PERFECT DAYSのレビュー・感想・評価
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そうなりたいか、なりたくないか
古くからの友人に勧められてお正月に妻と鑑賞した。
役所広司演じる平山のようになりたいか、そうなりたくないか。これがテーマ。
自分はそうなりたくないと思い、妻はそうなりたいと言った。
歳を重ねていくに従い同じような毎日を余儀なくされる現状に対して、あたしはどうにかして抗おうとしている。例えば新たに出会う人の多さが自分の価値になるようなイメージ。
そうしないと自分が停滞しているように感じて、まるで子供のころに自分だけ遊びに誘われなかったような感覚になり怖くなってくる。
ただこの想いは自分がいまの自分として存在する大きな原動力にもなっているし、自身の今後の成長の力にもなるはずだ。
だってそうしないとなまけちゃうもん、あたしは。
そんな想いを持たずに(持たないようにみえて)生きていく平山は生きていく意味があるのかなぁと感じた。
※あくまで自分が平山だったらという考えで自分ではないそのような人をダメと言っているわけではない。
一方で日々の中にいつもあるものが今日もそうであったことを幸せに思えるならば、そんな幸せなことはないだろう、というのが妻の言い分。
だったらそんなにたくさん服を買わなくても良いし、すぐにやめちゃった合気道用のマットも要らんかっただろうに。。アフリカンダンス用のあのカラフルスラックスも寝間着に格下げされちゃってるし。
そっかそういう自分を律したいって思っていたのかな?そうだね、なかなか思い通りにはならないもんね。
これ以上聞くとけんかになるから聞かないけど。
50歳になる年の初めにみて、自分を見直す良い機会をくれた映画でした。
もう一度観たけどやっぱりいいな〜
パーフェクトな大人の寓話
これは困った、非常にマズい。今年もあと1週間を残すばかりとなって、2023映画ベスト10もほぼ選定を終えたところへ、こんな凄い作品を観てしまうとは。ベスト作を含めて急遽もう一度考え直さねばなりません。
渋谷区の公衆トイレの清掃会社で働く60代の男の日常をビム・ベンダース監督が描いた作品です。もうそれだけで鑑賞が決定し、公開を楽しみにしていました。
男の部屋にはテレビもパソコンもなく、70~80年代のカセットテープと文庫本があるだけです。日の出前に起きて歯を磨いて、家を出て缶コーヒー買って、幾つもの公衆トイレを丁寧に洗って、仕事が終わるとちょっと一杯やって、風呂屋に行って、本を読みながら寝る。その毎日が淡々と描かれるだけで、大きな事件は何も起きません。ほぼ全ての場面で男が映りっぱなしで、彼を演じる役所広司さんの台詞も全編で脚本半ページほどしかないでしょう。しかし、彼の周りでの小さな出来事、ふと出会う人々から遠くゆっくり世界が広がって行くのが分かるのです。そして、過去に何かがあったらしい彼の悲しみがその世界を深くします。
生きて行くのに本当に必要な物だけに囲まれて都市で暮らすのは現実には難しいし、トイレ掃除も実際には様々なトラブルにも見舞われるでしょうから、これは大人の童話と言えるでしょう。でも、こんな豊かな世界が本当にあるのかも知れない、悲しみを湛えながらも穏やかに生きるこんな人になれるのかも知れない、もしかしたら・・と見る人に思わせる優しく静かな作品でした。
追伸1:石川さゆりさんが「朝日の当たる家」を唄ってくれるあんな小料理屋があったら、お酒の飲めない僕でも毎日通ってしまうなぁ。
追伸2:作品中盤で、スクリーンの右隅にビム・ベンダース監督自身が映っていたんじゃない? 気に成るなぁ。
やっと見ることが出来た
