「あれは、紫外線なのかしらね」PERFECT DAYS 加藤プリンさんの映画レビュー(感想・評価)
あれは、紫外線なのかしらね
とても静謐で品があり、メッセージ性も洗練された、素晴らしい映画だと感じました。
絵の素晴らしさも、音の素晴らしさも、とても上質な映画だと思います。
敢えて皆様が特に感じておられない部分を起筆しますと、
私は平山の自宅から漏れる、紫色の明かり(紫外線ライト?)が とても気になっておりました。
それらは名もなき植物の生育を促進するものであり、毒でもあり、浄化の光でもあり、また影でもあります。
影はこの映画のテーマですから、もはや申し上げる必要もない要素だと存じますが
ブラックライトという「概念」は、影でもあり光でもある、この世に存在する世界の、
ギリギリの境界線にある存在なのだと思います。
それは平山の、閉じられながら開かれている心の中に常にあり、漏れ出でるほどの存在でありがなら、
自らが拾い、育てようとする生命を健やかに育てているようでもあり
同時に彼の孤独を示すバリアのような異色性を放っております。
ここに触れられる事はなく、そこに誰もが踏み込む事もなく、ある種の聖域でありながら
毒でもあり、と同時に優しくも静寂性を持った、紫色の光を揺蕩えた、
平山の完璧な日常は今日もまた、光と影を帯びながら、影を重ねて罪を詫びるように、
それでいて自己満足に満ちた、誇らしげな毎日、
それ故に、あぁ 静謐に、過ぎてゆくのだなあと感じます。
ラストシーンはその静かな日常の下にある、
彼自身の怒りや悲しみや優しさや諦めや迷いや誇りや償いや矛盾に満ちた光と影が渦巻いていることを表しているのかと思われました。
すべてがあの朝の変化に集約してゆく構成は見事でしたね。まさにパーフェクト。
可愛がっていた後輩はある日 突然 いとも簡単にいなくなってしまう
貸していた金は返ってこないし、
返ってくる宝物(カセットテープ)もあれば、失ってしまった宝物もある
後輩を慕っていた親友の幼馴染とはもう会えない
もうあの大好きだった耳に触れる事が出来ない 悲しみで走り去ってしまう
それは、自分にとっての敬愛の情は(相手が受け容れてくれさえすれば)示して良いという事であり、
〇×で返ってくる誰かとの気持ちの繋がりには喜びもあり
天を仰ぐホームレスは彼自身でもあり、父親の姿でもあるかも知れなくて、
場所を追われ、偶然にも出会えた街角が もう最後の機会だったのかもしれなくて
年寄りは街角の風景すら忘れてゆく、その変化を自分も感じ取れないが
時と共に確実に大きく変化してゆくものがある
彼は影の道ばかり走っている 高速道路も下段の影の道ばかり しかし下道ではなく
それを見下ろす巨大な存在を見上げながら、敬愛と支配から逃れられない日々
汚れた仕事をなぜ精一杯やるのか、彼の贖罪でもあり、生き甲斐でもあり
であれば おのずと手が抜けないからの徹底ぶりであり、
便器を清める行為と風呂に入り汗を流す行いは等しく
自分自身は罪に殉じる心安らかな囚人なのか、
誰にも許されていない鍵束を手に、社会の抜け道を通り抜ける自由な特権なのか
光と影を、世界を切り取りしては うまく生きているつもりだったが
自分の意志で姪っ子を失い、眠れぬ夜を明かしたのは
彼自身の最愛の情として抱擁があり、其れを示して良いのだと彼は学んでいて、
姪っ子と交わせたから、妹とも交わせたその抱擁は
時間と共に、本当は誰と交わしたいものだったのか
心惹かれた女将と(元)夫にも その抱擁があり
だからこそ動揺が隠せない彼の幼い行動と
死が生きる事のなにかを変えてくれるし せめて会いたくなってしまったという言葉、
なにもわからないまま死んでゆく者がいて
なにもわからないまま自分も老いて死んでゆく
影は死でもあり、静謐だった彼の生活は、影を重ねたものだったのでしょう
影は死でもあり、踏まれると死ぬゲーム(人生)はもう、自分に残された しんどい体力と年齢を自覚し
離してしまった姪っ子との約束は、彼自身の言葉であり
そう
「明日は明日、今は今」、ということは、「昨日は昨日、今日は今日」という事ですよね。
初めてこの映画に朝日が差し込み、彼はその世界へ一歩踏み出したのだと解釈すると
とても単調で静謐だったこの映画が、すべての感情が、一気に動き出しますよね
静かに重ねてきた日常と ほんの些細な出来事の積み重ねが、激しく光り輝き、渦巻き始めます
あの涙と戸惑いと笑顔と苦悩は、きっとそういう事の様な気がします。
彼は父親に逢いに行ったのでしょうか。抱擁し、果たせなかった妹との過去の、
そして未来の姪っ子との約束を果たしに行ったのでしょうか。
或いは 彼もまた「なにかを託し」に行ったのでしょうか。
それとも、今日もまた変わらぬ日常を送る、彼の心の中だけの朝日だったのでしょうか。