PERFECT DAYSのレビュー・感想・評価
全223件中、141~160件目を表示
こんどはこんど、いまはいま
太宰治の『人間失格』は「ただ、一さいは過ぎて行きます」という言葉で終わるけれども、その《過ぎていく一切》に光を当て愛おしむこと、その大切さに気づかせてくれるような作品であった。
トイレ清掃の仕事をしている平山氏(演:役所広司)の日常を追った作品、と、言ってしまえばそれだけの映画なのに、エンドロールが流れた後の、感動の深さ。
ドキュメンタリータッチの映像はちょっと是枝裕和監督っぽいかも知れない。作品のテイストは『海街diary』に似ていると思った。だから『海街…』で寝ちゃう人は観ない方がいい(笑)。
観る前は、役所広司主演でちょっと似たようなシチュエーションの作品『すばらしき世界』(2020年)に似た内容かと思っていた。しかしこの『PERFECT…』は想像を超えていた。
平山氏の部屋にはテレビもパソコンもスマホもない。新聞も購読していなさそう。車の中でラジオも聞かない。唯一の情報機器が会社支給らしいガラケー。
音楽はもっぱら古いカセットテープだ。Spotifyなんぞもちろん知らない。写真が趣味だが、持っているのはフィルムカメラだ。彼の身の回りにあるのは皆《失われゆくもの》たちだ。
しかし、そんな彼の暮らしは、何故「美しい」のだろうか。
映画館を出たあと、世界が少し変わって見える。そんな作品に、すごく久しぶりに出会えた。
【蛇足】
①脇役に「タカシ」という名前を安直につけるのはやめてほしい
②平山氏はなぜ寝るときカーテンを閉めないのだろう。
→朝の明るさで目覚めたいから?
③パンフレット売り切れだった、残念!
④カセットテープ巻き戻す場面で笑った。
⑤本を読みながら寝落ちするのは私も。
でもあんなに目覚めはよくない。夜中に一回目が覚めるし。
⑥銭湯の場面。役所広司の身体は年相応に衰えているみたい。
胸まわりの筋肉が落ちていて、意外とみすぼらしい。これも演出か?
⑦あれは研ナオコだったのね!
⑧昼休みとか同じ時間に同じ場所で同じ人に会うのは、あるある。
でも親しくなるわけではない。
⑨幸田文の『木』は持ってたけど数年前にブックオフに売った。
映画の醍醐味…
カンヌ受賞という前評判はあったものの、できる限り心をピュアにして、鑑賞した感想を書き出してみる。
前半は役所広司という「大俳優」が演じているのに、まるでドキュメンタリーを観ているような錯覚を覚えた。
朝目覚め、身支度を整え、小さな器に植えた楓の世話を終えると、車に乗り込み、淡々とトイレ清掃に向き合い、仕事後の銭湯、飲み屋、そして簡素な部屋で眠りにつくまでの読書で一日を終える。
そしてまた新しい朝を迎え…
ただこの繰り返しである日常に、ほんの小さな、些細な出来事が交わることで、人としての尊厳や他者への思い、そして「自分が自分である」という存在を直接的な言葉でなく、スクリーンに投影される主人公の表情や、まるで絵画のような色鮮やかで多彩な景色(風景)から、心が満ち足りるほど感じることができた。
正にこれが映画の醍醐味であり、映画の素晴らしさであることを、改めて思い知ることが出来た作品であった。
この作品のもう一つの見どころは、その映像美であると思う。「綺麗」という言葉では表現できないほどの感動を覚え、それはふと立ち寄った美術館で、立ちすくむくらい見入ってしまう絵画に出会ったようである。
久しぶりに「映画の醍醐味」を感じる作品に出会えたことに感謝。
美しいが、危うい
政治とか経済とか世界情勢とか社会とかと一切隔絶した、一種の晴耕雨読の隠遁生活を描いた作品。
出来事は主人公平山の周りを通り過ぎていく。
平山氏は清掃会社に所属しているので、会社への業務日報なり、定時連絡なり、給与の振り込みなりがあるはずだが、そこも描かれない。
平山氏の実家は裕福な資産家のようだが、資産には興味がないらしく、妹から実家に戻るように提案されても、拒否する。
家族も財産も捨てた、一種の仙人みたいな生活である。
会社員人生とか長いと、煩わしさから解放されたこういう生活に憧れる気持ちがわからないでもない。美しいとも感じる。
でも、交差点で不注意なドライバーが信号無視して突っ込でくるもらい事故だって、現実にはあるわけじゃないか。そう思ってしまう。
小津安二郎を敬愛するのであればカメラはパンを一切しないでほしかったな。
繋がっていなくても、重なり合って生きている
この映画を言葉で表現するのは難しい。表現しきれない何かがある。敢えて言うなら・・・
都会の片隅で生きる一人の善き人の日常を、美しく、純粋に切り取って見せる。ただそれだけなのに、人生とは何か、幸福とは何かについて考えさせられる、ような作品。という感じだろうか。
※キャスティングと音楽の選曲のセンスが凄い!サントラ欲しい。
※年末年始に1回ずつ鑑賞。2024年4月堪らず3回目鑑賞。
■1回目(2023年末)
福山雅治がラジオで「奇跡の映画」と紹介していたのを聞き、年の締めとして映画館へふらっと行って観た。カンヌで役所広司が主演男優賞をとったトイレ清掃員の映画、という事前知識しかない状態での鑑賞。
