PERFECT DAYSのレビュー・感想・評価
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恐るべしは柳井さん
日々、同じルーチンをこなすように生きていくことは、実は、今もやっているのかも知れないけど、朝起きて空を見上げる。食事に際して、木漏れ日を眺める。そして、その一瞬をカメラで切り取る。こういう風に丁寧には生活していないかも知れない。日々、完璧な日と思えるように生活していくことが重要かも知れない。ただ、なかなか難しい…。
だから、多くの人が、この物語?に感動するのかも知れない。
この映画の主人公の平山のような人は、実はいないのかも知れないけど、そういう人がいることでキレイなトイレがあり続けることを願って、私財を投じてトイレを創った柳井さんは、恐れるべしか…。
そこに一番感動したかも?
平穏な日常の美しさに気付かされる一方、『海外の反応』みてるみたいだなと客観視する自分も。
役所広司がトイレの清掃員として日々の日常を送るという、ストーリーの概要を説明すればただそれだけの映画。日常の中の何気ない感動や美しさを切り取るのがうまい。たとえばふと空を見上げた時の木漏れ日だったり、見ず知らずの人とのちょっとした交流だったり、些細な幸せにフォーカスがあたる。無表情の役所広司が少し顔を緩ませるのをだけでなんかこっちまで幸せな気持ちになってくる!
「あなたにとっての幸せってなんですか」と聞かれた時に、「朝起きて布団を整え、着替えをして歯を磨く…そんな些細な日常が私の幸せです」という返答って一定数あると思うけど、その日常の幸せみたいなのが上手く映像化されていたなぁと思った!
仕事仲間が飛んで遅くまで残業してイライラしても次の日にはちゃんと補填の人がやってきて平穏へ戻る…
姪がやってきて、2人で暮らすという変化がらあっても2日後には母が迎えにきてまたいつもの日常へ戻る…
何か劇的な展開があるのかも!?と思ってもあくまでも日常に戻るというのがちょっとツボだった。笑
あと、最後の方の初対面のおじさん同士で影踏みするシーン、「では私から、いきますよ」とか敬語でちょっと気を遣いながらも笑い合って楽しそうにしてるのが微笑ましくて可愛かった!
人によっては眠気を誘うであろう静かな映画が、ここまで評価されているということに驚いた!キャッチコピーにもある通りに、「こんなふうに生きていけたなら」と多くの人が思っているんだろうなと感慨深くなった。
色々と考えながら観られるような余白が多い作品だと思ってて、鑑賞中も色々「どんな幼少期を送ってきたのだろう」とか、「あのママへの気持ちはどんなものなのだろう」とか、色々考えている中でふと客観視して観る時間も多かったので、
日本の日常が美しく映っているシーンを、『海外の反応まとめ』に書いてある美しい『ザ・日本』そのものみたいだなと思ったりしてしまった。笑(批判しているわけでも皮肉っているわけでもない)
日本好きの海外の人が観たら、「ZEN!!」と喜びそうだな〜なんて思いました!笑
日本の日常がここまで美しく描けるのは、海外の監督がつくってるからだよなぁ〜と。
役所広司で成り立っている映画
映画をエンタメとして楽しみたいのであればこの作品はお勧めできない。アートっぽい作品とか好きな人はいいかもね。もう冒頭喋り出すまでが長すぎる。テンポも悪い。
結局なんなのかわからないオチ。そもそもオチもついてない。姪関連のシーンは良かったけど、最後のスナックの元旦那も出す必要あった??どうせだったらもっとあの人の過去とか家族関係をクローズアップして取り扱った方が面白かった。匂わすだけ匂わしといて出さないんかい父親。
役者たちの芝居は流石素晴らしかった。
演出も良かったけど、やはり脚本が私は気に入りませんでした。流石に過大評価かなー
巡りくる朝へのときめきと感謝を胸に生きていく
