PERFECT DAYSのレビュー・感想・評価
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ルーティンとイレギュラー
東京の綺麗な公衆トイレを映して、綺麗さをアピールしている。体感ははもうちょい汚いしあそこまで掃除もしてなさそう。整然とした部屋にしても綺麗なものを映したかったのだろうか。
淡々とルーティンのような生活が繰り返されていく中で、人手不足で会社に電話して苛ついていたり、姪っ子がきて納戸みたいのところで寝たりと、イレギュラーと綺麗過ぎないところも少しばかり表現していた。
路傍の芽をちゃんと断って貰ってるのもパーフェクトって感じですね。
見終わって、そういや姪っ子がいたときの写真を見せてくれないやと気付いて監督に悪態をついた(心の中で)。
どうしてこういう生活をしているのかも垣間見え、元々がパーフェクトな家に生まれたけど今だってパーフェクトって事か、なんて思ったり。
わかる人にはわかる
初老の独身男毎日同じ行動するそれを追うように進む。しかし姪っ子が現れ妹が訪ねて来る辺りから変化が起きる。同僚たかしが退職二人ぶんの仕事をこなし電話で声を荒げる、口にはだせないが恋心を懐く居酒屋のママに男の影に意気消沈する。その男がママの元夫で先が短く宜しく頼むと言われて胸が高鳴る。何も起きないどころか劇的な展開に。あがたもりおの伴奏で石川さゆりが浅川マキの朝日あたる家を歌い、柴田元幸が愛想の無い写真館の親父で出演。この演出には驚いた。やはり只ぼーと見ていただけではわからない面白さがあるこれに気がつかない人はビム ベンダースの作品には関わらないほうが良いかも。
東京はどうしようもなく美しい
異邦人から見た東京はどうしようもなく美しい。
スカイツリーは電波塔である以上に圧倒的なオブジェとして、首都高は都心の大動脈である以上に無数のネオンが流れるサイバーパンクな大河として映る。無知な異邦人だからこそ、それらを生活の範疇を逸脱した無邪気な絶景として消費することができる。
東京を訪れたヴェルナー・ヘルツォークは「ここには撮るべきものは何もない」と言ってすぐさま帰国したそうだが、彼のそういう精神はとても健全だと思う。東京への憧憬というのは上述の通り、歴史的ないし政治的無責任からくるものなのだから。
他方、本作の監督であるヴィム・ヴェンダースは東京への無責任な思慕を表明して憚らない。小津安二郎の描いた「日本」の足跡を追ったドキュメンタリー映画『東京画』では、小津的なモチーフを現代日本の中に探していく中で食品サンプル工場やパチンコ屋のようなキッチュな(少なくとも小津的とは言い難い)要素に耽溺していた。
後年の「パチンコは禅だ」といった発言からもわかる通り、ヴィム・ヴェンダースが日本、ひいては東京に注ぐ眼差しはその土地に堆積する歴史や政治といったものを度外視している。パチンコが禅なわけないだろ、頭おかしいんじゃないのか。
さて、それでは本作の中ではどのような歴史や政治が無視されているのか。まずは言わずもがな、役所広司演じる平山のような男は少なくとも一般的な低賃金労働者とはいえないという点。大企業ご贔屓の現代建築家が設計した変な形のトイレをニコニコ顔で磨き続けるような男が本当に「一般的」なら日本はとっくに経済不況を脱しているはずだ。平山を通じて低賃金労働者を描くことは、現実に存在している彼らを透明化することに繋がりうる。
次いで撮影の舞台。亀戸付近に居を構えている平山は毎朝首都高を使って渋谷へ向かうわけだが、どう考えたって経費の無駄だ。渋谷で人手が要るなら幡ヶ谷や笹塚あたりから調達すればいい。あと、平山が毎日同じ持ち場で働いているというのも不思議だ。清掃業という人手不足の業界で、平山だけが異動を命じられることなく一律のルーティンを遂行できているというのはリアリティに欠ける。
墨田区近辺でも特にこれといった特徴のない電気湯に平山が足繁く通っているというのも正直よくわからないし、浅草地下街に人情味のある居酒屋が存在しているのも不可解だ(あそこは変な店しかないので)。
といった具合に、「現実の東京」を比較対象として本作を論じようとすると無数の粗が出てくる。
しかしそれ以上に俺は「異邦人から見た東京のどうしようもない美しさ」を容赦なく活写してみせたヴェンダースの身勝手さを評価したい。
