PERFECT DAYSのレビュー・感想・評価
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主役の役所広司さんがほとんど口をきかないのも良い
良い映画でした。私の好みの映画です。
丁寧で、破綻していない映画。
最初のカットから良い映画だと感じたし、ラストにまた同じカット割で映画を締めるのが心憎い。
主役の役所広司さんが、ほとんど口をきかないのも良いですね。
ラスト前の長回しの表情だけの演技には、感情が引き込まれてしまいました。
一年のラストを飾る名作を観ることができて満足しました。
便器はブラシで掃除しないと普通に汚い。「日本を美しくする会」じゃあるまいし。
不特定多数が利用する公衆トイレの掃除は、ゴム手袋だけじゃなくて、ブラシをちゃんと使ってほしいです。(日本を美しくなる会、とかが推してるやつですよね。政治家にも信奉者がちらほらいて本当無理。教育現場とかにも入り込んででやらされてる児童にはトラウマです)見てて気持ち悪くなりました・・・・
便所掃除にブラシを使っていない時点で無理なのですが、
女性たちとの関係もすごく不自然。
金髪の若い子からのほっぺたへのキス。
姪っ子は風呂なしアパートに転がり込んできて「神田川」的シチュエーション。
飲み屋のママからも贔屓される。
話が合う書店員女子。
などなど、あらゆるジャンルの女性にほのかな好意を寄せられてて、なんかおじさんが気持ちよくなる要素が詰まった映画ですね。
最後のクレジットで「日本を美しくする会」が入ってないか凝視してしまった。
「日本財団」はありました。
わからん人は置いていく働くおじさん
さすが役所広司主演作
不動のルーチンと変わりゆく時の流れの対比
平山さんは毎日変わらず自分の規則に沿って生きているし、積み重なる文庫本や写真缶からも分かるように、同じものだけをずっと大切にしている。スマホは持たないし、カセットテープで音楽を聴く。いつから変化をやめたのか、そこまでは推し測れないが、平山さんはずっと変わらない。
それなのに同僚は突然仕事を辞め、会いに来た姪(実際には、娘?)とは、また離れ離れになる。
「こんどはこんど、今は今」。でもそれは、自分の為の言葉なのでは?
今度っていつ?そう聞かれていたけれど、平山さんが一番知りたいことだったりするんだろうな。
そして好意を寄せていたスナックのママには、元旦那が会いに来る。元旦那は癌で先が短いという。変わらない完璧な日々なんてなくて、完璧は毎日形を変えながらそこに存在している。自分は変わらずに待っていても、一切は通り過ぎてしまう。同じように見える毎日も、少しずつ変化していて、同じ日はもう戻ってこない。
ルーチンに固執する平山さんだからこそ、痛いほどそれが身に沁みて、最後に泣いていたんじゃないかな。
この映画、そんなに良かったですか?
皆さんのコメントを読んでるとすごいべた褒めなんだけど。
なんか最初から海外での上映を意識してる作品だよなぁ、英語の歌をテープで聞いたり。兄、妹で抱き合ったりする????実際、当方(女性)、兄がいるけど抱き合ったことなんて人生一度もないよ???
