PERFECT DAYSのレビュー・感想・評価
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何気ない生活って楽しいんだ
トイレ掃除を職業とする一人のおじさん、平山のなんてことのない日常を描いた作品。大きな事件に巻き込まれたり、ドラマチックな状況に平山が巻き込まれて何かをするか、というとそうではなく、ただただ生活をじっくり見るという作品だ。
そう聞くと全く面白くなさそうに聞こえるかもしれない。実際平山の生活は、毎日同じようでルーティンのように見える。それでもなんだか面白い、という感想にさせるのがこの映画だ。
注目すべき点の一つは「音」だろう。カセットテープがキーになっている(教養がなくて私はほとんど知らなかった)一方で、生活のシーンではほぼBGMがない。BGMの代わりに彩り豊かな生活音が心地よい。平山が目を覚ませる竹箒で掃く音、霧吹きで植物に水をやる音、髭剃り、ハサミ、歯磨き、自販機のコーヒーが出る音、トイレを掃除する音、カメラのフィルムを出し入れする音、やかんを置く音や救急車の音などもアクセントになっていた。
もう一つは「表情」だ。平山はほとんど声を出すことがない。その代わりに豊かな表情を見せる。いろいろな種類の笑いを見せる。困った顔や怒った顔、泣きそうな顔も見せる。(役所広司の表情を見ているとトムハンクスの表情豊かな演技を思い出した。) ニーナ・シモンのFeeling GoodがBGMに流れるラストの平山の表情は圧巻だ。
終盤に説明的に出てくる木漏れ日がこの映画の、いや私たちの生活のメタファーになっていると思う。一見いつも同じような一つのものに見えても、その一瞬一瞬で違う木漏れ日なのだ。
大人になって落ち着いた私たちの生活も、毎日同じようにみえることもある、でもそれは実は一つ一つ違っているのだ。一つ一つの人とのやりとりや、細かな変化、それは十分面白く楽しいものなのだ。
丁寧な生活
私が将来したい生活そのまんまだったな
ただこれは男がやってるから感じられる渋さであり、女(オバサン)がこれをやると哀愁漂って閉まってしょうがない。
これ最後の涙って習慣的な生活に満足だと思わせながら日々は変わりゆき人間関係においての悲しみやトイレ掃除という職業、孤独な人生が結局は本人も嫌気がさしていて爆発したってことなの?
結局人を満たせるのは他人だな
平凡な日常の繰り返しこそ美しい人生の瞬間がある
美しい。とにかく人生は、生きている事は、貴重で美しいと感じさせてくれる作品だった。
毎日の単調な生活の繰り返しは、決して単調ではなく、木漏れ日のように一つとして同じ瞬間はないのだという事。誰しもが誰かに必要とされているのだという事。優しい。とにかく優しい。
人生を生きる中で、傷ついた事、喜んだこと、全ては今を生きる上で、愛しい記憶の集積だということ。
時には深い悲しみに襲われたとしても、全ては夜明けの朝日につながっている。劇中の音楽が絶妙。
やっぱり1970年代の音楽などの全ての芸術は脈々と今につながっているんだなぁ。偉大なる70年代。
ギクシャクした現代よりはるかに視野が広いし深い。
劇場音声トラブルがあったけど
立川髙島屋シネマで鑑賞。お昼の回が機材トラブルでまさかの中止となり、時間をつぶして15:40の回を観ました。主人公の平山(役所広司)は公衆トイレの清掃を生業としています。質素なルーティンの中で、というよりこのルーティンこそが彼の最も望んだもので、時折空を、もしくは木漏れ日を見上げる眼差しは恍惚にさえ映る。同じことの繰り返しが倍音のように果てしなく広がって、観るものを引き付ける。わずかだけど確かに繋がっている人とのやり取りが、お互いを支えて、人生を豊かにする。
ただ彼は聖人ではない。途中、突然辞めた同僚の穴を埋める為、疲れ、苛立ち、怒りを吐きだしたりします。個人的には、あのエピソードに同じ肉体労働者としてグッと親近感を覚えました。また、今の格差社会の底辺で暮らすものの危うさも垣間見せている。ちょっとしたことで、今の生活が崩れ落ち『ダニエル・ブレイク』に、なるかもしれないということも感じさせてくれた気がします。
中盤から後半にかけて15分くらいだろうか、突然音が消えた。劇場の音声トラブルだったのだが、もう私たち観客は、いつもの移動中に平山のカセットから流れているであろう最高な音楽、居酒屋のおやじのセリフ等もすべて想像できるので、ほとんど違和感がなく、逆にこの方が良いのではとさえ思えた。唯一偶然の上映回を共有している観客皆と、一体感があったような気さえしたのは私だけであろうか。
ルー・リードの曲が由来であろうが、本映画の題名が「シンプル・ライフ」ではなく「パーフェクト・デイズ」という、慈しみと有限さを併せ持っているというのが何とも良くて、パーフェクトだなぁと。ふと何度も思い返す映画の一つとなりました。
裕福な人生を捨てた男の物語
感想をまとめるのが難しく、日常のささやかな積み重ねに感動したとしか言えないので、平山さんの背景について考察します。
読書好きなところや人生に対して孤独な哲学を持っているところからかなりのインテリであり、また60-70年代のロックが好みなところから若い頃はそれなりに人生を謳歌していたことことが読み取れます。
しかし、作中で平山さんの背景に迫るシーンは何といっても妹との対面のシーンでしょう。
妹が持ってきた平山さんの好物である菓子折りは手提げ袋まで専用のしっかりとしたもので、乗ってきた車を運転しているのは旦那かと思いきや運転手です。(スタッフロールにkeiko's driverとありました)
このことから、平山さんはかなりの裕福な出であることがわかります。
直前のシーンでニコに対して「世界は繋がっているようで繋がっていない世界がある」「(妹の)世界と自分の世界は違う」と言っていますが、老人ホームにいる認知症の父親に対するやり取りから見ても、裕福な世界(父親と妹の世界)を拒絶して今の暮らしをしているということです。
つまり、なるべくしてなった人生ではなく、選択した上での人生ということになります。
裕福な世界を捨てた平山さんの世界は何を大切にしているのでしょうか?