俺は東京を愛好するあまり23区をほとんどくまなく自転車で走破しているため、おそらく並大抵の地方出身者よりは東京に詳しい。もちろん東京出身者よりは絶対に詳しい。東京が地元の人間はそもそも東京に憧憬とかないから。
その上で断言するが、23区は台東区、墨田区、江東区あたりの下町エリアが一番美しい。新宿区、渋谷区、港区といった、ザ・現代東京っぽいエリアも嫌いじゃないけど、総合的な美しさでいえば前者のほうがよっぽど優れている。東京タワーは絶対にスカイツリーには勝てない。
まあ、とにかく川なのだ。川がないと話にならない。神田川は河道掘削工事によって今や淫乱戦争もままならぬほど川底が深くなってしまったし、「春の小川」の渋谷川は暗渠と化して裏原キッズに踏んづけられている。川のどこがそんなにいいんだよ、という方は休日に自転車でも転がして荒川か多摩川の河川敷に躍り出てみたらいい。
次いで首都高も重要といえる。ビルの谷間を縫い、青空を駆ける光の川。異邦人にとってやはり首都高は特別な意味を持つ。俺ももちろん大好きだし、アンドレイ・タルコフスキーは『惑星ソラリス』の序盤で数分にもわたって首都高の映像を垂れ流している。
川と首都高。その両方を備えている墨田区近辺はパーフェクトな土地と言わざるを得ないだろう。
というわけで平山の生活圏を墨田区近辺に設定したヴェンダースは異邦人として非常に正しく東京を眼差せているといえる。平山が幾度となく通過する桜橋の美しさに敵う何かが新宿に、渋谷に、麻布十番に存在するというのなら、リバーサイドを走る首都高とスカイツリーよりも絵になる背景があるなら教えてくれ。
さて、本作は「THE TOKYO TOILET」という名前からして胡散臭いプロジェクトの映像制作事業の一環としてスタートし、UNIQLOやら電通といったさらに胡散臭い大企業が関わった結果として産み落とされた。
しかしヴェンダースの視線はそうした資本主義的論理の埒外にある。渋谷は本作の制作背景上最も主要な場所であるにもかかわらず、シーンの紙幅の大部分は墨田区近辺での平山の暮らしに割かれていることからもそれは明らかだ。
思えば、平山の居住地と仕事場の不可解な距離とは、諸企業の思惑とヴェンダースの作家性の間に生じた違和そのものなのではないか。「マジで自由に撮っていいよ」と言われたならば、本作の舞台は23区東部のみに限定されていたに違いない。とはいえ貰えるだけ貰っておいて東京への身勝手な、であるがゆえに正しく異邦人的な思慕を表明したヴェンダース御大に万雷の拍手を送りたい。
「本当の東京」などというものは東京人が描いていればいい。俺たちはどうあがいてもヨソ者であり、外郭を窺う以上に関わる術を知らない。であれば徹底的に外側から見たままを活写し続けるまでだ。ヴィム・ヴェンダースはそれに徹した。なぜなら彼はドイツ人だから。
仲間に入れてもらえないものに固執し続ける意味なんかあるの?と思う者もあるだろう。だからもう一度言おう。
異邦人から見た東京は、どうしようもなく美しいのだ。
近年では稀な、「著名失敗作」と感じてしまった…
世評も高かったので昨日、期待してWOWOWで初めて観た。
だが、「あまり代わり映えのしない、主人公の日常を描く」という、創り手の意図はあったにせよ、作品全体、とりわけ前半部においては、類似したシーンの、退屈にして冗長な反復が、これでもかと行われており、この点だけを取り上げても、既に私の内面においては、「構造的に失敗作」という見方が、ほぼ確定してしまった。
また、この映画、やはり基本的には、「日本が大好きな外国人監督が撮った、ノスタルジックな一本」なのだと思う。
ちなみに、役所広司が演じる男のライフスタイルは、実のところこの国では、ごく一部を除いて、遅くとも20年ほど前までには、ほぼ消滅してしまった類いの代物であり、もはや2020年代に突入して久しい時代を生きる、多くの人々に当てはまるような行き方ではない。
よっておそらく、本作を絶賛している人々の多くは、「独身の壮年男性、トイレ清掃員にしてアパート暮らし」という、主人公の実体に、かなり強く共鳴できるのか、さもなくば単に、ヴィム・ヴェンダースという監督の固定ファン、短絡ファンなのではないだろうか?