てことで、すごい違和感ありあり、って思ってたら監督がヴィム・ヴェンダースって
ドイツ人てことで納得。日本人の監督なら車で聞く曲は日本語の曲だったろうし、兄妹がハグする場面もないよ。
それにしても高倉健さんの「あなたへ」もそうだったけど、寡黙な主人公の映画には必ずおしゃべりで絡んでくるその他の人たちが登場する。基本トイレ掃除は一人でするものだと思うけど。だから仕事仲間と顔見知りになってお互い干渉するような関係まで行くようなことはないと思う。あと、長いこと会ってない親戚のおじさんのところに泊まりに行くような姪とか、ありえない。年頃のお金持ちの女の子よ??家出したからって古いアパート暮らしのおっさんのところに行くことは絶対、ない。しかも公衆トイレの掃除を手伝うとか、絶対ない。
あと、使用した作業着を部屋に干してるの。これもないでしょう、と思った。排泄物は排泄された瞬間から汚物になるので、もし「それ」がついたままの作業着が部屋のなかにあるのは問題。使用した作業着はそのあとすぐ消毒して洗濯しないと、ほかの洗濯物も汚染してしまうので注意が必要なはず。実体験として介護にかかわったものとしてはそういう点も気になってしまう。
ストーリーとして全然あり得ない設定で、日本的な描写、というのか、早朝から掃き清める風景、銭湯、など。当方、東京23区暮らしですが、集合住宅ばかり。
まぁ、そんなこと言っては毎日判で押したような彼の人生が延々と描かれるだけになってしまうから時々人とのふれあいを描くことで変化を持たせる演出になってるわけだけど。
たまたまアマゾンプライムで見たからセリフが全部字幕で出てたので英語の曲の歌詞も字幕に出てて理解できた。で、この曲ってこんな歌詞だったんだ、って発見はうれしかった。当方英語の勉強は多少してきたつもりだったけど曲のヒアリングは全然できてなかったんだ、って改めて思い知った。ほとんどの曲は知ってた曲だったんだけど。これだけは拾い物だった。
幸せは自分で決める
素晴らしい作品でした。
余白のある映画は、映画を通して自分のことにも目を向けることができるので素敵です。
"こんな今が嫌だ、変わりたい!"というのも、人生のモチベーションとして素晴らしい。
でもイヤごとばかりに感じていたら、全然幸せじゃないよね。
平山さんの「パーフェクト」=幸せな1日。
いやいや起きる朝ではなく、1日が始まる幸せを噛み締めている。
朝のカフェオレ(ブラックじゃないのがリアル)
仕事へのこだわり
木漏れ日の入るお気に入りの場所
カメラ
植木への水やり
銭湯、居酒屋、本屋、スナック
平山さんにとっての"perfect"なルーティンが自分の日常にも確かにある。
無口な人として前半は描かれているけど、決してそうではなく、ただ不要なことを話さないだけ。コミュニケーション能力は大いにある。
後半はそんな、平穏で完璧な日常が外的な刺激によって、掻き乱されていく。
姪との再会。
家族との交流が幸せそう。
「世界は1つの様に見えるけど、たくさんの世界がある。にこのお母さんと僕の世界が繋がらなかっただけ」
そうなんだと思う。
ひとりひとりの世界があって、交わることがあって、それはすごく嬉しかったり幸せなんだけど、絶対に交われない世界観もある。
お姉さんとの再会。
最後の抱擁にドキッとした。
平山さんの切なすぎる表情。
お姉さんも嫌味の様な言葉を発しているけど、本当は愛情があってのことなんだと思う。
お金じゃなくて、好きなお菓子を持っていくあたりもすごく思いを感じた。
この場面で重なるのは、スナックのママさんと三浦友和さんのシーン。
こちらもただならぬ切ない表情が印象的だった。
そこから平山さんとお姉さんの間に、ただの家族愛よりも、もっと深い愛情を感じる。
最後のシーンはどういう感情か?
一度見ただけではわからない。
人と触れ合うことで傷つくこともある。
それもまた人生の幸せなのだろうか。
幸せとは一体何なのか。
変わること?変わらないこと?