作中の最後に木漏れ日についての解説がありましたが、その解説に沿うと、平山さんはおそらく日常の中の"良い"と思える瞬間を大切にしているのでしょう。
散歩をしている人には分かると思いますが、毎日同じ道を通っていても花が咲いていたり鳥が飛んでいたり、魚が群れで泳いでいたりと、たとえ街の道でも結構違いがあるものです。
作品を見返すと木漏れ日を見て微笑むシーンや、ほぼ毎日撮っている友達の木の写真、トイレを使う人達への満足げな笑みなど、同じように見えて違う風景を平山さんは見ているのかもしれません。
そう考えると毎日を惰性で生きているのではなく、常に瞬間を捉えながら生きているとも言えるのではないかと思います。
久々に頭からジーンとなる、本当に良い作品でした。
余談ですが、おそらく平山さんの居住地は江東区の亀戸ですね。作中に箒がけされている神社で亀戸七福神という旗がありモロバレですが、スカイツリーのあの距離感は墨田区民もしくは江東区民には馴染み深い大きさでした。
平山さんの退勤後のルーティンは亀戸から近場の銭湯に向かい、桜橋を通り抜けて浅草のアーケード街で飲んで帰るというもので、自転車で20-30分くらいかければ可能です。
亀戸からなら駒形橋を使って浅草まで行けば近いような気もしますが、映画的な都合を無視すると、平山さんが桜橋からの風景が好きということでしょうか。
隅田川沿いに住んでいればお気に入りの橋は出来るものなので、自転車の行き帰りも楽しみの一部と捉えれば生活圏内といえます。
退勤後はなんだか見慣れた風景ばかりで、この銭湯、絶対に浸かったことある…!と1人感動していたのは内緒です。
10段階で言うと9(タイトルは映画の台詞からです)
タイトルは映画の台詞からです
繰り返す毎日
真面目に働き
酒にも溺れず
風呂に気持ちよく浸かる
眠る際の夢が良い
仕方がなくこの生活をしている雰囲気は無・・・悲壮感が無い
ただ、1人で生きていくのは少しだけ寂しい気持ちはありそうだ
でもこの生活でそこそこ満足している気がする
ルーチンで埋もれていく日々が朝日とともに生き生きとする表情を映す彼が限りなく羨ましい
ずっと観ていられる
毎日寝る前に観たい作品
役所広司の空気感に気持ちよく漂う作品
良いものを観ました
話す言葉数は少なかったけれど、表情はとても芳醇だった
ヴィム・ヴェンダーズ監督の作品は「パリ・テキサス」に続いて2作品目。
カンヌ金獅子賞受賞作の「パリ・テキサス」の日本公開は1985年だから、僕は19歳、予備校生の頃になる。背伸びをして見た「パリ・テキサス」は、さっぱり良さがわからなかったけれど、ほぼ40年経って見たこの映画は染み入るように伝わってくる映画だった。
役所広司は、この映画でカンヌ最優秀男優賞を受賞した。彼が演じた「平山」という男は確かに存在する、実在する人物のような存在感があった。平山の生い立ちやどうして一人暮らしをしているのか、なぜ今の仕事をしているのか、などはほとんど描かれないまま、彼の日常は存在するように感じた。
私が、平山ともしすれ違うとしたら、どんなシチュエーションなのかわからないけれど、不思議な魅力を漂わせる人物として、気づくことができる大人でありたいなあと思った。
映画は平山の日常を描く。何気ない。朝から始まるルーティーンに基づいた1日を。道を掃く音で目覚め、歯磨きし、BOSSのカフェオレを買い、50年前のロックをカセットから流しながら仕事場へ向かう。
まるで変わらないように映る日々。
もちろん、まるで変わらないわけでもなく、登場人物たちが平山の日常に、「客」として現れていく。変わらない日常のパーツの時もあれば、日常の1日1日をユニークなものとして彩る光源として登場する。
映画のエンドクレジットで紹介される言葉「木漏れ日」。この言葉が日本ならではのユニークなイメージを表現する言葉とは知らなかったが、その言葉の説明として「ほんの一瞬存在する」。一瞬一瞬の光が連なる「木漏れ日」。
平山はその一瞬一瞬の光の連なりを愛していた。
平凡な木々のゆらめきの中にその一瞬の美しさを見つけ、楽しみ、愛した。
彼は同様の美しさを彼の平凡な、変わらない、ルーティーンのような生活の中にきらめく一瞬一瞬の美しさを見つけ、楽しみ、愛しているように感じた。
平山はとても幸せそうに見えた。
持ち物は少なかったけれど、足りないものはなく。
話す言葉数は少なかったけれど、表情はとても芳醇だった。
いい映画だと思った。
40年も経つのだから。
こういった大人の映画も味わるようになったのかもしれないと思った。
さて、一人暮らしの平山の日常だが、ふと思ったことがあった。
彼は料理をしない。
朝食はBOSSのカフェオレ、昼食はサンドイッチとパック牛乳。
夕食は千ベロだろうか。つまみと酎ハイ?(泡がなかったから水割りかな?)