しかし、そのいずれにも該当しない、私のような人間は、作品に甘い評価を下すことは、極めて難しくなってしまうのが、偽らざる現実である。
何気ない所作の積み重ねが人生
生活は淡々と流れる(経過する)。本人が意識をしていると、いないとにかかわらず。
その流れを切り取り、見事に活写した一本。
同監督の手になる『パリ、テキサス』『ベルリン、天使の詩』などと同様に、ヴィム・ヴェンダース監督の現実からエッセンスのみを切り取って活写する手腕を、改めてまざまざと見せつけられた思いがします。
言ってみれば「日常」の何気ない所作を丹念に描くことで、その「日常」を鮮やかに描き出す―とでも形容すべきなのでしょうか。
例えば、平山は、毎朝、出勤の前に自販機で缶コーヒーを買う習慣があるのですけれども。
その缶コーヒーを買うショットを、いろいろな角度から、毎回アングルを変えて撮影するなど、彼の「日常」こ切り取り方がとても上手なのが、この監督の手腕なのだだろうと思います。
本作は「公共のトイレをアートに」という東京都の活動に賛同したヴェンダース監督が手を上げて作品化したと聞きます。
それだけに、入室してロック(施錠)するとガラスが不透明に変わるという(確か渋谷区の公園にあるという)トイレも見ることができました。
(東京を猛暑が襲った夏は、異変で、ガラスが不透明にならなくなったとも聞き及びますけれども・笑)
本作も、十二分に佳作の域に達している一本だったと思います。
(追記)
人の役に立つ仕事ということで、この仕事に彼は誇りを持って働いていたのだと思います。本作の平山は。
(反面、その対比が、いわば「やっつけ仕事」感覚でこの仕事をこなしていたタカシだったのでしょう。)
評論子も大学生の頃、清掃の仕事のアルバイトをしたことがあります。
ビルの汚水槽の清掃です。
東京の会社なのですけれども。
主として東北からの出稼ぎの農家の方々が作業員として働いている会社でした。
だから、農繁期の春から秋までは「開店休業」の状態なのですけれども。
しかし、冬になると、にわかに営業(業務)を再開することになり、毎年、その時期に汚水槽の清掃の頃合いになる得意先から仕事を請け負っていたようです。
人柄が温かい方々ばかりの会社だったので、まだまだ社会経験の乏しい学生(大学生)だった評論子も働きやすかったのですけれども。
そこの社長さんが、常々「清掃って、いい仕事でしょ。汚れていたところが、みるみるうちに、きれいになっていく。」とおっしゃっていたことを、今でもよく覚えています。
本作の平山も、きっと同じ気持ち(心がけ)であったことは、疑いがないことと思いました。
(追記)
平山は、自分の生活への他者からの介入を頑なに拒んでいたフシがありはしないかと、評論子は感じました。
その、柔和な表情とは裏腹に。
一日のルーティンをきっちりと決め、あたかも自らに「課する」かのように、少しの齟齬(そご)もなくそれを実践する―。
まるで、他者に付け入る隙を与えないようにするかのように。
それは、父親との確執(それは本作が詳らかに描くところではなかったと思いますけれども)から、でしょうか。
経済的には富裕であったはずの生活を捨てて、経済的にはあまり潤沢とはいえなさそうな今の生活を選び取った平山の「確固たる意思」みたいなものの一端か垣間見えたと思ったのは、果たして評論子独りだけだったでしょうか。
映画とは⁉️
仕事も私生活もどこ行っても世の中はノイズだらけだ。 どうやったって...