ヴェンダースの映画は80年代くらいから見始めて、それから遡ってデビュー時から辿る位ファンだった。時々とんでもない駄作を撮ることもあるけれど、それでもその青臭さも含めて好きだった。それで今作。オリエンタリズムではないリアルな東京がヴェンダースのフィルターと役所広司の演技でみられる。カンヌ映画祭で受賞もしている。見たドイツ人は皆よかったという。それでも、なかなか素直に映画館に行けない心のブレーキがあった。あまりにも身近な日常が対象として選ばれているので、それが理想化されることへの反発があったからだ。やっと配信サービスでみて、やはり先入観にたがわない感想を抱いた。ヴェンダースの「脳内理想生活」と現実の日本との乖離を感じずにはいられなかったのだ。ルー・リードのカセットを聴く60代の日本人なんてほぼいないし(日本の高齢者は演歌しか知らない)、パティ・スミスの歌詞を理解し、口ずさんで涙するガールズバーの店員なんていない。朝二時間だけの清掃業で生活はできない。平山は年金受給者なのか?不労所得でもあるのか?外から見ると1Kのボロアパートの内部がなぜ二階建てになっていて広いの?ミニマリストばりの質素な部屋には生活感がない。小津映画からタイムスリップして現代に降り立ったかのように、それでも太陽の光を避け、カーテンを閉めて植物を育てる平山は、やはり現実離れしている。この映画が映し出す東京は、ロードムービーの名手であったヴェンダースが老境に入り、辿り着いた仙人境なのだう。
平凡な人生などない
あんな生き方に憧れる自分もいる
パーフェクトデイを見た。トイレ掃除の仕事をしている男の日常のルーティンが繰り返される。淡々としている話なのに2時間弱飽きなかった。
それは、見た人は感じるであろう男の背景にあるのだろう、多く語らず小さいシーンで、この人多分こういう人と感じてくるにではないかと思う。
多分前職は大企業の御曹司だったのかなと思いながら見ていました。後でそんな匂わせ方がありますが、自分から人に絡まず、心すら開かず必要最低限の会話のみ、世間に背を向けるような生き方に過去の出来事に想像が及んでいく。
また、ランチに登場するOL、同僚?の彼女のやりとり、◯✖️など、説明を排除して観客に自然と考えさせる。多分日本人監督では違ったのでは?と考えてしまった。
きちんと整理されてる部屋、そこに目立つカセットの棚、どこの家にもあるであろうと思うPC、テレビはない。
そんな男が姪の登場に嬉しそうに会話をしている。流しで寝る彼の周りには片付けられて多分2度と開けあられないんだろうなと思う荷物の山が置かれている。
仕事中は腕時計をせず、休みの日は時間を惜しむように時計を手に取る。
時間に追われることなく、だれにも干渉されず、メールを気にすることなく、世間のニュースを見ることもなく、誰に気を使うわけでもない、仕事や世間に疲弊した男にとって、そんな毎日の生活がパーフェクトなのでしょう。
日々の自分の生活に合わせて見てました。でもまだ何もかも嫌という域には達してないと感じた。
いい映画だけどちょっと長い
淡々と繰り返される清掃のお仕事をする日常。
何かありそうで、何も起こらないのがまさにリアルでした。
隣で寝ている人に団扇をヒラヒラと扇いであげたり、神主さんに向かって「この苗木!芽吹いてますよ!素敵なので持って帰って育てていいですか!?」と手を広げたり、平山さんの一挙一動が細かくて可愛らしくて、無口な性格も相まってとても魅力的な主人公でした。
日常の細かい描写を追うのはとても楽しかったですが、映画として起承転結を求めてしまう私の感性が邪魔をして、ちょっと長めに思えてしまった事が残念です。こういったゆったりした映画を楽しむ余裕さえなくなっちゃったんだな……と悲しくなりました。
最後の影踏みはファンタジー要素(どうして平山さんのいる位置が分かったんだ?や、お酒飲んでるけどここまでコミカルな動きするかな……?)がちょっぴり邪魔して世界観が曇りましたが、最後のなんとも言えない、感情の入り交じった平山さんの笑顔で全てキレイに流されていきました。