幸せとその奥にある深い悲しみを感じる、役所広司さんの演技は素晴らしい。
とても"人間"を描いた作品である。
カセットから流れる昔の洋楽が、一気に東京の見え方を変えた。
光と影など、映像もすばらしい。
エンドロールで流れる
"KOMOREBI"の和訳です↓
「風に揺れる葉によって作り出される光と影のきらめきを表す日本語。それはその瞬間に一度だけ存在します」
「今度は今度、今は今」に込められたヴェンダースのメッセージ
カセットテープが主人公の平山を象徴するものになっている。カセットテープの全盛期は1980年代、バブル景気の頃とぴったり重なる。
また画面が4対3のアナログの画面比率で、カメラが常に平山にフォーカスしているので、何か理由がありそうだ思ってちょっと調べてみた。
そしたら画面比率16対9のハイビジョン試験放送が始まったのが1991年11月で、これはバブル崩壊の時期とほぼ一致する。
これらのことから分かるのは、おそらくバブルの頃に平山の身に何かが起きたということ。
バブル崩壊で多くの人の人生が狂わされたから、平山の人生もそこで大きく変わったんだと思う。
平山がスマホのアプリすら分からないアナログ人間だということは、姪っ子のニコとの会話でも分かる。
(ちなみに平山はガラケーを使っているが通話機能以外使っていない)
つまり、平山の人生はバブル崩壊とともに時が止まっていて、平山はその後30年以上アナログ人間のままで生きてきたってことを画面比率とカセットテープで語ってる。
物語終盤で平山が妹と再会するシーンがある。
運転手付きの高級車から降りてきた妹が、娘のニコがお世話になったお礼に「これ好きだったよね」と言ってオシャレな高級菓子っぽい紙袋を手渡す。
このシーンから分かるのは平山も昔は裕福だったということ。
そしてかつて父親との確執があって、父親がボケてしまった今でも会いに行く気にはならないということ。
つまり父親に対するトラウマが相当深い。
これは勝手な想像になるけど、平山は多分、昔父親が経営する会社で働いていて、バブル崩壊で会社が倒産、その過程で父親と大喧嘩して転職、その後色々あって人間不信になって無口になって、他人と関わらずに済むトイレ清掃の仕事に落ち着いた。
そんな感じじゃないだろうか。
そして妹の方は、自力で事業を起こして今の暮らしを手に入れたか、あるいは裕福な男と結婚して今の暮らしを手に入れたかのどちらかだろう。
では平山はいつからトイレ清掃の仕事を始めたのか?
平山は家出したニコがアパートを訪ねてきた時、最初誰だか思い出せなかった。
「大きくなったなあ」と感慨深げに言っていることから幼い頃のニコしか知らない。
ニコが持ってるカメラも幼い頃平山にプレゼントされた物。
現在のニコが十代後半として、見た目の変化で幼い頃の面影がなくなるほど昔というと、せいぜい9~10歳くらいか。(それよりも幼いと、カメラなんてプレゼントしないと思うし)
だとすると、平山が最後にニコに会ったのは、6~7年くらい前だと推測できる。
つまり平山がトイレ清掃の仕事を始めたのはおそらくその頃から。そして妹がそれを恥じたために妹一家と疎遠になってしまったということだろう。
しかし平山はトイレ清掃の仕事に就いて、慎ましい質素な生活に幸せを見いだせるようになった。
その事は田中泯演じるホームレスの存在で強調されている。
ホームレスは樹木に囲まれた公園ではイキイキとポーズ(光合成のポーズ?)を取っているが、ビルに囲まれた駅前の横断歩道では怯えて戸惑った表情を浮かべていた。
そしてそんなホームレスに対し平山は常に共感の眼差しを注いでいる。ホームレスが楽しそうだと平山も笑い、ホームレスが苦しそうだと平山も目に涙を浮かべる。
つまりホームレスが平山の感情を代弁している。平山は人混みが苦手、というか人間が苦手、そして物言わぬ樹木が好きということだ。
平山の樹木に対する愛情は樹木を育てている部屋の照明でも分かる。朝でも夜でも常に紫色の淡い光が当たっていて、平山が24時間惜しみない愛情を注いで樹木を育てていることが強調されている。