こんなにも透明感のある静謐な時間を体感できる映画は初めてです。ヴィム・ヴェンダースは、公衆トイレの清掃人である初老の男のつつましくも穏やかな毎日の繰り返しを淡々と描いていて、劇中では事件らしい事件も起きません。主人公の家は築50年くらいのアパート、趣味はカセットテープの音楽とフィルム式カメラ、1冊100円の古本の読書で、携帯はガラケーとアナログなライフスタイル。それでいて、彼の隠者のような毎日から目を離せず強く惹かれるのは、細くても他人とのつながりを持ちつつ決して争わず、平凡な日常の中にささやかな喜びをみいだす穏やかさが、現代の生活では得難いものだからだと思います。同じような毎日、でも少しの変化を感じ、今日も無事に朝を迎えることに喜びを感じる主人公の謙虚さ、清々しさが心に残ります。タイトルの意味がそこにあると気づき、とても満ち足りた気持ちになります。役者では、役所広司の自然な演技が胸に沁み入るようで、彼自身の代表作と言えます。他の出演者の皆さんも出番が少ないながらも、いい味を出していました。
不思議と眠たくならない
ただ淡々と…
平山(役所広司 )のなんの変哲もなく
過ぎ行く1日1日を
見て、感じて、溶け込み同化する感覚
流れる洋楽
mama(石川さゆり )の哀愁漂う歌
ラスト、平山の表情に物語の全てが
込められているようでグッと惹き込まれます。
冒頭2箇所めのトイレがとても印象的
聖地巡礼したくなります🚽🧻
とても美しいフィクション
とてもとても美しい映画だった。
「静謐」とはこういうことなんだろうな。
これが外国映画だったら、私は大感動しただろう。
でも、現代の日本は、少し近すぎる。
しみじみするには、現実が近すぎるみたいだ。
同僚の子が突然辞めてしまい、
1人で全部のトイレをこなさなければならなくなった平山が、やっと仕事を終え(随分暗くなっている)派遣会社に「こんなのは毎日はできないですからね」と声を荒らげて電話し、銭湯にも行かず、いつもの飲み屋にもよらず、本も読まないで疲れて布団に倒れ込む。
これがきっと現実だ。
私たちの毎日は「こんなの毎日は無理」な仕事量を、日々こなさなければならない毎日なんだ。
映画では、翌日には新しい代わりの人が派遣される。
ああ、これはおとぎ話なんだなって、思った。
しみじみ映画は、自分の日常・文化からある程度離れてないとダメなんだな、と思った。
私自身、他人から見たら、随分と平山寄りの世界に生きているように見えるかもしれない。
でも、自分の静謐を守りつつ、他人とのささやかな関係を築くなんて、めちゃめちゃ高度なダンスステップを踏むようなものなのだ。自分を守りすぎると、他人との関係は消えてしまう。
そんな村上春樹に小説の主人公のようなこと、現実に生きる不器用な自分には到底無理なんだ。
近すぎて届かない蜃気楼のような映画だった。
この年齢だからこその共感
熟れイケ爺主演の東京プロモーションムービー
公衆便所掃除をする爺さんの映画で、主演の役所広司さんがカンヌで主演男優賞を獲得した映画、という前情報のみで鑑賞。
もっと社会派の映画なのかと思いきや、便所掃除は有名建築家によってデザインされた粋なもので綺麗なところしか見せず、主人公の生活も寡黙ながら行きつけの店に知り合いがいたりなど、それなりに充実した日々を送っている感じ。その点は期待外れでした。
ただ、元々渋谷のオシャレな公衆便所のプロモーションから始まった映画という事を思うと(ネット情報、パンフは売り切れで買えず)
大したストーリーも見せ場もないのに2時間の1本の映画として魅せられるものになっているのは凄い思うし、そこには主演、役所広司の役者力にかなり頼っているな、と思います。
ビジュアル的な面に絞りますが、御年67歳となってもスクリーンいっぱいに顔面ドアップでも惚れ惚れとしてしまうイケ顔、
度々挿入される銭湯での入浴シーンで魅せる裸体も年齢を考えればかなり締まっており、一緒に写るモブ爺さんとは一線を画しており、その点も個人的に眼福でした。
意味を求めず、ひたすら感じる(劣情も含め)映画だと思います。
缶コーヒーはBOSS
ネットどころかテレビもラジオも持たず裸電球と電気スタンド、タンスと布団と本とカセットテープ(70〜80年代の主に洋楽)、趣味のモミジの鉢植えくらいしか部屋にないミニマリストな主人公。外の箒の音で目覚め歯磨きと髭剃りをして専用車で仕事に行き林のある神社でコンビニのサンドイッチと牛乳の昼食、仕事が終わったら銭湯と行きつけの居酒屋に行き1日の終わりは読書。休日は濡らしてちぎった新聞紙(新聞を取っているようでもなかったが)を畳に撒いて箒で掃除しコインランドリーと古本屋とフィルムの現像を頼んでお気に入りの小料理屋に行く。我々の多くはこの真反対の生活をしていると思うが日本人は静謐な暮らしを送っているイメージなのかなと思いつつ。