平凡な日々の中で動かされる感情
物静かに淡々と流れる映画。
トイレ掃除として同じ毎日を送る日々だが、人間の少しの幸せ少しの悲しみが、心に響く。
セリフがほとんどないし、主人公の平山の過去は全くわからないし語られない。でも何かあった事が分かる。
前半は淡々とプロのトイレ掃除を見せられた。TOKYOの色んなトイレが、また楽しませてくれる。その中に関係してくるタカシとニコ。決して深くは語られない二人の登場人物とら平山との関係性がまた感じさせられるものがある。
そして、後半のニコの登場からは、平山の平凡な日々や感情もガラリと変わったような気がする。何か過去を振り返るような。
最後の笑い泣きのシーンは感ずるものがありました。さすが、カンヌの男優賞だと唸らせてもらった。
主役の役所広司さんがほとんど口をきかないのも良い
良い映画でした。私の好みの映画です。
丁寧で、破綻していない映画。
最初のカットから良い映画だと感じたし、ラストにまた同じカット割で映画を締めるのが心憎い。
主役の役所広司さんが、ほとんど口をきかないのも良いですね。
ラスト前の長回しの表情だけの演技には、感情が引き込まれてしまいました。
一年のラストを飾る名作を観ることができて満足しました。
便器はブラシで掃除しないと普通に汚い。「日本を美しくする会」じゃあるまいし。
不特定多数が利用する公衆トイレの掃除は、ゴム手袋だけじゃなくて、ブラシをちゃんと使ってほしいです。(日本を美しくなる会、とかが推してるやつですよね。政治家にも信奉者がちらほらいて本当無理。教育現場とかにも入り込んででやらされてる児童にはトラウマです)見てて気持ち悪くなりました・・・・
便所掃除にブラシを使っていない時点で無理なのですが、
女性たちとの関係もすごく不自然。
金髪の若い子からのほっぺたへのキス。
姪っ子は風呂なしアパートに転がり込んできて「神田川」的シチュエーション。
飲み屋のママからも贔屓される。
話が合う書店員女子。
などなど、あらゆるジャンルの女性にほのかな好意を寄せられてて、なんかおじさんが気持ちよくなる要素が詰まった映画ですね。
最後のクレジットで「日本を美しくする会」が入ってないか凝視してしまった。
「日本財団」はありました。
わからん人は置いていく働くおじさん
さすが役所広司主演作
不動のルーチンと変わりゆく時の流れの対比
平山さんは毎日変わらず自分の規則に沿って生きているし、積み重なる文庫本や写真缶からも分かるように、同じものだけをずっと大切にしている。スマホは持たないし、カセットテープで音楽を聴く。いつから変化をやめたのか、そこまでは推し測れないが、平山さんはずっと変わらない。
それなのに同僚は突然仕事を辞め、会いに来た姪(実際には、娘?)とは、また離れ離れになる。
「こんどはこんど、今は今」。でもそれは、自分の為の言葉なのでは?
今度っていつ?そう聞かれていたけれど、平山さんが一番知りたいことだったりするんだろうな。
そして好意を寄せていたスナックのママには、元旦那が会いに来る。元旦那は癌で先が短いという。変わらない完璧な日々なんてなくて、完璧は毎日形を変えながらそこに存在している。自分は変わらずに待っていても、一切は通り過ぎてしまう。同じように見える毎日も、少しずつ変化していて、同じ日はもう戻ってこない。
ルーチンに固執する平山さんだからこそ、痛いほどそれが身に沁みて、最後に泣いていたんじゃないかな。
この映画、そんなに良かったですか?
皆さんのコメントを読んでるとすごいべた褒めなんだけど。
なんか最初から海外での上映を意識してる作品だよなぁ、英語の歌をテープで聞いたり。兄、妹で抱き合ったりする????実際、当方(女性)、兄がいるけど抱き合ったことなんて人生一度もないよ???