主人公の平山は、毎日決まった時間に起き、布団を畳み、髭を剃り、歯を磨き、植物に水をやり、空を見上げ、缶コーヒーBOSSを買い、車に乗ってトイレ掃除の仕事に向かう。仕事場では一切の無駄口をたたかず、ムダのない動きでトイレをきれいに磨き上げ、帰宅したら銭湯で一番風呂、浅草地下街で晩酌、読書して床に就く。まるで修行僧のように寡黙にルーティンをこなす日々。
前半は、余計な演出も台詞も音もなく、ゆるい流れで特に大きなイベントも発生しないので、色々と想像を巡らしながら観ることになる(研ナオコにはすぐ気がついたw)。
中盤を過ぎて、「今度は今度、今は今」という言葉を聞いたとき「脚下照顧」という禅語が思い浮かぶ。ああ、やはりこれは、外国人監督が理想の日本人像(令和の東京という俗世に生きる禅僧)を描いた話なのかな・・美しい映像と抜群のセンスの選曲のオシャレなアート映画なのかな・・・と見続けていると・・・
妹と姪との別れのシーンで号泣する平山に壮絶な過去が垣間見え。
ラストシーンで流れる「Feeling Good」に合わせて悲しみ、後悔、喜びといった色々な感情がない交ぜになって泣く役所広司を観て、自分も内側からこみ上げてくるものが・・・
何か凄いものを観た!という感じで呆然としてしばらく動けなかった。
恥ずかしながら、Wim Wenders監督も、「PERFECT DAY」や「Feeling Good」の歌詞もよく知らずに観た1回目。一旦映画館を出た後、戻ってパンフレットを購入。40代中盤まで生きてきて、映画のパンフを購入したのはこれが2作品目。
映画の余韻に浸りながら年を越した。
■2回目(2024年始)
あの場面の台詞の意味は何だったのか?あの映像の意味は?平山の過去に何があった?色々考えながら、これはもう一度観なければ、と年始に再び映画館へ。
1回目は観ているようで観ていなかったこと、気づかなかったことに色々と気づく。
平山は、微笑む。自分を取り巻く人々、街並み、木々に。そして光と影を愛する。トイレの壁に映る木々の影、木漏れ日の下で踊るホームレスを観て幸せそうな笑みを浮かべる。
と思いきや、同僚が突然やめて怒りの感情をむき出しにする。
不意にキスされた後、銭湯でニヤけて湯につかる。
ヤケ酒も飲む。吸えないたばこも吸う。でも、最後は微笑みながら帰宅する。
彼は禅僧なんかじゃない。生身の人間だ。
禅僧のようなルーティン生活をしているのは、つらい過去や孤独に飲み込まれるのを防ぐためではないか?
リズム。一定のリズムを刻み続けるように生きることで今に集中できる(音楽やダンスのように)。そんなことが頭をよぎる。
最後のシーン。「Feeling Good」の歌詞の意味をわかってから観た2度目。役所広司の演技は、顔面だけで平山のこれまでの人生、そして今、これからを表現しているように思えて、泣いてしまった。
■3回目(2024年4月)
3回目の鑑賞で、東京スカイツリーを見上げる構図、複数階層になった首都高を見下ろす構図が何度も出てくることに気づいた。これは平山の視点ではない。Wenders監督の視点だ。監督は、愛する今の東京の街と平山(役所広司)の日常をたった16日という短期間で、瞬間冷凍のように記録し、封印したのだ!この映画は、もう二度と同じように撮れない「奇跡の映画」なのだということを思い知らされた。そして、ラストシーンの朝日の光は、平山のPERFECTな日々がこれからも続くことを示す、人生賛歌の光なのだと私は感じ取った。
■繋がっていなくても、重なり合って生きている
「この世界は、繋がっているように見えて、繋がっていない世界がいくつもある」と言う平山に対して、ニコは「私はどちら側の世界にいるの?(おじさん側の世界って言って欲しい)」と聞く。平山は答えない。
最初、自分(平山)が住む世界は、多くの人が住む世界と違うという意味だと思ったが、回を重ねて観ると、それは多分違うと思った。今、生きている一人一人が、繋がっているように見えて、他人と繋がっていない世界を生きている(みんな孤独)という意味ではないか。でも、影踏みで平山が言った「重なって濃くなる」という言葉から、繋がっていなくても、ときどき重なり合うことで、人と人は関わり合い、生きているんだ、という人生観を平山が持っていると私は思う。
観る人によって、いろんな解釈ができる映画。
そして、孤独を抱えながらも、毎日を新しい気持ちで、生きようと思える映画。
朝、空を見上げるのがしばらく習慣になりそう。
概ね良いかと思いますが…
絶対に日本人ではとれない感覚の映画かと
観る人の年齢や住んでいる環境、東京か田舎か
また人生観で評価は180度変わるかと思います。
わたしは自販機での飲み物を毎日買うシーン。
姪の女性がでてくるシーン、妹さんとの会話シーンは良いですね。
ただ、後半の三浦友和さんがでてる飲み屋から
橋での会話シーンは賛否がわかれるかと思いますね。
あそこから映画がかわりました。
私は、ない方が良かったかとも思いますが
どうでしょう?