仕事も私生活もどこ行っても世の中はノイズだらけだ。
どうやったって世の中は変わって行ってしまうんだなあ。儚いなあ。
でも一人の人生の間だけでいいから変わらないものがあってもいいじゃないか
なんか凄いいい現実逃避と提案。
古き良きを美化してる感はある。戸開けっ放しで蛾とか虫とか入ってこないのかな。とか思ってしまうけどそんなこまけーことはどうでもよくなってしまうくらいこの映画は良かった。
何が平山をこんな人間にしたのか
過去に何かあったのか
誰にでも影はある。重なると濃くなるかは知らないが
まあでも色々あったけど、今は今、今度は今度、かあ。
ひたすら美しい。良すぎる。よくわからない何かがある。けどこういうのでいいんだよね、、、
良い映画を見たなと しみじみ思えた映画
劇的な何かが起こるわけではない。街とともに日々自分を生きる人々の物語。
妹との再会のシーンはとりわけ深い。主人公が そこに至るまでの困難な道のりのなかで、自分を見失うことなく、自分の心に従って生きてきたんだということが伝わってくる。妹はそんな兄に対して、思春期の頃から嫉妬と羨望を感じていたのかもしれない。
そうした作中には描かれない、主人公のこれまでの人生に説得力をもたせる役所広司の凄さ。ここに至るまでの一つ一つの演技、銭湯で見せる少したるんだ体等、全てで語っている。
最後、「変わらないなんて事があってたまるか」という一言。単調な日常を大切に積み重ねながら、その中にある細やかな変化や偶然を大事にする主人公の、人生に対する意地のようなものに強く胸を打たれた。
ありがてぇ、ありがてぇ、ヴィム・ベンダース先生が日本なんか撮ってくれてありがてぇ!
過去に名作を作っているから、特に変哲も無いありがちな木漏れ日のカットを撮っても我々庶民には分からない考えがあるに違えねぇ。違えねぇ。
公衆トイレをもっと知ってもらう為にTOKYO TOILETプロジェクトというアーティスト16人が手掛けた「 公共トイレの価値観を変えるアート映画 」 を作るという企画に抜擢されたのが渋谷系が大好きなヴィム・ベンダース!これは見るしかないでしょう?!
役所広司が今どきカセットテープオーディオが搭載されている軽ワゴンに乗っていて懐かしい曲ばかり聴いているけど、このセットリストにも我々には思いつかない演出意図があるに違ぇね、違ぇね。
んでもって、仕事が休みの時は今どきカセットテープのアルバムを売っている店に通うんだけど、ここも音楽はアナログに限るという意図があるに違ぇねぇ。違ぇねぇ。
やっぱり監督の演出の腕は衰えていなくて途中でバックれる若いバイトくんの失礼にも程がある行動は、「 いた!いた!こんな使えないバイトの後輩!」 と思うし、おひとり様の日常風景も「 あるある、俺もこんなもんだよ!」 とはたと手を打ちました。
他所の国で撮影して、他所の国の役者を演出してこれだけの作品を作るんだから凄いよ?
惜しいのはEDテーマが、ニーナ・シモンのfeeling good という散々映画に使われる曲だった事。このサイトでは、仕様でリンクも貼れないし、長い行のコピペも貼れないからごめんなさいだけど。
「 今の俺、ちょー、気分最高!!」 って歌っている曲です。暇な人はググッてちょ?