ちなみに物語の中で紫色の光が当たる対象がもう一つだけある。平山が休日だけ通うスナックがあるが、そのスナックのママがカウンター越しに接客していて、平山に近づいた時だけママの顔に紫色の光が当たる。
平山はあまり感情を表に出さないけど、樹木に対するのと同様に、ママに対しても好意を抱いていることが比喩的に表現されている。
平山が仕事についてきたニコと神社で会話するシーンがある。
平山は(格差が広がったことによって)同じ場所に暮らしながら接点のない別々の世界が生まれたことを説明しているが、この映画で描いている問題はそれだけではない。
格差が長引くと身分が固定化しそこから這い上がれなくなる。
平山とニコが自転車で並んで走るシーンでは、ニコが「海へ行こう」と提案したのに対し、平山は「今度」と言ってお茶を濁す。
「今度っていつ?」とニコが尋ねると、平山は「今度は今度、今は今」と笑って答える。
ニコの「海へ行こう」という言葉は現状を変えられるかどうかというメタファー。
ニコには今すぐ何かを始めて何にでも成れる可能性があるが、平山の方は今の年齢(多分60歳前後)で急に生活を変えることもできないし、転職も現実的に難しい。
つまりニコには無限の可能性があるが、平山には何の可能性も残っていない。平山に「今度」はない。だから「いつ?」と聞かれても答えられない。だがニコは「今」すぐにいくらでも新しいことを始められる。
そんな2人の世界がひとつになることはない。自転車で並んで走っていても、二つの線がひとつになることはない。隣どうし並んでいても全く別世界の住人だという残酷な現実がここで描かれている。
だから妹がニコを迎えに来た時、嫌がるニコの味方をせず帰るように促した。
一緒に暮らすのは無理なこと、自分がニコの面倒を見るのは無理なことをよく分かっていたから。
そして妹とニコを乗せた車が去る間際、俯いて涙を流した。家族なのに一緒にいられない現実が悲しくて悔しかったからだろう。
また格差というテーマは他のエピソードでも描かれている。
たとえば平山の下で働くバイトのタカシが「金がなきゃ恋も出来ない」て台詞を何度も繰り返してたけど、そう思いこんでること自体が問題。
「金がないから何もできない」という考え方は「金がないから何もしない」という考え方につながり、タカシが底辺から抜け出す機会を永遠に奪うことになる。
そしてこういう若い世代が増えると、格差は縮まるどころかますます開いていく。
実際タカシには全く労働意欲がなく、平山に金を借りて恋人の店に遊びに行き、最後は突然バイトを辞めてしまう。
恋人のアヤにしてみれば、金を借りてまで店に遊びに来て欲しくはなかったはず。でもタカシにはそれが分からない。
(障害者に偏見なく接する優しさがある一方で、金にばかり固執して他のことに興味がない)
アヤはそんなタカシが悲しくて平山の前で涙を見せたんだと思う。
物語終盤、スナックのママの元夫である友山と平山が影踏みをして遊ぶシーンがあるが、平山と友山、どちらも名前に山の字がつくのは意図的なものだと思う。
友山は末期ガンで顔色は悪いものの身なりはそこそこ良くて、それなりにいい暮らしをしてることが窺える。(少なくとも平山とは対照的)
そんな友山が平山に投げかけた「ふたつの影が重なると濃くなるか」という問い。
平山は「濃くなる。何も変わらないなんてそんな馬鹿なことあるはずがない」とムキになって答える。
格差や職業差別がなくなってふたつの世界がひとつになれば世の中はもっと良くなるはず。
2人の影踏み遊びにはそんなヴィム・ヴェンダースの願いがこめられているように感じた。
この映画って平山自身があまりにも寡黙で自分の過去を何も語らないから、観客が勝手に想像するしかない。
でも役所広司の演技が上手いので平山の感情がつぶさに伝わってくる。
特にラストシーンで役所広司が見せる涙の芝居には深く胸を刺された。長回しの一人芝居で、それまで抑えてた感情が堰を切ったように溢れ出てくる。
バブル後30年以上に渡って続く格差の中で、底辺から抜け出せなくなった男の悲哀が滲み出ていた。