てことで、すごい違和感ありあり、って思ってたら監督がヴィム・ヴェンダースって
ドイツ人てことで納得。日本人の監督なら車で聞く曲は日本語の曲だったろうし、兄妹がハグする場面もないよ。
それにしても高倉健さんの「あなたへ」もそうだったけど、寡黙な主人公の映画には必ずおしゃべりで絡んでくるその他の人たちが登場する。基本トイレ掃除は一人でするものだと思うけど。だから仕事仲間と顔見知りになってお互い干渉するような関係まで行くようなことはないと思う。あと、長いこと会ってない親戚のおじさんのところに泊まりに行くような姪とか、ありえない。年頃のお金持ちの女の子よ??家出したからって古いアパート暮らしのおっさんのところに行くことは絶対、ない。しかも公衆トイレの掃除を手伝うとか、絶対ない。
あと、使用した作業着を部屋に干してるの。これもないでしょう、と思った。排泄物は排泄された瞬間から汚物になるので、もし「それ」がついたままの作業着が部屋のなかにあるのは問題。使用した作業着はそのあとすぐ消毒して洗濯しないと、ほかの洗濯物も汚染してしまうので注意が必要なはず。実体験として介護にかかわったものとしてはそういう点も気になってしまう。
ストーリーとして全然あり得ない設定で、日本的な描写、というのか、早朝から掃き清める風景、銭湯、など。当方、東京23区暮らしですが、集合住宅ばかり。
まぁ、そんなこと言っては毎日判で押したような彼の人生が延々と描かれるだけになってしまうから時々人とのふれあいを描くことで変化を持たせる演出になってるわけだけど。
たまたまアマゾンプライムで見たからセリフが全部字幕で出てたので英語の曲の歌詞も字幕に出てて理解できた。で、この曲ってこんな歌詞だったんだ、って発見はうれしかった。当方英語の勉強は多少してきたつもりだったけど曲のヒアリングは全然できてなかったんだ、って改めて思い知った。ほとんどの曲は知ってた曲だったんだけど。これだけは拾い物だった。
幸せは自分で決める
素晴らしい作品でした。
余白のある映画は、映画を通して自分のことにも目を向けることができるので素敵です。
"こんな今が嫌だ、変わりたい!"というのも、人生のモチベーションとして素晴らしい。
でもイヤごとばかりに感じていたら、全然幸せじゃないよね。
平山さんの「パーフェクト」=幸せな1日。
いやいや起きる朝ではなく、1日が始まる幸せを噛み締めている。
朝のカフェオレ(ブラックじゃないのがリアル)
仕事へのこだわり
木漏れ日の入るお気に入りの場所
カメラ
植木への水やり
銭湯、居酒屋、本屋、スナック
平山さんにとっての"perfect"なルーティンが自分の日常にも確かにある。
無口な人として前半は描かれているけど、決してそうではなく、ただ不要なことを話さないだけ。コミュニケーション能力は大いにある。
後半はそんな、平穏で完璧な日常が外的な刺激によって、掻き乱されていく。
姪との再会。
家族との交流が幸せそう。
「世界は1つの様に見えるけど、たくさんの世界がある。にこのお母さんと僕の世界が繋がらなかっただけ」
そうなんだと思う。
ひとりひとりの世界があって、交わることがあって、それはすごく嬉しかったり幸せなんだけど、絶対に交われない世界観もある。
お姉さんとの再会。
最後の抱擁にドキッとした。
平山さんの切なすぎる表情。
お姉さんも嫌味の様な言葉を発しているけど、本当は愛情があってのことなんだと思う。
お金じゃなくて、好きなお菓子を持っていくあたりもすごく思いを感じた。
この場面で重なるのは、スナックのママさんと三浦友和さんのシーン。
こちらもただならぬ切ない表情が印象的だった。
そこから平山さんとお姉さんの間に、ただの家族愛よりも、もっと深い愛情を感じる。
最後のシーンはどういう感情か?
一度見ただけではわからない。
人と触れ合うことで傷つくこともある。
それもまた人生の幸せなのだろうか。
幸せとは一体何なのか。
変わること?変わらないこと?