【慎ましやかな子守唄】
前々から見たいと思っていたので、やっと鑑賞できた事だけでも喜ばしいのですが、蓋を開けて見ると、想像以上の御馳走が飛び出してきました。
生きるのに疑問を抱いている方への、一か八かの治療薬のような映画に感じましたね。
今作は“何も起こらない”と言えば、“何も起こらない”です。映画で良くある、鑑賞者の情緒を揺さぶる劇的なシーンも無ければ、直接的で解り易いメッセージも無い。
良くも悪くも、人間の“日常”です。
これは賛否が分かれそうですね。ノスタルジックで、少しペシミズムさえ、捻くれた僕は感じてしまいました。
個人的な意見としては、ラストシーンなんか丸ごと悲観主義にも感じましたね。「変わらない日常が素晴らしい」、まさに PERFECT DAYS みたいな意味合いかと思っていましたが、何か違う。「抜け出せない不安」みたいなものも孕んでいるのではないか、と感じました。
前に建っていた建物が思い出せないシーンなんかは、変わらない日常を愛していたのに、変わったら気付けない。それは本当に愛していたのか。変化しない事に不安を覚えるから、なんとか不変を愛そうと、自分を納得させているのでは無いか。そんな風に僕は捉えました。
それに、主人公『平山』さんは元々いい所の出だったのでしょうか?妹(姉?)さんがニコを迎えに来たシーンは、運転手のような人が付き添っていたり、高級そうな車に乗っていました。
そして、「本当にトイレ掃除してんの?」という台詞。元々は高貴な立場だったのに、オンボロアパートに住み、トイレ掃除をしているなんて可笑しい。みたいな意味合いの台詞にも、僕には取れました。
『平山』さんは父親との諍いの末、お金を捨て、孤独を買ったのでしょうか。興味深いです。
そして、物語が“悪意”から始まるのは良いですね。
清掃中でもお構い無しに使用してくる利用者だったり、子供を引き取ったお礼も言えない母親だったり。
そういう日常に潜んだ“無意識の悪意”と言うものを序盤に持ってきて、『平山』さんは、意にも介して居ないような様子。が、物語終編、しっかり人間関係や日常に潜む「無意識の悪意」に『平山』さんが苦しんでいる。かのような表現は、『平山』さんという人間を深く表していると思います。
今作の主人公である『平山』さんの情緒が理解できるか、又は理解した気になれるかが、この映画の評価の決定的な分岐点でしょうね。
僕自身、読書や映画鑑賞等が好きで、孤独を楽しもうとする節があり、孤独に耐え兼ねそうな今、この映画を見た事によって、人生への向き合い方が変わりそうです。
[人生を変える映画]とまでは行かなくても、[人生を見つめるきっかけ]を授けてくれるような、『平山』さんのように優しい映画だと、僕は思いました。
あれは、紫外線なのかしらね
とても静謐で品があり、メッセージ性も洗練された、素晴らしい映画だと感じました。
絵の素晴らしさも、音の素晴らしさも、とても上質な映画だと思います。
敢えて皆様が特に感じておられない部分を起筆しますと、
私は平山の自宅から漏れる、紫色の明かり(紫外線ライト?)が とても気になっておりました。
それらは名もなき植物の生育を促進するものであり、毒でもあり、浄化の光でもあり、また影でもあります。
影はこの映画のテーマですから、もはや申し上げる必要もない要素だと存じますが
ブラックライトという「概念」は、影でもあり光でもある、この世に存在する世界の、
ギリギリの境界線にある存在なのだと思います。
それは平山の、閉じられながら開かれている心の中に常にあり、漏れ出でるほどの存在でありがなら、
自らが拾い、育てようとする生命を健やかに育てているようでもあり
同時に彼の孤独を示すバリアのような異色性を放っております。
ここに触れられる事はなく、そこに誰もが踏み込む事もなく、ある種の聖域でありながら
毒でもあり、と同時に優しくも静寂性を持った、紫色の光を揺蕩えた、
平山の完璧な日常は今日もまた、光と影を帯びながら、影を重ねて罪を詫びるように、
それでいて自己満足に満ちた、誇らしげな毎日、
それ故に、あぁ 静謐に、過ぎてゆくのだなあと感じます。
ラストシーンはその静かな日常の下にある、
彼自身の怒りや悲しみや優しさや諦めや迷いや誇りや償いや矛盾に満ちた光と影が渦巻いていることを表しているのかと思われました。
すべてがあの朝の変化に集約してゆく構成は見事でしたね。まさにパーフェクト。
可愛がっていた後輩はある日 突然 いとも簡単にいなくなってしまう
貸していた金は返ってこないし、
返ってくる宝物(カセットテープ)もあれば、失ってしまった宝物もある
後輩を慕っていた親友の幼馴染とはもう会えない