ただ、絶対に見たほうがいい映画かと思いますね。
良く言えば静かな映画
特に事件が起きるわけでも、何かが解決するわけでも、だれかが成長するわけでも、伏線が回収されるわけでもない。
厳密にいえば事件が起きたり何かが解決したりだれかが成長しているのかもしれないが、観ている人間の想像力に委ねられる部分が大きい。
ここから何かが始まるのかな? と思わせておいて特に何も始まらなかったり、あとあと関係してくる人間かと思いきやその場限りの人物だったり、ルーティーン動画とか「かもめ食堂」を観たあとのような気分になった。
役所さんの演技をじっくり堪能したい人には良いかもしれない。
個人的な感想では役所さんはスマートでナイスダンディすぎるので、もっと苦み走った芝居のできる醜男で不器用そうな俳優ならもっとハマった気もする。
昭和の雰囲気がする主人公の住居や、淡々と過ぎていくささやかな日常を眺めるのは好きだが、映画館で観るほどではないかなと思ってしまった。
でも自宅のテレビで、大きなイベントのない映画を集中してみるのは難しい気もする。
日常が永遠に続く訳ではない⁈
驚くような事件は何も起こらないのだが、とても心に沁みる作品。やっぱりコロナ禍を経験した後だからこそか? (作品の企画、キッカケは2018年だったようですが…)
役所さんが演じる、淡々とルーチンな日々を送る公衆トイレ清掃員の平山。朝イチの缶コーヒーとカーステのカセットで流すお気に入りの音楽で一日のスイッチを入れ、黙々と清掃作業をこなし、ランチ休憩の境内で木漏れ日を写真に収め、銭湯の一番風呂に感謝し、その後に寄る安居酒屋での一杯に至福の表情を滲ませる。そして、アパートで好きな本を読みながら、せんべい布団で寝落ちする毎日。
そんな日々の中の些細な幸せ。偶然発見したまるバツゲームにちゃめっ気を出し、ホームレスのダンスに感嘆し、木の芽を見つけて大事に持ち帰り慈しむ。
この毎日こそが、パーフェクトデイズだった⁈
ところが、小波のように、同僚の若者が絡んだ小さないざこざがあったり、裕福な実妹の娘が家出して安アパートに訪ねてきたり、休日(休日だけ、腕時計する)のルーチンではあるが平山にはハレの空間の小料理屋の女将と元夫の再会に出くわす、なんて事が起きて…
それらが、平山の日常、そして感情を大きく揺さぶった事を、ラストに役所さんの素晴らしい表情の変化だけで描く。本当に見事なシーンでした。
でも、平山はその後またパーフェクトデイズに帰って行くのでしょう。
女将が常連客のギターに合わせて歌う曲、運転中や休日のアパートでカセットから流れる楽曲がどれも素晴らしかった! あと、浅草やきそば福ちゃん、久々に行きたくなりました!