幸せとその奥にある深い悲しみを感じる、役所広司さんの演技は素晴らしい。
とても"人間"を描いた作品である。
カセットから流れる昔の洋楽が、一気に東京の見え方を変えた。
光と影など、映像もすばらしい。
エンドロールで流れる
"KOMOREBI"の和訳です↓
「風に揺れる葉によって作り出される光と影のきらめきを表す日本語。それはその瞬間に一度だけ存在します」
「今度は今度、今は今」に込められたヴェンダースのメッセージ
カセットテープが主人公の平山を象徴するものになっている。カセットテープの全盛期は1980年代、バブル景気の頃とぴったり重なる。
また画面が4対3のアナログの画面比率で、カメラが常に平山にフォーカスしているので、何か理由がありそうだ思ってちょっと調べてみた。
そしたら画面比率16対9のハイビジョン試験放送が始まったのが1991年11月で、これはバブル崩壊の時期とほぼ一致する。
これらのことから分かるのは、おそらくバブルの頃に平山の身に何かが起きたということ。
バブル崩壊で多くの人の人生が狂わされたから、平山の人生もそこで大きく変わったんだと思う。
平山がスマホのアプリすら分からないアナログ人間だということは、姪っ子のニコとの会話でも分かる。
(ちなみに平山はガラケーを使っているが通話機能以外使っていない)
つまり、平山の人生はバブル崩壊とともに時が止まっていて、平山はその後30年以上アナログ人間のままで生きてきたってことを画面比率とカセットテープで語ってる。
物語終盤で平山が妹と再会するシーンがある。
運転手付きの高級車から降りてきた妹が、娘のニコがお世話になったお礼に「これ好きだったよね」と言ってオシャレな高級菓子っぽい紙袋を手渡す。
このシーンから分かるのは平山も昔は裕福だったということ。
そしてかつて父親との確執があって、父親がボケてしまった今でも会いに行く気にはならないということ。
つまり父親に対するトラウマが相当深い。
これは勝手な想像になるけど、平山は多分、昔父親が経営する会社で働いていて、バブル崩壊で会社が倒産、その過程で父親と大喧嘩して転職、その後色々あって人間不信になって無口になって、他人と関わらずに済むトイレ清掃の仕事に落ち着いた。
そんな感じじゃないだろうか。
そして妹の方は、自力で事業を起こして今の暮らしを手に入れたか、あるいは裕福な男と結婚して今の暮らしを手に入れたかのどちらかだろう。
では平山はいつからトイレ清掃の仕事を始めたのか?
平山は家出したニコがアパートを訪ねてきた時、最初誰だか思い出せなかった。
「大きくなったなあ」と感慨深げに言っていることから幼い頃のニコしか知らない。
ニコが持ってるカメラも幼い頃平山にプレゼントされた物。
現在のニコが十代後半として、見た目の変化で幼い頃の面影がなくなるほど昔というと、せいぜい9~10歳くらいか。(それよりも幼いと、カメラなんてプレゼントしないと思うし)
だとすると、平山が最後にニコに会ったのは、6~7年くらい前だと推測できる。
つまり平山がトイレ清掃の仕事を始めたのはおそらくその頃から。そして妹がそれを恥じたために妹一家と疎遠になってしまったということだろう。
しかし平山はトイレ清掃の仕事に就いて、慎ましい質素な生活に幸せを見いだせるようになった。
その事は田中泯演じるホームレスの存在で強調されている。
ホームレスは樹木に囲まれた公園ではイキイキとポーズ(光合成のポーズ?)を取っているが、ビルに囲まれた駅前の横断歩道では怯えて戸惑った表情を浮かべていた。
そしてそんなホームレスに対し平山は常に共感の眼差しを注いでいる。ホームレスが楽しそうだと平山も笑い、ホームレスが苦しそうだと平山も目に涙を浮かべる。
つまりホームレスが平山の感情を代弁している。平山は人混みが苦手、というか人間が苦手、そして物言わぬ樹木が好きということだ。
平山の樹木に対する愛情は樹木を育てている部屋の照明でも分かる。朝でも夜でも常に紫色の淡い光が当たっていて、平山が24時間惜しみない愛情を注いで樹木を育てていることが強調されている。
