「季語を間違えた俳句のような残念な映画」PERFECT DAYS 徒然草枕さんの映画レビュー(感想・評価)
季語を間違えた俳句のような残念な映画
公衆トイレ清掃人の孤独な中年男の物語という映画紹介を聞いて、何やら訳ありの過去を秘め、心を閉ざしつつストイックな日々を送るというストーリーを想像した。その過去が映画が進むとともに明かされて、新たな人生に向かう――てなところかと考えてみたら、どうやらそれは大ハズレだったようだ。
いや、表面的にはそんな外観があるのだが、実際は全然違う。ドラマはおろか、明確なストーリーさえなく、ただ淡々と同じ日常と、その変奏曲が描かれていく。
そしてそれらのパートごとに、「丹念な日常」とか、「労働のあとの充実と解放」とか、「行きつけの飲み屋の気の置けない雰囲気」とか、「重い過去」とかの感想が、ほぼ脈絡もないままに浮かび上がる。
それらは関連性が希薄だから、ドラマも人間性も浮かび上がっては来ない。淡々と、何やら次々に俳句を読んでいるかのようだ。
それらのシーンに強いイメージを付与しているのがルー・リードやヴェルヴェット・アンダーグラウンド、オーティス・レディング、パティ・スミスたちの曲。
中でも映画の表題に取られたルーの"Perfect Day"は、この映画と同様、きわめて陰翳に富んだ内容だと思う。
<ボクたちは公園でサングリアを飲み、動物園でエサをやって、映画に行き、暗くなってきたら帰宅する。何て完璧な一日。キミと過ごしていると、まるでボクは誰か良い人間みたいだし…生きていられる>
表面的には「完璧だ」と言いながら、この曲を歌うルーからはただ深い悲哀しか伝わってこないのである。
ルーの曲から主人公の人物像を組み立てていくと、孤独の深い"The Dock of The Bay"ともピタリとハマってしまう。喪失感を歌ったパティ・スミスともマッチする。
ところが、こうした孤独や悲哀といったイメージで映画を見ていくと、主人公は何故か毎日木の写真を撮ったり、飲み屋のママにチヤホヤされたり、彼女の元夫と影踏み遊びをしたり、家出した姪に気に入られて面倒をみたりと、何やらイメージがズレていくのである。
そしてラストのニーナ・シモンの「新たな夜明け 新たな一日 新たな人生の幕開け」と歌う歌詞では、もはや歌詞と人物像とはかけ離れているとしか思えなくなる。
パートごとのイメージを楽しむ映画なのに、そのイメージが途中でズッコケた、当て外れの印象。季語を間違えた俳句…そんな残念な感じを禁じえなかった。