外食というか、自炊ではない。
上手にやりくりをしようとすれば、自炊しないのかなと思いつつ。
そういえば、カップ麺で済ました夕食があったっけ。
ヨーロッパ仕様の日本向け製品
何だろう?日本が舞台なのにフランス映画やドイツ映画みたいなのに驚く。監督ドイツ人が日本を舞台に撮ったらこうなるのかという秀逸な作品ですね。只、役所さんの主役の様に日本で日本人はなれない。そんな生活出来るかと憧れて観終わった。
日本人監督が撮ったらもっと陰湿でカセットテープに素敵な曲がないかな?もっと汚くてトイレなんか撮せないのにと思った。
Perfect days
妹とのやり取りから、ヒラヤマの複雑な家庭環境や過去のトラウマが垣間見え、また、ラストシーンの表情から、毎日単純にハッピーなのではなく、色んな感情を抱えていることが分かる。
それでも、部屋にTVさえ置かない質素な暮らしだが、その仕事ぶりや、暮しぶりから、自分の価値観をしっかり持っていて、自分がどうすれば一番幸せかを知っている。そして、自分で自分の幸せな生き方をコントロール出来ている。
また、ヒラヤマは、何処からか来て、今のアパートに独りで暮らしているが、仕事、銭湯、居酒屋、古本屋、スナックと、人との繋がりを持っていて、決して孤独ではない。
自分は、最近、老人性の鬱症状があるなぁと自覚してるが、少し生き方のヒントを見つけた様な気がする。
何よりも、毎日のルーティンの様に繰り返される生活の中で、朝、アパートのドアを出る時に、息を吸って、空を見上げる表情が好きだ。毎日に希望がある。
こんななふうに生きていけたなら…
ヴィム・ベンダース監督と言えば昔池袋にあったアムラックスシアターでトヨタとの匂いを感じるロードムービーを数十年前に見て以来。地元での公開予定なく、大都市へ出掛けた際に鑑賞できた。
TTTの活動啓蒙のためのプロパガンダの側面を持つということで、渋谷の清掃作業員のリアルではなくあくまでもリアルっぽさを描いた、映画のキャッチコピーのような大人のファンタジーとも言えなくもないが、とにかく俳優陣、特に主演の役所広司さんが丁寧に演じる平山の表情、呼吸、感情の揺れの一つ一つに魅了された。
無口な平山だが、後輩や馴染みの小料理屋の女将、家出してきた姪など、描かれない過去から自身が選んだ最低限の人間との交わりの中で、日々変わる木漏れ日のように日常が揺らぐ。
特に姪との交流では、「家出をするならおじさんの所と決めてた」と慕われ、仕事場や銭湯に連れていくなど自分の住む世界を案内はするが、それ以上の慕情は決して受け入れない。姪の一緒に海を見に行きたいとの願いに「今度は今度」と答える平山が切ない。
平山から連絡を受け、運転手付きの高級車で姪を迎えに来た妹と対峙する場面。兄の暮らしへの心配と呵責の混ざった妹の言葉から、かつての平山の住んでいた世界が想像される。平山はここでも葛藤は見せまいとするが、笑顔で見送る涙に心が揺さぶられる。
スマホなどのテクノロジーとは無縁の暮らし。時折現れる東京スカイツリーに象徴される商業主義と対極にある銭湯やカメラ屋、居酒屋、古本屋などが平山の住む世界である。ラストシーンのなんとも言えない表情に、彼の愛する世界も併存する将来であればと思った。
2度目の鑑賞後の思い・・・あなたの生き方は?と問われれば答えは「No」
先ずは1回目の鑑賞後のレビュー
perfectDaysという映画を私なりに読み取ってみて・・・素直に感動はできなかった。
どうしてフォークナー?どうしてルーリード?どうしてアート作品然としたトイレ?