頭の悪い同僚の若者に振り回されて金を貸すハメになったり、長年会っていなかった妹の娘が突然訪ねてきてしばらく同居したり、小料理屋のママが男性(元夫)と抱き合っているのを見てショックを受けたりといったハプニングがあるし、渋谷区内の公衆便所の清掃とは大変な仕事だと思うが、彼の平和な生活は続いていく。
姪とは明るく会話しているものの若者が片思いしている女の子とは殆ど口をきかないくらい無口。娘を引き取りに来た妹は運転手付きの生活をしている金持ちのようだし、彼自身知的なタイプだし、姪がいる時に寝ていた使っていない台所?のダンボールも過去に何かあったのだということを示しているが何かは明かされぬまま。
古いアパートで暮らすトイレ掃除の1人の生活は不幸せか幸せか、人が決めることではない。主人公は幸せそうだが、ラストの泣き笑いは、心のどこかに孤独を感じていたのではないか。
彼の慎ましい生活には、ルーティーンになっている自販機の缶コーヒー、コンビニのサンドイッチといった、別に彼のためにあるわけではないものにもよっている。いくらでも代わりはありそうな平凡なものでも、無くなってしまうと彼の幸せは狂ってくるかもしれないと思うと、こんなつましい生活からビジネス上の理由だけで彼のルーティーンを奪わないで欲しいものだと思った。
色んな役者が出てきたが、古本屋の犬山イヌコが良かったな。
それにしてもどの公衆便所もオシャレ。大昔に『東京トイレガイド』みたいな本がロッキンオンあたりから出版されていたのを思い出した。またクレジットでShibuya city となっており、23区はcity扱いなのだな。
何気ない日常が愛おしい
主人公を演じた役所さんがカンヌ国際映画祭で主演男優賞をとったと知って観に行きました。
物語は東京の公園の公共トイレの清掃員の日常とエピソード。
一人暮らしの主人公の毎日のルーティーンの中の細やかな幸せだったり、突然の出来事だったりが映し出され、そして映像では表現されない人生の奥行までも感じることができる、そんな映画かな。
セリフの少ない映画だけれど、役所さんを観ていると心の機微まで伝わってきて、一寸泣けました。
「木漏れ日」って日本独特の表現なのだと知りました。
音楽も良かったです。
白黒の映像表現も面白かった。
光と影
久しぶりの一人映画で号泣
初老の男性の生活を神話的な構造で描く
これはよかった。
初老の男の平凡な日常を神話的な構造で描くというアイデアに驚いた。
内容としては主人公の平山が公共トイレの掃除という仕事に従事する日々を淡々と描く。それだけだと退屈になりそうだが、本作ではジョゼフ・キャンベルの英雄譚のプロットをそのまま使っている。
朝、老婆が竹ぼうきで掃除をする音で平山は目覚める。これは冒険譚において主人公がミッションを命じられる過程にあたる。
身支度をととのえて、車で出発する。
日中はトイレ掃除をする。これがミッションに該当する。
一日働くと、帰宅して、浴場にいき、飲み屋で一杯やって帰る。ここはミッションを達成して報酬を獲得するパートになる。
本を読んで寝る。
寝た後に夢を見る。これはその日の出来事が反映された、あいまいなものが多い。走馬灯のような夢だ。
翌朝、竹ぼうきの音で目覚める。
基本的にはこの生活が繰り返される。
おもしろいのは、平山の動作が細かく描写されるのに、アパートの鍵はかけないところだ。車の鍵などはちゃんとかけるので、意図的に演出しているのだろう。
平山が住んでいるアパートは現実の場所ではなくて、抽象的な母胎に近い場なのではないか。そう考えると、鍵をかける必要はなくなってくる。
平山の動作についてつけくわえると、なにかを見上げるという動作が頻繁に出てくる。これは彼が底にいる人間だから見上げるのだろう。見上げるのはスカイツリーであったり、木であったりする。
本作は植物がよく出てくる。生命の象徴として扱われているだと思う。スカイツリーもその名の通り、ツリーとして扱われているのだろう。特にスカイツリーは世界の中心のような扱いで、平山の生活圏のどこからでも見える。
公共トイレが舞台になるのは、本作がユニクロの取締役が発案した「THE TOKYO TOILET」プロジェクトが発端となってできた映画だからだ。なぜ公共トイレを発案したかというと、トイレは誰もが使う場所であり、多様性にも通じるからだ。