新年早々に良い作品に出会えて感謝です。
とても味わい深いが、強烈な3D酔いが襲って来た。
iTunesかSpotifyでlou reed の"perfect day"を聴いてみて、好きだったら観ても良いですが、今一つなら観ない方が良いです。
あの曲を映像化したと言っても良い。淡々と始まり抑揚もなく、淡々と終わる。その世界観にしばし意識を浸せるかどうか。
被害者多数の様子でした(笑)。観客のお一人は「役所広司やからもっと面白いと思ったのに」と文句を言ってましたが、役所広司の動の演技を期待してたんでしょう。
敢えて言うと洋楽聴かない人(英語が堪能な人を除く)は楽しめないと思います。歌詞の意味のよく理解できない音楽を楽しめるか、雰囲気を楽しめるかなのかなと。
僕はと言えば楽しめました。この手の山もなければオチも無い映画はそういう楽しみがあるのは分かりますし、功成り名を遂げた巨匠の最新作(最近この手のマスターベーションにうんざりしてるもので…)ですが、映画としてとても丁寧に作られてるのがよく分かる。
個人的にはperfect dayよりもpale blue eyesがグッと来ましたが…。
が、後30分長ければ劇場を出てました。
あの揺らぎを表現した映像は「所謂3D酔い」を引き起こします。半分を過ぎた辺りから気持ち悪くなり出して、前半の単調な展開(後半も大差ないですけど」と相まって一時は限界寸前まで追い込まれました。その意味でも酔いに弱い人は避けた方が良いかなという感想でした。元々の評価は星4ですが、あの拷問のような綺麗な映像で星一つマイナスです(これは僕の完全な体質の話ですけど)。
それと、平山の生活は不可能でしょ…と日本居住者として思いました。あの立地で駐車場代幾らするのよと。実はあの付近の土地は平山の物だったりして…なんて変なことを考えてしまった。ファンタジーなのに、野暮な話ごめんなさい(笑)。
役所広司で成り立っている映画
映画をエンタメとして楽しみたいのであればこの作品はお勧めできない。アートっぽい作品とか好きな人はいいかもね。もう冒頭喋り出すまでが長すぎる。テンポも悪い。
結局なんなのかわからないオチ。そもそもオチもついてない。姪関連のシーンは良かったけど、最後のスナックの元旦那も出す必要あった??どうせだったらもっとあの人の過去とか家族関係をクローズアップして取り扱った方が面白かった。匂わすだけ匂わしといて出さないんかい父親。
役者たちの芝居は流石素晴らしかった。
演出も良かったけど、やはり脚本が私は気に入りませんでした。流石に過大評価かなー
不思議と眠たくならない
ただ淡々と…
平山(役所広司 )のなんの変哲もなく
過ぎ行く1日1日を
見て、感じて、溶け込み同化する感覚
流れる洋楽
mama(石川さゆり )の哀愁漂う歌
ラスト、平山の表情に物語の全てが
込められているようでグッと惹き込まれます。
冒頭2箇所めのトイレがとても印象的
聖地巡礼したくなります🚽🧻
缶コーヒーはBOSS
ネットどころかテレビもラジオも持たず裸電球と電気スタンド、タンスと布団と本とカセットテープ(70〜80年代の主に洋楽)、趣味のモミジの鉢植えくらいしか部屋にないミニマリストな主人公。外の箒の音で目覚め歯磨きと髭剃りをして専用車で仕事に行き林のある神社でコンビニのサンドイッチと牛乳の昼食、仕事が終わったら銭湯と行きつけの居酒屋に行き1日の終わりは読書。休日は濡らしてちぎった新聞紙(新聞を取っているようでもなかったが)を畳に撒いて箒で掃除しコインランドリーと古本屋とフィルムの現像を頼んでお気に入りの小料理屋に行く。我々の多くはこの真反対の生活をしていると思うが日本人は静謐な暮らしを送っているイメージなのかなと思いつつ。
頭の悪い同僚の若者に振り回されて金を貸すハメになったり、長年会っていなかった妹の娘が突然訪ねてきてしばらく同居したり、小料理屋のママが男性(元夫)と抱き合っているのを見てショックを受けたりといったハプニングがあるし、渋谷区内の公衆便所の清掃とは大変な仕事だと思うが、彼の平和な生活は続いていく。
姪とは明るく会話しているものの若者が片思いしている女の子とは殆ど口をきかないくらい無口。娘を引き取りに来た妹は運転手付きの生活をしている金持ちのようだし、彼自身知的なタイプだし、姪がいる時に寝ていた使っていない台所?のダンボールも過去に何かあったのだということを示しているが何かは明かされぬまま。
古いアパートで暮らすトイレ掃除の1人の生活は不幸せか幸せか、人が決めることではない。主人公は幸せそうだが、ラストの泣き笑いは、心のどこかに孤独を感じていたのではないか。