普段は穏やかに暮らしていても、思うようにならなかった人生に何の後悔もないはずがない。
特に仕事に対する差別は平山にとって苦痛だろう。
でもそういう生き方をせざるを得なかった、もしくは他に生き方を選べなかったから、その中でどうにか生きがいを見出し、ささやかな幸せを見つけられた。
平山はそのことに満足し充実した日々を送っている。そういう意味でのパーフェクトデイズ。
(金があれば何でもできるのに。と言ってやる気を失ってるタカシとは対照的)
バブル崩壊後広がった格差、二極化した社会、どんな裕福な人間でも公衆トイレにはお世話になっているのに、清掃員の仕事は蔑んでいる。
迷子の我が子を保護してくれた平山を一瞥するなり、礼も言わずにウェットティッシュで我が子の手を拭いた母親。
兄妹としての愛情を持ちながらもトイレ清掃員というだけで平山を拒絶する妹。
ヴィム・ヴェンダースが日本の社会構造をガチ勉して、社会格差と職業差別をテーマに作った映画。
資本主義の象徴のようなスカイツリーの下で、物言わぬ植物のように無欲で質素な暮らしを続けている平山。その姿は物欲に支配されて人間味を失ってる現代人に対する風刺でもあると思った。
※この映画ってほぼ全編平山の一視点のみで描かれてるけど、一部だけニコの視点で描かれてるシーンがある。
平山の仕事が他人の目にどう映っているのか、ニコの視点を通して客観的に描く必要があったからだと思う。
※※「今度は今度、今は今」のシーン。
一つ前の銭湯のシーンから振り返ると分かりやすい。
まず、平山は妹がニコを迎えに来ることをあらかじめ分かっていた。(銭湯で妹に電話していた)
そして妹がニコを連れて帰ったら、もう当分自分に会わせないようにするだろう事も想像出来た。
だから「今度っていつ?」とニコに聞かれても、いつ行くとは約束できなかった。
また銭湯のシーンで平山とニコは何か食べに行こうと話していた。つまり、自転車に乗っている2人はこれから食事に行くところ。
「今度は今度、今は今」
この台詞の表だけを見るととてもシンプルで、ニコとの休日の締めくくり(食事の時間)を楽しく過ごしたい。先のことはとりあえず置いておいて今を楽しもう。そんな意図だと受け取れる。
しかしこの一連のシーンをメタファーとして考えると上記の感想でも書いた内容になる。
ニコの「海へ行こう」という言葉は現状から抜け出せるかどうかのメタファーであると同時に、ニコが折り合いの悪い母親とではなく、幼い頃から慕っている平山と生きていく選択をしたことを意味するものでもある。
(ニコはこの直前の台詞で「私はおじさんの世界とママの世界どっちの世界にいるの?」と問いを投げかけている。これは裏を返せば自分はどっちの世界で生きていきたいか迷っていると受け取れる)
しかしニコが平山の世界で平山と一緒に生きていく選択をしたところで、経済力のない平山はニコに何も与えてやれない。
それが格差社会の現実であり、平山はそれを身に染みて知っている。
だから「今度っていつ?」という質問に「今度は今度、今は今」とはぐらかす答えを返した。この平山の「今度」は問題を先延ばしにしているだけで、ニコの質問に正面から答えていない。
もっと分かりやすく言うと、裕福な世界の住人であるニコは今すぐ「海」へ行けるが、貧乏な世界の住人である平山は今どころか残りの人生をかけても海へ行けない。
つまり平山には「今」どころか「今度」すらない。それでも「今度」という言葉にすがったのは、自分を慕ってくれてる可愛い姪っ子の前で、自分は「海」へ行けないとは言えなかったから。
だからこの物語でこの「今度」と「今」は決して交わらない物の象徴になっている。
ニコの「今」はあらゆる可能性に満ちているが、平山の「今度」は何のあてもなく頼りないもので、何の可能性も残っていない事を現している。
平山はそれをよく分かった上で「今度は今度、今は今」と言っているが、ニコはまだ何も分かっていないので言葉の表面だけをとらえて「今度は今度、今は今」と無邪気に繰り返している