トイレ掃除をしている時の平山は黒子に徹している。利用者が入ってくることもあるが、平山はほとんど存在しないものとして扱われる。多様性を維持するために身をささげる、というのが平山のミッションだともいえる。
そして、トイレ掃除といえば禅的な行為でもあり、彼の質素な生活を印象づける効果もある。
おもしろいのは、平山の生活というか動作のひとつひとつが細かく描写されるのに、彼はトイレにいかないのだ。排泄をしないわけはないので、彼が奉仕をする立場に徹しているという演出意図なのだろう。
本作はポール・オースターの小説「オーギー・レンのクリスマス・ストーリー」すなわち映画「スモーク」で、ハーヴェイ・カイテルが毎朝同じ時間に同じ場所で撮り続けた写真をアルバムにして、「同じ写真に見えるが、一枚一枚全然違うんだ」と語るエピソードを思い出させる。
人生は同じことの繰り返しのように見えるが、実際には日々違うのだ、というのが本作にも共通するメッセージだと思う。
製作費は不明。興行収入は2023年11月29日の段階で2億8千万円。あまり売れているとは言えないが、言うまでもなく批評家受けは良い。なにも考えずに楽しめる娯楽映画もよいが、本作のようなさまざまな解釈が成り立つ作品が作り続けられることを願っている。
木漏れ日、光と影
「TOHOシネマズすすきの」が11月にオープンした。
本道初上陸
思い立って行ってきた。
(使い勝手が良さそうな映画館)
金曜日・11時スタート
165席のほとんどがうまる盛況だった。
役所広司の滋味溢れる表情。
前半はほぼ無言。
ずうっと見ているだけで充足する。
ヴィム・ヴェンダース監督はたった16日間で撮影を終えたと言う。
(とても信じられない・・・つまり完璧に準備されていて、
(日本人の気質で、とてつもなく緻密で完璧な準備がなされたろう、
(平山の住居、粗末な二階建て、二階が二間、一階はほぼ台所しか
(見えない、台所には洗面を兼ねた流し台と瞬間湯沸かし器、コンロ、
(そして出しっぱなしの寝具・・・日本の和室で押し入れがない?
(なんと、
(隣室の押し入れは透明なコンテナで完璧な収納場所になっていた)
しかし16日と聞いて納得した。
平山一週間のルーティーンを確かに2回
繰り返している、
THE TOKYO TOILET CLEANING(?)のツナギの服は、
一週間の休日にコインランドリーで洗う。
平山が明け方に起きたて仕事に出かけたのは14回か、15回、
・・・だったかも知れない、
この映画はパーフェクトな以上にミラクル、
完成は奇跡だ、
ヴィムの撮影期間にアクシデントがひとつも起こらなかった、
地震も、台風も、交通事故も、スタッフの病気も、
ヴィムの健康も・・・
そして何より驚くのは、
アートな東京のトイレットットたちだ、
(特に建築家の坂茂=ばん・しげる設計の、外から見ると透明で、
(ドアを閉めるとオレンジ色のガラス面に変わる、
(慎ましく可愛いらしいトイレ、
(中に入ると楽しい、そうだが、そこは体験しないと分からない)
役所広司はこの平山という名の男を何ヶ月で作り上げたのだろうか?
役所は全身をカメラの前に差し出した。
心の中の全てを晒け出した。
結果、平山の心の揺れ、
朝イチに吸う空気、
見上げる東の空、
他者と触れ合い、
新鮮なフルーツのように繊細で傷みやすく傷つきやすい
心のひだひだ、
心の美しさを全て差し出した。
その心と身体の断面は顕微鏡で見た植物の葉痕のように
美しい、
ただただ美しかった。
トイレ掃除の無駄のない動き。
そのきめ細かい段取りと丁寧な仕事ぶり。
掃除用具の多彩さにも驚く、
隅から隅まで舐めるように磨き上げる
綺麗になったトイレットは平山の心に充足を与えているようだ。
起床して寝具をたたむ。
洗面をして髭の手入れ、
玄関に並べてある車の鍵、ゴツい時計、剥き出しの小銭を
順番にポケットに入れ、家の前の自販機で缶コーヒーを買う。
そしてカーステレオにカセットを操作して入れる。
「朝日のあたる家」byアニマルズ。
美しい朝のスタートにぴったりの曲だ。
ヴィムさんの東京は数少ない私が東京に持つイメージにとても似ている。
羽田行きのモノレールから見える景色だ。
首都高速に乗り古びた立体交差が見える、
決して瀟洒ではない庶民の住む家々。
二階建てで築50年はざらだ。
そんな東京に合っているのかいないのか?