彼の慎ましい生活には、ルーティーンになっている自販機の缶コーヒー、コンビニのサンドイッチといった、別に彼のためにあるわけではないものにもよっている。いくらでも代わりはありそうな平凡なものでも、無くなってしまうと彼の幸せは狂ってくるかもしれないと思うと、こんなつましい生活からビジネス上の理由だけで彼のルーティーンを奪わないで欲しいものだと思った。
色んな役者が出てきたが、古本屋の犬山イヌコが良かったな。
それにしてもどの公衆便所もオシャレ。大昔に『東京トイレガイド』みたいな本がロッキンオンあたりから出版されていたのを思い出した。またクレジットでShibuya city となっており、23区はcity扱いなのだな。
初老の男性の生活を神話的な構造で描く
これはよかった。
初老の男の平凡な日常を神話的な構造で描くというアイデアに驚いた。
内容としては主人公の平山が公共トイレの掃除という仕事に従事する日々を淡々と描く。それだけだと退屈になりそうだが、本作ではジョゼフ・キャンベルの英雄譚のプロットをそのまま使っている。
朝、老婆が竹ぼうきで掃除をする音で平山は目覚める。これは冒険譚において主人公がミッションを命じられる過程にあたる。
身支度をととのえて、車で出発する。
日中はトイレ掃除をする。これがミッションに該当する。
一日働くと、帰宅して、浴場にいき、飲み屋で一杯やって帰る。ここはミッションを達成して報酬を獲得するパートになる。
本を読んで寝る。
寝た後に夢を見る。これはその日の出来事が反映された、あいまいなものが多い。走馬灯のような夢だ。
翌朝、竹ぼうきの音で目覚める。
基本的にはこの生活が繰り返される。
おもしろいのは、平山の動作が細かく描写されるのに、アパートの鍵はかけないところだ。車の鍵などはちゃんとかけるので、意図的に演出しているのだろう。
平山が住んでいるアパートは現実の場所ではなくて、抽象的な母胎に近い場なのではないか。そう考えると、鍵をかける必要はなくなってくる。
平山の動作についてつけくわえると、なにかを見上げるという動作が頻繁に出てくる。これは彼が底にいる人間だから見上げるのだろう。見上げるのはスカイツリーであったり、木であったりする。
本作は植物がよく出てくる。生命の象徴として扱われているだと思う。スカイツリーもその名の通り、ツリーとして扱われているのだろう。特にスカイツリーは世界の中心のような扱いで、平山の生活圏のどこからでも見える。
公共トイレが舞台になるのは、本作がユニクロの取締役が発案した「THE TOKYO TOILET」プロジェクトが発端となってできた映画だからだ。なぜ公共トイレを発案したかというと、トイレは誰もが使う場所であり、多様性にも通じるからだ。
トイレ掃除をしている時の平山は黒子に徹している。利用者が入ってくることもあるが、平山はほとんど存在しないものとして扱われる。多様性を維持するために身をささげる、というのが平山のミッションだともいえる。
そして、トイレ掃除といえば禅的な行為でもあり、彼の質素な生活を印象づける効果もある。
おもしろいのは、平山の生活というか動作のひとつひとつが細かく描写されるのに、彼はトイレにいかないのだ。排泄をしないわけはないので、彼が奉仕をする立場に徹しているという演出意図なのだろう。
本作はポール・オースターの小説「オーギー・レンのクリスマス・ストーリー」すなわち映画「スモーク」で、ハーヴェイ・カイテルが毎朝同じ時間に同じ場所で撮り続けた写真をアルバムにして、「同じ写真に見えるが、一枚一枚全然違うんだ」と語るエピソードを思い出させる。
人生は同じことの繰り返しのように見えるが、実際には日々違うのだ、というのが本作にも共通するメッセージだと思う。
製作費は不明。興行収入は2023年11月29日の段階で2億8千万円。あまり売れているとは言えないが、言うまでもなく批評家受けは良い。なにも考えずに楽しめる娯楽映画もよいが、本作のようなさまざまな解釈が成り立つ作品が作り続けられることを願っている。
何とも切ない映画
主人公の平山だけでなく登場人物全員やるせない気持ちを抱えながら生きている様子が伝わってくるが、あまり多くは語られない。各々それを噛み締めながら生きていて、それこそが人生なのだと痛感させられた。
質素な初老の男の日常映像に惹かれるのは、現代でありながら彼だけ過去に生きているかのような演出だからかも。4:3という珍しいアナログテレビ時代の画面比率、音楽もカセットで聞いているし、昔ながらの銭湯通いは何とも昭和的。
ラストシーン、平山は全然「feeling good」ではないと思う。ただ、そう自分に言い聞かせながら苦痛のなかを生きているだけなのではないだろうか…