日常の一瞬に見いだせる美や人生のささやかな喜び、そのメイン素材にこれら小道具がどうにも微妙に作用している気がします。
フォークナー?京都の大学で出来の悪い英文学専攻の学生だった自分にとって、ジョイス、ナボコフ、ピンチョンとならんでunreadable(解読不能)な作家の代表だったフォークナー。「野生の棕櫚」?読みましたよ、もちろん翻訳文庫本で。(原書で読むほど頭も時間もなかったです。あ、ついでに金もね)
そういうことですか。事件らしい事件も起こらない、主人公の淡々とした日常描写が連なるこの映画、実は「野生の棕櫚」で並行して描かれた2つの物語を平山という一人の人物の物語に再構築したものなのか。
モノクロームの映像から伝わってくる不穏な感じはハリーとシャーロットの物語とリンクし、平山の凄惨な過去を想起させる。
そして、現在の平山の淡々とルーティンをこなす日々の描写。それはまさに過去を償う囚人の生活。冒頭のHouse of the Rising Sunは足にball and chainの囚人の歌であり、Lou ReedのPerfect Dayも執拗に過去の行いの清算をリフレインして終わる曲。家出した姪っ子をかくまい数日を共にして、結局母親に引き渡すエピソードは、「野生の棕櫚」のもう一人の主人公である囚人が、洪水から妊婦を助ける物語と重なり・・。テレビもスマホもない部屋は囚人が暮らす監獄の部屋のイメージ。けれど、本と音楽に守られた平山にとって、その部屋は監獄でもあるけれど唯一の安寧を得られる温室でもある。
「野生の棕櫚」の囚人が、一旦得られそうになった自由を捨て、あえて監獄に戻ったように、平山もまた壁のない監獄(温室)での生活をこれからも続けていく。平山がラストシーンで流した涙、それは凄惨な過去を「別の世界」でのことと切り離し、今の新しい世界での生活にようやく平安を見いだせた喜びから流した涙のように見えました。
・・・とまあ、フォークナーの作品やら劇中に平山がかける音楽やら、あれこれ周到に配置された仕掛けをひっくるめて、Perfect Daysという映画を読み解いてみて・・・
でもやっぱり素直に感動はできなかった。
だってね、フォークナーとルーリードで武装した役所広司の「ただものでない感」。人生のささやかな、本当の喜び、豊かさ、美しさ・・・それが、選ばれた特別な人種のものになってしまう感じ。既にピカピカに見えるトイレを更に磨き上げる平山は、引退した美学部教授が骨董の青磁を愛でているようにも見えてしまう。
現代アートのようなトイレ?60年代70年代を想起させる文学作品や音楽を取り上げるなら、まさにその時代全盛を誇った(?)落書きだらけのトイレをなぜ登場させない?人々の欲望や哀しみ、得体のしれない熱情が書きつけられたトイレの落書きがなぜ映し出されない?私の暮らす街には今だそんな落書きだらけの公衆トイレがありますよ、東京にだってまだあるんでしょ?
写真現像屋の親父・・・柴田元幸氏ですよね。東大名誉教授、米文学研究者にしてMason &Dixonなど多くの英米文学作品の翻訳家。ここで彼を写真屋の親父に起用する理由って?
フォークナーのパスティーシュとしてのサイン?
そんなこんなで、皆さんそれなりに感動できる映画にしております、でも隠し味が本当に判る人にはもっと、ね・・・
というのが鼻についてどうしても感動できなかった。何より、歴史のひずみや世の中の矛盾が多くの人々の血を流させている現代の事象を己の「関心領域」の外に置き、監獄=温室に引きこもっている主人公のその閉塞性にどうしてももどかしさを感じてしまった。
社会から孤立したうらぶれた老掃除夫が、トイレの落書きに書きなぐられた様々な言葉に自分の過去を重ねながら、それを消していく行為を通して少しずつ世の中に、未来に向きあう自分を取り戻していく、そんな物語なら感動できたかも、なんて思ってしまう自分はつくづくひねくれ者なのかな・・・
あ、平山さん、あなたにぴったりの曲、I Am A Rock なんてどう?