ちなみに物語の中で紫色の光が当たる対象がもう一つだけある。平山が休日だけ通うスナックがあるが、そのスナックのママがカウンター越しに接客していて、平山に近づいた時だけママの顔に紫色の光が当たる。
平山はあまり感情を表に出さないけど、樹木に対するのと同様に、ママに対しても好意を抱いていることが比喩的に表現されている。
平山が仕事についてきたニコと神社で会話するシーンがある。
平山は(格差が広がったことによって)同じ場所に暮らしながら接点のない別々の世界が生まれたことを説明しているが、この映画で描いている問題はそれだけではない。
格差が長引くと身分が固定化しそこから這い上がれなくなる。
平山とニコが自転車で並んで走るシーンでは、ニコが「海へ行こう」と提案したのに対し、平山は「今度」と言ってお茶を濁す。
「今度っていつ?」とニコが尋ねると、平山は「今度は今度、今は今」と笑って答える。
ニコの「海へ行こう」という言葉は現状を変えられるかどうかというメタファー。
ニコには今すぐ何かを始めて何にでも成れる可能性があるが、平山の方は今の年齢(多分60歳前後)で急に生活を変えることもできないし、転職も現実的に難しい。
つまりニコには無限の可能性があるが、平山には何の可能性も残っていない。平山に「今度」はない。だから「いつ?」と聞かれても答えられない。だがニコは「今」すぐにいくらでも新しいことを始められる。
そんな2人の世界がひとつになることはない。自転車で並んで走っていても、二つの線がひとつになることはない。隣どうし並んでいても全く別世界の住人だという残酷な現実がここで描かれている。
だから妹がニコを迎えに来た時、嫌がるニコの味方をせず帰るように促した。
一緒に暮らすのは無理なこと、自分がニコの面倒を見るのは無理なことをよく分かっていたから。
そして妹とニコを乗せた車が去る間際、俯いて涙を流した。家族なのに一緒にいられない現実が悲しくて悔しかったからだろう。
また格差というテーマは他のエピソードでも描かれている。
たとえば平山の下で働くバイトのタカシが「金がなきゃ恋も出来ない」て台詞を何度も繰り返してたけど、そう思いこんでること自体が問題。
「金がないから何もできない」という考え方は「金がないから何もしない」という考え方につながり、タカシが底辺から抜け出す機会を永遠に奪うことになる。
そしてこういう若い世代が増えると、格差は縮まるどころかますます開いていく。
実際タカシには全く労働意欲がなく、平山に金を借りて恋人の店に遊びに行き、最後は突然バイトを辞めてしまう。
恋人のアヤにしてみれば、金を借りてまで店に遊びに来て欲しくはなかったはず。でもタカシにはそれが分からない。
(障害者に偏見なく接する優しさがある一方で、金にばかり固執して他のことに興味がない)
アヤはそんなタカシが悲しくて平山の前で涙を見せたんだと思う。
物語終盤、スナックのママの元夫である友山と平山が影踏みをして遊ぶシーンがあるが、平山と友山、どちらも名前に山の字がつくのは意図的なものだと思う。
友山は末期ガンで顔色は悪いものの身なりはそこそこ良くて、それなりにいい暮らしをしてることが窺える。(少なくとも平山とは対照的)
そんな友山が平山に投げかけた「ふたつの影が重なると濃くなるか」という問い。
平山は「濃くなる。何も変わらないなんてそんな馬鹿なことあるはずがない」とムキになって答える。
格差や職業差別がなくなってふたつの世界がひとつになれば世の中はもっと良くなるはず。
2人の影踏み遊びにはそんなヴィム・ヴェンダースの願いがこめられているように感じた。
この映画って平山自身があまりにも寡黙で自分の過去を何も語らないから、観客が勝手に想像するしかない。
でも役所広司の演技が上手いので平山の感情がつぶさに伝わってくる。
特にラストシーンで役所広司が見せる涙の芝居には深く胸を刺された。長回しの一人芝居で、それまで抑えてた感情が堰を切ったように溢れ出てくる。
バブル後30年以上に渡って続く格差の中で、底辺から抜け出せなくなった男の悲哀が滲み出ていた。
普段は穏やかに暮らしていても、思うようにならなかった人生に何の後悔もないはずがない。