一見、毎日穏やかに過ごしていて、そんなパーフェクトデイズな生き方に憧れるなぁ〜っと見せかけて、実は自身の罪を清算する刑務所の規則正しい生活のなか、小さな幸せを見出す囚人の映画のようでもあるなと感じた。
生活と労働、そして音楽は生きる悦び。
「何を幸せと感じるか?それはとても個人的なこと」そうヴェンダース監督、そして平山さんから教えられたような気持ちです。
主人公の平山さんは、親が期待したエリートの道から外れたようだ。道を外れた平山さんは、ひとつひとつ自分の胸に確かめながら、生活と労働を形づくってきた。仕事に欠かせないのは、現場への行き帰り、車の中で好きな音楽を聴くこと。 複雑な組織の人間関係から離れ、ひとり黙々と打ち込める仕事は、平山さんに合っている。汚れたトイレがきれいになれば、達成感もきっとある。嫌なことがあっても、木漏れ陽を見上げれば気持ちが晴れることにも、平山さんは気づいた。
生活の場は下町にある古い風呂なしアパート。家賃、4万ほどだろうか? 夜明けとともに目覚め、身支度し、自販機で飲み物を買って仕事へ出かける。仕事の帰りに銭湯で汗を流し、居酒屋で一杯かたむけながら、お腹を満たす。趣味は、自然に芽吹いた木の苗を持ち帰り、育てること。ぐっときた瞬間の写真を撮り、紙焼きした写真をストックすること。憧れのママがいるスナックでときどきお酒を飲み、ママの歌に触れること。古本屋で買った本を、寝る前に読むこと。
そんな繰り返しの日々を泡立たせるのは、いつも人間。木漏れ陽がそうであるように、毎日も二度とない瞬間の連続。過去を悔いたり、未来を憂うことなく、平山さんは、今ここにある瞬間を味わっている。時には動揺することもあるけれど、いつだって音楽が救ってくれる。
胸に迫るラストシーン。ニーナ・シモンの歌を聴きながら運転する平山さんは、何を見ていただろう? 家族の期待に応えられなかった過去だろうか。蘇った記憶に揺さぶられながらも、心の底から「これでいい」と、平山さんは感じているようだった。
映画館で席に座る前、まわりを見渡したら、初老の方が多かった。わたし自身も、その部類に入る。わたしは主婦で、パートで介護の仕事をしている。このところお金や時間、昔はあった体力さへも減ったと感じる。仕事も生活も「これでいいのか?」と思うことがある。知人の立派な仕事や生活、贅沢な趣味を垣間見ると、落ち込んでしまうこともある。お世辞にも、人間関係の舵取りが上手とは言えない。それなのに、増えすぎたモノや人間関係に、手を焼いている。
けれどこの映画を見て、平山さんに通じる幸せの片鱗が、わたしの暮らしにも散りばめられていることに気づいた。微笑みたくなるような気持ちは感じていたけれど、それが幸せそのものとは認められなかった。
早朝、仕事現場へ自転車で向かい、途中の神社で青空や木々を見上げ、澄んだ水に触れること。高齢の利用者さんと、他愛もないお喋りをしながら笑うこと。若い利用者さんと一緒に童謡を歌う楽しみ。便秘気味の利用者さんが、しっかりウンチしてくれた時の安堵感。
キッチンで音楽を流しながら食器を洗ったり、ベランダの植物を世話すること。洗濯物がパリパリに乾いた時の、お日様の匂い。ごはんや煮物が冬の日差しを浴びて、白い湯気を立ち昇らせている風景。
映画は、平山さんの幸せな日常を映すけれど、平山さん自身は幸せを語らない。人にわかってもらおうとしない。「それでいいの?」と問われても、口ごもるばかり。自分の胸が正直に、それを幸せと感じていればいいのだ。自分なりの労働や生活の幸せの片鱗を、平山さんはこつこつ拾い集めた。そして心から満たされている。
2024年の始まりは、痛ましい災害のニュースに溢れた。沈んだ気持ちの時、この映画に出会い、自然と心が開いた。この映画に対する批判もあるようだ。それもわかる。社会が混乱に陥った時、犠牲を強いられるのは、人々の日常だ。平山さんのささやかな幸せは、いとも簡単にかき消されてしまうだろう。だからこそ、守らなくてはならない。人々の生活に影響を与える立場の人こそ見てほしい。壊さないでほしい。
平山さんという存在が、わたしの心に刻まれたこと。素晴らしい贈り物です。
汚れてないトイレを掃除する世界
個人的には完全に夢物語のような感覚で観ておりました。映画自体は皆様が言う通り、退屈などない映画でした。
汚れてないトイレを高速を使って移動しながら何のトラブルもなく、掃除する仕事。あんなボロアパートながら静寂が保てる環境。ミニマリスト風なのに自転車は2台ある生活。昔の物なのに音が劣化しないテープ。多分老いもこれ以上進行しない腰痛も無い世界。
鑑賞後に、そもそも広告用短編映画だったと言う事を知って納得しました。こういう日々ならパーフェクトで、トイレもキレイに使ってもらえる世界なんですね。これはこれでありなのかもしれないですね。映画ですから!
