも、また一方で、胸に刺さります。評論子には。
その「相克の痛さ」というのか…。
また、一方では、この世界でも、人が人を想うという、やっぱり人と人と、人との繋がりの大切さ、温かさが、胸に染み入ります。
佳作であったと思います。本作は。
(追記)
<映画のことば>
お前が何者かは、事故ではなく、それにどう向き合うかで決まる。ゴールまで走れ。
けっきよく、ジャックがレーサーとしてのヤンの能力を見いだしたのは、ジャック自身も気がつかなかったブレーキのフェードに、ヤンは気づいていたから。
ジャックは、欧州日産の執行役員・ダニーの反対を押し切ってまでヤンを合格者に選んだ本当の理由は、その点にあったことは、疑いがありません。
何が起きてもジャックは、レーサーとしてのヤンを信頼するー。
その二人の関係性も、観ていて清々しい一本でした。本作は。評論子には。
(追記)
<映画のことば>
「誰も期待していない。気楽にやれ。
お前にならできる。」
ゲーマーからモノホンのレーサーになり、初戦に臨んで緊張の極限にあったヤンに、チーフ・エンジニアのジャックがかけた一言。
これ以上の励ましの言葉は、ちょっと思いつかないのではないでしょうか。
その温かさが、胸に染み入るようです。
(追記)
<映画のことば>
「これは夢?」
「10台玉突き事故と同じくらい現実。」
考えてみれば、レーシングゲームの優れたゲーマーを、モノホンのレーサーにしてしまおうというのは、あながちは荒唐無稽な考え方ではないのかも知れません。
何故ならば、プロ(パイロット、新幹線・電車の運転士)用のシミュレーターだって、言ってみればゲームの「親玉」とでもいうのか、ゲームがもっともっと立派になったものとでも言えるでしょうから。
(追記)
親は、子供が選び取ろうとする進路を、無下に否定すべきではないのだろうと、改めて思います。
本作を観終わって、評論子は。
安定した職業に就いて、波乱のない人生を送ってほしいと願うのは、子をもつどの親にも共通の思いだとは思うのですけれども。
息子が選び取ろうとする進路を最終的には(?)否定しなかったヤンの両親は、その点、立派でもあったのだと、評論子は思います。
りかさん、いつもコメントありがとうございます。
私も「事実は小説よりも奇なり」を地でいくような映画でだったと思いました。
これからも、よろしくお願いします。