もうあの大好きだった耳に触れる事が出来ない 悲しみで走り去ってしまう
それは、自分にとっての敬愛の情は(相手が受け容れてくれさえすれば)示して良いという事であり、
〇×で返ってくる誰かとの気持ちの繋がりには喜びもあり
天を仰ぐホームレスは彼自身でもあり、父親の姿でもあるかも知れなくて、
場所を追われ、偶然にも出会えた街角が もう最後の機会だったのかもしれなくて
年寄りは街角の風景すら忘れてゆく、その変化を自分も感じ取れないが
時と共に確実に大きく変化してゆくものがある
彼は影の道ばかり走っている 高速道路も下段の影の道ばかり しかし下道ではなく
それを見下ろす巨大な存在を見上げながら、敬愛と支配から逃れられない日々
汚れた仕事をなぜ精一杯やるのか、彼の贖罪でもあり、生き甲斐でもあり
であれば おのずと手が抜けないからの徹底ぶりであり、
便器を清める行為と風呂に入り汗を流す行いは等しく
自分自身は罪に殉じる心安らかな囚人なのか、
誰にも許されていない鍵束を手に、社会の抜け道を通り抜ける自由な特権なのか
光と影を、世界を切り取りしては うまく生きているつもりだったが
自分の意志で姪っ子を失い、眠れぬ夜を明かしたのは
彼自身の最愛の情として抱擁があり、其れを示して良いのだと彼は学んでいて、
姪っ子と交わせたから、妹とも交わせたその抱擁は
時間と共に、本当は誰と交わしたいものだったのか
心惹かれた女将と(元)夫にも その抱擁があり
だからこそ動揺が隠せない彼の幼い行動と
死が生きる事のなにかを変えてくれるし せめて会いたくなってしまったという言葉、
なにもわからないまま死んでゆく者がいて
なにもわからないまま自分も老いて死んでゆく
影は死でもあり、静謐だった彼の生活は、影を重ねたものだったのでしょう
影は死でもあり、踏まれると死ぬゲーム(人生)はもう、自分に残された しんどい体力と年齢を自覚し
離してしまった姪っ子との約束は、彼自身の言葉であり
そう
「明日は明日、今は今」、ということは、「昨日は昨日、今日は今日」という事ですよね。
初めてこの映画に朝日が差し込み、彼はその世界へ一歩踏み出したのだと解釈すると
とても単調で静謐だったこの映画が、すべての感情が、一気に動き出しますよね
静かに重ねてきた日常と ほんの些細な出来事の積み重ねが、激しく光り輝き、渦巻き始めます
あの涙と戸惑いと笑顔と苦悩は、きっとそういう事の様な気がします。
彼は父親に逢いに行ったのでしょうか。抱擁し、果たせなかった妹との過去の、
そして未来の姪っ子との約束を果たしに行ったのでしょうか。
或いは 彼もまた「なにかを託し」に行ったのでしょうか。
それとも、今日もまた変わらぬ日常を送る、彼の心の中だけの朝日だったのでしょうか。
少し分かるようになりました。
Perfect daysというのは完璧な日々というのではなく、寸分違わぬ日々という意味合いに近いのでしょうか。自分自身はそうしていても、外的な要因で同じ毎日は無い。世界は自分を基準に回っているわけではないから当たり前。だから良いのか悪いのか。
二十代の頃、背伸びしてベルリン・天使の詩を観た時は正直良さがよく分からなかった。でもその時のお陰で、今回、説明も結論も無いなと心構えが出来たので、雰囲気に浸る事に没頭出来、それで少しこの人の作品の良さが、分かるようになりました。浅草も渋谷も慣れ親しんだ場所ばかりだったので、懐かしかった。
変な嫌味がない作品
家の鍵かけないのが、気になった。
1回目の鑑賞眼は間違っていなかったと思う。
SFXも最新技術もない映画で十分に楽しめる作品でした。1回目の鑑賞では自分の鑑賞眼に自信が持てなかったので2回目を鑑賞しました。
平山(役所広司)が妹(麻生祐未)と再会後に涙したことをどう捉えるか?ここは大きなポイントかと思います。妹は取り返せない事実を諦めてはいるけれど、昔の姿ではない父に会うように頼みます。しかし、平山は首を横に振ります。その後に妹を抱きしめたことを考えればわかります。心底では身近な愛を求めているのだと。遣り甲斐のある仕事との対比で何とも物悲しい。アンポンタンでなければ、誰にとってもパーフェクトな日々なんてないのですよね。その後の平山がどのような生活をするのか?それをあれこれ考えたり、ああだこうだと議論するのが鑑賞後の醍醐味かと思います。
役所広司は大河ドラマ徳川家康の頃からのファンです。日本を代表する素晴らしいオジサンです。余談ながら、カセットテープの選曲は自分ならこうするなということでも酒席で盛り上がりました(笑)
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