「アリ・アスター監督が考える死の世界観では?」ボーはおそれている 雨雲模様さんの映画レビュー(感想・評価)
アリ・アスター監督が考える死の世界観では?
色んな考察が出来るので、ボーはおそれているをどう解釈したら良いのだろうかと思いながら映画を鑑賞した際にエンドロールで見た光景をみてひょっとしたらアリ・アスター監督が描きたかったのは現代の世界ではなく、彼の世の世界では?と気付いた。
最初のシーン、精神科に通院しているホアキン・フェニックス演じるボーは薬を貰い家に帰ろうとしているときからそもそもおかしい。
インスタ映え目的?ダイビングして旅立たれた方の亡骸が通報されることもなく道に置き去り、ボーは見た目からしてかなりヤンチャな方々に狙われてしまい、挙げ句の果てにはアパートの玄関先に置いていたキャリーケースを盗まれてしまい、母の家への帰省を頓挫しなければいけなくなった上に、薬を飲むために水無しで服用してはいけないものを水無しで飲んでしまったためにボーは慌ててスーパーへ向かい未購入の水を飲み買おうとするが小銭が足りず通報するぞと云われ慌ててボーはスーパーの外へと出てマンションへと戻るのだが、おかしいのはこれだけではない。
ボーが、アパートに帰れなくなった際にヤンチャな方々により勝手に不法侵入された末にやっと戻ってこれたと思ったら、ヤンチャな方が玄関先で昇天されている、更にお風呂に入ろうとした際に天井にスパイダーマンばりのおじさんが這いつくばって助けてくれと云いだすと、おじさんは力尽きボーが入る風呂へ落ちるのだが、そこでボーとおじさんが揉み合いの末にボーは全裸で逃げ出した末路がトラックに撥ねられてしまう。
これだけ書いてしまうと、何がなんやらさっぱり分からなくなるので、此処から先は私が考えたボーはおそれているの内容について考察したい。
前述したが、劇中で描かれているのはボーが彼の世の世界に行ってからの旅路ではないかと勘づいた理由について説明したい。
ラストのボーがボートに乗りながら四方をブースで囲まれるとそこは裁判所のようで、証言席に立つ母親がボーに対して愛情をこれでもかとばかりに尽くしておきながら親不孝な子供に育ったから罰をという内容だったと思うが、実は母親が訴えていた内容こそが生前のボーであり、ボーは母親が社長でお金に困らなかったために自律することはせずずーっと親の脛をかじってばかりの生活では?
クレジットカードが使えないというのは母親名義だったからというのもあるだろうが、実は使おうとしていたボーも死んでいたから使えなかったという見方もできる。ボーは母親無しでは生活出来ないと悲観した末に何かしらの方法で亡くなったのだとしたら、劇中に描かれていた世界というのはボーに対して善良な行いが出来るかどうかを旅を通し試された末にボーにはそのような姿勢が微塵にも感じられないために裁判の結果、地獄に堕ちたのではないか。
つまり、ボーがおそれているのは怪死した母親の元へ帰るのをおそれているのではなく、死んだことに対し待ち受ける試練に対しおそれているという見方も出来るわけで、だからこその最初のシーンのハチャメチャ感も、何事も都合良く行き過ぎでは?というストーリー展開も、ボーの人間性を試す上においての課題を与える立場だったと考えると納得。
いずれにせよ、普通に見て理解が出来る映画ではないために説明するのが凄く長文になってしまった。見て頂けたら同じ気持ちになるはずだ。