そして2回目の鑑賞後の今の思い・・・
もし、ヴェンダース監督が、この映画を通して私たちそれぞれに、「で、平山のperfect daysは、あなたの生き方としてあり?」と問うているなら、答えはやっぱりNoです。
「世の中には繋がっているようで繋がっていない、別の世界がある」という平山さんの言葉、それの言い換えに過ぎないのだけどやっぱり私は「世の中は繋がっていないようで繋がっている世界でできている」と、特にニコ、あなたのような若い人に言いたい。「変わらないはずがない」と平山さんが言う「変わる」とは「過去と現在の分断」ではなく「過去と現在、そして未来を繋ぐ」意味にとらえたい。テレビや新聞を通して見る世の中の様々な出来事はどうしても自分の関心領域を侵食し、それ故に心をざわつかせたりオロオロしたり・・・そのくせ、大した行動に出れるわけでもなく(せいぜいやや顔をうつむき加減にしながら、反核や反戦のデモに恐る恐る参加したり、ほんのわずかな小銭を募金箱に入れたり・・・)。選びたい候補者がいないなどと言いながら選挙会場に足を運ぶけど、それは要するに選ぶ明確なビジョンを自分自身が持ち合わせていないことに他ならないわけで・・・
宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の中の一節、
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
だけを実践するような私の日々です・・・やれやれ。
そんな私には、平山さんのような生き方はできない。「今は今、今度は今度」と言い切れず、「今に引きずる過去は、そのまま未来に繋がっていく」し、木漏れ日の美しさは、スナップショットに切り取った一瞬だけでなく、むしろ時の流れの中、光や色の移ろいの中に見出したい。(まあ、さすがに部屋はもう少し整頓したいですけど・・・あ、作りかけのガンプラのパーツどこいった?)
私自身の生き方を見つめ直した上で、あえてこの映画の評価を2度目の鑑賞後は★一つに下げます。
皆さんはどうなのかしら・・・
解釈難しくても楽しい世界
安っぽく役所さんの人生を振り返らないので解釈は色々だと思います。わたしは、エンディングのアップの長回しで、笑っているようにも、泣いているようにも、疲れているようにも、充実しているようにも、明日が楽しみだと言ってるようにも、いかようにも取れる役所さんの顔がすべてのような気がしました。
少なくても平山はこれまでの人生をしっかり咀嚼して、今の今を生きていると思いました。つまりは充実しているということです。キャッチコピーの通りです。憧れます。
映画はとても面白かったです。田舎の映画館にあんなに客がいるとは思いませんでした。どうでもいいことを考えながら観ていたので備忘録としていくつか書いておきます。
同じ場面をセリフ少なくして何度も何度も繰り返す演出、かなり前ですが小林政広監督の「愛の予感」を思い出しました。
あちこちにキャスティングの面白さがありました。日本人監督ならこうはならないかなと。石川さゆりさんは驚きました。川崎ゆり子さん出てたんですね。解説読むまでわかりませんでした。イメージ変わりましたね。
浅草の地下街、桜橋、隅田川など、わたしは18から24まであの辺りに住んでいたので懐かしく、ただ実際の平山の移動にはいくらか無理あるなと思いました。
三浦友和さんでやや無理やりまとめたような気もしましたが「わからないこと、世の中にはまだまだたくさんあるよ。でも終わりだ」にはグッときました。
大都会の片隅、木漏れ日の中で織成すひと時~ 人の出会いと温もりを感じた!
監督:ヴィム・ヴェンダース作品
彼の作品は『パリ、テキサス』『ベルリン・天使の詩』『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』『ミリオンダラー・ホテル』とかで有名なのかな。どの作品も心地よくて一度は目を閉じて寝るかも~www。
今日は「PERFECT DAYS」を観に行ったぞ。
こう言う作風は本当にいつ見ても彼らしいなぁの一言。
主人公 平山、THE TOKYO TOILETの寡黙な清掃作業員:(役:役所広司さん)。
初っ端から都会の公衆トイレ清掃ってヤツをこれでもか~って位見せてくれる。
ちょっとこのシーンは長いかなと思う。人物像を現わすには必要かもだけども。
清掃車内にかかる懐かしの洋楽がメッチャ心地いいなぁ。そう思って聴きいった方も多いだろう。車の停止やドアの開閉で突如寸断されるメロディに、もっと聴きたいなときっと思う事でしょう。
今時見かけないわ~カーステ。音楽アルバムカセット持ってるけどテープ延び延びやで。
絶対SDとかだと思うけどな、やっぱテープのアナログ音質が受けるのかな。
カメラも同じくでデジカメ多い中、銀塩写真て・・・今時現像店が分かんねぇ。
裏ブタ開けてパトロ-ネからのフィルム供給音、懐かしいナ。
音楽も写真もその時代の味ってやつがそこで現わされていると思う。
トイレ清掃中に見かけた3マス並べ?の落書きメモ回し。
相手は?良く見かけるベンチに腰掛けのOLさんなのかな。それとも女子高生?。メモのやり取りが続いていくって事や、カセット音楽を気に入ってくれた彼女や、樹木の根の元で見つけた新しい植物や、遠くで軽く挨拶してくれるお坊さんなど、木漏れ日の中で覗く彼の周囲の人々の心がほんのりと温かい。そう感じます。
叔父さんと慕い突如やってくる家出の姪。念のため妹に連絡して迎えに来させるが、相手は凄い裕福そう。この対比表現が生む見えない境目がこの作品のテーマなのかと感じます。
TT兄弟じゃないけどw(“T”多い)-THE TOKYO TOILET-この清掃作業着は誇れるものではないの?だからこの作品があるんでしょう?そう思うんだな。
誰かが汚れた後を綺麗にする、だから明日が(次が)ある!そう思うんだよネ。
残念な所を一点あげるなら、多分 平山は真面目で独身だけど、居酒屋の女将(役:石川さゆりさん)に好意があった様なんだな。最終的に勘違いだったけども抱きついてた元夫との姿を見て 急にその場から去って、あんなにタバコに酒に急に溺れるかね?あれは有り得んよと思う。
その後 気にして追いかけてきた元夫が まさかの初対面に病名告白。かつ元女房をヨロシクと言うのだ。展開流れが今まで各駅停車でのんびりと旅してた気分だったのに、最後きて急に新幹線に乗って最終目的地に着いた~って感じしたわ。それとラストカットの運転席の場面で真っ直ぐ走っている車なのにハンドルに手を掛けて回しすぎだよと思うw(細かく見ててゴメン)。そこがとっても残念!