日々の繰り返しとは何か
平山の1日が始まる、箒をはく音と目覚めのシーンの2回目以降から、日々の繰り返しとは喜びも悲しみも全てそのままに、何事も無かったように引き受けていくことだと感じた。言葉にすると当然のことではある。
その象徴がラストの平山の長いアップの表情だと思う。
あのシーンはこれまでの車内で音楽を聴くのと違い、唯一無二の音楽体験をしたという、この映画のテーマを表現しているが、私には実際の表情というより、象徴的に作られた表現に見えた。踊りと同じような。
人は他人に窺い知れない喜びや悲しみを心に秘めて日々の生活を送っている。
この映画はハリウッドの三幕構成ではなく、独立したエピソードの連作のようになっていて、エピソードごとの感情が、平山の夢のようなモノクロモンタージュや目覚めのシーンで一旦リセットされているように見える。その積み重ねが実際の日々の繰り返しを強く感じさせる。
日々の繰り返しは「儀式」だ。
仕事に向かう、飲み屋に向かう。そのため布団を上げ、身支度する。自販機で飲み物を調達する。
私と世界の意味を形として表している儀式なのだ。
この儀式は生活者として粛々と行われなければならない。
心の込められた儀式を通して私たちは奇跡を見ることができる。もし世界に意味が無いのなら、奇跡も無い。
木漏れ日に決して同じ形の無いことに感動することはないだろう。全ては虚無、偶然の産物だ。
生活の喜びや悲しみも無く、耐えられずに狂って死んでしまうか、あるいは大きな悲しみに遭った時、受け入れられず、立ち直れないだろう。
平山は彼の儀式を通して、奇跡を見ていたのだ。
それが監督の言う、商品ではないプロセス、経験なのかもしれない。
このような面白い映画を身近な浅草でとってもらえたことがとても嬉しい。
トイレ清掃の綺麗な面だけしか描かれていないという指摘があるが、私はそうは思わない。
同僚のセリフや周囲からの扱いの描かれ方だけで充分に思われる。そして、このストーリーをよく企画者が了承したと思う。この映画は偏見や差別も否定していない。
仮にそうした描写が無くても、私たちはトイレ清掃の大変さについて容易に想像がつくのではないか。
そうでなければ、どうして平山の苦しみに感情移入できるのだろう、あるいは彼の修行者のような笑みに感心できるだろう。
彼は言わば出家したシッダールタなのであって、ワーキングプアや独身を肯定するものではない。
コピーのこのように生きれたらという意味はこのように生きれないことを言っている。
ただ、ある一瞬とか、心持ちとしてそうあろうとすることは可能なのではないか。そういう道を示している。
もしこの映画に反物質主義の非現実的な欺瞞とかもやもやを感じるなら、それが私たちが精神と物質のある娑婆世界に生きている証なのだ。
そのような矛盾の中で目に見えない大切なものを求めて生きるのがこの世に生まれた修行なのである。
下町ジモティーの喜び
公開初日の鑑賞から既に二週間近く。年末年始に数本映画を観たけど、やはり本作の余韻が大きいので、あらためてレビューを書きます。
鑑賞前に見た予告編で「桜橋」やスカイツリーが出てくるので、渋谷のトイレプロジェクト絡みの話なのに何故?という疑問は映像を観始めて直ぐに氷解しました。常識的には毎日の首都高使っての車通勤は考えられないけど、ヴェンダース監督は下町と渋谷の対比で現代の東京を表現したかったのだね。
スカイツリーとの距離感や行きつけの銭湯「電気湯」が登場することから、平山さんの住所は墨田区押上3丁目近辺かと推測します(因みに私は2丁目)。帰宅後のルーティンとして電気湯の一番風呂に浸かり、桜橋を自転車で渡り、メトロ銀座線浅草駅改札横の焼きそば屋
でチューハイを嗜む日々。半径700㍍くらいの行動圏。休日のささやかな愉しみと云えば、古本屋での文庫本の仕込み(購入した本への女店主のひと言が至高)と裏観音辺りと思しきスナックでの一杯。さゆりママがリクエストで歌声を披露なんて・・そんな贅沢な店があったら誰でも行くわなぁ。ママに淡い恋心を抱く平山さんの前に元亭主(三浦友和)が突然現れ心ざわつくも、余命幾ばくも無い彼から「ママをよろしくお願いします」と云われ困惑。無心に二人で影踏みをするシーンには涙が出ました。
押上・向島・浅草界隈が随所に登場するので、錦糸町のシネコンでは終映後、ジモティー達は嬉しくなって拍手喝采でした。同じ下町周辺を山田洋次が『こんにちは、母さん』で撮っていたけど、余りに定型的で面白くなく、個人的にはドイツ人監督の感性の方がしっくり。