お洒落なトイレットたち。
寄せ木細工のような木造だったり、子供たちで賑わう公園のトイレだったり、
平山はずうっと最後まで無口、
その方が、良かったのだけど、
でも周りの人が平山を黙らせてはおかない。
賑やかな後輩の柄本時生、
GFのアヤ(アオイヤマダ)は曲に一目惚れして平山のカセットテープを
掠めていく。
好き過ぎて返せなくなった曲はパティ・スミスの
「Redondo Beach」
妖精のような妹の娘・ニコ(中野有紗)が母親(麻生祐未)と喧嘩して
家出してくる。
平山は優しい・・・寝室を譲り台所で毛布にくるまる。
早起きして足をしばせ用意していると、ニコは仕事に付いくと言う。
いつもの神社の下にある大木の側のベンチで
サンドイッチの昼食。
ニコが言う、
「この木はおじさんの友だちなの?」
僧侶(平山)と妖精(ニコ)はふたりで
おじさんの木の
木漏れ日を見つめる。
妹がニコを迎えてきて言う、
介護施設に入ってる父親のこと、
「昔とは、違うから・・・
「会ってやって・・・」
頑なに悲しげに拒絶する、
恨み骨髄・・・なのか、
合わす顔が無い・・・のか、
どちらなのか分からなかったが、わだかまりは深そう、
平山の涙が語っている、
作品と同タイトルのルー・リードの「Perfect Day」
スナックの歌の上手いママ(石川さゆり)は言う
「毎日が変わらなければいい、ずうっと・・・」
今日と明日が違うから人生はステキ・・・
「Perfect Days」
新しい夜明け、
新しい一日、
新しい人生、
ラストで歌われるのはニーナ・シモンの、
「Feeling Good」
小さな幸せを見落とさない生き方
鑑賞したのは年の瀬。
訪れた映画館で「今年最後の映画かな」と思い何となく選んだ。
結果、見終わった感動の余韻は年始の今でも残っています。
慌ただしく生きていると見落としがちな小さな幸せ。
それが日々を丁寧に生きる事で
小さな発見に心踊らせ、
優しさに感謝し、
空や木漏れ日に美しさをみて、
幸せと喜びに浸り1日を終える事が出来る。
その反面、時には哀しみにも気付いてしまう…
そんな平山の些細な感情の変化を語らずとも、
平山の背景や感情を想像させる役所広司さんの演技が本当に素晴らしかった。
表情に現れる喜びや悲しみに感情移入させられ、何度も目に涙が登ってきた。
一年の締めくくりにとても良い映画を見させて頂いた。
映画の平山に出会えた事に心からの感謝です。
何とも切ない映画
主人公の平山だけでなく登場人物全員やるせない気持ちを抱えながら生きている様子が伝わってくるが、あまり多くは語られない。各々それを噛み締めながら生きていて、それこそが人生なのだと痛感させられた。
質素な初老の男の日常映像に惹かれるのは、現代でありながら彼だけ過去に生きているかのような演出だからかも。4:3という珍しいアナログテレビ時代の画面比率、音楽もカセットで聞いているし、昔ながらの銭湯通いは何とも昭和的。
ラストシーン、平山は全然「feeling good」ではないと思う。ただ、そう自分に言い聞かせながら苦痛のなかを生きているだけなのではないだろうか…
一見、毎日穏やかに過ごしていて、そんなパーフェクトデイズな生き方に憧れるなぁ〜っと見せかけて、実は自身の罪を清算する刑務所の規則正しい生活のなか、小さな幸せを見出す囚人の映画のようでもあるなと感じた。
ありのままではない男の美しい生き方。外国人監督の観た、ありのままではない美しい東京。
正月早々、とても良い映画を観た。
役所広司の「表情」で、映画の7割方ができている。
真摯で。温和で。思いのほか、感情豊かな。
これがもし、苦悩を秘めた深刻な表情を湛えていたなら、本作はまるで別の映画になっていただろう。たとえば、マックス・フォン・シドーのような。
でも、ヴェンダースは役所広司に、
少年のような探求心と集中力を秘めたつぶらな瞳で、
繰り返される単調な毎日を前向きに受容し、
ちょっとしたよしなしごとに微笑みを浮かべ、
常に「下」ではなく「上」を見つめている、
そんな男を演じさせた。
平山は日々の生活を肯定している。いや、肯定したい。
ヴェンダースは平山の生き方を肯定している。いや、肯定したい。
『PERFECT DAYS』は、その「せめぎ合い」の映画だ。