「君の名は。」かと思うぐらいとても綺麗な都会の朝焼けシーン。その街中をゆっくりと清掃車がカセット音楽を奏でながら 今日に、明日に ほんのりと温かい心に満たされた彼が走って行く~。
興味ある方は 是非劇場へどうぞ!
成熟かおとぎ話か
『PERFECT DAYS』成熟した社会のおとぎ話でしょうか。ヴィム・ベンダースの一つの提案、年寄りはこの映画を見ると自分の今後はこれでいいやと思うのですが、若い人には物足りないでしょうね。消費は美徳という時代を経験して到達した生活ですから。
高度成長期、バブルそして崩壊
高度成長期、バブル期を通り過ぎて行き着いたところでしょうか。
主人公は、映画では50代の独身のように思われ。
東京の下町の風呂なしアパートに住み。
公園のトイレ清掃で生計を立てている。
これといってお金のかかる趣味があるわけではなく。
室内には、丁寧に育てている観葉植物。
仕事の後は、銭湯でさっぱりして、浅草あたりの安酒屋で一杯。
自宅に戻り、おもに部屋では読書。
まるで、現代の仙人の趣。
年齢からして、日本経済が、イケイケのころも知っているはず。
「24時間戦えますか」なんて時代もありましたね。
自分にとって大切なものとは
そう、この主人公にとっては。
このささやかな生活で、十分幸福なんだと。
人それぞれ器というものがあって。
この主人公は、幸福の器がこの映画の大きさなんだと。
人間ある程度年齢が行けば、ある程度見えててくるのですが。
幸福と感じる器の大きさが、そんなに大きくないほうが、人間をやれるよなと。
この映画を見てるとそう感じさせます。
ヴィム・ヴェンダースの結論でもあるかのようです。
人間一人生きてゆくのには、そんなにお金はかからない。
お金のかけ方にもよりますが。
この主人公のように、幸福感の器はそんなに大きくなく。
そして、お金がなくても創造的に生活できる工夫ができればですが。
ヴィム・ベンダースは、「お金がなくても、幸せになれるよ」と言っているかのようです。
東京の下町とトイレ掃除
ヴィム・ベンダースはこの2つを選択したようです。
東京下町の風景が、なにか刺さるものがあったのでしょうね。
ただ、これはあくまで映画でのお話。
いわゆる、下町幻想でしょうか。
実際には、下町は、首都圏以外から流入した新住民の街。
かつての人情などあるわけもなく。
意外と、殺伐としていて住みにくいところなんですが。
あと公園のトイレ掃除ですよね。
最新のオシャレな公衆トイレしか出てきませんが。
確かに、日本の公衆トイレはかなりキレイになりました。
だけど、この主人公の作業するようなキレイなところばかりでないのが現実。
特に、駅のトイレの掃除などは、かなり心が折れる場面に遭遇するのですが。
このあたりが、現代のおとぎ話でしょうか。
ほぼストレスフリーな生活
主人公のように、収入は少ないが。
人と多く交わることもなく、自分のペースで仕事ができて。
贅沢をしなければ、自らが満足できる生活を送れる。
そんな生き方を提案してるんだろうな。
まあ、それも悪くないけど。
やはり、年寄りになればそうならざる負えないと思うのです。
それでいて、昭和の活気を知っている者にとっては。
あの消費は美徳とまでは言いませんが。
あのエネルギッシュな時代が懐かしいのも事実。
さあ、あなたはどんな人生を送りますか。
すべては、アナタ次第です。
こんどはこんど、いまはいま
太宰治の『人間失格』は「ただ、一さいは過ぎて行きます」という言葉で終わるけれども、その《過ぎていく一切》に光を当て愛おしむこと、その大切さに気づかせてくれるような作品であった。
トイレ清掃の仕事をしている平山氏(演:役所広司)の日常を追った作品、と、言ってしまえばそれだけの映画なのに、エンドロールが流れた後の、感動の深さ。
ドキュメンタリータッチの映像はちょっと是枝裕和監督っぽいかも知れない。作品のテイストは『海街diary』に似ていると思った。だから『海街…』で寝ちゃう人は観ない方がいい(笑)。
観る前は、役所広司主演でちょっと似たようなシチュエーションの作品『すばらしき世界』(2020年)に似た内容かと思っていた。しかしこの『PERFECT…』は想像を超えていた。
平山氏の部屋にはテレビもパソコンもスマホもない。新聞も購読していなさそう。車の中でラジオも聞かない。唯一の情報機器が会社支給らしいガラケー。
音楽はもっぱら古いカセットテープだ。Spotifyなんぞもちろん知らない。写真が趣味だが、持っているのはフィルムカメラだ。彼の身の回りにあるのは皆《失われゆくもの》たちだ。
しかし、そんな彼の暮らしは、何故「美しい」のだろうか。
映画館を出たあと、世界が少し変わって見える。そんな作品に、すごく久しぶりに出会えた。
【蛇足】
①脇役に「タカシ」という名前を安直につけるのはやめてほしい
②平山氏はなぜ寝るときカーテンを閉めないのだろう。
→朝の明るさで目覚めたいから?