鑑賞した翌日だったか、NHK・BSで小津安二郎監督の遺作『秋刀魚の味』を偶然見たけど、ヴェンダース監督の行間ならぬ映像間を味わう楽しみとは、このことかと再認識しました。
評価は分かれるのでは。
平山のトイレ清掃の日常をただただ描くだけで、劇的な話はない。
それをつまらないと評価する人もいるだろうし、
ホントに言葉の少ない平山の表情を読み取りながら、裕福な家庭→父親の確執から一人で生きていくということを問う、という深い内容だと評価する人もいるだろう。
ただ、自分にはあまり響かなかったかな。
疑問点。
・父親との確執とはどんなものだったのか。トイレ掃除に至る大切なところだが描かれていない。
・途中何回も回想シーンのようなものがあったがそれは父親を思い出しているのか。
・影が濃くなるというのは何を意味しているのか。人生の深さ・重さなのか。
いろいろなことがある、それがパーフェクトデイズ。
日々挟まれる夢が、詩のような印象。
主人公がとて無口で日常においてほとんど語らないせいでもあるが、その夢は、同じような繰り返しに思える1日1日でも決して同じ一日はないということを思い出させる現実的な句点の役割も果たしていた。
公衆トイレ掃除が決して簡単なものではないだろうけれどそこは多くは語らず。
木漏れ日を見上げ、モミジの稚樹を、きちんと折りたたんで作った新聞の小箱に土ごと入れ(それも自分で購読しているのでなく、掃除に使う事務所の備品だろう)アパートの部屋に並べてきちんと水を吹きかける。仕事ぶりも仲間からそこまでしなくてもと言われるほど律儀で丁寧。ただ、仕事以外の生活の中では、強く大きな音を伴う、少し投げやりにも感じる動作ひとつひとつに、かつて持っていた力と失ったものの大きさを感じた。それにしても運転手付きの妹、健在な頃には会えなかったお父様。去る車を見送ることもできずうつむき慟哭する彼に、何があったのだろう。
繰り出される音楽と小説も平山のバックグラウンドを想像させる素敵なカードになっていた。
がんの転移によって自分の未来を諦めた三浦友和が、日常生活のいろいろを諦めたような男に、小さな責任を頼む。かげふみで寄り添おうとする平山。重なる影が濃くならないはずはない、というセリフは、さもない毎日を積み重ねている自分への言葉のよう。最後の長いクローズアップは、涙を流すようなこらえるような、悲しみと希望がせめぎ合うような。その場に居合わせた全ての観客は目を離せなかったはずだ。
無常の人生と不変の人間の本性、性格
カンヌ映画祭で役所広司が主演男優賞を受賞した作品なので2024年映画鑑賞初めとして鑑賞した。トイレ清掃員としてルーティン化された清貧生活を送る主人公の姿を通して、人生の無常と人間の不変性を浮き彫りにした秀作だった。
台詞を極力減らすことで、ドキュメンタリーのような、主人公の日常を切り取った雰囲気を出している。台詞の密度が高く意味深で人生訓のように心に響く。
本作の主人公は平山(役所広司)。彼は、東京でトイレ清掃員として寡黙で規則正しい毎日を過ごしていた。通勤時に車の中でお気に入りの音楽を聴き、常時携帯しているカメラで木漏れ日を取り、休日に買った古本を読み、馴染みのスナックでママ(石川さゆり)と何気ない会話を交わし、彼の毎日は小さな喜びに満たされていた・・・。
平山は過去を捨てて清貧生活を始めた。彼の過去は謎だが、姪と、母親=平山の妹の登場&台詞で、かなり裕福な環境にいたこと、父親と確執があったことが推察できる。経済的環境の激変は精神的にかなり厳しい。しかし、冒頭から平山の表情に気負い悲壮感はない。自然体であり開放感がある。父親との確執の壮絶さを物語っている。
故に彼は父親の件を踏まえ、濃密な人間関係を避け寡黙になる。最小限の人間と最小限の会話を交わし最小限の人間関係を作り人間関係の長所を捨て短所を消そうとする。暫くの間、この彼の思惑は成功し細やかながら満たされていく。
しかし、親族の登場で小波が起こる。そして、相棒の若手社員(柄本時生)の突然退社、スナックのママの元夫・友山(三浦友和)の登場で、平山の思惑、頑なに守ってきたルーティンは崩れる。
“結局、変わんないですよね”という友山の台詞が心に強く残る。人生は無常だが、人間の本性、性格は変わらない。人間は無常の人生を変わらぬ性格で生きていく。その辛さをラストシーンで役所広司が泣き笑いだけで表現している。
本作はフィクションだが、平山の人生の好転を祈らずにはいられない名演技だった。
全223件中、141~160件目を表示