この映画の漂わせる「肯定感」は、ヴェンダースが「信じたい」生き方を必死で模索し、それを平山(役所)が必死で「演じている」からこそ生まれる、不思議なグルーヴである。
この映画の東京が、ありのままに美しいのではない。
この映画では東京を「美しく見せようとしている」のだ。
同様に、平山の人となりや生き方が美しいのではない。
平山は自らの意志で「美しく生きようとしている」。
そして、監督がそれを「美しく見せようとしている」のだ。
たとえば、この映画は「トイレ掃除」がモチーフの映画なのに、
糞尿や、嘔吐物や、濡れたチリ紙といった「汚物」が全く出てこない。
(部下の台詞のなかで示唆されるだけだ。)
あるいは、貧困のネガティヴな側面もきれいさっぱり描かれない。
平山の所作もまた、貧困層のそれではない。
すべての動きに「型」があり、「リズム」がある。
ポケットの中のものを整然と並べ、またそれをしまう。
真っ白に洗われた使いふるしのタオルを首にかける。
手際よい手順で、神業のようにトイレを磨き上げてゆく。
彼の在り方は、どちらかと言えば「禅僧」のそれに近い。
毎日、同じルーティンをこなすこと自体に意味を見出し、
糞掃衣(ふんぞうえ)を着て、修行の一環として
一心に東司(禅寺のトイレ)を清掃する。
そんな僧侶の示すような、清浄さがある。
いい方は悪いが、
ヴェンダースと出演者は「グル」になって、
東京の美しさと、清貧の生活の尊さと、トイレ清掃労働の清廉さを、
「でっちあげている」。まあ、そういうことだ。
だから、平山の生き方は、一見、小津映画の登場人物のそれのように見えて、そうではない。
たとえば『東京物語』において、笠智衆と東山千栄子の老夫婦の佇まいがただ「ありのままに」美しいのとはまるで異なって、平山のそれは決してありのままに美しいのではない。
彼は(おそらくなら)資産家の跡取り息子の地位を捨てて出奔し、「この生き方を選んだ」人間だ。
アナクロニズムとミニマリズムは、
彼の武器であり、防波堤であり、避難所なのだ。
彼の修行僧のような生活ぶりもまた、なりゆきで身についたものではない。
そう生きようと決めて、必死ですがりついてやって来た、彼自身で選んだ生き方だ。
今の時代、ふつうにしていればスマホくらい使うし、テレビくらい買うし、もっといくらでも便利に生きられるはずだ。それをしないというのは、結局のところわざとそうしていないのであって、彼は時代に抗い、研ぎ澄まされた脳で思考し、自らのプライドと魂を守ることのできる戦略として、この生き方を敢えて「選択」しているわけだ。
会社でただひとり最後の最後までガラホを使い続け、いまだに家のテレビはブラウン管で、ラジカセでクラシックのCDを聴いている僕が言うのだから、間違いない(笑)。
平山のシンプルな生き方は、現代においてはむしろ「普通ではない」。
現代における普通の生き方というのは、スマホを使いこなし、文明の利器の恩恵に浴し、適度に居心地の良い会社で適当にお給金をもらって、なんとなく毎日を過ごしてゆくような生き方であり、平山のそれは、むしろ「こだわり」と「反逆」の人生と言ってよい(だから彼は常に70年代のロックを聴いている)。敢えて目指さないと、今の時代とうてい成立しないような生き方。意地になったかのようにシンプルで昔かたぎの生活を選ぶという意味では、都会のど真ん中で「田舎の自給自足生活」マインドを実践しているようなものだ。
「トイレ掃除」というのも、おそらくなりゆきで選択した職業ではあるまい。
父親への抑えきれないほどの「反骨心」が、彼を職業面での「極端な対極」へと走らせている。その、父親から見れば「下々の」仕事を完膚なきまでにこなすこと――さらにはそこに「生きがい」を見出すことで、平山は精神的な「復讐」を遂げ続けているのではないか。
平山の見せる「笑顔」もまた、そのまま受け取っていいものではないだろう。
そもそも、彼は地面を這う暗い「影」に惹かれながら、
いつも空を眺め、スカイツリーを眺め、雨を眺め、上を向こうとしている。
そんな男だ。
彼の愛する「木漏れ日」は、空に浮かんだ「影」だ。
明るい気分で眺められる、闇を抱えた「影」なのだ。
彼は、そんな闇への傾斜を胸に抱いたまま、そちらに滑り落ちないように、必死で同じリズムを刻み、ペースを保ちながら、淡々と時を過ごしている。