③パンフレット売り切れだった、残念!
④カセットテープ巻き戻す場面で笑った。
⑤本を読みながら寝落ちするのは私も。
でもあんなに目覚めはよくない。夜中に一回目が覚めるし。
⑥銭湯の場面。役所広司の身体は年相応に衰えているみたい。
胸まわりの筋肉が落ちていて、意外とみすぼらしい。これも演出か?
⑦あれは研ナオコだったのね!
⑧昼休みとか同じ時間に同じ場所で同じ人に会うのは、あるある。
でも親しくなるわけではない。
⑨幸田文の『木』は持ってたけど数年前にブックオフに売った。
映画の醍醐味…
カンヌ受賞という前評判はあったものの、できる限り心をピュアにして、鑑賞した感想を書き出してみる。
前半は役所広司という「大俳優」が演じているのに、まるでドキュメンタリーを観ているような錯覚を覚えた。
朝目覚め、身支度を整え、小さな器に植えた楓の世話を終えると、車に乗り込み、淡々とトイレ清掃に向き合い、仕事後の銭湯、飲み屋、そして簡素な部屋で眠りにつくまでの読書で一日を終える。
そしてまた新しい朝を迎え…
ただこの繰り返しである日常に、ほんの小さな、些細な出来事が交わることで、人としての尊厳や他者への思い、そして「自分が自分である」という存在を直接的な言葉でなく、スクリーンに投影される主人公の表情や、まるで絵画のような色鮮やかで多彩な景色(風景)から、心が満ち足りるほど感じることができた。
正にこれが映画の醍醐味であり、映画の素晴らしさであることを、改めて思い知ることが出来た作品であった。
この作品のもう一つの見どころは、その映像美であると思う。「綺麗」という言葉では表現できないほどの感動を覚え、それはふと立ち寄った美術館で、立ちすくむくらい見入ってしまう絵画に出会ったようである。
久しぶりに「映画の醍醐味」を感じる作品に出会えたことに感謝。
美しいが、危うい
政治とか経済とか世界情勢とか社会とかと一切隔絶した、一種の晴耕雨読の隠遁生活を描いた作品。
出来事は主人公平山の周りを通り過ぎていく。
平山氏は清掃会社に所属しているので、会社への業務日報なり、定時連絡なり、給与の振り込みなりがあるはずだが、そこも描かれない。
平山氏の実家は裕福な資産家のようだが、資産には興味がないらしく、妹から実家に戻るように提案されても、拒否する。
家族も財産も捨てた、一種の仙人みたいな生活である。
会社員人生とか長いと、煩わしさから解放されたこういう生活に憧れる気持ちがわからないでもない。美しいとも感じる。
でも、交差点で不注意なドライバーが信号無視して突っ込でくるもらい事故だって、現実にはあるわけじゃないか。そう思ってしまう。
小津安二郎を敬愛するのであればカメラはパンを一切しないでほしかったな。
繋がっていなくても、重なり合って生きている
この映画を言葉で表現するのは難しい。表現しきれない何かがある。敢えて言うなら・・・
都会の片隅で生きる一人の善き人の日常を、美しく、純粋に切り取って見せる。ただそれだけなのに、人生とは何か、幸福とは何かについて考えさせられる、ような作品。という感じだろうか。
※キャスティングと音楽の選曲のセンスが凄い!サントラ欲しい。
※年末年始に1回ずつ鑑賞。2024年4月堪らず3回目鑑賞。
■1回目(2023年末)
福山雅治がラジオで「奇跡の映画」と紹介していたのを聞き、年の締めとして映画館へふらっと行って観た。カンヌで役所広司が主演男優賞をとったトイレ清掃員の映画、という事前知識しかない状態での鑑賞。
主人公の平山は、毎日決まった時間に起き、布団を畳み、髭を剃り、歯を磨き、植物に水をやり、空を見上げ、缶コーヒーBOSSを買い、車に乗ってトイレ掃除の仕事に向かう。仕事場では一切の無駄口をたたかず、ムダのない動きでトイレをきれいに磨き上げ、帰宅したら銭湯で一番風呂、浅草地下街で晩酌、読書して床に就く。まるで修行僧のように寡黙にルーティンをこなす日々。
前半は、余計な演出も台詞も音もなく、ゆるい流れで特に大きなイベントも発生しないので、色々と想像を巡らしながら観ることになる(研ナオコにはすぐ気がついたw)。
中盤を過ぎて、「今度は今度、今は今」という言葉を聞いたとき「脚下照顧」という禅語が思い浮かぶ。ああ、やはりこれは、外国人監督が理想の日本人像(令和の東京という俗世に生きる禅僧)を描いた話なのかな・・美しい映像と抜群のセンスの選曲のオシャレなアート映画なのかな・・・と見続けていると・・・