何か起きそうで何も起きない。
人生を表情で表現する
主人公の平山は、日常の中にある小さな幸せに気付き、たくさん集めることが出来る、ある意味幸福な人間なのだと思います。
生活に必要なだけの給与で、自分の好きなことを繰り返し行い、余計なしがらみを持たず生きていく人生。
でも自分の周りは確実に変化していることにも気付いている様子。
終盤、新しい一日の始まりを朝日を浴びながら運転している中で見せる表情。
繰り返す毎日の充実感と喜びの中に、不安や後悔が入り交じったような平山の表情は、役所さんにしか出来ない、人生が凝縮されているようで圧巻でした。
朝は笑顔で迎えたい
タイトルなし(ネタバレ)
平山演じる役所広司さんの寡黙な演技と、同僚である柄本時生さんのチャランポランだけど人たらし系の演技が、思わず微笑んでしまうほど素晴らしい。
平山さんの丁寧な掃除は、心までスッキリする感覚を覚えた。綺麗好きなところと清潔感を大事にしているのかなと言う部分を見て取れた。
寡黙だから車で流れる洋楽と、とてもよく合う。
観客に想像を任せるシーンが2回ほどあったかも。
毎日同じ日はない
極上の音楽と映像でトイレ清掃業者をカッコよく描くという前代未聞の試み
ヴィム・ヴェンダースとジム・ジャームッシュが時々ゴッチャになるなどと言ったら両方のファンから袋叩きにされるだろうと思う。
そのくらいカンヌ映画祭的な映画には疎い。
カンヌ映画祭というと「観た人それぞれに解釈が委ねられる映画」が多い(気がする)。
こちらとしては自分なりに解釈しろと言われると不安になる。
意地悪しないでちゃんと答えを言ってよ、という気になる。
アメコミ映画ばっかり観ててすみません、という気持ちにもなる(笑)。
この映画も「観た人それぞれに解釈が委ねられる映画」だった。
特に何か大きな事件が起こるわけでもなく、孤独な中年のトイレ清掃業者の日常が淡々と描かれている。
何の解答も解決も提示されず、観客は放ったらかし状態である。
ただし、極上の音楽と映像でトイレ清掃業者が描かれるのである。しかもトイレ清掃業者を演じるのは役所広司である。
かつて、これほどまでにトイレ清掃業者をカッコよく描く映画があっただろうか(いや、ない)。
あまりにもカッコよすぎて何だかCMみたいだと思ってしまうくらいなのだが、Wikipediaによれば、渋谷区内17か所の公共トイレを刷新する日本財団のプロジェクト「THE TOKYO TOILET」のPR活動として短編映画を作る、というのが製作の発端だったようで、営利目的ではないにしてもそもそもCMに近い構想が根っこにある映画なのだ。
そしてこの、「あまりにもカッコよすぎる」ということで映画の評価が分かれている気がする。
日本のワーキングプアの過酷な現実を知っている人ほど否定的な意見になるようだが、それも無理からぬことだと思う。
自分も単純肉体労働の経験が10年以上あり、四畳半一間で風呂無しトイレ共同という激安アパートで暮らした経験もある。
そういう人間の目から見ると、この映画の主人公平山の清掃業者としての業務形態も生活レベルもあまりにも現実とかけ離れていて、こんな清掃業者は日本中どこを探してもいないよ、と思ってしまうのは事実である。
だが、それが何だというのか。
アメコミヒーローだって世界中どこを探したっていはしないのである。
いないとわかってても人はヒーローに会いたくて映画館に足を運ぶのである。
日本中どこを探してもいないようなカッコいいトイレ清掃業者に会いたくて映画館に足を運んで何が悪いというのか。
自分も、もし佐藤二朗あたりの性格俳優を使って、本当にうす汚い公衆便所を掃除する孤独な中年のトイレ清掃業者のリアルな日常を洗練されたタッチでカッコよく描くような映画があればそれを観たいと思う。だけど、たぶんそんな映画は作られないだろう。
そもそも、日本の中高年のトイレ清掃業者を洗練されたタッチでカッコよく描くということが前代未聞の試みなのである。