彼にとって、70年代の洋楽は、そんな自分を鼓舞するための「上げていく」音楽であり、そんな自分が幸せだと言い聞かせるための「セルフ洗脳」の音楽でもある。
彼は、日々の何気ない日常に異なる「BGM」をつけることで、それを「特別な日常」に変えてみせる。ちょうど高校時代の僕が、学校の行き帰りにそうしていたように。
彼は、ああ見えて、情動の強い男だ。
普通の無口な男は、何年も会っていない妹を、いきなり抱きしめたりしない。
普通の無口な男は、通い詰めてるバーのママが誰かに抱きついていたからといって、あんなに取り乱したりしない。
平山は、本当は人一倍、感情の起伏の激しい男なのだ。
感じやすく、涙もろく、ちょっとしたことで無様に揺れ動く。
そんな自分を律しながら、彼は敢えて単調な日々を刻んでいる。
あの印象的なラストシーンはまさに、あふれ出る感情に抗いながら、なお無理やり微笑んでみせようとする、平山という男の内的闘争が「表情」に刻印されたものだ。
小津は、そのへんのありきたりの人々の何気ない日常を、美しく描いた。
ヴェンダースは、資産家あがりのインテリ崩れが戦略的に選びとった、昔ながらの何気ない日常を目指す涙ぐましい日々を、美しく描いた。
前者を称揚しつつ、後者には抵抗を示す観客がいても、僕はちっともおかしくないと思う。
平山のPERFECT DAYSは、しょせん「まがいもの」だからだ。
でも、僕は、そんな平山の生き方を、ただ美しいと感じた。
生きたいと願う生き方を目指す生き方を、僕はただ尊いと思う。
今の日本で、昔の邦画のような生き方を目指す平山に、僕は親近感を覚える。
そして、それを「肯定的」に描いてみせたヴェンダースに共感する。
渋谷区のトイレのPRプロジェクトという得体の知れない枠組みのなかで、押し付けがましくない形で、平山という男の日常を、生き方のモデルケースとして示してくれた監督の手腕に、素直に敬服する。
― ― ―
『PERFECT DAYS』は、小津リスペクトの「古き良き邦画」の懐古的フォロアー作でありながら、海外の視点から「美しき日本」を選び取って並べてみせた「ジャポニスム」と「オリエンタリズム」の映画でもある。
ここには、ヴェンダースの感性で「濾しとられた」日本の風物が、これでもかとばかりに並べられている。
東京スカイツリー。古いアパートのごみごみした街並み。首都高(タルコフスキー!)。
畳敷の部屋。布団の上げ下ろし。濡れ新聞を用いた掃除。盆栽。
神社。竹ぼうき。鳥居。一礼してくぐる主人公。
銭湯。ペンキ絵の富士山。入浴の作法。コインランドリー。
プロ野球。大相撲。一杯飲み屋。浅草の地下街。下北の中古レコードショップ。
隅田川の夜景。下町に上る朝日。雨に濡れる街角。
そこに、汚いもの、見苦しいものは、いっさいない。
すべては浄化され、概念として美化され、結晶化されている。
そもそもトイレというモチーフ自体が、「美しき日本」の際たるものだ。
ウォシュレット。いつもピカピカの便器。温熱便座。
定期的な清掃。上質のトイレットペーパー。
日本のトイレは、世界的に見ても、東洋の神秘と言っていい優れものだ。
日本人である僕が海外旅行しても、ウォシュレットがない国じゃ暮らせないなと思うくらい、日本人の「排泄まわりの浄化への情熱」は、図抜けている。
ヴェンダースが、なぜ渋谷のトイレPRみたいな奇妙なハンパ仕事を受けたのか。
それは、彼が「磨き上げられたトイレ」に、日本の最良の部分を見出したからではないのか。(パンフが売り切れてたから、当て推量に過ぎないけど)
ちなみに、海外における「こんまり」ブームにしても、禅的な思想やアニミズムと結び付けて受容されている部分が大きい。海外の人にとって、日本人の整頓好き、綺麗好き、清潔好きは、ある種の「日本の神秘」の一環なのだ。
それから、渋谷の前衛的デザインのトイレ群は、新と旧が交錯するトポスでもある。
最先端のデザインが、神社や公園といった古い日本と交じり合い、
公園では、子供と大人、社会人とホームレスが間近に交流する。
ヴェンダースは、「渋谷」の「公園」にある「デザイナー・トイレ」と、それを清掃する「浅草」から通うアナクロ趣味の男の取り合わせに、過去と今、聖と俗、ハレとケが渦巻く日本の象徴的な「場」を見出したのだろう。