妹と姪との別れのシーンで号泣する平山に壮絶な過去が垣間見え。
ラストシーンで流れる「Feeling Good」に合わせて悲しみ、後悔、喜びといった色々な感情がない交ぜになって泣く役所広司を観て、自分も内側からこみ上げてくるものが・・・
何か凄いものを観た!という感じで呆然としてしばらく動けなかった。
恥ずかしながら、Wim Wenders監督も、「PERFECT DAY」や「Feeling Good」の歌詞もよく知らずに観た1回目。一旦映画館を出た後、戻ってパンフレットを購入。40代中盤まで生きてきて、映画のパンフを購入したのはこれが2作品目。
映画の余韻に浸りながら年を越した。
■2回目(2024年始)
あの場面の台詞の意味は何だったのか?あの映像の意味は?平山の過去に何があった?色々考えながら、これはもう一度観なければ、と年始に再び映画館へ。
1回目は観ているようで観ていなかったこと、気づかなかったことに色々と気づく。
平山は、微笑む。自分を取り巻く人々、街並み、木々に。そして光と影を愛する。トイレの壁に映る木々の影、木漏れ日の下で踊るホームレスを観て幸せそうな笑みを浮かべる。
と思いきや、同僚が突然やめて怒りの感情をむき出しにする。
不意にキスされた後、銭湯でニヤけて湯につかる。
ヤケ酒も飲む。吸えないたばこも吸う。でも、最後は微笑みながら帰宅する。
彼は禅僧なんかじゃない。生身の人間だ。
禅僧のようなルーティン生活をしているのは、つらい過去や孤独に飲み込まれるのを防ぐためではないか?
リズム。一定のリズムを刻み続けるように生きることで今に集中できる(音楽やダンスのように)。そんなことが頭をよぎる。
最後のシーン。「Feeling Good」の歌詞の意味をわかってから観た2度目。役所広司の演技は、顔面だけで平山のこれまでの人生、そして今、これからを表現しているように思えて、泣いてしまった。
■3回目(2024年4月)
3回目の鑑賞で、東京スカイツリーを見上げる構図、複数階層になった首都高を見下ろす構図が何度も出てくることに気づいた。これは平山の視点ではない。Wenders監督の視点だ。監督は、愛する今の東京の街と平山(役所広司)の日常をたった16日という短期間で、瞬間冷凍のように記録し、封印したのだ!この映画は、もう二度と同じように撮れない「奇跡の映画」なのだということを思い知らされた。そして、ラストシーンの朝日の光は、平山のPERFECTな日々がこれからも続くことを示す、人生賛歌の光なのだと私は感じ取った。
■繋がっていなくても、重なり合って生きている
「この世界は、繋がっているように見えて、繋がっていない世界がいくつもある」と言う平山に対して、ニコは「私はどちら側の世界にいるの?(おじさん側の世界って言って欲しい)」と聞く。平山は答えない。
最初、自分(平山)が住む世界は、多くの人が住む世界と違うという意味だと思ったが、回を重ねて観ると、それは多分違うと思った。今、生きている一人一人が、繋がっているように見えて、他人と繋がっていない世界を生きている(みんな孤独)という意味ではないか。でも、影踏みで平山が言った「重なって濃くなる」という言葉から、繋がっていなくても、ときどき重なり合うことで、人と人は関わり合い、生きているんだ、という人生観を平山が持っていると私は思う。
観る人によって、いろんな解釈ができる映画。
そして、孤独を抱えながらも、毎日を新しい気持ちで、生きようと思える映画。
朝、空を見上げるのがしばらく習慣になりそう。
概ね良いかと思いますが…
絶対に日本人ではとれない感覚の映画かと
観る人の年齢や住んでいる環境、東京か田舎か
また人生観で評価は180度変わるかと思います。
わたしは自販機での飲み物を毎日買うシーン。
姪の女性がでてくるシーン、妹さんとの会話シーンは良いですね。
ただ、後半の三浦友和さんがでてる飲み屋から
橋での会話シーンは賛否がわかれるかと思いますね。
あそこから映画がかわりました。
私は、ない方が良かったかとも思いますが
どうでしょう?
ただ、絶対に見たほうがいい映画かと思いますね。
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