日本映画界が見向きもしない、と言うより目を背けてきた題材、まさに臭いものに蓋をするような感覚で避けてきた題材で外国人監督に映画を作られてしまったのだ。それもメチャクチャ洗練された、カッコいい映画を作られてしまったのだ。
こんなものを見せられてしまったら、いったんはヴィム・ヴェンダースに「恐れ入りました」と言うしかないではないか。
外国人監督が日本を舞台にして撮った映画の中ではずば抜けた傑作と言っていい映画だと思う。
この映画は過酷な現実を無視した夢物語かも知れない。確かに映画の中には過酷な現実をしっかりと見据えるような、そういうタイプの映画もあるだろう。
だがこの映画は、いささか人生に疲れている中高年男性にほんのいっとき夢を与え、ほんのいっとき休ませてくれる、そういうタイプの映画なのだ。
それがこの映画の全てではないにしても、この映画は人を夢の世界にいざなうタイプの映画だと自分は思っている。
そんな現実離れした夢の世界は自分には必要ないという人もいるとは思うけれど、そういう人たちはそもそも過酷な現実としっかり向き合える強い人たちであり、映画というひとときの夢を楽しむ装置自体を必要としない人たちだろう。
根っからの映画好きである自分は、少なくとも、独身かつ中高年の単純肉体労働者の過酷な日常を洗練されたタッチでカッコよく描くような別の日本映画が現れるまでは『PERFECT DAYS』を推奨し続けることにする。
自分は音楽に詳しくないので個々の曲についての言及は避けるが、極上の音楽が抜群のセンスによって絶妙に配置されており、この音楽と映像の融合に浸るだけでもこの映画は観る価値があると言えるだろう。
日常に感じる幸福感は西洋人も東洋人も差がない
『ベルリン天使の詩』の監督さんが日本の公衆トイレの清掃員を主役にした映画をとって、それを役所広司さんが演じるというので、必見だ!と思っていた作品です。でも、(日本のトイレ清掃員を貧者のキリストとして聖人とみなして描いた作品だったら重くてしんどいなあ、西洋人富裕層のメルヘンだよ…)とみる前から深読みしすぎて疲れてしまって、結局映画館に行かず、気が付いたら、見るのを避けていました。
25年になって実際に見てみたら、難解さを感じないシンプルなお話で、子供がみても理解できるストーリーでした。心が癒される場面も多くて、なにより役所さんが素敵で見るのが楽しかったです。
清掃員の平山さんはこの仕事が好きなんだというのが分かってきて、でもインテリっぽい人で、昔はお金持ちだったんだろうなあというのが分かるように描かれています。なのでホワイトカラーの仕事を辞めてお給料の安い清掃員をやっているので、わけありなんだろうなあと察してみたい。でも、清掃員の仕事をしている平山さんの人生は充実していて、とても幸せそうに見える。
深読みが止まらない作品で、映画を見終わったあと、一緒に見た人と自分の深読みを発表し合って、語り合いまくりました。
それで、この作品は平山さんが劇中で読んでいる「本」と平山さんが聞いている「音楽」のリストが公式HPにあるので、平山が何を思い何を考えている人間かを深堀りしたい人は、公式HPに紹介されてる本を買って、音楽を聴いて、映画の内容を思い出しながら楽しむことができます。
映画で使われている音楽はほとんど洋楽なので、平山さんが聞いていた音楽の歌詞の和訳を探して読んでみましたが、(ああ、この作品、本当に難しく考える必要のない映画だったのかも)と改めて思わされました。
なんで難しく考えようとしてしまうんだろう……。
そういえば監督の代表作ともいえる『ベルリン天使の詩』も、子供が見ても理解できるお話だったのに、当時の学生の間では深読み大会だったし、ヴィム・ヴェンダース監督作品はなぜかそうなってしまいます。
でも、冷静に考えてみると、役所さんは今年69歳で、69歳で働き続けたいと考えて仕事を探すると、警備員か清掃員が多いという話を聞いたがあります。だから、別に「貧者のキリスト」でもなんでもなくて、69歳の日本人の普通の日常を淡々と描いた作品ともいえるのかもしれないし、あまり難しく考えるの止めようと思いました。
全983件中、41~60件目を表示