『PARFECT DAYS』の面白いところは、外国人監督から見た「日本」のイメージ動画になっていると同時に、日本人から見ても大して違和感のない「日本」のイメージ動画にもなっていることにある。
海外客の視点から見た異邦としての特別な日本。
日本人にとっての日常としてのありふれた日本。
両者が混淆し、いっしょくたになり、外から見ればやたらリアルで、内から見ればやたら新鮮な、独特の視座を提供してくれる。
しかも、汚いモノや汚い心は描かない。
透徹とした美しい日本の風物と、美しい日本の清貧たる生き方を、肯定的に呈示してくれる。
海外の観客が見れば、日本への幻想と憧れが掻き立てられる。
日本の観客が見れば、忘れそうになっていた懐かしい日本を満喫できる。
そんなヤヌスのような二面性をもった、「どちらも良い気分にさせてくれる環境映画」にきちんとしあがっている。
だから、僕は思ったのだ。とても良い映画を観た、と。
以下、どうでもいいことを箇条書きで。
●「金の力で外様をかき集めて」と揶揄されているのが読売巨人軍で、思い切り「外様」として映っているのが、丸と中田なのは笑った。
●洋楽は詳しくなくて、アニマルズくらいしかわからず。歌詞を全部聴き取れたら、ずいぶん見ている印象も変わるんだろうな。
●新人の姪っ子、可愛い! いかにもヴェンダースが好きそうなクセ強系美少女。
●最初に読んでいるのがフォークナーの『野生の棕櫚』。それから幸田文の『木』。
石川さゆりが、初見で「幸田文」を「こうだあや」と読んでいたが、ふつうは読めないと思うので(「ふみ」っていうと思う)、ママもさりげに隠れインテリなのでは?
●パトリシア・ハイスミスの『11の物語』がシレッと出て来てびっくりしたが、考えてみるとヴェンダースは『アメリカの友人』を映画化してたよな。ちなみに日本を代表する翻訳者の柴田元幸が、なぜかカメラ屋の店主役で出ていた。
●実は、ラストシーンにはあまり共感していない。なんていうのかな? Too muchっていうのか?
石川さゆりや、麻生祐未や、三浦友和のシーンは、なんか「やりすぎ」感があっても、みんな芸達者でもあるし、まだ好意的に受け止められたんだけど、あのラストは、個人的には化学調味料がききすぎてる感じがあった。『時の翼にのって』(93)で僕を幻滅させた「不必要な通俗臭」がしてね。
10のうち7ぐらいっすね
東京おしゃれトイレ図鑑×便所掃除おじさん役所広司を愛でる作品(で、オゲ?)。展開は、ヴェンダース監督のお友達、ジャームッシュのパターソン同様、同じことの繰り返しの中に差異を見出し、主人公・平山の背景や過去をこちらが勝手に想像しつつ何かが起きるのを期待するというものだが、イイ話でしょ感にもやもやが残った。
便器の裏まで鏡で確認するトイレ掃除はそのうち素手で磨き出しそうな美談風味がそもそも気になるが、平山には学や教養がありそうで、ケロヨン顔のアヤがキスしてきたり家出した姪っ子が転がり込んできたりと、またなぜかモテモテで…。もしかして清貧な暮らしは金持ちで育ちのいいおっさんの道楽か?とうがった見方ができなくもないが、前日に観た枯れ葉の登場人物以上に平山が無口なので真相はよくわからない。
スカイツリーに銭湯に浅草の飲み屋などありきたりなジャパン描写や、柄本キャラの漫画っぽさ、この世界は本当はたくさんの世界がある…とか、わ、くっさ!なセリフ回しも含めて、日本も日本語もわかっている日本人からすると、海外の名匠が撮ったトーキョー・ファンタジーという感じ。元々本作は製作のユニクロ柳井絡み企画とのこと。そう言われると急に端々がユニクロのイメージTVCMっぽく見えてくる…。
いろいろ言ったが、昨年パールでミア・ゴスがすでにやったラスト役所の顔芸まで、124分は飽きずに観られる(フォロー)。まあ、今の日本は同じユニクロでもおしゃれCMの方ではなく、郵便受けにポスティングされる安売りチラシの方だと思うので、ヴェンダース監督には次はそっちの方向で撮ってもらいたい(無茶)。あと、石川さゆりママには朝日のあたる家の日本語版ではなく、津軽海峡冬景色でこぶしを効かせてもらいたいところ。
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