特に仕事に対する差別は平山にとって苦痛だろう。
でもそういう生き方をせざるを得なかった、もしくは他に生き方を選べなかったから、その中でどうにか生きがいを見出し、ささやかな幸せを見つけられた。
平山はそのことに満足し充実した日々を送っている。そういう意味でのパーフェクトデイズ。
(金があれば何でもできるのに。と言ってやる気を失ってるタカシとは対照的)
バブル崩壊後広がった格差、二極化した社会、どんな裕福な人間でも公衆トイレにはお世話になっているのに、清掃員の仕事は蔑んでいる。
迷子の我が子を保護してくれた平山を一瞥するなり、礼も言わずにウェットティッシュで我が子の手を拭いた母親。
兄妹としての愛情を持ちながらもトイレ清掃員というだけで平山を拒絶する妹。
ヴィム・ヴェンダースが日本の社会構造をガチ勉して、社会格差と職業差別をテーマに作った映画。
資本主義の象徴のようなスカイツリーの下で、物言わぬ植物のように無欲で質素な暮らしを続けている平山。その姿は物欲に支配されて人間味を失ってる現代人に対する風刺でもあると思った。
※この映画ってほぼ全編平山の一視点のみで描かれてるけど、一部だけニコの視点で描かれてるシーンがある。
平山の仕事が他人の目にどう映っているのか、ニコの視点を通して客観的に描く必要があったからだと思う。
※※「今度は今度、今は今」のシーン。
一つ前の銭湯のシーンから振り返ると分かりやすい。
まず、平山は妹がニコを迎えに来ることをあらかじめ分かっていた。(銭湯で妹に電話していた)
そして妹がニコを連れて帰ったら、もう当分自分に会わせないようにするだろう事も想像出来た。
だから「今度っていつ?」とニコに聞かれても、いつ行くとは約束できなかった。
また銭湯のシーンで平山とニコは何か食べに行こうと話していた。つまり、自転車に乗っている2人はこれから食事に行くところ。
「今度は今度、今は今」
この台詞の表だけを見るととてもシンプルで、ニコとの休日の締めくくり(食事の時間)を楽しく過ごしたい。先のことはとりあえず置いておいて今を楽しもう。そんな意図だと受け取れる。
しかしこの一連のシーンをメタファーとして考えると上記の感想でも書いた内容になる。
ニコの「海へ行こう」という言葉は現状から抜け出せるかどうかのメタファーであると同時に、ニコが折り合いの悪い母親とではなく、幼い頃から慕っている平山と生きていく選択をしたことを意味するものでもある。
(ニコはこの直前の台詞で「私はおじさんの世界とママの世界どっちの世界にいるの?」と問いを投げかけている。これは裏を返せば自分はどっちの世界で生きていきたいか迷っていると受け取れる)
しかしニコが平山の世界で平山と一緒に生きていく選択をしたところで、経済力のない平山はニコに何も与えてやれない。
それが格差社会の現実であり、平山はそれを身に染みて知っている。
だから「今度っていつ?」という質問に「今度は今度、今は今」とはぐらかす答えを返した。この平山の「今度」は問題を先延ばしにしているだけで、ニコの質問に正面から答えていない。
もっと分かりやすく言うと、裕福な世界の住人であるニコは今すぐ「海」へ行けるが、貧乏な世界の住人である平山は今どころか残りの人生をかけても海へ行けない。
つまり平山には「今」どころか「今度」すらない。それでも「今度」という言葉にすがったのは、自分を慕ってくれてる可愛い姪っ子の前で、自分は「海」へ行けないとは言えなかったから。
だからこの物語でこの「今度」と「今」は決して交わらない物の象徴になっている。
ニコの「今」はあらゆる可能性に満ちているが、平山の「今度」は何のあてもなく頼りないもので、何の可能性も残っていない事を現している。
平山はそれをよく分かった上で「今度は今度、今は今」と言っているが、ニコはまだ何も分かっていないので言葉の表面だけをとらえて「今度は今度、今は今」と無邪気に繰り返している
何か起きそうで何も起きない。
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